閑話 妖魔とお忍び Ⅱ
ブレットに連れられて地上に降り立ったレイラは、降りた場所に誰もいないことに気付いて首を傾げた。
「誰もいないのだけれど。」
少なくともこの路地には誰もいない。近くに数名ほど気配はするがここから襲える距離ではない。
「ええ。今はいないでしょうね。」
「どういうことなの?」
「直に分かります。」
ブレットはそう言って、何もない場所をじっと見つめている。
(……ブレットには犯人が分かったのね。)
そして、彼の言動でレイラも犯人が何となく分かった。
最初から可能性は感じていた。海沿いにあるトリフェーンは他国からの侵略に備えて、それなりの人材、それなりの軍備が整えられている。王都のアメトリンにも引けを取らない警備のある街で、何度も犯行を繰り返すことができたのは――。
「人が来ます。」
ブレットの声で思考の淵から戻る。レイラは静かにローブの中から剣を取り出した。そして邪魔にならないように髪を一つに括る。
「この場では私よりその人を優先させて。」
「……承知致しました。」
眉を顰めて、嫌々応じたブレットにレイラは頬を緩める。
一応、レイラの力を信頼してくれているのだ。だから、ブレットに助けてもらわなくて済むよう、レイラは意識を切り替える。
暫くたって、レイラの耳にも人の足音が聞こえて来たころ、空気ががらりと変わった。
何もなかった場所から気持ちの悪くなる、淀んだ空気が流れ始めた。
耳に届く軽い足音は、少し迷うような動きを見せてからレイラ達のいる方へと曲がってきた。
レイラが茶髪の女性のようだと認識した瞬間、淀んだ空気の中心から鋭い何かが飛び出してくる。
「きゃあっ!」
駆けながら、ちらと横目でブレットが女性に向かって飛んだ何かを弾いているのを確認して、レイラは淀んだ空気の中心に剣を思い切り突き立てた。手に確かな感触を感じたと同時に、低く呻くような声が漏れる。
「ブレット、女性は無事?」
「ええ、傷一つありませんよ。」
「良かった。それで、これはどうしたらいいのかしら?」
目の前で腹を抱えて丸くなっているヒトではない男。妖魔と呼ばれる類のもの。レイラは逃がさないように剣を突き立てたまま、考える。
「大丈夫です。そろそろ、レイラ様のご友人が到着されますから。」
レイラの友人が到着、一体どういう意味だろうと小首を傾げる。レイラの友人に裏路地をうろつくような人はいないのだが。
そんなずれたことを考えるレイラの耳に驚いたような声が聞こえる。
「レイラちゃん!? なんでトリフェーンにいるの!?」
え、とレイラの思考が一瞬停止する。目を見開いたまま首を巡らすと襲われた女性は片手に茶色のカツラを持って、口をあんぐりと開けていた。
見覚えのある銀色の髪と藍玉の瞳に、レイラは驚きと共に嬉しさも感じていた。
「ドリス。久しぶりね。」
「久しぶりだよ! 二年ぶりくらいだね!」
駆け寄ってきたドリスはいつもの明るい彼女だ。足元に転がる妖魔にひるんでいない。
「レイラちゃん元気にしてた? シリル先生と子供ちゃん達も元気?」
「ええ。みんな元気よ。ドリスの方こそ元気だった?」
「うん!」
屈託のない笑顔にレイラもつられて笑顔になる。が、どうして一人でこんな裏路地にいるのだろう。と不思議に思う。王の目の彼女が通り魔のことを知らないはずはないし、わざわざこんな危ないことをするとは思えない。
「ドリス、どうしてこんなところに?」
「そうなの!」
よくそれを聞いてくれた!といったドリスの勢いに少々驚きながら、レイラは耳を傾けた。
「アルヴィンに囮になれって言われたの! 酷くない?」
(囮? アルヴィンさんが?)
彼に限ってそんなことをさせるとは思えないのだが。何しろアルヴィンは、昔レイラが妖魔退治の手伝いを申し出ただけで、強い拒絶をした。
いつものすれ違いではないだろうか、ドリスにそう言おうと口を開こうとした。とそこで
「ドリス・フォスター。君は勘違いをしている。」
当人の登場だ。いつものように抑揚のない声色で、片手に蒼い鎖を持っている。
「勘違いしてないですから。アルヴィンの言った通りにしただけだし。」
むくれているドリスを一瞥してから、アルヴィンは小さく溜め息を吐いた。
「レイラ。後は私に任せろ。」
「はい。」
アルヴィンが来たならもう心配はない。
――妖魔のことは。
流石にドリスとの揉め事は、アルヴィンが変人なためどうにもならないのだが。レイラはこの二人の揉め事はノータッチと決めている。
◇ ◆ ◇
アルヴィンの力によって、通り魔は消えた。彼とブレットの見立てでは、生まれたばかりの妖魔が、右も左も分からずに、手あたり次第襲っていたのだろうということだ。力も弱く、明るいところにいるヒトに手を出せず、裏路地の陰に潜んで、通りかかる弱者の血を狙って。
普通の妖魔ならヒトを全部食べてしまうのに何故通り魔なのだろうか。
そんなレイラの疑問には、単純に好みの問題だとブレットが言った。
「私も、肉よりは血の方が好みです。」
「そう、通りであの時……。」
ブレットに異界に攫われた時、血ばかりを求められたはずだ。
「レイラ、まだその妖魔を飼っているのか?」
少し怒ったようなアルヴィンの様子に首を竦める。
「大丈夫です。急に噛みついたりはしないので。」
「妖魔はいつ牙を剥くか分からない。使い魔にした妖魔に裏切られた魔法使いもいる。」
「信頼しているので、裏切られたら私の力不足と思います。」
自意識過剰かもしれないが、ブレットは恋愛感情抜きでレイラに惚れているように感じることがある。
レイラ以外の、レイラの大切な人まで守ってくれるくらいには愛されている。
よほどウィラードよりも神様に向いているのかもしれない。
多少偏ってはいるが、ウィラードの偏愛ぶりよりは幾分かましだろう。
「私は理事長に報告しなければならない。申し訳ないが失礼させてもらう。」
「ええ、また今度。」
せっせと去っていくアルヴィンの背中と、つんとしているドリスの顔を交互に見る。
この二人、よくもめている割に長いこと続いているのは何故だろうといつも思う。
「ドリス・フォスター。」
角を曲がる手前で、仏頂面のアルヴィンが振り返った。
ただ名前を呼んだだけ。それもフルネームで。しかし、それだけで不機嫌顔だったドリスの表情はぱあっと花が開くような、まぶしい笑顔に変化する。
「レイラちゃん! 今度またジェイドに遊びに行くから!」
じゃあね!と弾んだ声で手を振ったドリスに、ほっとしてレイラも笑みを浮かべた。
「ええ、待ってる。」
アルヴィンとドリスが角の向こうに消えてから、レイラははっと思い出した。
(私がトリフェーンにいるのを、口止めし忘れていたわ。……大丈夫よね。シリルは王都だもの。結婚してからは理事長とあまり連絡を取っていないようだし。ええ、きっと大丈夫よ。)
そう言い聞かせて、レイラはブレットと帰路についた。




