油断と求めていた出会い
長期休暇は好きではない。学院の食堂が閉まってしまう。
仕方なしにレイラと二人で夜の街に出たが、レイラの容姿に惹かれた男が絡んでくる。強引に迫った男は全員レイラが片づけたのだが、手加減というものを未だに覚えていないらしい。小柄な少女とはいえ、暴れられるとシリルも押さえ込むのに変なところを触ってしまわないか心配になる。
周囲とレイラの牽制の為に手を繋げば、話し掛けてくる者もいなくなったが、レイラの口数が減ってしまった。赤く染まった頬から照れているというのが分かった。彼女の羞恥の基準は兄にされたことが有るか無いかだ。手を繋ぐことぐらい仲の良い兄とならしたこともあるはずだ。それなのに、顔を赤らめるということは……。
(脈はあるんだろうな。多分。まあ、試したら教師失格になるけどな。)
俯いて歩いているレイラが人にぶつからないように気を付けながら手を引く。それでも、なにか考え事をしている様子のレイラはよろよろと足元が覚束ない。
「どうした?」
「あ、……。なにがですか?」
びくん、と肩が揺れ怯えたような目でシリルを見た。
これは本当に意識されているのだろうか。まさか、レイラに軽蔑されるような昔のあれこれを視られたのだろうか。それだと、シリルはもう立ち直れない。気になる女性には嫌われたくないものだ。
「体調でも悪いのか?」
「いえ、体調は良好です。」
あからさまに安堵の表情を浮かべたレイラは先程までのふらつきはどこへやら、しっかりとした足取りで歩き始めた。一体、なにを訊かれると怯えていたのだろう。
「先生。どこに行きましょうか?」
レイラは近くの飲食店の看板を見ながら、くいくいとシリルの手を引く。昼間はシリルが腕の中に閉じ込めて寝ていたからお腹が空いているのだろう。しかし、そんなことよりレイラの言葉遣いだ。昼にあんなに練習させたのに元に戻っている。道端で立ち止まったシリルは、またかと思いながら訂正する。
「シリル。あと言葉遣い。」
「……。どうしても言わないとだめですか?」
上目遣いで困ったように訊かれると、変な気持ちになる。
このままレイラの言うことを聞いてしまいたいような、シリルに服従させたいような、妙な気持ちが湧きあがってくる。それをレイラに言ってしまえば軽蔑されるのは目に見えているから言えないが。
「レイラに名前を呼んでほしい。嫌か?」
繋いだ手に力を込める。シリルは寂しげに笑った。
レイラが嫌がるなら、無理強いはしたくない。
しかし、彼女の澄んだ声でシリルの名前を呼んでもらいたい。頬を赤く染めたレイラが『シリル』という名前を愛らしい声で紡ぐのは、何度聞いても、ドキドキと心臓が弾む。部屋の外では表情がないのが惜しいところだが。
懇願のようなシリルの声にレイラは顔を真っ赤にして、何度も違うのだと首を振った。
「嫌なわけないです。ただ、恥ずかしいだけで……。」
「恥ずかしいって、どういう意味だ?」
「……。少し時間をください。」
眉間に皺を寄せて、シリルを睨み付けてきた。繋いだ手を乱暴に振り払い、レイラは腕を組んでむう、と考えている。
さすがに踏み込みすぎたようだ。それでも答えを考えるということは、嫌われてはいない。危なかった。
俯いて、真剣に答えを考えてくれているレイラから視線を外し、街を行き交う人々を眺める。肩を寄せて微笑み合う恋人、帰路を急ぐ紳士、そんな日常の中にワケありのこの少女と共に居られることが幸せに思える。ちら、と横に居るレイラを見つめる。が、シリルの横に金茶色の髪をした少女はおらず、代わりのようにガタイの良い厳つい男がいた。
「すいません。ここにいた女の子知りませんか?」
「気分悪くなったみたいだぜ、連れが連れて帰ってった。もしかして、兄ちゃんも狙ってたのか? やっぱ、顔が良い奴でも美人が好きなんだな。」
そんな男の戯れ言すら、耳に入らない。連れて帰っていった? レイラの連れはシリルだ。
(こんなに簡単に誘拐されるのか!?)
いつもは大勢が相手でも、ものの数分で倒していた。
いつものように、レイラを探す。いつもといっても大体が学院内でレイラを探すときだ。それ以外でレイラを探すのはこの前のように、友人と出掛けるレイラが行方不明になったときくらいだ。
周囲を見回し、妙に気が惹き付けられる方向に向かう。
最近、気付いたことなのだがレイラの居るところは空気が冷たく澄んでいる。なんとなく感覚で冷たい気配のする方へ行けば彼女がいるのだ。だから、今もその感覚を頼りに探している。
裏路地に入り、気温が急激に下がったような感覚がする。
道端には虚ろな目をした、脱け殻のような人々がいた。
それらを無視して進む。角を曲がったところで、やっと金茶色の髪が見えた。駆け寄ろうとしてレイラの他にも人がいるのに気づいて足を止めた。
レイラの白く細い首に顔を埋めている男。左手をレイラの腹に回し、逃げられないようにしている。
ただ、それだけならレイラも『言葉』の力で何とか出来ただろう。しかし、これは異常だ。
苦痛に歪む顔、口には男の右手が捩じ込まれ、それを噛んだのか口の端から血が零れている。瞳は潤み今にも涙が零れそうだ。
「何をしてる?」
声が低くなる。激しい怒りで視界が真っ赤に染まった。
レイラの首から顔を上げた男の口元には血がべっとりと付いていた。それが、レイラの血であるというのは一目瞭然だ。血を失い、青白い顔をしたレイラがシリルを見つめている。
(逃げて、とでも思ってるんだろうな。)
おそらく、男は妖魔だろう。それも上位の。
でなければ、レイラが人に遅れをとるはずがない。
「彼女を離せ。」
「んだぁ? 今、イイトコなんだよ。邪魔すんな。」
そう言って、男はレイラの首筋を舐めあげる。
「高ぇワインでも呑んだみたいだ。酔っぱらっちまう。」
それを聴いた瞬間、レイラは思いきり顔を顰めた。
嫌なのだろう。今は、レイラの考えていることが手に取るように分かる。
(気持ち悪い。ふざけるな。許さない。)
半殺しにしてやる。くらいは思っているだろう、確実に。因みにシリルも今回ばかりは半殺しくらいなら良いのではないかと思っている。今までシリル一人しか触れたことのない場所に妖魔は触れたのだ。到底、許せるものではない。
「おっと、近付くなよ。それ以上近付くなら、コイツの首へし折るぞ?」
ちっ、と舌打ちをして、袖口に忍ばせていた小刀から手を離す。上位の妖魔は眼もいいらしい。
「分かりゃいいんだよ。」
満足そうに笑った男は、再びレイラの首筋に歯を突き立てた。
唇を噛み締める。物語の吸血鬼のように犬歯が尖っているわけでもない。そんな普通の人間と変わらない歯で噛まれているのだ。シリルには想像もつかないくらいの激痛だろう。
どうすればいい? この場からレイラを助け出すためには。一体どうすれば。
何も思いつかず、何もできずに時間だけが流れていく。その時だった。
『消え失せろ。』
少年特有の少し高い声が路地裏に響いた。それと同時に妖魔の姿が消え、男の着ていた服だけが、ぱさりと地面に落ちる。
そして、支えを失ったレイラが地面に崩れ落ちる。
「レイラ!」
駆け寄って、レイラの華奢な身体を抱き締める。
鉄錆のような血の香りはいつもの良い匂いを掻き消している。シリルが守らなければいけなかったのに、レイラ自身が強いからと油断していた。シリルの油断の所為で愛しい少女がこんな目に遭った。
ごめん、と呟いて身体を離す、静かな紫水晶の瞳がシリルの姿を捉え、微笑んだ。そして、安心したのかシリルの胸に寄りかかり瞳を閉じた。
それだけで泣きそうになったシリルは、ひとまずレイラの傷口の確認をした。
(酷い。)
頸動脈は辛うじて傷つけられてはいなかったが、男それも妖魔の顎で思いきり噛み付かれた為に肉が抉れ、出血が止まらない。
首からスカーフを外し、傷口に当てて止血する。
これで、今すぐにどうにかなることはないだろう。
(さっきの声……。誰だったんだ。)
辺りを見回すが、既に誰の姿も見えない。
消え失せろ。という言葉がシリルの耳に届いた瞬間。妖魔の肉体は言葉通り消え失せた。まるで、レイラの使う『言葉』のように、おかしな響きの『言葉』。
少年のようだったが、『言葉』を使う神の一族はアドルフとレイラだけのはずだ。それとも、レイラの他にも純血の子供がいるのだろうか。
シリルの疑問を知る者はなく、静寂だけがその場を満たしていた。
◇◆◇
気まぐれに立ち寄った街で、気まぐれに入った裏路地にアレンの求めていた純血の娘がいるとは思わなかった。
あれはリリス・シトリンだろう。シャーリーと同じ金茶色の髪、紫の瞳。上位の妖魔を狂わせる血を持っているのがなによりの証拠だ。
紫の瞳は金の瞳などより強い力を持っている。
その身に宿る神の血の割合も比べられないくらい。
金の瞳は神の血の証。紫の瞳も神の血の証。
人の血が半分以上を占める者とは違う。
リリス・シトリンなら、保つはずだ。性別も形も流れる血も同じの彼女なら。首にかけている袋を握り締める。
あの時、ジョシュアの言っていたトリフェーンにいる紫の瞳の娘は本当に純血の娘だった。前に違う者を連れて来て面倒な事になってからはジョシュアの言葉を信じないようにしていたが、今度からは信じても良いかもしれない。
(しばらくはリリス・シトリンを観察するか。)
時間がないのも事実だが、こんなにも呆気なく見つかったのだから、しばしの安息を彼女に与えてもいいだろう。
アレンの抱く望みを叶えたなら、『彼女』は生きていられるかわからないのだから。




