おかしな家と浮遊感
太陽のような輝く笑みを向けているシリルから目を逸らす。おかしい。何がどうしてこうなった。シリルは生真面目ではなかったのか。一応、レイラはまだ生徒なのだが。
(意識が飛んでしまいそうだわ。)
真剣な眼差しに、冗談で言っているわけではないことが嫌というほど理解できる。何を言えばいい。なんと返せば。いや、何も言わなければ良いのか。
こういう時は逃げるに限る。
くるりと身体の向きを変え、走り出す。
どこか落ち着ける場所でゆっくり考えよう。
返事なんて期待していなかったのに、シリルの言葉が想定外すぎて処理しきれない。
後ろから足音が迫ってくる。足音の主はシリルだろう。捕まるわけにはいかないと森の中を全速力で逃げ回る。しかし、
「その混乱したら逃げる癖なんとかしろ。危ない。」
短い逃走劇だった。あっさりと捕まってしまった。
掴まれた手首に尋常ではない力が込められている。レイラのそれなりに強い力では振り解けそうにない。
恐る恐るシリルの顔を窺うと、いい笑顔をしていた。
まずい。先生はお怒りのようだ。レイラが逃げようとしたのが余程お気に召さないらしい。こんな性格だっただろうか。ここまで短気ではなかったはずだ。多分。レイラが気付かなかっただけだろうか。
こうなったら脛を蹴っ飛ばすしかないと足を動かそうとして、抱き上げられる。急に不安定になった体勢に驚いてシリルの首にしがみつく。
さすがにお姫様抱っこはこっ恥ずかしい。
「足癖も悪いしな。」
はあ、と溜め息を吐かれる。
あの貴族のボンボンと席が隣だった為、机の下の攻防という名の蹴り合いをしていた。よく先生に見つかって廊下に立たされていたが。
「……。」
腹が立つ。昔の話があのボンボンとの思い出と呼ぶのも癪な記憶しかない。なんて寂しい生活をしていたんだろう。ああ吐き気がする。
黙り込み顔を顰めたレイラに何を考えたのか、シリルはレイラを抱えたまま木の下に座った。
「レイラ。返事は?」
こんな近距離で返事と言われても恥ずかしい。
想いは言ってしまった。断られるとは一切思っていないシリルの笑顔が眩しい。いつもなら思う存分眺めていたかったのだが、想い以前の問題がある。
「あの……私、まだ生徒です。流石に教師と恋仲になるというのは、倫理的に駄目だと思います。いくらお互いに気持ちがあったとしても。」
「変なところで冷めてるな。」
「いえ、人として当たり前のことではないかと。」
「別にそこは問題ない。レイラが学院に帰る時にはもう俺いないから。」
乾いた笑いと自嘲気味の言葉に、驚いてシリルの顔を凝視する。学院にシリルがいなくなる?
「どうしてですか?」
「後継問題があるんだ。貴族の方だと有名な話なんだが、やっぱりレイラは知らなかったんだな。」
「ええ。シリルの家は三人兄弟でしたよね? 」
シリル、ミラ、エリオットの三人は特に仲が悪そうに見えなかった。やはり後継争いは何処にでもおこるのか。いや、もしかしたら妾腹の子でも見つかったのかもしれない。
と貴族にありそうな後継問題を考えていたが。
「姉さんは嫁に行って、エリオットも婿に行ってしまってな。もう俺しか居ないんだ。これだと何の為に学院に就職したのか分からなくなる。これで逃げきれたと思ったのに……。」
どういうことだ。逃げきれた? まさかシリルは後継から外れようとしていたのか? なぜだろう。侯爵位なら死ぬまで贅沢に暮らせそうなものなのに。
というレイラの顔に浮かんだ疑問を感じ取ったのか、シリルはおかしなフィンドレイ家の歴史を教えてくれた。
「四百年前の戦で、歴史が古いだけで爵位もない先祖が武勲を上げて侯爵位を授けられたんだ。多分神の祝福を受けたからだろうな。才能はなかったらしくて血の滲むような努力しても無駄だったのに、戦ではその努力が実ったかのような強さを発揮したらしい。それで、鍛えた分だけ強くなった自分を試したくて旅に出たんだそうだ。妻と幼い息子と娘を残してな。帰ってきたのは死ぬ直前。」
「……。」
「で、その先祖が帰ってきたのと入れ替わりで息子が旅に出た。理由はこの国にいる戦士は弱すぎて相手にならないから。フィンドレイは戦闘狂の家系なんだ。それは今でも変わらない。父上と姉さんがいい例だ。」
相槌の打ちづらい話だ。大変ですねで済む話ではないだろう。子供を残して旅に出るなんて馬鹿だろう。貴族だから一人で子育てするわけでもないとは思うが、心の支えが旅に出ていくなんて。考えられない。
「フィンドレイの『後継争い』は家に囚われたくない、猛者を探して力を試したい子供たちが爵位を押し付けあう争いだ。何百年も前からな。だからフィンドレイ家の後継争いは皆面白がって見てる。古狸たちには愉快な愉快な賭けの対象だ。」
一番人気はエリオットだったから安心していたのに、と溜め息を吐いてぐたりとレイラの肩に額を載せた。
「俺は穏やかな人生のために家を出たんだ。俺は普通だからな。普通にこのまま暮らしていきたいと思ってたんだ。けど、俺も一応長男として育てられたのに家出した責任は感じてな。だから諦めて家に帰ろうと考えてる。理事長にも相談はした。」
メリルから、好きにしろ引き継ぎをきちんとしてからな、というありがたいお言葉を頂戴したらしい。
だから踏ん切りがついたと言っていたのか。
「レイラに負担はかけない。社交の場なんて出なくていい。というか出さない。だから、俺と結婚を前提に交際してくれないか?」
「私では身分が……。」
「母上は隣国の村娘だ。父上が旅先で拾ってきた。」
「……。」
フィンドレイが規格外の貴族だということが分かった。
だが、レイラは殺人を犯していて。出生も異能力も秘密がある無茶苦茶な人間で。でも人間でもないと言われている変なものだ。
「私は人殺しで、死んだ王女様で、感覚もまともじゃないのに、そんな私なんて……。」
「俺のことが好きって言ったのに何で悩む?」
シリルの口から言われると恥ずかしさが増す。
熱くなった頬を両手で押さえながら俯く。
「そ、それは。シリルが私なんて相手にしないと思っていたからで。そうでなければ告白しようと思いませんでした。」
釣り合わないのは分かっていたから振られる覚悟も呆れられる覚悟もできていたのに。まさかシリルも同じ想いだったなんて。天にも昇る気持ちとはこれだろうか。
しかし、闇の深い貴族社会でシリルの足を引っ張るような真似はできない。もっと相応しい人もいるだろう。
それにレイラが何年後かに同じ想いを持てているのか分からない。それなのにシリルの大切な時間を奪うわけにはいかない。
悶々と考えていると、こつんと額と額がくっ付けられた。間近にある蜂蜜色の睫毛や黄緑色の瞳に呼吸を止める。
「うだうだ考えるな。俺は今の『レイラ・ヴィンセント』が好きだ。過保護な家族に育てられていて、面倒くさがりで、その割に気遣いが人並みにできて、恥ずかしがりやで、大胆で、足癖が悪くて、物騒な信念があって、物を視る異能があって、言葉に意味を持たせられて、初心者だと表情が読み取れなくて、読める俺は優越感の得られるレイラが。……引くなよ。落ち込むから。」
自信なさそうに弱々しくレイラを見つめてくる橄欖石の色にとくん、と心臓が跳ねる。さっきまで堂々としていたのに、シリルも緊張していたのかもしれない。そう思うと頬が緩んだ。
「引きません。その……嬉しいです。」
「そうか。良かった。で、返事は?」
そんなに急かさなくても、と思いながら口を開く。
多分、どんなに時間がかかってもレイラは同じ言葉を口にしただろう。想いが通じたら多少は調子に乗ってしまうものだから。
「この想いがある間はよろしくお願いします。」
「それなら期間は無限になるな。余所見できないようにするから。浮気なんてする気が起きないくらい。」
「そうですか。そんな未来なら幸せかもしれませんね。」
ほわっと頬が緩むのを感じた。
ただ一人を愛して、自分だけが愛される未来。
そんな夢みたいな関係になれたらどんなに幸せだろう。
まだレイラも夢見る乙女だ。
いくら修羅場を視ていても現実感がないのだ。
シリルの顔が離れて、くっ付いていた額が涼しくなる。
乱れた前髪を直そうと伸ばした手首を掴まれ、再びシリルの顔が近付いてくる。これは、あれだ。
驚いて体が硬直する。今までに視たあれは深めのやつが多くて、普通のやつの作法がまるで分からない。
視ただけでは何をどうするのかわからない。どうすればいいのだろう。初っぱなからレイラが視たようなあれはしないだろう。どうすればと唇を震わせていると、堪えかねたのかシリルが耳を赤くして言った。
「……目を閉じてもらえると嬉しい。なんか恥ずかしくなってきた。」
「はい。了解しました。」
上擦る自分の声に頬が淡く染まる。
きっちりと言われた通り目蓋を閉じて待つ。
真っ暗になった視界に感覚が研ぎ澄まされていく。
「逃げるなよ。」
吐息を感じる距離で喋られると唇がついてしまいそうだ。
まあ、つかせようとしているのだが。
「に、逃げ……んっ。」
軽く触れたシリルの唇に肩が跳ねる。どくどくと心臓が忙しなく音を立てている。これはシリルに聞こえているかもしれない。
無理だ。視たような口付けなんて心臓が壊れてしまう。
これでも壊れそうなのに。
「よし。逃げなかったな。」
「……。」
手で顔を覆って頷く。顔が赤くなりすぎて、もうこのまま戻らないかもしれない。なんだか暑くなってきた。
体がふわふわとして、この調子だと空を飛んでしまいそうだ。ただ単に酸欠なだけなのだが。
「そんなに照れるな。」
こっちが照れる。と頭を雑に撫で回された。
もうシリルの顔は見れない気がする。




