眠気の時間と鳥肌
雨粒が頬に当たって弾けた。意識が浮上する。
のろのろと肘掛けに凭れていた体を起こす。
無理な姿勢で寝ていたせいか体のあちこちが痛い。
セオドアは王宮の奥、人気のない離れの部屋を用意してくれた。二日で部屋の中は飽きてしまい、今日は部屋の近くの中庭のベンチでのんびり時間を過ごしていたが、やることが無さすぎて眠ってしまった。
最初の夜はふかふかの寝台でよく眠れると嬉しく思ったが、学院の硬めのベッドで馴れていた体では中々寝付く事が出来ずに寝不足だ。一日中眠い。
それにしても、明日には神殿まで案内してくれるだろうが、レイラを放置しすぎだろう。もし反体制派に与していたらどうする気だ。
そんなことをぼんやり考えていると、ばさりと頭に布を掛けられた。覚えるつもりもなかったが、ここ最近行動を共にしていた匂いがする上着らしきそれを少しずらして視界を開ける。
「何してるのお嬢さん。風邪引くよ。」
差し出された手とその手の持ち主とを見比べ口を開く。
「ありがとう。」
ウィラードの手を取って立ち上がる。全身からぽきぽきと音が鳴った。体の節々が痛む。
ジェフリーとの遭遇以来、ウィラードは必要な時以外は髪飾りになってレイラの髪に飾られている。銀の台座に緋色の宝石の髪飾りなら魔法使いも魔術師も気付かないだろうとウィラードが化けた。
ペンダントという案もあったが、『お嬢さんの胸の上にずっといられるんだよね。役得だよ。』と言われ却下した。それにペンダントなんてありがちといえばありがちだ。王宮には数十人の魔術師、魔法使いが雇われているのだから、最上位の妖魔の気配に気付くものもいるだろう。ということで髪飾りになった。
一昨日、セオドアと話した後に王宮を探索していたというウィラードはジェフリーとの遭遇で苛々の収まらないレイラをなんとか宥めてくれた。ジェフリーに感情を揺らすだけ無駄だと。確かにその通りだと思った。
冷静さを取り戻したレイラはジェフリーに感情を揺らされたという事実に打ちのめされた。学院に入学する前を思い出せと暗示をかけていたからかもしれない。今は何も感じない。思考が閉ざされているような気がする。
「早くしないと濡れちゃうよ?」
「なんだか頭がはっきりしなくて。」
「先生と離れて元気がなくなってるだけじゃない?」
「そうなのかしら。」
そこまでシリルに依存していたのだろうか。
側にいたら落ち付けたのは確かだが、ノアのように会えなくて禁断症状が出るほど依存はしていないはずだ。
部屋に戻ると嬉しくない客が来ていた。扉の前で唖然と長椅子に座ってお茶を飲んで寛いでいるジェフリーを見つめる。昨日は来なかったから油断していた。よく似た女性を連れている。おそらくこの女性は、
「この娘が兄上の言っていた方?」
「ああ。第一候補のリリスだ。」
そんな顔でレイラを見るな。何故そんなにニヤニヤしているのか。どうして、と訊いたなら嫌がる顔が見たいからと返ってくるだろう。変な趣味をしている男だ。
ルークに『リリス』と呼ばれるのは構わない。しかし、ジェフリーは別だ。永遠にその口を閉じさせたい。
「アイリーンよ。よろしく。」
扉の前で突っ立ったまま進もうとしないレイラに気を遣ったのか女性は立ち上がってそう言った。
「レイラ・ヴィンセントです。」
透き通るような黒髪に金色の瞳という色彩、そしてアイリーンと名乗ったということは、彼女はジェフリーの妹姫だろう。
姿絵で見るより本物の方が美人だ。今年二十歳になったという王女は来年に隣国に嫁ぐらしいというのをいつだったか誰かが言っていた。
「それにしても綺麗な瞳。この娘をどこで見つけた?」
至近距離に金色の瞳がある。それから視線を逸らした。
「ヴィンセントって言っただろう。ウォーレンの妹がリリスだった。情報は『目』から仕入れたがな。」
「へぇ。運が良かったね。」
遠慮なく顔や身体を触ってくるアイリーンからじりじりと後退しているが肘掛けに到達してしまった。初対面の人が近い距離にいるというのは緊張する。離れてもらいたい。
「相変わらず面食いだね。これでリリスが普通の顔だったら兄上のことだひ放置していただろうけど、この顔で良かったね。」
「本当にな。伯父上の顔が良いのは父上の顔から想像ついても相手の女の顔が分からなかったからな。これなら好きになれそうだ。顔が。」
褒められているのだろうか顔の造形だけ。
(残念ながら私は貴方の顔も好きになれないわ。)
シリルの方が絶対に上だ。ジェフリーの顔は自信が顔に出過ぎていて苦手だ。いつもは貴公子の顔で緩和されているようだが、今の素の顔ではそれが透けて見える。
自信はある方がいいのだが、それがよく見えるのはなんだかムカムカする。とても気に入らない。
「義姉が年下というのも良いね。」
どの辺が良いのかレイラにはまったく分からないのだが。アイリーンとは感性が違うようだ。
今のところアイリーンの義姉になる予定はない。
「私には恋人がいます。私がアイリーン様の義姉になる可能性は低いと思われます。」
「それがどうした? 別にお前が他所に男を作っても俺との子供さえいれば十分だ。」
他所に男を作れたとして、自分はその男の最愛の人であると言えなければ意味がない。それくらいなら神様とやらになった方がましだ。なによりも一番嫌なのはジェフリーとの子供だ。
「……。好きでもない相手に抱かれるなんて御免だわ。最悪は貴方を好きになる努力をしようと思っていたのだけれど、貴方がその考えなら私はこの国がどうなろうと関係ないわ。」
こんな王子のいる国なんて捨てたい。と思うがレイラが逃亡すれば次はアリスに目が付けられそうで逃げられない。あの優しい母に心労はかけたくないのだ。
「それなら俺も『最悪』は好きになる努力をしてやるよ。なんならどっちが先に落ちるか勝負するか?」
「そういう男女の駆け引きは出来ないわ。」
「逃げるのか?」
ジェフリーに挑発されている。こんな安い挑発に乗ってはいけないと思うのに人を馬鹿にしたような笑みに頭に血が上る。
「……。分かったわ。先に貴方を落とせばいいのね?」
声が低くなるのを止められない。出来ないことでも頑張ってやろうではないか。ジェフリーに落ちない女がいるというのを見せつけてみせよう。
ある意味、胡散臭い男が嫌いになったきっかけのボンボンには感謝したい。
調子の悪いときには鳥肌だけでなく蕁麻疹まで出るレイラの体質を甘く見てはいけない。未だにウィラードでも偶に鳥肌が立つくらいだ。
この勝負、負けるわけがない。
ただ、ジェフリーがレイラに落ちるわけもないが。
「さあ、始めようか。美しい菫の花のお嬢さん?」
そう言って笑顔を浮かべたジェフリーにレイラは総毛立った。違う意味で落ちてしまいそうだ。
そう、意識が闇に。
◇◆◇
居座る兄妹をコナンがつまみ出してくれたことにより、あの寒い口説き文句の嵐から解放された。ジェフリーはレイラが鳥肌を立てるほど嫌がっているのを分かってやっている。それもあの胡散臭い貴公子風でだ。
アイリーンは貴公子風ジェフリーに腹を抱えて笑っていたのが救いだった。彼女の笑い声が上がっている間は、ジェフリーの顔が素に戻っていたからだ。
やはり妹の目から見て貴公子風と素の差は面白く写ったようだ。
髪から取った髪飾りを窓際に置くと花瓶になった。緋い花の生けられた白い花瓶。それを眺めていると視界が霞んできた。もう眠気が限界だ。
「少し眠るわ。人が来たら起こして頂戴。」
『了解。おやすみお嬢さん。』
花弁を軽く撫でて、ふかふかの寝台に寝転んだ。
あっという間に意識が闇に沈む。完全に眠るその直前に声が聞こえた気がした。いつかに聞いたような人の声が。
◇◆◇
『そこから先は私にまかせて。貴女は消えては駄目。』




