《口裂け女》7
小学校を卒業する十日前、俺は一人で留守番をしていた。
両親は共働きだったので、最初は寂しいとは思ったが、もう慣れていたので、音をあげるようなことは一切口に出さずにいたのだ。
卒業式の日と、その前後一日には二人とも休みをとることが出来そうで、普段あまり一緒にいられなくて悲しんでいる妹にとっても嬉しいことだったに違いない。
その時は妹が友達の家に遊びに行っていたので、俺も外出することにした。
家の中は退屈過ぎて、家にあった娯楽という娯楽関係の物は全部にも飽きてしまっていたので、探検という趣旨で外に出回る計画をたてていたのだ。
一人で歩き回る勇気はなく、四、五人の有志を募って、俺は、当時住んでいた近くの裏山に入っていった。
山の管理が雑なので、草は伸び放題で、至る所にゴミが散乱していたのだ。
俺達そんな些細なことを気にせずに、秘密基地を作っていた。
不法投棄されたゴミの中には、ダンボールや、パイプ棒が無数にあったので、時間は大してかからず、子供ながら満足のいく基地を作り上げることが出来たのである。
完成した秘密基地では、持ち込んできたゲームをやったり、道中に落ちていた俗にいう成年向けの刺激的な本を食い入るように見入ったり、はたまた卒業式で誰に告白するかなどと、意中の人物について語っていたりしていたものだ。
しかし、笑いに溢れる日々は短すぎた。
その日が刻一刻と迫ってきているなど、誰が想定していたのか。
秘密基地が出来て数日後、俺達は再び集まり、秘密基地の場所へ向かうことにした。
一行がいつも通りの獣道や、草が生い茂る道なき道を木の枝で掻き分けて進んでいると、明らかに怒声を散らかしている数人が俺達の秘密基地の前にいたのだ。
その数人は、中学生のようで、地元の制服を着ている。
どうやらもめていたようで、気分を害した中学生達が我先にとこちらに向かってきた。
俺達に気づいて来た訳ではなさそうで、彼らは一目散に走って逃げていった。
嫌な予感がし、俺達は秘密基地に駆けつけてみると、予感通り秘密基地は倒壊していたのだ。
誰もが茫然自失で、何も言葉を発しなかったが、秘密基地の裏側から草が踏まれたような音が聞こえ、怪しく思った俺達はそこにゆっくりと歩み寄り、木の裏に隠れている俺達くらいの背丈の子供を見つけた。
俺に気づくと、何故だか嬉しそうに微笑んだが、他に人がいることが分かると、帽子の下に表情を隠そうとしている。
俺以外は、目の前の子供が帽子を被っていて、表情が見えなかったうえに、隠れていたので、身を潜めていた子供を秘密基地壊しに加担している人物と見なしているのか、今にも殴りにかかりそうな雰囲気だったのを覚えている。
「お前が俺達の秘密基地を壊したのか?」
俺は優しく問い掛け、反応を待ってみることにした。
しかし、子供は首を横に振るだけで、特にうんともすんともいわないでいる。
「さっきの人達と一緒だったんだよな?」
今度は大きく首を前に振った。
子供は大損した秘密基地のパーツである竹を持っていたので、いくら否定されても、慌てて弁明しているようにしかみえないのだ。
「それ、この基地の骨格代わりなんだ。なんで君が持ってるの?」
「………………」
「話してくれないとさ、疑いたくもなくても、君を自然と疑っちゃうんだよ。さっきの中学生達と連んで一緒に秘密基地壊したんじゃないかって」
すると、子供は一瞬身体を震撼させて、口ごもりながら経緯を話し始めた。
「……ぼ、ぼくは……知ってたんだ。怖い人達が今日この場所に来て……これを壊しちゃう……こと」
「知ってたって……」
この秘密基地は、基地を考案して設置したメンバー以外知る由がないはずだ。
なのに、この少年は基地を知っていたと述懐していることに等しい。
誰かが情報を漏洩したのだろうか。いくら秘密とはいえ、自慢気にしたい年頃だ。
別に知られた所で、何もちょっかいを出さなければそれでいい。
しかし、ちょっかいは出され、結果が結果だ。
これで業を煮やすなという方が無理難題である。
「蓮、もういいよ。何をいったって、起きたことは変わらないんだから。どーせこいつが中学生達と壊したんだよ」
秘密基地を作ったメンバーの一人が、諦観したように呟いた。
「でも、こいつが一人で隠れていたとなると不自然じゃないか。一緒に逃げれば良かったのにさ。それに、なんかこいつは関係ないような気がするんだ」
断言は出来ないが、少年は加担するにしては、体躯が異なるし、必要性がないと思ったのだ。
ここで、俺の意見にメンバーが同調していき、剣呑とした状況を打破しかけたのだが、先刻から黙って怒りに耐えていた身体が一回り大きいメンバーが当たり散らすように言葉を吐き捨てた。
「……舞宮、お前ひょっとして、秘密基地の情報ばらしたんじゃねぇの? 中学生とこいつと組んで、基地を破壊したくてさ」
「は? そんなこと、俺になんのメリットがあるんだよ」
「知らねーよそんなこと。なら、秘密基地を壊したかもしれないそいつを庇うことねーじゃねぇか。確実にやってないって証明出来てないのによ」
「そうだけど……」
確かに、ごもっともだ。
少年が関わっていないと証明するには、第三の目撃者による本人の潔白である。
シロの証拠無しに無実を訴える敗訴確定裁判とでもいえよう。
だが、このままでは冤罪になってしまうので、どうにか状況を打破せねばならない。
「……この、人は…………何も、してない……よ」
怯えるように俺を庇う少年。
威嚇したメンバーが怖いのか、俺の服の裾を掴んで顔を背けている。
「だから、証拠をだせよ、証拠! 何もなしでお前が関わってないっていえないだろ!」
「よせって!」
埒があかない。このまま言い合いをしても、日が暮れるだけだ。
他のメンバーは何もいえず、どうにかしろといわんばかりに視線を俺に向けてくる。
この時の俺には何もみえてなかった。
言葉で押し通せばどうにかなるのではとしか考えていなかったのだ。行動を実現させることは二の次で。
「……ぼ、ぼくが……やった……」
少年は押し殺した声でそう呟いた。
今思えば、ただの嘘だと見抜けた。いや、当時から分かっていて、知らぬ振りをしていたのだ。中学生を止めようとしてくれたのは容易に想像出来ていた。
「そらみろ、こいつ自白したぜ! 誰がやってないっていってたっけなー?」
からかったメンバーが、今にも吹き出しそうな勢いでつんのめってきた。
「蓮……やっぱり、お前がやれっていったのかよ」
最初は否定してくれていたメンバーも、やがて少年と俺に鋭利な視線を向けるようになった。もう、何を持ってしても、こいつらをいいくるめることは無理だと、俺は悟るしかなかったのだ。
「ち、ちがう……俺はただ……」
「もういいよ。俺たちそろそろ卒業だし、いい機会だったんじゃない」
「まぁ、秘密基地ごっこなんてだせぇよな。暇つぶしにいいかと思ったけど、まさか言い出しっぺの舞宮がぶっ壊すとは思わなかったぜ」
「…………っ」
信頼を得てきた友達に、あっさりと非難される感覚は味わいたくなかった。
それとも、俺が勝手に思い込んでいただけだったのかもしれない。
所詮、友達とは軽い付き合い。自分の中で、これが正しい人間関係であると黙って飲み込む始まりだったのだ。
長くこの場にいたくない。俺は一目散に場を走り去った。遠のいていく罵声を必死に聞かないように。
自宅についてから、冤罪を自ら証言していた少年の姿が脳内に蘇った。
きっと、俺が逃亡してから、いろいろ問い詰められたに違いない。彼は悪くないはずなのに。
初見は影のような存在だと思ったが、間逆だ。正義感が強いからこそ、最初は立ち向かえたのだろう。
俺は、最低だ。仲間だった奴らには一方的な理由で見限られ、かといって、押し問答で状況を改変できず、尚且つ窮地を救わんとした少年には逃走という非礼な振る舞い。
だから、俺は成し遂げられない綺麗事を謂うのを止めた。有言実行できぬならば、初めから謂わなければいい。ある程度の口先で、周囲の空気の足並みさえに揃えておけばいいのだ。
理想を捨て去り、優柔不断で、欠落的な人間となって、独りで我が道をいけばいい。
厄介事には首を突っ込まず、自分が成せる範疇で解決をし、決して奥には踏み込まない。そうすることで、俺は過去を直視せず、闇の中に封じ込めてきた。
だが、俺はパンドラの箱を開けてしまったのだ。
無論、すぐに中身を否定され、また、過ちを繰り返してしまう寸前まできていた。
しかし、今の俺には僕がいる。
まるで、昔の少年のような、芯の強い人間。
俺に、行動をする勇気を与えてくれた。
今なら、今なら。
俺の過去と正面から向き合えるかもしれない。
克服するのだ、全てを拒否してきた闇を。
「……よお、俺。今日を持って、お前はクビだ。これまでご苦労さんっ!」
風景が先程の公園と切り替わった所で、俺は|《虚影の鏡》《エントヴィックルング》を銃剣に変形させた。
なんで公園になっているのか、根掘り葉掘りを榊ヶ丘に訊きたいが、それは後回しだ。
「…………」
同様に、相手も銃剣を出現させ、俺に銃口を向けた。
僕がヴェルト戦のように、加護を施してくれるのか不明な状態で、無闇に突進するの如何なものだろう。
ここは、距離をとりながら弾を撃ち、隙をついて刃で攻撃するのがセオリーだ。忠告された以上、致命傷をさけて通らなければない。
「なら、まずは……《牽制弾》!」
右手に握った銃剣の照準を相手の右脚に合わせ、一発目を撃つ。
放たれた弾丸は、やがて自分に撃たれた同種の弾丸で相殺され、一瞬で消え去ってしまった。
だが、これは予想出来ていたので、追い撃ちをかける為、次なる弾丸ーーー《破弾》を銃剣に装填する。
俺に撃てるのは二種類しかないのは、あくまでも模倣品なので、コピー可能なものは制限されていることを、ヴェルトとの戦いで学習していたからだ。
幸運だったのは、応用という形で弾丸を合成可能であると気づけたことである。
なら、そもそも何故銃剣を召喚出来て、鍛錬したように扱えたのかというと、シャッテン曰く、《念力》使いの肢体に接触することによって(《念力》を使用するにあたって、発現する力が生身を通じて具現化されている為)、《虚影の鏡》が集積した情報を俺の《怨体》に記憶させ、記憶の元で再構成しているからだ。
また、銃剣自体が特殊なもので、完全な《纒器》ではないものの、《纒器》に準ずるものであるから、模倣出来たという。
更に、弾丸として、生身から《怨体》を銃剣に吸収させて変現したものを発砲しているので、事実上《怨体》が尽きるまで撃ち続けられるらしいが、連続して撃てば撃つ程、《怨体》の変現する割合が著しく減少していき、弾丸の効果自体が脆弱するようなので、連発は効率的ではないらしい。
その点を補う為に、銃オンリーではなく、小剣も付随しているのだ。
「《破弾》っ!」
装填した弾丸を彼の胸部に向けて発射し、すかさずコンバットナイフを左手に持ち替えながら彼の正面へ距離を詰めていく。
《念力》発動時のオプションで、身体機能が一時的に強化されているのもあって、あっという間に手を伸ばせば届く距離まで迫った。
「…………」
彼は身動きをとらず、ただ静かに俺を見ていた。
俺が最も接近する瞬間まで。
「なん、だよ……」
胸元に穴が開けられたような激痛が迸った。
彼は俺が一直線に突進してくることを分かっていたので、予め、二発目の弾丸を用意していたのだろう。
空いた穴から出た多量の血液が、自分の服を真紅に染めていく。
「これ、本当に治るんだろうな」
激痛を伴いながらも冷静にいる自分が不思議だった。あくまでも夢の中だからなのだろう。
相手からは仕掛けてこないのが幸いなことに、態勢を立て直す時間は作ることはできた。
「なにか、突破口はないのか……」
考えても埒があかないのは分かっている。しかし、無意味な攻撃は、《怨体》の消耗をするだけだ。
「蓮先輩、もっと相手を見なきゃダメだよ」
「見てるさ! だけど、今の俺にはアイツを崩せないんだ!」
榊が丘のアドバイスも虚しく、中々うまく乗り出せない。何とかヴェルトに放った一撃を再現しようと、念じてみたが、《虚影の鏡》は銃剣の形を保ったままである。
「変われ! 変われよ!」
俺の怒りに呼応することはなく、頭に血が昇って無闇に撃たれた《牽制弾》は相手の同じ弾に軌道をずらされ、左方に外れた。
「く……っ!」
それから暫く銃撃戦が続いた。俺が撃てば、相手も同種の弾を撃ち、銃弾同士が衝突してから、やがて空間から除外されていく繰り返しである。
「くそ、なんで当たらないんだっ」
先程と同じように攻撃を仕掛けようとすれば、相手は器用にかわし、カウンターを放ってくる。
きっと何度やっても同じ結果になりそうだ。
まるで鏡を相手にしているかのようでーーー。
「……かが、み」
鏡。それは己を映し出しているもの。即ち、俺自身であり、一部でもある。
「もしかしたら、あいつは……」
冷静になるため、深呼吸をしてから、俺は《煌弾》を装填し、対象に向けて銃口を構えた。
相手も無言で同様の準備を施し、銃口を俺の額に向けた。
「蓮先輩、ようやく気付いたみたいだね。私の言葉の意味が」
遠方から静観していたリーダーは、一言呟くと、親指を突き立てた。やはり、俺の勘は間違いではないはずだ。
「《煌弾》!」
またしても同時に射出された弾は、お互いの距離の中央辺りでぶつかり、閃光の中へと消えた。
刹那、俺は《虚影の鏡》を正八面体に戻し、更に《念力》を解除した。
目が眩む中、光をかき分けて、相手の元へと駆け寄る。これが吉とでるか凶とでるかはもはやどうでもいい。お互いが両者の視野から一瞬でも消えれば、それで十分だ。
「……見えた!」
ノイズを帯びた俺は《虚影の鏡》を銃剣に変化させたまま静止している。俺が視界に入っているはずなのに、仕掛ける動作を全く行っていない。いや、正確には、もう何もすることはないと訴えかけているのだろう。
「すまん、いきなりクビなんていってさ。いつもありがとうな、俺。もうお前だけに何も負わせはしないよ」
そして、俺は、佇んでいる俺の左手を取り、目を閉じた。再び、昔の自分が鮮明に浮かび上がってくる。口先で評価を得ていた馬鹿馬鹿しい自分だ。
「あの時、逃げずにあの子の無実を証明する手立てをみつけてあげれば良かった。その後悔は消えやしない。でもさ、あまり自分を追い込めすぎちゃいけないよな」
瓜二つの俺は否定も肯定もせず、俺の瞳だけを見ている。その瞳はまた、彼の瞳をみている。
「もしさ、あの子に会うようなことがあったら、ちゃんと謝るよ。逃げてごめんって。今更いったところで許してもらえるかはわからないけどな」
それでも、俺は謝罪しなければならないのだ。それが俺の責務であり、贖罪でもあるから。
傲慢かもしれない。後から手の平を返すようで、あの子にとったら、腹わたかが煮えくり返る思いをするかもしれない。だけれど、伝えなければ、俺は一生ーーー《怨体》になっても後悔するに決まっている。
「だからさ、もう休んでくれていいよ。後は俺がちゃんとけじめをつけるから。俺の代わりに痛みを受け続けてくれててありがとう。今度はもっと楽しい思い出をお前に提供するよ」
そして、もう一度彼の手を握りしめた。すると、手を握られた俺は形状を元の黒いオーラのようなものに変化させ、やがて、俺の体の中へと入っていった。
不思議と、温かいものが体内で循環しているように感じた。
「これで、一先ずは大丈夫だね」
いつの間にか俺の隣に立っていた榊ヶ丘は、俺の手を握り、笑みを零した。
「あぁ。大丈夫だ。昔から溜まってたもんがなくなって、スッキリしたよ」
「卑猥な表現だね」
「なんでそうなるんだ。というか、いちいちそういうお前の方こそ卑猥だろ」
「女の子に卑猥だとか、デリカシーなさすぎじゃない!?」
「まぁそれはおいといて、俺は《虚影の鏡》を使っても飲み込まれる心配はなくなったんだよな?」
おいとくな、と軽くチョップをした榊が丘は仕切り直しを示すかのように咳払いをした。
「そうだね。蓮先輩が余程絶望を己に蓄積させない限り、心配することはないよ」
「よし。ならもう俺は迷わない。明日は確実に霧裂を救ってくる」
「おー、かっくいーなー。蓮先輩って、照れ屋だとか自負する割には、羞恥心の存在を疑っちゃうレベルなんだよね」
「傷を抉らないでくれ……」
これ以上、俺は何も失いたくない。今度こそ、俺は霧裂を助ける。過去からも逃げずに、向かいあう。
「さて、後はしっかり寝るんだよ。お疲れ様、蓮先輩」
「おう。ありがとうな!」
彼女に謝意を伝えると、再度笑みを浮かべ、《念力》の解除キーのようなものを唱えると、景色に亀裂が入り始めた。
そして、公園の風景は暗闇へと戻っていき、生成された空間はガラスが砕け散るように四散し、俺の長い夜は終わったのだ。
意識が途切れる間際に、誰かの声が聞こえたような気がした。
▲▲▲
「そうか、《陽因子》の少年がヴェルトを退けたのか」
「左様で御座います。やはり、ヴェルトはまだ任務に着かせるのは早熟ではないのでしょうか?」
ウンファルはエーヴィヒカイトのとある部屋で《口裂け女》捕縛作戦の終了を報告していた。
ヴェルトは意識を失い、《怨体》の回復を促進する専用カプセルの中へ運び込まれた。捕らえた《口裂け女》もとい、霧裂千尋は囚監施設の中で《怨体》拘束施術を受けている頃だろう。
「いや、彼には引き続き任務にあたってもらう。私は彼を早熟だとは思えないのだがね。それに、作戦が失敗した訳ではないのだから、追求はする必要がないだろう。それでは不満かね、ウンファル」
「滅相も御座いません。ボスの御考えは我々下々を導く結果にきっとなりましょう。報告は以上であります」
「うむ、ご苦労であったウンファル。休養をとるとよい」
「ははっ、仰せのままに」
ウンファルは部屋を後にすると、地下行きのエレベーターに乗り、扉が閉まると舌打ちをした。
「全く、ボスも甘い。なぜあの人は新しいボスをアイツにしたんでしょうな」
間も無く扉が開き、錆びついた鉄くずが辺り一面に転がり落ちている廊下を真っ直ぐ歩いていく。
突き当たりの鉄格子の檻が見えるや否や、彼は口角を吊り上げた。
「フフフ……。まぁ、私は私の好きにやらせてもらうだけだ。折角良い素材を手に入れたのだから。試さない訳にはいかないね」
ひんやりとした空間に、甲高い嘲笑だけが響き渡っていた。
▲▲▲
「……眩しい」
カーテンの隙間から漏れた日差しを感じ、重い瞼を渋々開け、スマホの画面を見ると、時刻は午前六時を示していた。
榊々丘の能力《強制写像》で、己の《念力》の闇と向かいあった俺は過去の出来事から逃げないことを誓い、眠りについたのだった。
あれから特に実践的な訓練をすることもなく、睡眠を促されてしょうがなく寝ることにしたが、果たして本当に良かったのだろうか。
今夜までに《念力》の練度を高めなければ、再度返り討ちに遭ってしまうのが濃厚だろう。
いや、時間はまだあるか。きっと、ジークムントの面々がレクチャーをこれからしてくれるに違いない。
ベッドから上半身を起こし、腕を上げて伸びをし、軽快に身を乗り出して洗面所に向かった。
「やけに体が軽かったな。ちゃんと寝たからなのか、己を見つめ直したからなのか……」
いずれにせよ、満身創痍では戦うことなど到底不可能なので、胸を撫で下ろした。
榊ヶ丘によると、ジークムントのビルの最上階には大浴場があるらしく、自由に使ってもいいとのことなので、ありがたく使わせてもらおう。
それにしても、よく最上階に大浴場を作ったものだ。高所に設置して、ビルが崩壊したりしないのだろうか。大抵大浴場というものは、一階や地下などにあるもののはずだ。
『ふぁーあ。そんな細かいことなんて気にしなくていいじゃん』
「それもそうだな。大丈夫なもんは大丈夫なんだろう」
『早く入って疲れをとりたいよー』
「なーに年寄りみたいなこといってんだよシャッテ……」
『んー? どーしたの?』
どうしたもこうしたもあるものか。
自然な流れに危うく騙されてしまうところであった。
「お前、なんで夢の中の時、途中からいなくなったんだ?」
自分との戦いの際、《怨体調和》をしてからというもの、今に至るまで俺はシャッテンの声を耳にしていなかった。
『あー、あの時ね。んーとね、いろいろあって、席を外してたんだよ』
「人が危うく死にかけるという時に!?」
『誤解しないでよ。ちゃんとヴァールに有力な情報を収集してたんだから!』
「有力な情報とは?」
『ヴァールがヴェルトとの戦いで顕現したヴァール曰く剣なるものについてだよ』
「っ!?」
確かにあの時は白菫色の剣を手にしていたはずだが、シャッテンは認識をしていなかった。
脳に直接訴えかけてきたように感じたあの済んだ声。
ーーー斬る?
そういわれた俺は、不意に刀身が消えた剣を振り下ろしたのであった。
『多分、ヴァールが聞いたっていう声の主は《虚影の鏡》だと思う』
「え? 《虚影の鏡》がか? いやいや、そんなばかな。だって、その声は女の子みたいな感じだったぞ。擬人化じゃあるまいし」
そう俺が呟くと、シャッテンは不機嫌そうに返答した。
『ねぇヴァール。やっぱり俺って主人公補正全振りされてるよね?』
「そうだといいけどなー」
シャッテンが明らか様にイライラしているからか、罵詈雑言を捲し立ててきたが、無視して、到着した大浴場の暖簾を潜った。
広さ的には一般的なホテルや旅館の大浴場といったところか。脱衣所には見慣れた木製のカゴがずらりと並んでいる。こんなにカゴが必要なのだろうか。
カゴに脱いだ服を入れ、全裸になった俺は浴室へと入った。辺りを見渡し、俺だけしかいないことを確認すると、すくったお湯を体にかけて、子供のように飛び込んだ。
「ぷっはー! ちょー気持ちいい!」
一度はやってみたいとは思っていたが、当然、普通の銭湯では周りの客に迷惑がかかる行為なので、謹んでいたのだ。
それから全身に浸かり、熱が体の隅々まで行き渡っていくの感じていた。やはり、風呂は良い。
実は体に良くないなど諸説ある朝風呂であるが、そんなことはどうでもいいのだ。体がほぐれていく感覚が本当にたまらない。
『ちょ、ヴァール! そんな大胆に足を広げないでよー。恥ずかしいし、はしたないよ!』
何故か慌てふためいているシャッテン。広い風呂で誰もいないのに、足を広げない愚か者がいるのだろうか。いやいない。なんて、反語というものは素晴らしいものなのだろう。昔の人は大変利用価値のある言語体系をつくったものだ。是非湯船で一杯飲みながら制作秘話を訊きたい。
『ヴァールはまだお酒を飲める年じゃないでしょー。それに、そこまで昔の人について興味ないくせに』
「まーた俺の思考を……」
『古典の授業中はぐーすか寝てる人が、とても理解してるとは思えないなー』
「お、おやー?」
そうだった。シャッテンは俺が明確に知覚する前からずっと俺を知っていたのだ。となると、今までしてきたことが全部筒抜けているのだろう。
そう思った瞬間、全身が冷えていくように感じた。お湯に入っているはずなのに。
『そんな青ざめた表情しなくても安心して。僕は思春期の男の子がすることをいちいちいったりしないから』
シャッテンは、顔を紅くすると、手で顔を覆って距離をとった。その行動が、俺の何かを粉砕した。
「あー! なにもしらないー! 俺は至って健全な男子高校生だしー! 別にやましいことなんてあーりませーん!」
『ここ、境の間じゃない……よね?』
俺の挙動のおかしさを見てか、シャッテンは溜め息をついた。
そういえば、《怨体調和》以降、意識をすると、シャッテンの姿が現実でも見ることが可能になった。どうやら、《怨体》の結び付きが強まり、お互いの視覚に映るようになったらしい。《怨体》と視力もとい脳の機能にどのような因果関係があるのか知らないが、少なくとも、《念力》使いには、脳と《怨体》に何らかのパスがあるのだろう、と都合よく解釈することにした。ちなみに、お互いが知覚できるだけであって、他人には見えない事実は変わらない。
という訳で、今のシャッテンの姿が空中に見えるのだが、何故かバスタオル一枚だけしか身につけておらず、視線のやり場に困る。
「デジャヴ、なんだよなぁ……」
『ヴァ、ヴァールっ!』
俺は悪くない。悪くないはずだ。
この件に関しては、関与してないのだ。俺がバスタオルを巻けなんて一言も発していない。
そもそも、バスタオルということは、お湯に入ろうとしたのだろうか。というより、虚実体は入ることは出来るのだろうか。
真剣に考えを巡らせようとした、その時であった。
浴場内に、ドアが開く音が響いた。
要は誰かが入ってきたということだ。そして、俺はここで、重要なことに気がついたのだった。
「なぁ、シャッテン。ここ入る時の暖簾って、一つだけだったよな」
『う、うん。それに、入り口は一つだけだよ』
つまり、この情報から導かれた答えはただ一つである。今、俺が入浴している大浴場は男女兼用ーーー即ち、混浴であるのだ。
引きかけた冷や汗が、また出てくることを抑える技術は俺にはなかった。