紫黄水晶と愛する人
かつん、かつんと石の床を男が歩いている。
それを、幼い少年が緑玉髄のような大きな瞳で冷たく眺めていた。
「何用だ?」
少年の前に跪いた男に声変わりもまだな高い声をかけた。
その声に促されるように男は顔を上げ、興奮ぎみに口を開く。
「リリス・シトリンに代わる器を見つけました。」
「ありえん。あの王女より純度の高い娘が今、この世にいるわけがない。」
「それがいたのです。瞳も鮮やかな菫色、女神シトリンの血を引いている証拠です。」
普段は薄く閉じている瞳を大きく開いて、熱の籠った声の男に、少年は冷たい視線を向ける。
「お前は前にもそう言って、神の一族でもない娘を攫って来たな。」
「……。申し訳ありません。」
悄然とうなだれる男を見て、少年の冷たい瞳が緩められる。
「リリス・シトリンが生きていないなら、もうここに純血の女はいない。私の命もあと二年、それに今回が最後だ。もう一度彼女と会いたかったが、こんな終わりも私の運命というもの。もう覚悟は決まっている。だから、お前は大人しく王女だけを探していろ。」
「………。」
「分かったな。これは命令だ。」
「……。はい。」
肩を落として歩いていく男が見えなくなるまで、少年は無表情で見つめていた。男の背中が見えなくなると、真白な回廊から中庭に降りた。
そして少年はおもむろに、首からぶら下げていた小さな袋に指を突っ込み、手のひらにすっぽり収まる大きさの紫黄水晶を取り出した。
そして、それを夜空に輝く月に翳し眺める。紫黄水晶を見つめる少年のどこか愁いを帯びた表情は、とても幼い少年が浮かべるものではない。
「最期に一言だけ。それだけでも、愛しいあの人は許してくれないのだろうか。」
少年の小さな呟きは夜風に流れていった。
◇◆◇
「おい。」
ここ数日ですっかり馴染んだぶっきらぼうな声に、本棚を整頓していた手を止めて振りかえる。
「どうしました?」
今日はもう何度目かになるハロルドの護衛の日だ。
相変わらず、「おい。」とか「女。」と呼んでくるが、これも女嫌いのハロルドからしたら頑張った結果なのかもしれない。
「お前は、好きな奴とかいるのか?」
それは恋人になりたい人がいるのか?という質問だろうか。
しかし、その質問は気がある相手の気持ちを探る常套句ではなかっただろうか。
(まさか。ありえないわ。まだ会って数日よ。)
レイラは自分の自意識過剰ぶりを恥じる。
それで顔が赤くなった事に気付かずに否定の言葉を口にする。
「いません。」
「……。そうか。」
肩を落とたハロルドを見て、不思議に思ったレイラは考えた。
もしかすると好きな女性が出来て、恋に関する何かを知りたかったのかもしれないと気づく。
「ハロルドさん。私で良ければ相談に乗りますよ?」
「なんでお前に相談するんだ?」
「? ハロルドさんに好きな女性ができて、それで女の私に何か訊きたかったのかと……。」
「なっ!? ば、ばっ馬鹿な! そんなわけあるか!」
顔を真っ赤にして否定するということは、やはり女嫌いのハロルドに春が来たという事なのだろう。
めでたい事だ。ハロルドにも人によっては女性が大丈夫という事が分かったのだ。
貴族であるハロルドが、女は嫌いだから結婚はしたくない。とは言えない。
顔を真っ赤にしてあわあわしているハロルドはなかなかに見物だ。いつもレイラがいるときは不機嫌そうな顔しかしてくれない。
(私にも心から好きになれる誰かが現れてくれたらいいのに。)
己の将来に思いを馳せながら、髪に結わえた青いリボンを撫でる。
「それ、いつも付けてるな。」
「これですか?」
リボンの端をつまんで見せる。この青いリボンは制服に合うように、とシリルが贈ってくれたものだ。
「やっぱりお前も女なんだな。リボンが好きなんて。」
「好きというよりは、大切な人からの贈り物ですから。」
ハロルドの眉がぴくりと動く。
「それは誰に?」
「兄のように可愛がってくれている人です。」
「ふ、ふ~ん。」
まただ。興味がないなら聞かなくていいのに。
ここ数日で気付いたが、ハロルドは無言を苦にするタイプだ。
話題を適当に振ってくるが、レイラのような口下手では会話を弾ませられず、「ふ~ん。」というハロルドの言葉で終わりになる。
「お前はあと何回、ここに来る?」
「明後日が最後になります。」
「ふ~ん。」
会話の終了と共にこんこんと扉が叩かれ、エリオットが姿を現した。
「交代だよレイラ。」
「はい。それじゃあハロルドさん、また明後日。」
「……。なあ、」
ハロルドが何か言いかけた時だった。
扉の横にいるエリオットの後ろから蜂蜜色の髪をした男、シリルがひょっこり顔を覗かせた。室内を見回してハロルドと目が合うと挨拶を交わした。
何故ここにいるのだろう、今日は士官科の授業があると言っていたのに。またメリルに何か頼まれたのだろうか。
レイラが突然の訪問に驚いていると、同じく戸惑っているハロルドと目が合う。『何で教師が来たんだ?』そう目で訴えているが、レイラに分かるわけもない。
「ヴィンセント。帰るぞ。」
「え? はい。」
何しにここまで来たのだろう。ようやく昨日から仕事に復帰出来たので、生徒がお世話になっているべレスフォードの人に挨拶に来たのか。
ハロルドの書斎から一礼して退室する。
「今日は何しに来たんですか?」
「理事長にヴィンセントを迎えに行くよう言われてな。なんか色々あってアルヴィンが動いてるらしい。」
「なんか色々って何ですか?」
アルヴィンが動いているのなら、そちら関係なのは分かるが、明らかにシリルはなにかを誤魔化していた。そんなに誤魔化したいなら尤もらしい言い訳でも考えておけば良いのに。
「……。高位の妖魔が街を彷徨いてるらしい。」
「そうでしたか。気を付けます。」
尤もらしい言い訳ではある。しかし、シリルは気づいているだろうか。嘘を吐くとき自分が目を見開いている事に。いつもシリルが嘘を吐くときは「嘘なんて吐いていない。」とばかりに橄欖石の瞳をこれでもかと見開いている。レイラはこの大人の将来が心配になる。これだからメリルにおちょくられているのだろうが。
しかし、目が泳ぐなどの普通の反応より面白く見える。
(また見てみたいわ。)
◇◆◇
十六時から護衛を交代したエリオットは、落ち着かない様子のハロルドを見て、笑いそうになるのを堪えていた。
彼は何日か前から、よくレイラについての情報を尋ねていた。ハロルドはエリオット以外の先輩達にもレイラの事について尋ねてまわっていたそうで、それを知ってからはエリオットと同じ想像をしていた先輩達と面白おかしい話に花を咲かせたものだ。
「エリオット、さっきの人……。」
「ん? ああ、あれが僕の兄さんだよ。似てるでしょ。」
ハロルドが言いたいことは何となく分かっていたが、わざと違うことを言う。
「確かに似てるとは思うが。そうじゃなくて、あの……。」
「レイラのこと?」
「……。」
無言でこくりと頷いた。エリオットは思わず緩む頬を根性で抑えつける。
「学院でレイラが一番懐いてるのが兄さんだ、って前に僕が言ったの分かったでしょ?」
「あの女はエリオットの兄君のことが好きなのか?」
「僕には分かんない。でも、二人は生徒と教師だからね! まだハロルド君の方が分があるよ!」
「希望もなにも俺は別に、あの女のことは……。何とも思ってない。」
(その顔で丸わかりなんだけどなぁ。訊いてくる内容も教科書通りだし。)
レイラとシリルはエリオットが見て、とても仲が良い。
授業中も息がぴったりなところを見ると、ただの教師と生徒には見えない。そして、レイラは女子寮に部屋が無く、かといってトリフェーンの街にも住んでいないという話がある。彼女が総合科に入ってすぐにレイラ本人も寮に住んでいる。と言っていたが、エリオットはその頃から彼女が職員棟に出入りしているのを見たことがある。シリルも職員棟に住んでいる。そこで二人は交流を深めたのかもしれない。
(職員棟に住んでるのは確実だけど、なんで彼女が職員棟にいるのかは分かんないんだよね。)
その理由は何となくだが分かった。レイラはふとした時にどこか遠くを虚ろな瞳で見ている。それはひどく危うい姿で、レイラが何か特別な事情を抱えていることを感じさせた。
「あ、でもアルヴィン先輩もレイラと仲が良いんだよね。どうするハロルド君? 二人とも強敵だね。」
「だから、何とも思ってないって!」
「そうだったね。ごめん、ごめん!」
アルヴィンもレイラと仲が良い。ただ最近はドリスと二人でいるところを見かける。ついにあの冷めた先輩にも春が来るのかもしれない。
「何か目につくんだ。あの変な紫の瞳が……。」
訳すと、不思議な紫の瞳に吸い寄せられる。ということだろう。
「今、変なこと考えただろ。」
「いいや? 何にも考えてないよ。」
確かにあの瞳の色は見たことがない。従姉のニーナは昼間に見ると若干、青紫に見える。という色だったが、レイラの瞳は紫水晶のように綺麗に紫だ。
お伽噺に出てくる神殿の巫女のように。




