甘いお話と綺麗な指輪
熱も出ていたから、ひとまず今晩は休ませようとなってレイラは早々に濃い出迎えから解放された。ブレットは外に出た時点で姿を消したが、絶対にすぐ近くにいるだろう。以前のウィラード並みに守りを固めてくれるはずだ。
明日は看病するよと名残惜しそうにしていたノアは、最後までべたべたとくっついてきて、レイラがあの家に帰ることを反対していた。
しかし、器が空になったレイラは祝福持ちの側にいるしかないので、ノアも大人しく引き下がった。多分、アドルフが王宮に戻らなければアドルフの近くにいろと言われただろう。
久しぶりのわが家は少し埃っぽくなっていた。
帰ってきてすぐにソファーに座らされて、シリルは怪我の手当てを始めた。
出迎えてくれた皆が驚愕した首の傷に、シリルは眉を寄せて消毒液のついた布を近付けた。
「少し沁みるぞ。」
「っ……。少しじゃないわ。すごく痛い。」
「噛まれた時よりましだろ。まあ、首のが一番酷いしな。」
じくじくと痛む首にガーゼが貼られる。
「他に怪我はないか?」
「ないです。」
太股の痕が頭に過ったが、言うほどのことでもない。
内出血はほっとけば治るのだ。
首の痕もシリルは手当てしなかった。
ただ、赤い痕を見つける度に眼光が鋭くなって、不穏な気配を漂わせていたが。レイラが怖気を感じるくらいには。
それに、何度か下着姿を見られているとはいえ、やはり太股なんていう普段隠している部分を見せるのは抵抗がある。
「何をどうしたら、ここに付くんだろうな?」
ちょんちょんと太股を突っつかれ、レイラは破れたワンピースの隙間から例の痕が見えていることに気付いた。
「や、気付いたらあったの。」
慌ててワンピースの裾を引っ張って直す。
どこまでシリルは見えたのだろう。
レイラはソファーに座っているが、シリルは床にしゃがんでいる。
下着までは見られていないと信じたい。
せめて、今身に付けている下着がもう少し可愛らしいものであればいいのだが、生憎レイラはそういう種類のものは履き心地が悪くて、苦手なのだ。
こちらに来てから何年も経つが、買っていない。
肌に馴染むものだけだ。今度可愛らしいものを買おう。
「こんなに赤黒くなるまで吸われて気付かないものなのか?」
(そうよね。胸のは痛かったもの。)
疲れすぎて、寝ていたからだろうか。
「あ、貧血だったからかしら。私もさっき気付いたの。」
ぽん、と手を叩いてレイラは納得した。
疲労で深い眠りについていたとしたら、気付かなかったとしても無理はない。
「……鈍いな。風呂はどうしてたんだ?」
「一人で入っていたわ。」
そこまでレイラは無防備ではないと、視線で訴える。
(私の頭はそこまで弱くないわ。)
頭の弱いレイラはブレットの目の前で無防備に寝ていた事実は忘れていた。いや、忘れたことにした。
「どうして気付かなかった……。」
「足の痕より、首が沁みて痛かったんだもの。」
異界での入浴はとんでもない苦行だった。
首に水が当たれば、痛すぎて涙目になるくらいの。
しかし、キスマークが痛いと知っているなんて、
「シリルしたことあるの?」
そっち方面の経験がないようには見えないのだが、一応聞いてみる。
「いや、付けたら迷惑になるだろ。誰にも見えないとこならまだましだとしてもな。良識のある大人のやることじゃない。あの妖魔子供っぽいな。」
なるほど、シリルからはしたことがないということか。
そんなことを知ったところで不快になることはない。
初めてシリルから選んだのはレイラなのだ。
と、頭では分かっているが気持ちは割りきれないものだ。
「これが、全部治ったらして?」
「なっ!? 馬鹿か、何言ってるんだ。」
あわあわとしているシリルを見て間違いに気づいた。
「言葉が足りなかったわ。そういう意味じゃないの、ただ……いつも好きではない人にされるから、好きな人に塗り替えてもらいたいなと思ったの。」
「いつも?」
ぴくり、と眉を上げたシリルに不穏なものを感じる。
「……いつもではないわ。」
どうしてだろう。さっきからシリルが怖い。
柔らかくて優しい空気のシリルは旅に出たのだろうか。
だとしたら、いつ頃帰ってくるのだろう。
なんて冗談はほどほどにして、じっと橄欖石の瞳を見上げる。
「私ばかり初めてなんて不公平だわ。」
誰にもした事がないなら、レイラは『それ』が欲しい。
我が儘だし、シリルのルールを破らせる発言だ。
でも、ぽろりと。言葉に出してしまった。
「それで良いならいくらでも。レイラの望みは叶えたい。」
「いいの?」
「あげたくても、もうあげられないものもあるしな。」
「嬉しい。」
ぎゅ、とシリルに抱きついて胸に頬をすり寄せる。
よしよしと頭を軽く撫でられて、レイラは目を細めた。
「キス以外の初めてをもらうしな。予定では。」
「キス? 誰に?」
小首を傾げるレイラにシリルも不思議そうな顔をした。
「確か白髪の子供じゃなかったか?」
「……あれはご先祖様だもの。数えないわ。」
アレンは先祖だ。大きく見れば家族だ。
「身体は別……」
「意思はご先祖様のものだわ。」
「分かった。もう、それでいい。」
やれやれとシリルはため息を吐いてソファーに座った。
レイラもすぐ隣に腰を下ろす。
「今、もう一つ初めてをしていいか?」
「ええ。何?」
少し待ってろ、と言い置いてシリルは隣の部屋に消えた。
それからすぐに戻ってきて、座っているレイラの前で再び床に片膝をついた。畏まっているシリルにつられてレイラも姿勢を正す。
片手を取られて手の甲に軽く口付けられた。
そして、ポケットの中から何かを取り出して照れくさそうに笑った。
「レイラさん。俺と結婚してください。」
する、と左手の薬指に嵌まった指輪と、太陽のような笑みを浮かべるシリルとを見比べる。
ぴったりとレイラの指に収まる指輪には、レイラの瞳の色と同じ紫水晶が嵌まっていた。
呆然とするレイラにシリルは僅かに耳を赤くして言った。
「婚約はしたけど、言葉にしてレイラに言ってなかったよな。お前がいなくなってから、もっと早くに渡しておけば良かったと思ったんだ。レイラが居なくなる少し前には買ってたのに。結婚する時でいいとか思ってた。」
今、プロポーズされるとは思わなかった。
ただでさえ、涙腺が緩んでいるのにずるい。
「でも、本当なら婚約する前に言っとかないといけなかった。俺が怠けてたのが悪い。だから、今言った。」
「ずるいわ。弱ってる時にやるなんて。」
涙が零れる前にシリルが服の袖で拭ってくれる。
「これで忘れられないだろ。返事は?」
顔を上げて、真っ直ぐシリルを見つめた。
シリルと視線が合うとくすぐったい気持ちになる。
「はい。しか言わないわ。」
捻くれた言葉で返事をして、レイラはシリルに抱きついた。
「愛してる、はないのか?」
今まで恥ずかしくて、あまり口にしたことのない言葉だ。
レイラの頬に朱が散る。
その様子を見てくすくす、とシリルが笑っている。
なんだか、負けた気がしてレイラは悪戯っぽく笑った。
「そんな言葉じゃ伝えられないくらい、愛してる。って言えば伝わるの?」
「なんか恥ずかしいな。まあ、俺もそうだけど。」
額を押さえながら、シリルはレイラの隣に座った。
こてん、とレイラの肩にシリルの頭が乗る。
「シリルの指輪も買わないと。」
「持ってるから気にするな。同じ時に買ってる。」
シリルはポケットからもう一つの指輪を取り出した。
ぽとり、と手のひらに落とされた指輪を眺める。
この指輪に嵌まっている石はシリルの瞳の色だ。
若葉のように瑞々しくて、綺麗な黄緑色。
「シリル。手、出して?」
「はい。」
レイラの左手に重ねられたシリルの左手、その薬指に指輪を嵌める。
「レイラと交換したネックレス見て、この石にしたんだ。自分の色だと何か守ってくれそうだしな。ん? でも、そのネックレスのおかげでレイラを暗闇から見つけ出せたんだよな。石だけでもレイラのと交換した方が良いのか?」
うーん、と悩んでいるシリルの顔を見てレイラはくすりと笑う。
「ウィルが云うには橄欖石は太陽の石とも呼ばれているらしいわ。昔は太陽から飛んできたと思われていたの。」
「現実は?」
「隕石と成分が似ているらしいわ。これはあくまでウィルの話だけれど。でも、この石の雰囲気が太陽に似ていると思ったんじゃないかしら。だって、この石と同じでシリルも太陽みたいな人だもの。私、瞳の色って魂の色のような気がするの。」
蜂蜜色の睫毛で縁取られた橄欖石を見つめる。
「俺が太陽なら、レイラは月だな。」
「ええ、ぴったりでしょう?」
太陽と月なんて、素敵な響きだ。レイラは嬉しくなる。
そんなレイラの紅潮した頬に、シリルは眉を寄せた。
ぴとり、とレイラの額に手を当て、申し訳なさそうな顔をした。
「悪い。疲れてるのに。」
熱が上がっていたのだろうか。
一月も閉じ込められていたのだから、今日は懐かしい家のベッドでゆっくり寝て、明日シリルとたくさん話をしよう。
「ぎゅってして、そうしたら寝るわ。」
「はいはい。ぎゅってすればいいんだな。」
そんなシリルは口調と違い顔は嬉しそうに笑っていて、ぎゅうとレイラを抱き締める。 懐かしい匂いにレイラはうっとりと目を閉じた。




