嵐の通り過ぎた朝に
雨も雷も止んで、もう心配は無くなった筈なのに腕の中の熱を離しがたくて、シリルは金茶色の髪を指に絡めて弄んでいた。
「先生。ありがとうございました。もう、大丈夫です。」
「ああ。」
レイラに言われてしまってはシリルは離さざるをえない。
渋々、レイラのお腹に回していた手を解いた。
「一晩中じゃなくて良かったです。」
「……。そうだな。」
一晩中でも良かったのに、とシリルは思ってしまった。
そうするとレイラは一晩ずっと怯えてしまうから、可哀想なのだが。
時計を見れば、二時だった。
部屋に帰ってきたのが零時だったから、たった二時間のだけ抱き締めていたのかと思う。
起き上がったレイラは自分のベッドに戻り、寝転んだ。
金茶色の髪が白いシーツに広がる。その姿をなんとなしに見ていると、紫の瞳と目があった。
神秘的なその瞳は彼女が尊い血筋である証だ。
今日、メリルの持った死んだ王女の情報を狙う少年が現れた。
そろそろレイラの出自に辿り着く者が出てくるかもしれない。
ウィラードが言った通り、死んだ王女は銀髪だと言われている。
おそらくレイラに辿り着かないように、嘘を広めてあるのだろう。
貴族が何故レイラを欲するのかといえば、王族の尊い血が交じることによって家の力を上げるという普通の理由と、神の一族と交わればどんな病も治り、不老不死になれる。そんなお伽噺のような理由もある。
神の一族は昔は二百人以上いて、その中から王を選定していた。
基本、一族内で結婚しその血が他の家に流れることはなかった。
だからこそ、そんな馬鹿らしいお伽噺が広がったのだろう。
それか、レイラのように『言葉』で事象を変える人物の存在からそんな話が出来たのかもしれない。
人の身で神罰を下せる存在であるレイラは、確かに貴族の馬鹿は欲しがるだろう。しかし、そんな馬鹿にレイラを渡せるわけがない。
「先生?」
凝視していると、不安そうな顔のレイラが声をかけてきた。
「どうした?」
「私の顔になにか付いてますか?」
「紫水晶みたいに綺麗な瞳が。」
すると、レイラは頬を赤く染めた。
彼女は誉められ慣れていないらしい。その純粋さに付け入って、シリルはレイラを可愛がっている。
からかっているわけではなく、本当に思ったことを言っている。他の女性には、なにか思っていても口にしない。
昔、好きでもないのにそんな事を言って、勘違いさせたら駄目だとリオに言われたからだ。
思ったことを口にして何がいけないのかと思ったが。
いろいろ経験してようやく理解した。
自分の顔が世の女性達の好みであるということを。
だから、レイラの存在は貴重だ。彼女はウォーレンのように綺麗な顔を見慣れている。
そして、『妹』のようにシリルに甘えてくれるようになった。
箱入り娘であるレイラが警戒心なしでシリルに触れたり甘えてくるのは、いい感じにシリルの優越感を刺激してくる。
「からかうのは止めてください。もう寝ます。」
少し怒ったような顔になっている。それがまた愉しい。
「おやすみ。ヴィンセント。」
「おやすみなさい。」
さっきのように「レイラ」と呼ぶか悩んだが、やはりいつも通りに戻した方がいいと思った。
何となくではあったが、シリルもレイラに「先生」ではなく「シリル」と呼ばれたら動揺してしまう。
『いつも通り』というのは一番安心できるものだ。
朝、いつも通り六時に目が覚めるとレイラがおかしかった。
夜中寝る前に見た時から体の位置が変わっていない。
そっと近づいて、レイラの口に手をかざした。
呼吸がない。喉や胸に手を当てても鼓動が感じられない。
しかし、体温はあった。
前のように『言葉』を使った反動だろうか、それとも別の何かだろうか。
無駄なこととは分かっていたが、体を揺らしてみる。
「ん。」
ゆるゆると開かれた瞳は真っ直ぐにシリルを見た。
「先生。どうかしましたか?」
寝起きの掠れた声は初めて聞いた。変な感じだ。
「前みたいになってた。心肺停止状態に。」
「……。また言い忘れてました。怖い夢を見たらそうなるんです。」
という事はレイラは怖い夢を見たということだ。
嵐は止んでいたのに何故だろう。レイラは嵐の夜に眠れば怖い夢を見ると言っていた。
「こんなの初めてです。今までは雨と雷が止めば夢なんて見なかったのに。」
憔悴しきった様子のレイラを抱き締める。
彼女がここまで怯える夢とはどんな夢なのだろう。
レイラがちょっとやそっとのことで怯えることはない。
ゴツい男たちに囲まれた時も、妖魔に襲われたときも平然としていた。
「嫌なら言わなくていい。どんな夢を見るんだ?」
「……。雨が降るんです。真っ暗で何も見えないのに赤い雨が。その雨は温かくてぬるぬるしていて、まるで血みたいなんです。」
静かにレイラの話を聴く。
「その雨を避けて、小屋の中に逃げると小さな私が男の人たちをぐちゃぐちゃにしてるんです。場所も気がついたらロードナイトの屋敷の中で。逃げても逃げても扉を開くとその光景なんです。」
無表情で淡々と語るレイラは、初めて会った時のように人形みたいだと思った。
金茶色の前髪をかき上げ額に口づけを落とす。
「夢の中まで助けに行けたら良いんだが、それは無理だから。怖い夢は、俺が忘れさせてみせる。」
甘やかして、可愛がって、レイラが動揺して何も考えられなくなるくらい。
「今日は思いきり甘えてくれ。ヴィンセント。」
頭を撫でながら、紫水晶の瞳を見つめる。
「もう充分甘えてます。」
そう言って、嬉しそうにシリルの胸に顔を埋めているのを見て安堵する。
ここで、「いいえ、結構です。」と真顔で言われたらシリルはしばらく立ち直れなかった。
これは五ヶ月かかって、ようやくシリルが手に入れたものだ。
まだまだシリルの達成感は満たされていないので、もっと色んな表情をシリルだけに見せてもらいたい。
(日に日に可愛くなっていくな。恋人が出来たと言われた日には、俺はどうするんだろう。)
その恋人はシリルが五ヶ月間ずっと一緒にいて得られたものを、短期間で得るということだ。
(腹立つな。一発殴るくらいは大丈夫か。)
金茶色の髪を一房とって口付ける。動揺している様子のレイラに見せつけるように、にっこり笑ってもう一度口づけた。確実にシリルの顔は意地悪な顔をしていた事だろう。
非難がましい瞳でシリルを責め立ててくる。羞恥で潤んだ瞳のせいで可愛く見えるだけだが。
「額にキスしても動揺してなかったのに。これは恥ずかしいのか?」
再び髪に口づける。さらにレイラの顔が赤くなってきて、まるで熟れた果実のようだとシリルは思った。
「額とか頬なら兄様が毎日してましたけど、それはされたことがないです。」
なるほど、レイラが羞恥する基準は兄にされた事があるかどうか、らしい。
では、指先に口づけられたこともあるのだろう。
昨日の夜シリルが口づけても反応が無かった。
その時は愉しくないな。と思っただけだったが。
「ふぅん。他にされたことが無いのは?」
「……。唇にキスされたことはないですけど。」
「……。兄妹だもんな。」
まずい。自然と例の『医療行為』に話が流れてきた。
「ほ、他には?」
必死に話を反らす。医療行為はカウントしないとレイラは言っていたが、彼女のファーストキスであることに変わりはない。
「足に口づけられたことはないです。」
「下僕じゃないもんな。」
メリルはさせていそうだが、レイラは流石に無理だろう。
「首もないですね。」
「首とか、恋人しかしないもんな。でも、恋人が出来ても結婚までさせるなよ。男は単純だ。付け上がって変なことをしかねない。」
「勿論です。何度も物の『記録』を視てきたので、男性の事は分かってます。」
まさかとは思うが、レイラは視たことがあるのだろうか。
男女のそういう、夜のことを。
「ヴィンセント。『記録』の中で何を視た。」
「両親の部屋と寝間着、それと家庭教師の持ち物を視た時は反応に困りました。」
苦々しい表情でレイラは言った。あまりいい記憶ではないだろう。
「悪い。」
「気にしないでください。学院内も中々に刺激的な『記録』がありますから。」
学院内でそんな事をする馬鹿がいるとは思わなかった、いったい誰だろう。
「その馬鹿は誰だ?」
「ケイト・ワグナーとコナー・ブラウンです。二人とも婚約者がいると聞いていたので、驚きました。」
「まったく、一年生が何やってるんだ。で、それはどこで?」
「第二校舎の実習準備室です。」
第二校舎なら情報科の準備室か。
まったく最近の若者は、時と場所を弁えるくらいしてほしい。
メリル学院は基本的に学生の恋愛に関しては干渉しないが、学院内でそういうことをするのは禁止されている。
学生時代に学院内で、そういうことをしている知人がいた。背徳的な感じが堪らないとかよく分からないことを言っていたが、今でも同類はいるらしい。
かといって、情報源のレイラは神秘の力でそれを視たので、注意もできないのだが。
「お前も苦労するな。」
労うように頭を撫でると、レイラは気持ちが良さそうに瞳を伏せた。
「……。先生に謝りたいことがあります。」
何かの決意を秘めた瞳にシリルはたじろぐ。
(何をだ。思い付かない。)
「先生の橄欖石のネックレスの『記録』を視てしまいました。」
何の記録だろうか。生まれた時から持っている物だから分からない。
まさか、最初の恋人に三ヶ月で「どうして、何もしてこないの!?」と言われて別れたことだろうか。
あの時の彼女にはキスもしなかった。どうしてと言われても必要がないからだったのだが、それを言えば泣かれた。
「どれだ?」
冷や汗が止まらない。あれだけはレイラに知られたくない。
「ニーナさんの……。その、無意識に視る『記録』はそれが強い感情を感じた光景を視やすいんです。すいません。」
あれか。確かに、今思い出しても胸が苦しくなる。
「気にするな。」
「すいません。ありがとうございます。」
勝手に視たことを気に病んでいる様だが、レイラにそういった力があるのを知っていてシリルは受け入れたのだ。
嫌なものを見せてしまった。今度から気を付けよう。
俯いているレイラを見下ろしながら、今日は何をしようか考える。
(新しい髪型にしようか。)
編み込みとか、いろいろやってみよう。
「今日はヴィンセントの髪を弄らせてくれ。」
「お願いします。」
はにかむレイラに微笑み返して、シリルは後で買い物に行こうと決めた。
(制服に合う青いリボンが欲しいな。)
前に贈った菫色のリボンをレイラはたまに使ってくれているが、シリルとしてはいつも可愛くいて欲しい。
(やっぱり良いな、妹って。)




