閑話 Ⅰ 兄の心配事
妹が誘拐されるようになったのはいつからだっただろうか。
ウォーレンが生後二ヶ月の時に産みの母親が病で死んだ。婚約していたケビンと結婚してすぐに持病が悪化したらしい。
父ケビンは父親が誰かも分からないウォーレンを実の息子のように可愛がって育ててくれた。
だから、自分の産みの母については『馬鹿な女』その一言に尽きる。
婚約者のケビンがいるのに他の男と関係をもって、あまつさえ子供をその身に宿して裕福なヴィンセント家に嫁いだ。馬鹿な女が入れあげた男は貧乏だったのだろう。
馬鹿な女が死んでからしばらくして、アリスという女性が母親としてやって来た。初めて会った時のことはあまり覚えていないが、仕方ない。その時ウォーレンはまだ二歳だった。ただ、綺麗な銀色の髪だけは印象に残っている。
ケビンとアリスが結婚してすぐに一人目の妹キャロルが生まれた。キャロルは大人しい子供だったが、人見知りが酷く、いつもウォーレンの背に隠れているような妹でとても可愛かった。今ではその面影もないが。
それから数年すると次は弟が生まれた。その弟ノアも人見知りでいつもキャロルと二人でウォーレンの背に隠れていた。今ではただの妹馬鹿になってしまったが。
それからまた数年して一年近く実家に帰っていたアリスが小さな女の子を連れて帰ってきた。
ケビンがアリスを怒らせてしまったのは知っていたが、一年近くも帰ってこないとは思わなかった。しかし、その間に妹が増えたのは喜ばしいことだ。
『貴方を驚かせてやろうと思ったの。』
『もう、あんなことは二度としないよ。だからもう私から離れないでくれ。お願いだアリス。』
そんな風にいちゃついている夫婦は放置して、アリスから渡された新しい妹を見つめる。金茶色の髪に紫水晶のような瞳。たまに会うアドルフによく似ている。産まれたばかりには見えないから、夫婦喧嘩をしたときにはもう身籠っていたのだろう。
『ねぇ、ウォーレン。この子は昨日生まれたの。』
『母様、それはおかしい。だってこの子自分で立って歩いてる。』
ケビンが仕事で出て行った後にアリスがそう言った。
『ウォーレンは賢いもの。きっと分かるわ。』
『分からないよ。』
膝に乗せた新しい妹はすやすやと眠っていた。
その頭を撫でながらウォーレンはアリスを見つめる。
『ノアもキャロルも私に似て馬鹿だから、賢いウォーレンに頼みたいことがあるの。』
『頼みたいこと?』
『もう少し大人になったら教えてあげる。』
それから一年して、新しい妹レイラの異常に気付いた。
彼女はいつも虚空を見つめていた。その様子を見て不安になったウォーレンがレイラの小さな手を取ると、こことは違う光景が重なって見えた。驚いてレイラの手を離せばその光景は消え、ウォーレンの取った手とは逆の手には玩具が握られていた。
急いでそれをアリスに伝えると母は珍しく慌てて、また実家に帰って行った。
そして、実家からアリスが帰ってくるとすぐに父は隣町のロードナイトに新しい屋敷を買った。
それからまた一年後にその新しい屋敷に引っ越した。
引っ越したといっても、家具も服もすべて新しいものだけだった。着て来た服でさえ消えてしまい、世界が変わってしまったようだった。
それがすべてレイラの存在によるものだと、ウォーレンは気づいていた。
『どうしてレイラは違うものを見てるの。』
『神の一族だからよ。』
『おとぎ話の?』
『ええ、私もそうだから。』
どうしても気になってアリスに訊いてみるとはぐらかすことなく教えてくれた。
神の一族についても、鳥と会話をする能力ではないということが分かった。
それからは気まずいことがあるとレイラに近寄れなくなった。しかし、そんなときに限ってレイラは甘えてくる。
その日も近所の子どもに心ない言葉を浴びせられ、抱きついてこようとしたレイラから逃げた。ウォーレンが悪口を言われるとレイラは自分のことのように悲しむ。以前にもウォーレンの悪口を言った奴らを叩きのめしていた。
そのせいでレイラは友達が出来なくなった。だから距離を取ろうとした。しかし、
『まってウォーレンにいさま!』
その『言葉』に縫い止められたかのように動けなくなった。その声が必死だったからではない。
瞳も腕も首も動かせる。それなのに足だけが動かない。
『兄様どうしたの?』
『……。なんでもない。』
抱きついてきたレイラを抱き上げると足が動かせるようになった。ほっと息を吐き、レイラの顔を見ると安心したのかウォーレンの腕の中で眠りはじめた。
それからもレイラの放つ『言葉』で体が動かせなくなることがあった。
アリスにそれを相談すると、母は顔を蒼白にして体を震わせていた。
『一応、貴方にだけ言っておくわ。あの子は私の娘じゃないの。』
『え……。だって、アドルフじい様に。』
『そうね、似てるわね。だってお父さんとレイラは血が繋がっているんだもの。』
そこで漸くレイラの出自を知った。アドルフの家系が一族の中でも特殊な家系だということも、レイラの『言葉』に力があることも。
そして、死んだはずの王女だということもだ。
それからウォーレンはレイラから目を離さないようにしていた。何かあっても守れるように強くなった。
それでも、レイラは半年に一回は必ず誘拐されていた。父や用心棒たちと助けに行くのが恒例行事になる程に攫われ続けた。
出来ることなら家から出てほしくないのだが、お転婆なレイラは野原を駆け、山を駆け。とにかく走り回った。
なんとも護りづらいお姫様。そう笑っていられた頃は良かった。
ある日の夜、ロードナイトには嵐が来ていた。
雷鳴が轟き、大粒の雨が窓を叩いた。
ノアは雷の音が嫌いだ。しかし、レイラは雷に怯えるノアをからかいに部屋に行っているだろう。
ウォーレンにとってノアも可愛い弟なので、程ほどになったら様子を見に行こうと自室で勉強していた。
しばらくしてノアの泣き声が聞こえてきた。
『まったく、レイラは怖がらせすぎだ。』
呆れながら、ノアの部屋に向かう。その途中でアリスが部屋から顔を覗かせた。
『ウォーレンはノアの所に行くの?』
『うん。母様はキャロルの所に行ってあげて。』
『ありがとう。』
微笑んでウォーレンの頬に口付けたアリスと別れ、泣き声のもとに急ぐ。
ようやくノアの部屋に辿り着き、扉を開いた。
『え……。』
その部屋は真っ赤だった。床や壁には赤い液体が飛び散り、白い塊や赤い肉片のようなものも散らばっている。
そんな凄惨な部屋の中心に女性が倒れていた。顔は腫れあがり別人のようになっているが、彼女は家政婦のカーラだ。
そして、そのカーラの肩を揺すりながら泣いているノア、ぼんやりとそれらを眺めているレイラがいた。
『レイラ!』
虚ろな瞳をしたレイラの肩を揺さぶるが反応がない。
ようやく焦点が合って安堵する。しかし、すぐに紫水晶の瞳は閉ざされウォーレンの腕の中に倒れてくる。力の抜けた細い体を抱きとめ、赤く濡れたレイラの頬を撫でる。
『ウォーレン!? これは……。』
出掛けていたケビンが部屋の惨状を見て声を上げる。
『分からない。でもカーラが……。息をしてない。』
落ち着いてからノアに話を聞けば、急に男たちが押し入って来てレイラとノアを攫おうとし、男たちからノアとレイラを守ろうとしたカーラを殺し、それを見ていたレイラが意味の分からない言葉を喋ると男たちが砕けたという。
何かをしたらしいレイラから話を聞こうにも、彼女はあれからずっと仮死状態だ。息もしてない。心臓も動いていない。ただ体温だけがある。
それから二ヶ月経ちレイラが目を覚ました。
表情が消え、感情も消えてしまったようなレイラの姿。
こんなことなら早くノアの部屋に行っておけば良かった。
後悔しても遅い。レイラは変わってしまった。
共に剣の鍛練をするようになった。
そして暴漢に襲われたときには、その暴漢に止めを刺そうとするようになってしまった。出来るだけ傍にいて止めるようにはしていたが、ウォーレンが知らない内に人を殺しているかもしれない。
そんな考えが頭を占めるようになり、ウォーレンは何かあってもそれを揉み消すために出来るだけ地位の高い職業に就いた。




