残された男は
レイラがトリフェーンを出て一週間が経った。
連絡が出来ないことは分かっていた。しかし、不安に思うのは仕方ないだろう。なにせ付き添いがあの妖魔だ。変なことをされていないだろうか。
なんやかんや彼女は妖魔を頼りにしている。そこも気に入らない。人智の及ばないことは、人間であるシリルではどうしようもないと分かっていてもだ。
「先生? どうかされましたか?」
ぼけっとしていたシリルの目の前に士官科の生徒の怪訝な顔が現れた。
「いや、なんでもない。」
授業中に集中力を欠いてしまうとは、末期かもしれない。特別授業や士官科の実技の時間は注意して見ていなければならないが、座学になると心に余裕が出来てつい王都へ旅立ったレイラのことを考えてしまう。
出立前に素早く頬に口づけて出て行ったが、唇にしても良かったのにと思ってしまう。受け止めるので精一杯という様子だった。レイラからしてくれたことだ嬉しいのは嬉しい。あまり欲を出し過ぎると経験が皆無であろうレイラには引かれかねない。
慎重に段階を踏んでいかねば。
授業を終えて渡り廊下を歩いていると女生徒に呼び止められた。士官科だと大抵ズボンか短いスカートだが、この女生徒は長いワンピース型の制服を着ている。情報科の生徒は気配だけしか覗かせない。彼らは遠くから人の動きを見て楽しむ者が多い。
ということはこの女生徒は医療科ということになる。
「どうした?」
「その……お話があります。」
見覚えはないが、どこかで話したことのあるような気もする。悩み事があるのなら教師として聞かなければ。
「分かった。いつからだ?」
「い、今から!」
食いぎみに話した女生徒は気まずそうに目を伏せる。
今からとなると、急ぎの相談かもしれない。
「分かった。どういった話だ?」
「場所を移動しても良いですか? 人に聞かれたくなくて……。」
「ああ。そういうことなら。」
人通りの少ない廊下に移動して女生徒に話を促す。
「何の話だ?」
「えっと……あ、あの。ですね?」
目が異常なほど泳いでいる。大丈夫か。
女生徒の挙動不審ぶりに、これからこの少女が言おうとしてしていることが分かった。これはレイラに怒られないだろうか。いや、彼女のことだ変に期待を持たせないようにきっぱりと振ってやれ、と言うだろう。
彼女が告白してきた理由が王都へ行く前に振られていたかった、だ。レイラが卒業したらすぐに想いを伝えようとしていたシリルと違って、彼女の脳みそは上手いこと切り替えられるように出来ていた。
王都で取り返しのつかないことになったら、仕方ないと捨てられそうで怖い。レイラが何をしているのか詳しく知らないのだ。
「わっわた、私! 先生のこと……っ。好きです。」
顔を真っ赤にして告げられた言葉に胃が痛くなる。
勇気を振り絞ってくれていることが分かるから余計に。
「悪い。今、好きな人がいるんだ。」
恋人がいると言いたいが、レイラだと気付かれた時に彼女が学院に戻れなくなる可能性もある。シリルが白い目で見られるのは構わない。しかしレイラにそんな辛い思いをさせるわけにはいかない。
「へ? あの? いないって話は……。」
「誰だ。そんな事言ったの……。」
棒読みのスキナヒトガイルンダは誰にも信じてもらえていなかったということか。だが今回は本当のことだから棒読みにならなかった。
「すまなかった。じゃあ。」
黙り込んでしまった女生徒を置いて廊下を歩き出す。
泣いた人を慰めるのは得意ではない。逆に怒り狂う人もいるが、どちらにしても当人がいたら問題が多くなるだけだ。
職員室へ向けて廊下を歩く。その時、
「ねぇ。シリル。」
耳に届いた女性の声に背筋が伸びる。
だらだらと冷や汗が全身から吹き出ていく。
「待ちなさい。お仕置きされたいの?」
「ごめんなさい。」
諦めて振り返る。自分と良く似た顔立ちの女性がにっこりとシリルに微笑んだ。なぜ学院に入り込んでいる。仕事はどうした。
「貴方、父上が恋人を連れて来なさいって言ってたわよ。そろそろ身を固めてくれないと旅に出れないから困ると言っていたわ。」
なぜ一週間で話が父親のところまで回ったのだろう。
これまで恋人が出来ても連れて来いなんて言われなかったのに。侯爵としての仕事に飽きているのは知っていたが、面倒ごとをシリルに押しつけたいのか、ただ旅に出たいだけなのか。どちらか分からない。
「無理だ。今、実家に帰省してる。」
間違ってはいない。レイラは実の父親が住んでいる王城に行っているのだから。
「いつ帰ってくるの?」
「半年か、それ以上か分からない。」
さっさと片付けたそうだったが、早くて半年だ。
それ以上になるとどうなるのか分からない。
「とりあえず仕事を辞めて帰れと言っていたわよ。なにがあっても帰ってこいって。恋人の身分はどの程度? 面倒な家の娘じゃないでしょうね。平民は問題ないけど厄介なとこの貴族は止めてよね。」
残念ながら厄介な出自の少女だ。
世間には死んだと思われている母親が不明の王女。
いくらフィンドレイといえど、どこまで規格外な家系が通用するのか。周囲にフィンドレイ侯爵家当主の嫁については特になにも言われない。
「厄介なとこのお嬢さんだ。」
ミラはあからさまに眉を顰めた。
「誰?」
「彼女が帰ってきたら話す。」
「今よ。今、言いなさい。」
「今は無理だ。」
ミラとの間に沈黙が落ちる。目を閉じて考えている。
「分かったわ。それなら私に一番に教えなさいよ。」
なんとか納得してもらえたようだ。
「姉さんは何しに来たんだ?」
「リオに忘れ物を渡しに来たのよ。今日は非番だから。」
職員室まで共に行き、ミラをリオに引き渡すとシリルはその足で中庭に向かった。
大きな木の下に立って空を見上げる。
この木の周りにレイラはよく居た。ドリスとアルヴィンの三人で居ることもあれば、エリオットと二人で語らっている時もあった。レイラの交遊関係は狭い。
(そろそろ腹を括らないとな。)
後継として帰ることで、シリルは苦手な社交界に顔を出さなければいけなくなる。王宮に近付くことでレイラに近付くことが出来るかもしれないと、そんな馬鹿なことを考えてしまう。
物理的な距離は重要だ。
いつも傍にあった熱がなくなっただけで、心に小さな穴が開いた気がする。いつでも抱き締めて口付けることもできず、姿すら見られない。
レイラの私物はまだ部屋に置いてある。
足りないものは王都で調達すればいいと置いていった。
せめてレイラが帰ってくるまでは辞められない。
ただ、一月くらいは休みを取ったほうがいいかもしれない。一度、父とじっくり話をしなければ。
父の用事で王都へ行くことがあれば冷たいレイラの気配を探ってみよう。あの気配を感じるだけでも落ち着けそうだ。
(早くレイラに会いたい。)
一週間でこれでは半年なんてもたない気がしてきた。




