《口裂け女》8
どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
「またしても、先入観か」
悔しげに呟くと、『いや、そこまで落ち込まなくても』と、苦笑いするシャッテン。
『とにかく、隠れた方が良いんじゃない?』
「隠れるつったって、大して身を隠せそうな場所は……」
幸いなことに、湯気が丁度良く視界を不良にしてくれているため、まだ入ってきた人の姿を認識できない。
その人が体を洗っている間に隙を見て出るしかないだろう。
ひたひたと、気を抜いたら滑りそうなタイルの上を歩いている音がこだまする。
『……出入り口近くの椅子に座ったみたいだね』
椅子を引いた後、腰を下ろして桶にお湯を溜めているようだ。お湯が勢いよく流れてる音が聞こえる。
仮に、この人物をXとおこう。Xが意識をこちらに向けていない今が絶好の機会だ。
最小限の水しぶきに抑えるよう、極力ゆっくりと立ち上がる。そして、Xが使用している洗い場の壁一枚を挟んで反対側の通路を一歩一歩丁寧に足を出していく。
『まだ気付かれてないみたいだね。まるで忍者みたい』
こんな危機的な状況下にいる忍者などいるのかと、無駄な思考をしようとして、頭を振った。
「いやいや、今はそんなことより、目の前に全神経を注げ」
自分に言い聞かせるように、小声で諭す。万が一にでも発見された場合、Xが男性ならまだ微妙な気持ちで済むが、女性だったら全てが水の泡である。
Xの位置と対称的な位置まで到達しているのだ、ここで何も失いたくはない。
『ついに、ここまできたね。ドアはもう目の前だよ』
匍匐前進に切り替え、ドアは目と鼻の先だ。ここで、最後に無理矢理隙をつくるのだ。
俺は左手を伸ばし、静かに桶を手に取る。シャワーの水と泡が混ざってが床を伝って流れているので、今が千載一遇のチャンスに違いない。
「いっ……けぇーっ!」
微かな声で踏ん張り、仰向けになった後で、右手に持ち替えてから、桶を湯船に向かって投擲した。
推定落下時刻は、三秒後。体を翻して立て膝をつき、クラウチングスタートのような態勢を保つ。
水しぶきが舞い上がるまで二秒、一秒。ついに、俺は低姿勢のまま走り出した。ドアの取っ手を掴むため、全身全霊で右腕を伸ばす。
取っ手に触れる瞬間、後方で水しぶきが上がった音が聞こえた。後ろを一瞥すると、Xが予想外の展開からか、立ち上がって湯船の方向を凝視しているシルエットが見えた。完全に、俺の作戦が決まったのだ。後は一瞬で体を拭き、ドアが開いたという事実から、Xが脱衣所に戻る前にとんずらする……はずだった。
ここにきて、主人公補正のデメリットの存在を忘れていたのだ。
「あ……」
緊張感から解放されるという緩みから、右足の踏ん張りを怠り、滑って大胆に転倒してしまった。
「……っ!?」
当然、入り口からド派手な音が響いたら、反射的に振り向く。
空中で回転して転んだため、背中を打ってしまい、一瞬体が動かなかったこともあり、何も抗える状況ではなくなってしまった。
『ヴァールっ! 大丈夫なの!?』
シャッテンが心配そうに俺の方を見ているが、もはや、返事する気力もなかった。
なんとも情けない終わり方だ。逐一説明しても、聞いてもらえるのだろうか。
上半身を起こし、既に駆け寄ってきていたXの姿が鮮明になった。今更ぐちぐちいっても仕方がない。ただ、謝罪をーーー。
「なーにやってるんだよ、このマヌケがッス」
茫然自失の中、俺は朝食の前の集合場所である広間にやってきた。
「ぶっ、はははははー! なんてバカな奴ッス!」
「尚人君、人ならざる最上級の馬鹿の分際で、蓮きゅんを馬鹿呼ばわりしてはいけません」
「今日も家畜を見るような目で俺を見てくれてありがとうございますッス!」
「…………」
開いた口が塞がらない。
ここまで自分が愚かな奴だとは微塵にも思わなかった。
『ヴ、ヴァール、災難だったね……』
挙げ句の果てに、シャッテンに宥められる始末である。何故か、俺の頭を撫でている仕草をしているが、姿が見えるだけであって、物理的な干渉まではできないようで、空を切っている。
「それにしても、お風呂でそんなことがあったとはねー」
書類に目を通しながら会話に参加している榊々丘は、昨晩の夢の中で着ていたウサギのパジャマを着用していた。あれは現実のものであったのか。
「ん? どうしたの、蓮先輩。やっぱり私の姿に発情しちゃった?」
「どうしてその話に飛躍するんだ」
ひどく冷静な状態である俺は、リーダーが扇動的なポージングをしていても、何も感じなかった。しかし、突然、何処からか鋭利的な視線が俺を突き刺してきたのだ。
「蓮君、その話とやらを聞かせてもらえますか?」
「さ……あーや、別になんでも……っと」
「きゃっ」
圧巻の迫力で、思わず後ずさりをせざるを得なかった。その影響で、背後にいた人物に衝突してしまったのだが。
振り返ると、そこには尻もちをついているメイド服姿の少女がいた。
「いたた……」
「あ、ごめん。大丈夫?」
「はい、大丈夫です。こちらこそ前方不注意で転倒を……って、あんたはっ!?」
「なっ、お前! なんでここに!」
驚嘆するのも無理はないに決まっている。何故なら、メイド服の少女は紛れもなく、俺の妹であったからだ。
「ちょ、こっちみんなし! あっちいけよクソ兄!」
愛美は目に涙を浮かべ、胸の前で腕を交差している。そんなに防御しなくても、何もしないのだが。
それにしても、愛美によく似合うメイド服なんてあったもんだ。
ツーサイドアップにまとめた金髪を揺らし、華奢な体を起こすと、一目散に俺の前から消えてしまった。
どっかいけといいながら、自分からいくとは、何のために煽ったのだろうか。慣れない服での逃走だからなのか、ずっこけた音が廊下の方から伝播した。
「可愛いよね、あいちゃん! 可愛さのあまり、招集しちゃった!」
「まるで誘拐みたいだな……てか、あいちゃんって」
「あれ? いってなかったっけ。あいちゃんと私は昔から友達なんだよー。あいちゃんから来たいっていってたから誘ったんだ。それに……」
「……?」
知られざる関係性が明るみになったことに驚いたが、それよりもあれだけ元気溌剌な彼女が、物憂げな表情を浮かべているのが目に留まった。愛美に関して何か感じる所があったのだろうか。
「一目みた時からメイド服着せてみたかったんだよねー!」
「ほどほどにしてやれよな」
心配なことがあるのかと思ったが、榊ヶ丘の様子を見るに、杞憂に終わりそうだ。
午前九時。俺は、演習室という広大な部屋の中にいた。
提供された朝食を済ませた後、あーやについていくよう指示を受け、現在いる部屋と案内されたのだ。
空間が肉眼で捉えるギリギリのラインまで広がっているようで、昨日の境の間を再起させるようなつくりになっている。
「さて、それでは時間まで、貴方の《念力》を見てあげましょう」
「見てくれる、ということは、戦うのか?」
「はい。私が蓮君に教えられる範囲でですが、《念力》使い同士の戦闘の経験というものを教えます。では、《念力》を発動させてください」
俺は首肯すると、《念力》を解放するために、略式キーを叫んだ。
「《怨体調和》!」
巡るましい勢いで、俺の体内からエネルギーが湧き上がってきている。そのエネルギーを右手の掌に集約するようなイメージをし、段々と《纒器》の形を構成していく。
「物理攻撃特化型《念力》のタイプーーー《纒器》の固有体。確か、それを《虚影の鏡》とネーミングしているのですね」
「おう。どうやら、他の《纒器》とは違うらしくて、コイツ自身が武器ではないみたいで」
それが、この《纒器》の弱点である。普通に考えたら、何の役にもたたないが、ちゃんと、能力がある。
「他の《纒器》及び、《怨体》がリソースである武器をコピーできる。これは、まさにチート武器ですよ」
「チートいわないでほんと……」
「実際、千尋の銃剣をコピーしたんですから、何かがない限り、武器を失うことはないはずです。くれぐれも忘れないようにしてくださいね」
「それは勿論! 霧裂の銃剣は忘れやしない」
俺は、《虚影の鏡》を銃剣に変化させ、グリップを一度強く握った。
これがあったから、俺は彼女の危機を一度救えたのだ。なら、何度だって、助けることはできるはずだ。しかし。
「あの男ーーーウンファルの《念力》は奇妙なものでした。《怨魔法》で重力を疑似増加させるのは、中々突破口を見出しにくいです」
あーやは、そういうと、俺から距離を離れて両手を広げた。そして、彼女は目を閉じて、《念力》の発動コマンドを口にした。
「《怨体調和》ーーー顕現せよ、《聖弓ジーク》!」
彼女の体から抜け出て可視化された《怨体》は、くの字を形成していき、一つの弓に変化した。彩飾は絢爛で、両端は羽のような形をしている。
「この弓は神話に登場する強弓の使い手であったジークフリートに由来しています。羽の部分は彼が対峙したドラゴンの翼なのです」
「神の……弓か」
《怨体》が生成する《纒器》や準ずるものは、そういった類の元ネタがあるのだろうか。
だが、話によると、《怨体》は心ではなく感情に共鳴するらしいので、想像したものを具現化したということになる。
「いや、矛盾はしていないか」
先刻、俺は存在しないものを具現化しているのだ。やはり、感情だけが全てを決定付けていることではないようである。
となると、俺の《纒器》は何に由来しているのか。
「あの、あーや。俺の《纒器》も、何か神話に関係しているのか?」
「いえ、全ての《纒器》がそうだとは限りません。それに、神話がモチーフになったのは、私が幼少時に神話を読み聞かされていたので、印象に残っていた自分に関係があるものとして、結果的に弓が出来たのだと思います」
「うーん、余計にややこしくなってきたな。《纒器》に限らず、《怨魔法》や《憑護》の固有的な名称や能力がつかめるヒントになればいいと思ったんだけど」
「そうですね、強いて言うならば、経験的なものか、天性的なものかの違いだと考えています」
「なるほど、あーやの場合は前者で、俺の場合は後者か。天性的といっても、《念力》は自分に関係している事柄から決定されるから、理由があるってことだよな?」
「はい、その通りかと。つまり、蓮君の《纒器》には、虚実体が関係しているのではないでしょうか」
シャッテンが関わっている、ということか。しかし、明確な由縁が分からない上に、まだ会話をするようになって日も浅い。唯一、ヒントになりそうなことといえば、シャッテンは俺であり、俺は、シャッテンでもあるということだ。もう少しで閃きそうな気がするが、もやもやとしたものが俺の思考を遮っている。
「とりあえず、今はいいか。教えてくれてありがとう」
「大した話ではないですから。では、改めて、蓮君には私の《纒器》を習得してもらいます」
「いいのか? それは、あーやにとって大切なものにつながっているんだろ?」
何もいわずに霧裂の銃剣を模倣してしまったことは、きちんと頭を下げなければならない。何せ、模倣した武器には、所有者の《怨体》、すなわち、感情などが入っているのだ。銃剣を握った時、霧裂の感情が逆流してきたのである。過去の記憶に纏わる感情を通して、記憶というほど鮮やかなものではないが、簡易的な記録やそれに近いものを知ってしまった。家からの非難による劣等感や、母親への罪悪感、様々な情動が形なき形となって、俺の中へと流入した。更に、銃剣への特別な思いや、霧裂の中にいる温かな《怨体》の存在までもだ。だから、俺は知ってしまった責任感から、必ず使いこなさなければなかった。彼女の銃剣を。
憂愁に浸っている俺から何かを感じたのか、あーやは口元を緩めて微笑し、俺の左手を取って、彼女の《纒器》に触れさせた。
「……!」
途端に、《纒器》に込められた感情などが、次々と俺の中へ送り込まれてきている。
その中には、古びた図書館で一冊の本を手にしている少女がいた。そして、目の前には照れ臭そうに頬をかいている少年もいた。
嬉しい、楽しい。温かいものが、俺を優しく包み込んでいく。なんて心地がいいのだろう。
やがて二人が去っていき、残された本が風によって、ページをめくっていき、とあるページに辿り着いた時、風が止んだ。
「あーや……君はもしかしてーーー」
それ以上言葉は必要ではなかった。
彼女も何もいわず、そっと、俺の左手を離した。
そして、俺の《虚影の鏡》が光り輝き始め、しっかりとした重みを感じる時には、銀色の弓矢へと変貌していた。
「《纒器》は纏わりに呼応して、器を成すのです。蓮君が人との絆を重んじる限り、蓮君の《纒器》は、蓮君を助けてくれますよ」
ふと、自分の《纒器》に視線を落とすと、一瞬煌めきのようなものが見えた。
▲▲▲
暗い。
静謐とする視界には、半損した、点滅しているランプが一つののみと、隙間がわずかしかない鉄格子の扉がある。
「わたし……は」
手を動かそうとするが、自由がきかない。両手が背中で交差され、両手首に付けられた拘束器具が背後の壁に繋がっているからだ。
「確か、公園で《怨魔法》使いと戦闘して……」
断片的であるが、スーツを着用している敵の手先と交戦したことは覚えている。だが、何故私が敵の手におちたのか、肝心な部分が思い出せない。
状況的に、エーヴィフィカイトに捕縛されているのは間違いないが、何が原因で捕らえられたのか。
「……でも、これで良かったんだよね、お母さん」
姿なき母に問いかけるが、《怨体》の反応を感じ取れない。両者のコネクションに何らかの不具合が発生しているようだ。
過去に、同じような会話不能の状態になっていたことがあったので、応答がないからといって混乱を引き起こすこともない。大体の理由が、《怨体》の不足なのであるから、時間が経てば、いつものように、私をおちょくり始めるだろう。
問題は、これからどうするかである。《怨体》の欠乏によって、《念力》を使用するのは無理に近い。とにかく、拘束器具を外さないことには、何も始まりはしないのは一目瞭然だ。
「何か……何かがあれば」
頭の可動領域内で、床、壁、天井と、見渡してみるが、使えそうな物はなさそうだ。無駄な足掻きは止め、おとなしくしようと、体を横たえたその時だった。
「何であの方は今のボスを擁立したのでしょうな……」
不満を漏らしながら、檻に向かって、男が一人歩いてきた。
私は、微かに目を開け、最小限の呼吸で、男が去るのを待つことにした。今、意識が覚醒していることを悟られると、確実に《怨体》を拘束されてしまう。
「しかし、いい素材は手に入った。どうせ《怨体》ごと拘束してしまう身だ。私の好きにさせてもらいましょうかね」
背の低いロン毛の男は、上着のポケットから何かを取り出すと、檻の鍵穴部分にそれを差し込んだ。
金属が擦れ合う数回の音の後、檻の施錠は解かれ、檻が軋みながら開かれた。
まさか、向こうから檻を開くとは微塵にも思わなかった。もし、私が一瞬でも《念力》が使えたら、両手の拘束を破って、男の脳天をぶち抜いてやることが出来たのだ。
この男は、私が今《念力》を発動出来ないことが分かっているのか。それはつまり、ヴェルトと戦っている最中に、あの場にいたということになる。更に、私が《怨体》の逆流を施した後で、完全に私の《念力》が解除されている瞬間に、周囲にいた人も含め、一時的に行動を制限させるような《念力》を発動させ、私を拉致したのも、この得体のしれない男だと思われる。
「……っ」
男に勘付かれないよう、固唾を飲んだ。
確かに、私が気絶する瞬間まで、彼ーーー舞宮蓮は、私の側にいた。私の身勝手な言動に呆れもせず、むしろ真摯に受け止めて、しかも、《念力》を使うことが出来ていたのだ。素人とは思えない程、機転が利き、私の銃剣の模倣をし、二丁の銃剣を自分の手足のように扱い、ヴェルトを圧倒していた。その時、私はもっと周囲を勘ぐるべきだったのだ。結果、蓮にも長髪男の《念力》によるダメージが及んでいたに違いない。
やはり、彼に頼らなければ。
彼に出会わなければ。
「おや、目覚めているようで」
「しまっ……んぐっ!?」
とうとう気づかれた私に、長髪男は布を私の鼻にあてがい、背中側の壁に押し付けた。
「く……、しこ、うが……」
「乱暴なことはしたくないんですがねー。原始的ですが、これでおとなしくしててくださいよ。そうすればーーー」
布に麻酔でも塗っていたのか、急激に意識が朦朧とし、長髪男の言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。
ごめんなさい。
誰に向けて発しようとしたのか、自分で理解する前に、私の思考は停止した。
▲▲▲
午後五時を知らせる鐘が、童謡のリズムに合わせて公園を中心とする辺りに鳴り響いていた。
暗くなる前に、良い子はお家に帰りましょうと、市の広報スピーカーから女性のアナウンスが伝播すると、駄々をこねて意地でも残ろうとする子供の手を引いて、親らしき男性や女性が半分怒りながら帰路についていった。
こぎ捨てたであろうブランコが、一人でにゆらゆらと動いている。砂場に目を向けると、盛り上がった砂の近くに、子供の忘れ物か、赤色のミニバケツとシャベルが取り残されていた。
「……待ってろ、霧裂」
蛻の殻となった公園で、俺は、交渉の場であるケヤキの木の下へと向かった。
今日は風が吹いていないが、ケヤキの枝の間から西日が射し込み、貫禄の姿をみせつけているようだ。
そして、ケヤキの木の下には、昨日の男が待ち合わせが楽しみかのように、鼻歌を歌いながら待機していた。こちらに気がつくと、鼻歌を止め、咳払いをして俺に近づき始めた。
「やぁ、待っていたよ《陽因子》君。さっそくだけど、本題に入ろうか」
「あんたの所属する組織ーーーエーヴィフィカイトに入るか否か、だよな?」
「そうだ。どうだ、いい話だと思うんだけどね。昨日いった通り、君に不自由はさせないよ。それに、《口裂け女》の処遇も、君に一任しよう。好きに扱ってくれて構わないよ」
「…………」
まだだ。
まだ、手を出すな。冷静になれ。
今手を出せば、技を仕掛けられて、チャンスを失うだろう。だが、怒りは忘れるな。
静かに、静かに怒れ。
「おやおや、目が怖いですよ? 私の口約束の信用性がそんなにないなんて、少しがっくりだ」
調子のいいことを謂い、ウンファルは両手を広げてボディーランゲージを行った。完全に煽られている。
「……分かった」
俺は怒りを最小限に抑え、ウンファルの勧誘に対して首を前に振った。
「聞き分けのいい人だ。最初から逡巡などせずに、そうしてもらえれば、わざわざ手荒な真似はせずともすんだのに」
「なんのことだ?」
「いや、既に終わってることだから、気にとめる必要はないさ。さて、行こうか」
ウンファルは、右手を差し出し、握手を求めてきた。
俺は躊躇わず、右手を同じように差し出し、彼の手を握るーーーことはせず、瞬時に後退した。
「《怨体調和》! もう、お前の好きにさせてたまるか!」
ウンファルが目を細めるより先に、俺は溜め込んだ怒りを吐き出すように、声を荒げた。
鏡面の正八面体を握り締め、銃剣に変化させた後、間髪入れずに、《怨体》が籠った銃弾を二発発射した。
「うまくいくと思ったんですがねぇ……。気が進まないですが、強硬的に貴方も手に入れますよ」
気味の悪い笑顔浮かべると、ウンファルは銃弾を器用に避け、前傾姿勢で俺に向かって走り始めた。
「……やっぱり、避けたか」
「おや、その口振りは私が避けることを分かっていたかのような言い草ですね」
「勿論、分かっていたさ。だから、わざと外したんだよ」
「口は達者なようだね」
ウンファルは右手を真上に突き出し、一瞬俺に背を向けると、彼の背後に迫っていた弾丸を一瞥するなり、口を開いた。
「無駄だよ。そんなもの私の前ではね」
右手を銃弾の方へ振り下ろし、刹那空間が振動し始めた。
そして、その振動に共鳴するかのように空中に滞在する銃弾は目標を見失い、地面に向かって進行してそのまま大きな接触音を立てて消え去った。
「やっぱり、引力かなんかの力が作用してるようだな」
まるで、銃弾が地面に吸い寄せられているかのようだった。ウンファルの《念力》は《怨魔法》を用いて《怨体》を操作している可能性は有利だ。
「ほう。今の攻撃で私の力を探っていたようですねぇ。全く気づかなかったですよ」
「気づいてなかったらわざわざ自身の力アピールなんてしないだろうが。余裕かましやがって」
俺に動作をみせても何も変わることはないという絶対的な自信が少なくとも奴の中にはあるということである。
「だったら、そんな余裕かましてるあんたに冷や汗でもかいてもらうかな!」
変形していた《虚実の鏡》を正八面体に戻し、銃剣ではない別のイメージを頭の中に思い浮かべる。龍をも穿つ聖なる弓の造形を。
「顕現せよ、《聖弓ジーク》! 」
俺の叫びに呼応するかのように正八面体は眩い光を発光しながりがら、あーやの《纒器》へと形を変えていく。
「なるほど。君の余裕は奥の手があったゆえか」
ウンファルは興味深そうに、俺の《纒器》の変化に目を向けている。もはや、俺が何をしようと自身の有利な立場はゆるがないと思っているのだろう。
「待ったことを後悔させてやるからな! いくぞ!」
銃剣より重量のある弓を左手に持ち、右手は弦にとある物を想像して何かを引っ掛けるように後ろに引いた。
そして、最大まで緊張した弦をキープしたままウンファルに狙いを定め、右手を離して緊張を解いた。
「《龍殺しの一矢》!」
最大の緊張状態から放たれた不可視の矢は、空気を切り裂きながら長髪の男へと一直線へ向かっていく。
「これは! くっ……!」
彼にとって予想外だったのだろうか、先程落とした銃弾のようにモーションに入ろうとしたが、右手を下ろしてサイドに飛び跳ねた。
彼が飛び跳ねた瞬間、そこに轟音を伴いながら何かが通過して、かすったウンファルの服の切れ端もろともすぐに消え去った。
「あれー? なんで横に避けたりしたんですかー?」
俺はわざと鼻に付くように相手をおちょくりつつ、再度弦を引こうと試みるが、想像以上に《怨体》を消費したせいか気だるさが残り、集中力が継続出来ずにいたが、悟られないように二射撃目を用意するモーションをした。
「随分と口聞の悪い少年だ。たかが一発奇をてらった程度で調子に乗るとはね」
破れた服の部分を手でなぞり、ウンファルは俺を睥睨している。明らかに苛立っているようだ。
「その弓の力はよくわからないが、的に的中する瞬間さえわかれば避けるのも造作ない。次はないぞ」
彼は右の手のひらを俺に向け、口元を歪ませた。
この挙動は間違いなく、次の瞬間俺は―――。
「《過引力》!」
「ぐぁ……っ!?」
地面に吸い寄せられるかのように俺の体は叩きつけられ、衝撃で変化させていた《虚実の鏡》が解除されて光の粒となって消えてしまった。
「愚かだな。同じ手に引っかかるとは。このまま体を押し潰してくれるわ!」
「う、あああぁぁぁぁーっ!」
上下から高圧力でプレスされ、俺の体も悲鳴を上げ始めている。このままだと全身粉々になってそのまま押し潰されてしまうだろう。このままなら。
「……蓮君の行動は無駄にさせません」
「……バカ、な」
凛とした女性の声と共に飛び出してきた銀の矢は、ウンファルの背後から彼の体を貫通し、光の集合体となって霧散した。
途端に彼は膝をつき、体の中央に空いた穴から流れ出る血液を凝視し、それから視線を後ろに移して怒りを露わにしながら背後に立っていた自身を射抜いた人物を睨んだ。
「この私が、こんな手に……っ! 許さん、許さんぞ貴様ら!」
ウンファルは俺の存在を忘れたかのように体ごと後ろに向き直し、流血する部分を左手で抑えながら右手を女性もとい、あーやに向けた。
しかし、そこには既に彼女の姿はなく、《怨魔法》から解放された俺の隣に移動しており、俺に手を差し伸べながらため息をついた。
「遅いですね。どこに向けているんですか?」
「なんだと!? この女、私が追いつけないスピードで動き回ってるとでもいうのか!」
「それはちょっと違いますね。私が速いのではなく、貴方が遅いんですよ」
あーやは俺にアイコンタクトを送るなり、ふたたびウンファルの背後数メートルの距離まで移動し、手にしていた弓を構えた。
「……スゲェよ、この人。俺がかすり傷しか与えられなかったやつの上をいってる。陽動なんていらなかったんじゃないのか」
『確かにね。こんなに《念力》を使いこなしてる人初めてみたよ』
二人の戦闘に巻き込まれないように、俺はその場から即座に離れて木影に身を潜めてシャッテンに彼女の行動に感嘆したことを伝えた。シャッテンもあーやの素早さには度肝を抜かれたようだ。
『とりあえず、今は二人の戦いの行方を見守ろう。僕たちは僕たちのできることをしたんだから』
「そう、だな……」
蓮君は陽動だけをしてください。そうしたら後は私が蓮君の分まで戦います―――。
それは、今の俺では彼女の足を引っ張ること他ならないことの表れであった。