万能な彼と恐怖の権化
「あの……。シリル。」
頼りなさげな、か細い声がシリルを呼んだ。
声のした方を見れば寝室へ続く扉からレイラが顔を覗かせていた。潤んだ瞳に血相を変えて詰め寄る。
「何をされた!?」
ぎょっとしたレイラに気付かず肩を掴んだ。
「……。えっと?」
薄い夜着越しで触れた時の感覚よりもっとしっとりと滑る感触に、はっと目を落とせばレイラはドレスを着ていた。
剥き出しの肩を思いきり掴んでしまった。シリルはそっと手を離す。動揺を見せるわけにはいかない。なぜなら年上だからだ。
きょとんとシリルを見上げているレイラに目を遣る。マーメイドラインのドレスはレイラの瞳と同じ菫色だ。女性の中でも身長の高いレイラによく似合っている。が、少々というか胸が開きすぎではなかろうか。首には痛々しい傷痕を隠すようにリボンが巻かれているが、鎖骨から下はすっきりし過ぎている。もう少し布が有っても良いだろう。目に毒だ。
「似合ってる。」
面食らった様子のレイラの頬が桃色に染まっていく。
頬を両手で包んだレイラはじとっとシリルを睨んでいる。
いつも彼女の頬は真っ赤にはならない。血色が悪いのではと思うくらい肌の白いレイラは、恥ずかしがっているときもそこまで赤くなっていない。
ポーカーフェイスが身に付いているのだろうか。
林檎のように真っ赤になっていた時もあるが、短時間で元に戻ってしまって楽しめなかった。
「お世辞はいいです。そんなことより、これはどうすれば……。」
くるりと回ったレイラは背中にある編み上げを見せてきた。
「視ながらやれば出来ると思っていたのですが、難しかったので……。お願いしてもいいですか?」
視ながら、とは一体どうやるつもりだったのだろう。手が届かないだろうに。
今日はアスティンが風邪で倒れてしまったため、レイラの着替えを手伝ってもらえる人がいなかった。
エリシアに頼もうかとも思ったが、彼女は街で着付けてもらうと言っていた。学院からレイラをあまり出したくなかったので、他に誰もいなくなってしまった。
「別に構わない。けど、頭はどうする?」
姉のミラが在学中には侍女の真似事のような事をさせられた。ドレスを着せるのはまだ楽な方だ。
「適当に括ってあれを挿しておけば良いかと……。」
レイラが指差す先にドレスと同じ紫色の造花があった。
「俺で良ければやるぞ?」
「え、出来るんですか?」
真顔で聞いてくるレイラ。動揺を消そうとするときはいつも以上に表情が乏しくなる。先ほどの賛辞が尾を引いているのだろうか。
(可愛いやつだな。)
きゅっとリボン結びにしてドレスの皺を確認する。
(姉さんの筋肉で出来た身体とは大違いだな。)
普段触れているが、こうやってドレスを着た状態で見ると更に細く見える。薄い肩、折れそうな腕。
本当に内臓が入っているのかと疑いたくなる程、細いくびれ。それなのに付くべきところには、きちんと肉がついている。
どうして一年も理性が保ったのだろう。年をとることで悟りでも開いてしまったのだろうか。まだ二十三歳なのに。
レイラを鏡の前に座らせ、柔らかな髪を梳く。
横をひと房だけ残して、一部を編み上げてから纏める。団子にした髪を紐で縛ってから、造花や一目で上物と分かる宝石を飾る。流石、南で有名な商家だ。
「すごいですね。」
「何年も姉さんに扱き使われてたらこうなる。弟はな、姉の下僕みたいなものなんだ……。」
甦る恐怖の日々。実家を継ぎたくない、というわけではないが、姉との遭遇頻度を下げるために学院に就職したのだ。
こうなってしまえば、エリオットが強制的に継がされるだろう。父は中途半端に物事を投げ出す者に容赦しない。
弟には悪いが、成ってしまったものは成ってしまったのだから諦めてもらおう。困っていたら助けるつもりだ。
「肌も綺麗だし、美人さんだからな。軽くでいいか。」
「軽く?」
こてん、と小首を傾げたレイラは惚れた欲目というのもあるだろうが、とても可愛い。つい伸ばしそうになった手を根性で押さえ付ける。
「化粧しないのか?」
「します……。けど、自分で出来ます。多分。」
「多分なら、俺に任せとけ。」
劇場のように濃い化粧になったら、レイラの綺麗な顔が台無しになってしまう。
「なんでも出来るんですね。」
むっ、と拗ねたように言われ、思わず吹き出してしまった。他人が聴けば拗ねているとは思わないくらいだが、毎日一緒にいればレイラの感情が分かるようになった。
「慣れれば誰でも出来るようになる。」
頭は撫でられないので、代わりに首筋を撫でる。
気持ち良さそうに目を伏せたレイラをまるで猫みたいだと思ってしまった。一年と少しでようやく飼い慣らしたという実感が湧いてくる。
(早く卒業式になってもらいたいな。)
レイラが学生の間はあまりアプローチできない。
しかし、彼女は総合科。長い道のりだ。
◇◆◇
「それでは、皆楽しんでくれ。」
表に顔を出すようになったメリルが壇上から降りてくると、音楽が流れ始める。貴族の生徒はその音楽に合わせて踊り始めるが、一般の生徒はこの舞踏会に招待されている有力者たちに自分を売り込むために会場内を歩き回っている。
「先輩、俺から離れないでくださいね。絡まれたら面倒なので。」
「私、守ってもらわなくても大丈夫よ?」
不思議そうな顔をしてクライヴを見つめるレイラに、思わず溜め息を吐きたくなる。
自分の容姿を自慢するわけでもなく、謙遜するわけでもなく、普通だと言い切るのは美点ではあるが、今のレイラは多くの虫を寄せ付けるだろう。
レイラを誘拐しようとする者が一割いたとすれば、残りの九割は口説きにくる者だろう。
(くそ、なんで俺は教師なんだ……。)
正面から攻められないシリルが意識してもらうためにしていることはグレーゾーン、いや黒だろう。
死にかけたレイラに可笑しな庭園で会ったとき、なんとか踏み止まって唇を掠っただけだが、これは完全な黒だ。掠ったということは触れたということ。
まだまだシリルは青い。
「レイラ。そ、その踊らないか?」
シリルにとって要注意人物であるハロルド・レイフ・ベレスフォードが顔を真っ赤にして、レイラをダンスに誘った。気に入らない。
「私、踊れないの。」
「前に練習しただろ。筋は悪くなかったから大丈夫だ。僕のリードが不安だから踊れないなんて言わないよな。」
こいつ。『前に』の時にちら、とシリルを一瞥した。
これは敵だ。前にダンスをしたということは、レイラと身体を密着させたということだ。実に腹立たしい。
「そんなこと言わないわ。」
「思いきり目を逸らしたな。」
ほら、と差し出されたハロルドの手におずおずと手を重ねたレイラは一瞬だけシリルを見てから、ダンスホールへ歩いて行った。
そのシリルに勘違いされたくないと、そんな解釈が出来るレイラの様子に擦れていた心も少しは落ち着くというものだ。
「シリル兄さん!」
遠くからエリオットの男にしては高い声が響いてきた。
どうした? と振り返ろうとして、身体が硬直する。
振り返らなくても感じる、自然と背筋の伸びる恐ろしい気配。それはシリルと同じ黄緑色の瞳を持つ女が放つ気配。恐怖の権化。
「久しぶりねシリル。貴方が私に顔を見せなくなってから二年経つわね。一体、その間なにをしていたのかしら?」
不機嫌そうに低められた女の声に冷や汗が止まらない。
「酷いよ叔父様。ぼくたちに会いに来てくれないなんて。」
「酷いよ叔父様。わたしと遊んでくれないなんて。」
小さな子供が二人も足にくっついて来る。
双子の甥と姪は二年前より大きくなっていた。
確か四歳くらいだったか。それにしても年齢のわりに落ち着いている。
最後に会ったのが二歳くらいだから、覚えていないはずだがエリオットやリオがシリルのことを話していたのだろう。二人の様子を見る限り遠慮している様子はない。
シリルの足をよじ登ろうとしていた二人を抱き上げる。
「わぁ! 力持ちだね叔父様!」
「すごい!高い!」
きゃっきゃっと喜んでいる子供をひたすら見つめる。
後ろにいる女が放つ怒気に気付かないふりをして。
「シリル? お姉様への挨拶はまだかしら?」
「ご無沙汰してます。姉さん。」
振り返るだけで寿命を削った気がする。
不敵な笑みを浮かべたミラに、ぞくりとして鳥肌が立つのを止められない。
「リン、レン。兄さんが限界だからこっちおいで。」
すたっとシリルの肩から飛び降りた双子は、すぐにエリオットの腕の中へ飛び込んで行った。一応、シリルも身長は高い方なのだが。流石、姉の子供だ。規格外過ぎる。




