無力さと嗜好品
「気配が、ないって……。」
最悪な想像が脳裏に浮かぶ。
頭を振ってその考えを払おうとするが、忘れられない。
「いやいや、死んでないから。お嬢さんが死んでたらオニキスさんから連絡があるはずだからね。」
ウィラードは顔面蒼白なシリルに慌てて言った。
「オレらの力は強すぎてここじゃ使えないんだよね。アドルフさんを探さないと。先生はどうする?」
どうする? と訊かれても、シリルは人間だ。
警察やメリル、他にも魔法使いなどの力を借りるしかない。どれも、アドルフの能力に頼るより時間がかかる。
「俺が闇雲に動くよりアドルフさんに頼った方が早い。」
「良かった。頭は大丈夫そうだね。」
大丈夫ではない。シリルは冷静さを欠いている。
今までなら、レイラは何があっても無事に戻ってきて来ると信じられた。それはレイラが異能力者だったからだ。
しかし、今は違う。レイラはただの人間なのだ。
身体の強度もなにもかも。
それに加えて、レイラは祝福持ちから長く離れられない。半月離れると発熱し、更に時間が経てば空いた器に他のモノが入り込む。
早く、早く見つけなければ。
「お前がレイラの居場所が分からないとは思わなかった。」
「今回は特殊だよ。いつもは分かってるんだけど、気づかない内に気配が消えてた。先生に呼ばれるまで気が付かないとか情けなくて涙が出てくるね。」
「そうなのか? 俺もだ。」
シリルもいつもなら感じられる冷たい気配が消えたことに気付かなかった。どんなに遠くにいても分かったのに。
普通の人間が連れ去ったとは思えない。
祝福持ちと神様が気配を追えないというのは異常だ。
「連れ去ったのが人間じゃないなら、妖魔ならオレ以上だし神霊の類いならオレらの次くらいだよ。どっちにしろやばいしか言えないけど。」
そんなのシリルには勝ち目がないではないか。
出来ることなんて何もない。精々、聞き込みくらいだろう。
「俺は……。ウィラード、早く行ってくれ。引き止めて悪かった。頼む。」
こんな話をしている場合ではなかった。
「すぐ戻るから。待ってて。」
ウィラードはそう言って霧のように姿を消した。
シリルが無力さを嘆いている間にレイラはどんな目に合わされているか分からない。妖魔でも神霊でも、レイラの血肉を欲するはずだ。力のなくなった身体でもその血は最上だろう。
(アドルフさんならすぐに見つけてくれる。)
それにセオドア王も動くはずだ。
大丈夫。すぐ見つかる。そう心の中で繰り返す。
目を閉じて深呼吸をした。
その内、ひょっこり戻ってくるかもしれない。
『少し、手間取りました。』
疲れた声で、げっそりした顔で現れるかもしれない。
だが、そんなシリルの願いも虚しく、それから半月経ってもレイラは見つからなかった。
アドルフの空間の『記録』を視る能力で、洗濯を取り込みに庭へ出たことは分かった。だが、勝手口の扉を開いてから先の『記録』は無かったのだ。
ウィラードが言うには、レイラを連れ去った何者かは空間を創ってそこにレイラを連れ出したのではないかと。
妖魔や神霊で強い力を持つものは、今シリルのいる世界と重なった鏡のような世界を創り出せるという。
始まりの神へ届けを出せば誰でも創れるそうだが、それを悪用しようとする輩が届けを出すわけもなく、届け出のない世界を片っ端から当たっているそうだが、まだ見つからない。
元から在る世界を使用している可能性すら出てきた。
となると万近くある世界からレイラを見つけ出さなければならない。
その間シリルに出来ることは何もなかった。
◇◆◇
ぴちゃん、と水粒が落ちる音がしてレイラの意識は浮上していった。目を開けると綺麗な紋様の浮かんだ天井が見えた。
頭がずきずきと痛む。手を当てようとして、腕が上がらないことに気が付いた。いや、腕どころか全身が動かない。
「あ…う……。」
声すらまともに出せない。
ふかふかのベッドに寝かされていたということは、今すぐに殺される可能性は低い。まず、レイラ本人かレイラの親類に何か要求があるはずだ。
(困ったわ。ここどこかしら。)
状況がまったく分からない。
シリルに懸想している少女に因縁をつけられ、毒針を刺されて倒れた。その後、どうなったのだろう。少女とその場にいたもう一人に連れ去られたのか。
(いつになったら動けるようになるの。)
「はっ……う……。」
何度も何度も身体を動かそうとする内に腕に自由が戻ってきた。なんとか手を使ってベッドを這って移動する。
(あ、足も少し動く。これなら。)
ようやくベッドの縁に辿り着いて、よっこらせと柔らかそうな絨毯の上に転がり落ちた。ぐわんぐわんと頭の痛みが増した。
それでも、奥歯を噛み締めて唯一の扉に向かっていく。
汗がつう、と首筋を流れた。
(扉に手が届かないわ。)
立ち上がろうとしたが、上体を起こせても膝を立てられない。ぐしゃりと絨毯に倒れこむ。
「起きてしまいましたか。残念。」
何が残念なのだろう。まさか、眠っている間に何かされたのだろうか。しかし、身体に違和感がない。
頭が痛いのが彼のせいだろうか。
じっ、と男を見つめていると頭に向けて手を伸ばされた。レイラに緊張が走る。
男は身体を強張らせたレイラに気付いて微かに笑った。
汗で額に張り付いていた髪を払われた。
「私に名はありません。ですのでリリス様。貴女のお好きなように呼んでください。毒が抜けきっていないのでしたね。失礼。」
彼はレイラに断ると頤を持ち上げ、無理矢理に唇を合わせた。僅かに開いていたレイラの口に、ぬるりとした何かが入り込む。
「んんっ…ん……はぁ…っ…。」
引き離したくても腕も足も思うように使えない。
動けない自分が悔しくて情けなくて涙が込み上げてきた。
「これで、動けるようになります。」
ようやく解放されたレイラは、ぐったりと男の胸に寄りかかる。今すぐに離れて殴りたいが、呼吸を整えるのが先だ。
(口、洗わないと……。)
出来ることなら胃の中も洗いたい。
しかし、この部屋にそんな設備は無さそうだ。
「ここは……どこ?」
「内緒です。」
やはり答える訳がない。諦めて他の質問をする。
「あの子は?」
「たまに来ると思います。ですが、リリス様は殆ど私と一緒にいることになります。」
ここはトリフェーンか、近くの都市にあるのだろうか。
学院に通いながらだとその辺が限界なはずだ。
「目的は?」
「お嬢さまの目的はリリス様とシリル様を引き離す事でしょうね。下らない事だと思いますがお付き合いください。」
そんなことは分かっている。連れ去られる前の段階で。
レイラが知りたいのは、
「違うわ。貴方の目的は? 正体は何?」
「何だと思います?」
「妖魔。違うかしら? だって貴方の雰囲気と良く似た気配のモノ知ってるの。貴方が小娘に従うとは思えないわ。」
昔のウィラードと良く似た気配をしたものが普通の人間には思えなかった。このふてぶてしい男があの少女に従うわけもない。
「正解です。小娘に従うつもりはないですよ。これも遊びです。今は我が儘なお嬢さまに使える執事の役ですね。」
あの少女は妖魔の遊びに付き合わされているのか。
不敵に笑う男の紅い目を真っ直ぐ見据える。
「目的は私の血肉?」
「ええ、貴女の味を知ってしまうと他のモノじゃ満足できなくなるそうでして、一度味わってみたいと思っていたのです。そんな頃、丁度いいことにお嬢さまが貴女を懲らしめたいと考えられまして、利用させてもらったということですね。」
少女の暴走のせいでこんな目にあっているのか。
それに、誰だろう。レイラが美味しいなんて言い触らしたのは。妖魔に噛まれたのは四、五回だ。その内の誰かかもしれない。
もしウィラードだったら、半殺しにさせてもらう。
「前より味が落ちているの。やめておいた方が良いわ。」
「いえいえ、美味しかったですよ。とても。」
男はにやりと笑ってレイラの唇を親指でなぞる。
先程のことを指しているのだろう。レイラは顔を顰めた。
「……やめて。」
「それに、力の有る無しで味は変わりません。力を与えてもらえるかどうかということですから。私は嗜好品として貴女を欲したのです。」
「…………。」
嗜好品とは、わかりやすくていい。
殺すつもりはないだろう。レイラが抵抗しない限り。
その間にレイラはここから脱出するための情報を集めればいい。
レイラが居なくなったことは夕方には気付かれる。
そうしたらシリルも学院の皆も探してくれる。
「お腹が空いてしまいました。リリス様。」
すう、と首筋に唇を寄せられ、ぺろりと舐められる。
これからされる事を必要なこと、仕方がないと諦めてレイラは目を閉じた。まだ大丈夫。希望はある。堪えられる。
(絶対に帰るわ。だから、)
男は首にゆっくりと歯を突き立てた。




