逃げられない状況
またか。シリルは溜め息を吐いた。
いつかのように自室から男女の話し声が聴こえてくる。
「頼む。君しかあてが無い。」
「私では先輩のパートナーは務まりません。」
「頼む。」
「面倒そうなので嫌です。」
前と違って、シリルが勘違いするような内容ではないが、なんとなく面白くない。アルヴィンにレイラが本音で話しているというのが気に入らない。
「……。見ての通り私は困っている。」
「そうですか。」
「何がなんでも付いてきてもらう。逃げるな……いっ!」
ごんっ、と何かが壁にぶつかる音がした。
「大丈夫ですか?」
少し慌てたようなレイラの声がする。アルヴィンが身体をぶつけたのだろう。「大丈夫だ。」といつもより低い声が上がる。
「私の眼鏡……。眼鏡はどこにある。」
「眼鏡は……。あ、こっちにあります。」
「すまない。ありがっ!?」
常に冷静沈着なアルヴィンが驚いたような声を上げると同時に、ガタンッと一際大きな物音がして重いものが倒れる音がする。
何事かと思い、思わず扉を開いた。
(……。これは。)
床に倒れこんでいる二人を見て呆れてしまう。
どんなお約束の展開だ。二人して不器用すぎだろう。
そんなことより、レイラの腹にアルヴィンの頭が乗っている。今すぐ退けろ、とアルヴィンを引き剥がしたい衝動を堪えて二人を眺める。
痛そうに顔を歪めているレイラと同じく痛みを堪えているようなアルヴィンは扉の前にいるシリルに気付くと、はっとしたように動き始めた。
直前までの会話を聴いていなければ、二人の仲を疑ってしまっただろう。気まずそうなレイラとアルヴィンに別れを告げ、職員室に戻る。
「どうしたのよ。変な顔して。」
「変な顔ですか?」
黙々と書類を捌いていると、隣にいたアスティンが珍しいものを見るような目でシリルを見つめていた。
「なんだかミラちゃんと付き合う前のリオ君思い出すわ。シリル君がそんな変な顔するなんて珍しいわね。」
それは言外に色恋に戸惑う少年のような顔と言っているのではないだろうか。どうして気付かれた。そういえばアスティンは三十路。なるほど年の功か。
表情なんて適当に作っておけば、心は見抜かれないと思っていたが経験の前では何の役にも立たなかった。
「あれと一緒にしないで下さい。アスティン先生。」
シリルは色恋に想いを馳せていたわけではない。
アルヴィンは信頼できる。生徒の中で様々な能力が平均的に高いのに加えて冷静な判断ができるからだ。その代わりといってはなんだが、性格が少々残念な気もするのだが。
ただ、彼女の周囲に自分以外が近付くのが許せない。というなんとも身勝手な望みを抱いてしまった。色んな意味で信頼できるアルヴィンだとしても。そんな風に考えてしまった自分が嫌だと考えていただけだ。
リオのように脳内がお花畑になった訳ではない。
とにかく、これ以上思考がおかしくなってしまわないように、メリルに押し付けられた仕事に没頭していたのだ。
その他にもシリルを悩ませる事柄があった。実家から来た手紙に嫌な事が書いてあった。よくある事だが毎回うんざりする話だ。
「なぁに? またお見合いの話?」
アスティンの言う通り、お見合いの事ではある。しかし、お見合いの話なんていつもの事だ。レイラが来てからは学院を離れられない、という理由が出来てそれを断り文句に使っていた。今シリルの頭を悩ませているのは、お見合いの話が倍に膨れ上がった事だ。
お見合いの度に相手の好みを調べ、シリルよりそちらへ興味の行くように誘導していたが、量が増えてしまっては対処できない。シリルの身体は一つだけなのだ。
そのシリルのお見合いの数が膨れ上がった理由が、シリルにとっても喜ばしいことなのだ。文句が言えない。
「エリオットが、他の家に婿入りすると……。明日相手の家で婚約を発表するみたいですね。」
みたい、と言ったのは、シリルもその話をミラと共にジェイドに行くと言っていたリオから昨日に聞いたからだ。家族なのに連絡がないなんて一体どういう事だ。
「なるほど、逃げ場がなくなったのね! 面白くなってきたわ。シリル君が侯爵だなんて全然、まったく似合わないけど、女の子選り取り見取りじゃない。良かったわね。」
バシバシと背中を叩いてくるアスティンをじとっと見つめながら、今までお見合いしてきた女性たちを思い浮かべる。
「貴族の女性を選り取り見取りでも、まったく嬉しくないですね。俺が愛せるような人がいるとは思えない。」
「そんな我が儘言ってると、イイ女取り逃がしちゃうわよ? それともホントに好きな人でもいるの?」
「いますよ。だから嫌なんです。」
「は?」
レイラにだけは勘違いされたくない。初恋、というわけではないが、女性にこんなに惹き付けられたのは初めてなのだ。
驚愕に目を見開いているアスティンを一瞥して、持っていた書類に目を落とす。早く終わらせてレイラの待つ部屋に帰りたい。
「変なものでも食べたの?」
「ヴィンセントの作ったご飯しか食べてませんけど。」
最近レイラは料理の腕を上げた。その料理をシリルが食べているのを観察するように見つめられ、なんというかとにかく恥ずかしくなる。不味かったらどうしよう、というのが神秘的な紫色の瞳から伝わってくる。
「あっそう。で、誰?」
「アスティン先生にだけは言えませんね。」
リオと一緒になってからかわれるのは目に見えている。
「勿体ぶってないで吐きなさい!」
「絶対嫌です!」
「あたしが吐けっつってんのよ。」
普段繕っている口調が崩れている。アスティンは他人をからかっていないと死ぬのだろうか。胸ぐらを掴み上げられガクガクと揺さぶられる。
「思いも通じてないのに言いません。」
「ふぅん? サンドラー先生! 呑みに行きましょ? シリル君が好きな人いるそうですよ!」
「なにシリルが? そうか。それなら行くとしよう。」
それなら、それならとはどういう意味だ。どうしてシリルの恋愛に興味を持つのか。放っておいてほしい。
その日の晩、夜遅い時間まで大量の酒を浴びるように呑まされながらも、一切口を割らないシリルに飽きた二人はシリルを置いて次の呑み屋へ消えていった。
呑みたい二人に都合よく利用されただけなのでは。
(酒に強くて良かったな。)
あまり酔えない家系に初めて感謝した。
それでも、大量の酒を呑まされては本能に近くなるというもの。
部屋に帰ったシリルを迎えたレイラはいつもより積極的で、まずいと思ったシリルが逃亡しようとすれば言葉の『力』を使ってまで止めた。そして酒によって本能に近くなったシリルの思いなど気にせず近付いてきた。
まず、信用して近付いてくるレイラに疚しい、浅ましい思いを抱いた自分に腹が立った。澄んだ紫水晶の瞳は真っ直ぐにシリルを見つめていて、その澄んだ瞳を守りたいような穢したいような、矛盾した思いを味わった。
そして次に、無防備に近付いてくるレイラに腹が立った。今まで、学院に来る前にも何度も襲われたのに男に近付くなんて、下手したら簡単に返り討ちに出来る。くらい馬鹿なことを本気で思っていそうだ。
それに加えて、シリルの事を知りたいというような素振りを見せた。こんなに分かりやすく伝えてきたのは初めてで、有頂天になりそうだった。
最後に跡目争いを勝手に終結させた家族に腹が立った。
近いいつかに、この学院の仕事を辞めなければならなくなった。立場に見合った婚約者をさっさと決めて足場を固め、領地経営や慈善事業の引き継ぎをしなければならない。
(姉さんもエリオットもさっさと自分だけ逃げて……。)
シリルの歳で婚約者すらいない方が異常だが、学院に就職した時点で逃げ切れたと思っていたシリルの敗けだ。だが、まだ諦めていない。
ミラは平民のリオと結婚している。
お堅い貴族のお偉方の反発は必至だが、リオの籍をフィンドレイに入れてしまえば、シリルは今の生活を続けられるかもしれない。
力の反動で心肺停止状態のレイラをベッドに寝かせ、額に口付けを落として部屋を出た。
ひとまず、図書室で今の納得できない状況を打破するための名案を考えることにした。学院の図書室は史料が豊富だ。
早く動かなければ家から逃げられなくなる。




