《口裂け女》2
「……よし、大丈夫だ」
俺は妹がリビングに入ったことを、扉を閉めた音で判断した。
「ふぁぁっ。ビックリしましたぁ」
「……っ」
湯船の中から、霧裂が勢いよく飛び出した衝撃で、
湯渋きが飛び散り、一部が俺の右目に侵入する。
「あっ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっと入っただけ…………って、霧裂!? 前! 前!」
「前がどうし……ひっ!?」
目を開けると、霧裂は前のめりになって俺を覗き込む体勢になっていた。
しかも、体に巻いていたタオルがはだけかけて、胸部が露出する寸前だ。
「みっ、見ないでくださいいぃっ!」
コンマ数秒で状況を判断したのか、俺に背を向けて立ち上がった。
しかし、起立する事が現状をさらに悪化させる要因になると結論に至らなかったようだ。
中途半端に巻いていたタオルが、自ら意志を掌握したのか、重力に乗って湯の上に着地した。
『………………』
霧裂は声を挙げない。
大声を出すと、妹が駆けつけてくると分かっていたからなのだろう。
俺はというと、声が出せなくなる程、彼女の後ろ姿に見とれていた。
信じられないかもしれないが、性的興奮はなく、壮麗なる後ろ姿に感銘を覚えていたのだ。
どのくらい釘付けになっていたのか。
目を奪われてる暇など、とうに過ぎ去り、我慢していた霧裂が呟いた。
「……蓮君。今すぐここから出て行って下さい」
「……はい」
いつの間にか、全身が冷え始めている。
霧裂の冷徹な声が全てを物語っていた。
▲▲▲
世の中はうまくできている。
脱衣場に綺麗に折り畳んでいた見知らぬ服と下着に気づかない愚か者はいない。
乗り切ったと確信していた俺は彼女に着替えてもらう間に、妹に更なる言い訳を用意して、リビングに向かった。
当然、ドアを開けた先に、今まで見たことのない笑顔を作って待ち構えていた妹がいて、俺は下らない言い訳をする必要があるみたいだ。
妹は右手に下着、左手に上着をもちながら、論弁を始めた。
「お、に、い、ち、ゃ、ん。これはどういう事な訳?」
「い、いやぁー、俺もお年頃だろ? そーいう性癖が覚醒してもおかしく……」
「性癖? へぇ、お兄ちゃん女装趣味があるんだ。これはみんなに報告しないとなー。うちの兄貴は使用済みの女性物を平気で着用する変態クズ人間ですって」
「お前は俺を社会から追放する気かっ!?」
「だって、やってることが犯罪レベルじゃん。そんなに入獄したいの?」
「人を入所志望者みたいにいうな! どんだけ刑務所に入りたいんだよ」
「そのほうがタダ飯食べれるし、いいんじゃない? 税金まで盗む底辺野郎共ばっかだけど」
「今すぐ刑務所いって謝罪してこい! 更正を試みる人もいるんだぞ!」
「でさ、誰な訳?」
「そりゃ、清楚で可憐な女性で…………あ」
見事に、会話の主導権を駆使して、俺の吐露を誘発させたものだ。
まさか、俺が先刻やったことが、こうも早く返されるとは。
「へぇ……」
妹の口は笑っている。
妹の目は笑っていない。
このサインは、完全に激怒している証拠だ。
「そ、そうだ! アイス! アイス買ってきてやるよ! お前の好きなチョコミント味のな! では、いって……」
「待って、いや、待ちなさい。買い物に行かなくて良いから。その代わり……地獄に落としてやるわ」
そして、二つ目のサイン。
命令口調となり、兄である俺を見下し始める。
それはもう、人格どころか、人が変わったように。
加えて、なぜか格闘技など一度もやったことのないのに、見様見真似所の騒ぎでない、強烈な一回転ローキックを俺に叩き込むのだ。
華奢な体のどこに力が有り余っているのだろうか。
必ず決まって、すねをねらいに絞り、毎回毎回激痛が伴う。
「いっ、たぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
思わず涙目になってしまう程痛い。非常に。
「……あれ? また私……」
蹴りを入れた後は、我に帰ったかのように、悲痛な顔を見せる。
人を傷つけてから嫌な顔を毎度するならやらなければいいのにとつくづく思う。
「で、誰な訳?」
俺の妹───舞宮愛美は腕を組んで、もう一度問うた。
▲▲▲
「はあぁ…………これからどうしましょう」
蓮を退出させてから、もう一度シャワーを浴びた私は、鏡越しに映る自分に語りかけた。
この世に生きる人間の感情の中に、《怨体》という一部の者に認知されている不可視の意識を持った生命体がひっそりと存在している。
《怨体》は赤子の頃から人間の感情にいるのだが、別段《怨体》自身が人間に危害を加える事はなく、特に何も心配する事はなかった。
しかし、現代になって、《怨体》が特殊な条件下で活動を活発化させ、あるものを誘き出す引き金となっている事に気づいたのだ。
人間を憎み恨み妬み蔑み、あらゆる手段を用いて、人間に危害を及ぼそうとするもの達。
それは、一度は聞いた事があろう、悪霊以外の他にない。
悪霊にも諸説あるのだが、一番有力なのは、この世を去った人間達の、現実世界への心残りが基盤となっているのだ。
よくある世間を騒がせる心霊写真や、ホラースポットなど、様々な場所で見受けられている。
悪霊は人間達を苦しませたいが故に、この世に舞い戻ってきた。
だが、直接的に苦しみを与える事が出来ず、鬱憤がたまりにたまり、やがてとうとう人間達に自らの手で苦しみを味合わせる方法を見出してしまった。
それが、《怨体干渉》という、《怨体》に特殊な波を送り、反応した《怨体》が人間の感情から飛び出し、悪霊が乗っ取る事によってこの世に実体化する方法だ。
《怨体》は人間には全く効果を表さないが、《怨体干渉》で出現した悪霊には、シンクロ状態によって、膨大な力を授ける脅威的なものである。
《怨体》に侵入した悪霊は、そのまま形を自由自在に変えて、人間の中に紛れ込んで人間を襲撃したり、侵入した《怨体》の保有者の体を乗っ取り、暴れたりなどしかねないのだ。
どうやら、トキソプラズマ感染症の症状に類似しているようだ。
乗っ取られた人間は、性格が変わってしまう。
温厚な性格は、想像出来ぬ暴力的な性格になる。
まだ実質的な被害が出ている訳ではなく、間接的に人間達を脅かしているのだが、時間の問題で、いつ悪霊が人々を襲い始めてもおかしくない。
そこで、万が一、人間に襲いかかろうとした時に、対処できるような力の準備が叫ばれた。
といえども、非存在なるものに立ち向かう術など、人類が持ち合わせている訳ではない。
お祓いや、神頼みも、全く効かないと断定されている。
一部の宗教法人が対策を施したとの噂が伝播していたが、どうにもあてにならない。
では、為すすべもなく、我々人間達は悪霊の思いのままに、下手すれば命を奪われてしまうのか。
絶望に頭を抱えていた研究者たちに、ある吉報が舞い降りた。
悪霊に対抗できる、十分な力を備えている人間がいると。
《怨体》は通常、人間に無関係なのだが、人一人の平均的な《怨体保有率》を遥かに上回る人間には、なぜか高密度のエネルギーを供給している。
これにも諸説あるのだが、しっくりくるのが、善霊による加護らしい。
大半は悪霊ばかりなのだが、たまに、人間に幸運をもたらす善の悪霊が表れるということだ。
善霊の加護を受けている人間は悪霊と同等以上の力を持ち、力によって悪霊を葬れば、《怨体》を失い、この世から、消滅するとともに、二度と現実に干渉出来なくなるといわれている。
そんな希望の力を宿している人間の一人が、私なのだ。
「なんて《口裂け女》の件に関して答えれば…………はわぁぁ」
気の抜けた声を出して、脱衣場に戻ると、置いてあった自分の服が下着事消え去っている事にすぐ気づいた。
「私の……服がない? えぇっ」
バスタオルを体に巻いて辺りをくまなく探したが、下着すら見つからなかった。
「まさか……蓮君が……いや、そんな筈は……」
蓮の妹が風呂場に現れ、蓮が私を咄嗟に匿ったが、違うハプニングの為に、蓮を追い出した。
その時に、さり気なく盗っていったのだろうか。
私は真実を確かめるべく、裸体にバスタオル一枚で脱衣場を飛び出し、リビングに向かった。
「蓮君っ! 私の下着を返して下さいっ!」
ドアを開けて、確認もせずに、とにかく叫んだ。躊躇などせずに。
「………………えぇと、霧裂さん? それは誤解を招くというか、そもそも俺は盗っていないのだけれど」
蓮は私を一瞥するなり、すぐにそっぽを向いて、会話を中断した。
「むぅ、怪しいです! 私をバスタブに押し込んで、変な格好で入浴してから、えーと……あ、さっきのことは忘れてくださいぃ! それで、すぐでましたよねっ! その時に……あれ?」
私が話を区切るのと、もう止めてと、蓮が情けない声を出したのは丁度だった。
蓮の隣に鎮座する少女が私を豆鉄砲をくらったかのように見つめていたからだ。
沈黙が空間を支配するなか、先陣をきったのは、少女の方だった。
「な、なななななななっ…………なんじゃわれーっ!」
人差し指を私に向けながら口をぱくぱくしている。
「え? お兄ちゃんがあの人を変な格好で窮屈なとこに押し込んであんなことや、こんなことを……」
頭から湯気が出ているように見える程、赤面しているのが分かる。
「…………負けた……ぅぅ」
それから我に帰ったのか、私を見たかと思うと、すぐにしおらしい声を出し、力尽きたかのように床に倒れ込んでしまった。
「あ、あのぉー…………大丈夫、ですか?」
私はとりあえず、何かに負けてのびている蓮の妹に声をかけたが、何も返事がない。
すかさず、蓮が彼女に返答を求めた。
「おい、しっかりしろよ。寝るにはまだ早いぞ。生きてたら返事をするんだ」
しかし、蓮が話しかけていたのは床に寝ている妹ではなく、彼が座っているソファーに置かれていた可愛らしい人形だった。
「……蓮君。それは、妹さんではなく、人形さんですよー」
「そんなことはないはず。なぜなら声は聞こえてるはずだし。振り向かなくたってね」
「…………?」
そこで、現在の自分の格好を振り返ってみて、蓮が私から視線を外している原因が判明した。
下着を取り返しに飛び出してきた私の外装は何とも大胆に、白地のバスタオルを雑に体に巻いていた事もたたって、いろいろ強調されていた。
豊かな胸部の二つの膨らみの形状と上半身から下半身にかけてのボディラインは、よくモデル顔負けのスレンダー体型だといわれているが、私は一度も思ったことがない。
栗色の髪から滴る水は私の体に沿ってゆっくりと下降しながら、やがて吸い込まれるかのように、谷底へと姿を消す。
彼は先程とは打って変わって、ほっぺを紅色に染色している。
つまり───。
「ま、また……。れ、蓮君のすけべ! ムッツリ!」
自分も、また湯船に浸かった後みたいに顔を赤らめると、駆け足で脱衣場へと戻った。
「……これって、俺が悪いのか?」
不可抗力な視線の誘導的な反射は致し方ないと、蓮を後押しする者は誰一人いなかった。
▲▲▲
「……はい。彼女はこの街に姿を現しました。至急、座標を特定します」
遡ること数時間前、蓮が《口裂け女》と邂逅した時のことだった。
『ご苦労。だが、あせるでない。既に我々の手のひら上で踊っているようなものだ。《陽因子》だろうが、関係あるまい。───そうだろ? ヴェルトよ』
ヴェルトと呼ばれた、ビジネススーツを身につけ、痩せ型の長身の男は相手の対応に不満を抱いたのか、小さく息を飲んだ。
「ですが、初期段階の彼女を相手にすれば、わざわざ精鋭部隊を編成せずとも、私一人で……」
『確かに君は我が組織の中でも秀でた手練れであることは上も承知している。しかし、今は彼女の最後の晩餐を楽しませてあげようではないか。クク……』
「…………はい」
夕闇が近づく空を一瞥すると、ヴェルトは小さくそう返事した。
彼は帰還するために、自分がいるポイントから帰還点までのルートを再確認しようとしたが、丁度その時、腕にセットした衛星通信機から渋い声が聞こえた。
『……いや、待て。今入った情報によると、その町に彼女はいないことになっている。本当に見たのかね?』
「はっきりと確認しました。あれは紛れもなく彼女に間違いありません。《怨体》のパラメータの情報とも一致していますし、一人の男性に声をかけるのも然と目撃しております」
見間違えるはずもない。
特徴的なコスチュームに身を包んでいるなんて、他にはいない。
『そうか。ならば、もう一つ、君に特別任務を与えよう。───君が確認した彼女を捕らえ、連れて来なさい』
「……はい、分かりました。至急捕らえて参ります」
『融通がきかぬならば、多少力を行使しても構わん』
「了解。現場へ参ります」
通信を終え、彼はネクタイをもう一度きつく締めてから、胸元に閉まっていたサングラスをかけて、地上へと降り立った。
「……《口裂け女》は必ず俺が滅する」
▲▲▲
夕食を済ませた後、俺は霧裂に妹の介抱をお願いしてから、一人自室へ入った。
客人に妹を預けるのは、あまりよろしくないが、快く引き受け入れてくれて、「大丈夫ですかー?」と、妹に膝枕をしながら囁いている。
当の本人は、どうやら悪夢をみているのか、魘されているのが窺えたが、大抵下らないことなので、踵を返したわけである。
「……さて、この件について、問いただそうではないか」
俺は自分以外だれもいない部屋に向かって独り言を呟いた───正確には、受話器部分にむけて、話を切り出した。
「タイミング良すぎるとおもったけど、やはりお前の仕業かよ、大沢颯斗」
『おいおい、何のことか知らんけど、滅相もない気がしてならないんだが。それに、どうしてフルネーム? まるで誰かに俺を紹介し……』
大沢颯斗。
俺と同じクラスの生徒で、昔からの腐れ縁というやつで、小中高が全て同じクラスである。
昔から、都市伝説については誰よりも情報が長けていて、皆からは《歩く都市伝説》と呼ばれている程なのだ。
「お前が《口裂け女》の画像送ったろ? んで、その送られたタイミングが丁度、そいつに会ったんだよ。どうせ、また都市伝説ごっこだろ? もういい加減に子供みたいな事止めたらどうなんだ」
『………………』
的中して何もいえないのか、颯斗は俺の問に答えず、ただ押し黙っていた。
「なんだよ急に黙りこくって……。あぁ、それともうひとつ。用意周到に霧裂千尋っていう《口裂け女》の容姿に似せた女性を呼んだんだろうけど、あれ、メイクってすぐ分かったぞ。やるんならもっと徹底的にやって……」
受話器の向こうから、がさがさと音がしている。
『……蓮。今すぐいく』
「え、今……って、おい! もしもーし?」
普段の颯斗なら、ケロッとして、なんだもうバレたのか、と苦笑をしているのだが、今回は何かが違う。
彼にとって、不都合なことが生じたのだろうか。
「───いや、それより、今は一階に霧裂が……」
俺は思慮にふけようとしたが、颯斗が我が家の近辺在住であることを思い出したが、時既に遅し。
「おじゃましまーす。蓮の部屋行きまーす」
颯斗は俺の家に到着すると、真っ直ぐ俺の部屋に入ってきた。リビングに顔は出さなかったようだ。
「ど、どうしたんだよ。そんな息切らしてまで駆けつける理由なんてないだろ」
「それが、ある、んだ、よ……」
茶髪をツーブロックに仕立て、祖母がアメリカ人であるがゆえに、スカイブルーの瞳を持っている。
髪は、茶色に憧れを抱いているが故に、染めているという。
颯斗は理知的な印象を醸し出す眼鏡を外して右手に持ち、右腕を壁に押さえながら息を整えている。
そこまでして、ネタばらしをしたいのだろうか。
漸く息を調えた直樹は眼鏡をかけるとすぐに、真剣な目つきで話し始めた。
「いいか、よく聞けよ蓮の字。お前が遭遇した《口裂け女》もとい、その千尋って子とはなぁ、俺と一切関係なんかないんだ。要するに、俺は今回何も関与していないし、確かに、蓮が遭遇した時にたまたま俺が画像を添付したかもしれないが、俺は何もしていないんだ」
「なんだって……?」
一番仕掛けてきそうな人物が今回の件にノータッチであることは、とても考えられなかった。
だとすると、どうして彼女がそのような風貌で街をふらついていたのか。
「颯斗は一度たりとも千尋をみていないし……」
颯斗が送信してきた写真はネットから徴収したのか、おもむろに口が裂けている女性のおぞましき姿はまさに《口裂け女》である。
きっと何かを仕掛けようと前振りとして画像を送ったに過ぎないのだろう。
ふと、沈黙が膠着している中、颯斗に視線がうつると、彼は俺の視線に気づいて「すまんな、お手上げだ」といわんばかりに両手を挙げた。
はが関わっていない以上、いくら訊いても野暮なだけであるのは目に見える。
「急に呼び出して悪かった。なんかこの件について分かったことがあるなら何でも教えてくれ」
「おう。都市伝説だからな。帰って検索してみるわ」
颯斗は手短に話を済ますと、ダッシュで俺の家を後にした。
「さて、あいつは蘇生したかな」
俺は妹の様子を見る為に、リビングへ足を運んだ。
「霧裂、千尋か。まさかこの町に姿を現すとはな」
颯斗は一言言い残した後、俺の家を一瞥すると、再び歩み始めた。
「あ、終わりましたー?」
リビングの戸を開けると、待ってたといわんばかりに、千尋が駆け寄ってきた。
「あ、あぁ。それより、妹の様子はどうだ?」
「蓮君が部屋に向かった後に、一度目は覚ましたんですけど、私を見るなり、また寝てしまいましたー」
「いつまで引きずってんだ……」
それは、知らない美女が眼前にいたら、びっくりするが、ショックを受けすぎである。
「とりあえずほっときゃ起きるさ。それより」
「私のこと、ですね」
霧裂は話したくないのか、逡巡している。
「話したくないのなら、別にいいけどさ。人間、一つや二つの秘密を持ってるもんだし」
「蓮君……」
「無理にいいたくないんだろ。そこまで俺は追求しないよ」
「でも、蓮君には知ってもらっていた方がいいかもしれません。けれど、今から話すことを知っててしまったら───」
あなたは今までの日常にもどれません。
「え……?」
彼女が打ち明けようとしている秘密が普通ではないということなのだろうか。
一度はこんなセリフに酔狂したことがある。
大抵、文字通りの結果となってしまうのだが。
「ですから、今蓮君には二つの選択肢があります」
「選択肢って……」
「私の話をきき、蓮君の日常を壊してしまうか、それとも、今すぐ私を追い出すことです」
「……っ!? 何をいってるんだよ!」
「どうして怒るのですか? 私は蓮君に迷惑を掛けているんですよ」
「そりゃ、お前が《口裂け女》のふりしてるとは知らなかったし、それも訳があるんだろ。だから、迷惑だなんて思ってないさ」
「綺麗ですね」
「何がだよ」
「あなたはそう私にいってくれました。だから、私も返したんです。上辺だけの台詞が綺麗ですって」
「お前……俺がいったこと全部がでたらめだっていうのか?」
「でたらめじゃないですかぁ。私の事、何も知らないのに」
霧裂の口は笑っていた。
しかし、瞳は何かを必死に耐えているような感じだ。
「確かに、俺がいうことは、所詮綺麗だよ。でも……」
「それもですよ。駄目なんです。あなたは私の心が理解できない。あなたの心遣いには感謝しています。おかしな私を一時的にでも匿ってくれたことも。でも、私は繰り返してしまうところでした。無責任な私の我が儘であなたを困らせてしまう」
「霧裂……」
「選択肢、なんて偉そうなこといってしまいました。最初から答えは決まってますもんね」
「あ、あぁ! 俺はお前を───」
「───さようなら」
霧裂は悲しそうな表情を浮かべて俺に背を向けた。
俺は、すかさず彼女の腕をとったが、すぐに振りほどかれてしまう。
「おいっ! 待てって!」
「離して下さいっ! あなたは私に関わってはいけない……。人を……人を殺めた私なんかにっ」
「人を…殺した?」
「やっぱり、何も知らないでください。忘れてください!」
俺の制止を振り切り、霧裂は家を飛び出していった。
涙の粒を流しながら。
イケメンなヒーローならば、すぐに追いかけるに決まっている。
しかし、俺には出来なかった。
彼女が告げた言葉が脳裏を過ぎり、足が竦んでいたのだ。
要するに、俺はただの偽善者である。
言葉ではいくらでも語れる。
恥ずかしくても、楽しければ忘れてしまう。
でも、有言実行は出来ない。
言葉の責任なんて、考えたことすらなかった。
語れば、救える。
その定義は儚くも散ってしまった。
「俺はどうしたら……」
膝をつき、玄関の扉を朧気に見る。
待っていれば、きっと戻ってくる。
絶対に。
『いいこと教えてあげる。絶対なんてないから』
どこからか、他人の声が聞こえた。
「……誰だよ。お前は誰なんだよ!」
返答はない。
代わりに、嘲笑が返ってきた。
『お前が一番分かってるはずだよ? 分かってる癖に』
「知らねーよ……」
『あーあ、頑なに認めないのか。認めなって』
「うるせーよ……干渉するなよ」
『と、いわれてもなぁ。僕は好きでこんなとこにきたんじゃないし、そもそもお前がよんだ。強い自分が欲しいって』
「…………」
何日前からか、俺は不思議な声が聞こえるようになった。
そいつは、明らかに俺とは対局で、大雑把過ぎる。
まるで、俺が望んでいる自分のような存在だ。
最初は幻聴だと思った。しかし、意志を持っているのだ。
姿形は見えない。だが、はっきりと存在している。
「……お前は、誰だ」
『僕は、お前だよ。ただ、この世界の僕じゃないけど』
「こうやって話をしてるだけでもおかしいのに、お前は俺っていうのか。バカな話だ」
つくづく、一人芝居のような狂言をしているような気分で、自分が愚かに成り行くの感じていた。
『で、追いかけなくていいの? 霧裂さんだっけ? 彼女、このままだと危ないよ』
「……なんでわかるんだよ。解るわけ無いだろ」
先読みだとでもいうのだろうか。
『先読みねー。まぁ、そんな所かな。お前がいる世界じゃ』
「よ、よまれた……!」
口に出していないはずだ。まさしく、思考を読まれている。
「なんなんだよ本当……。世界世界って、お前は違う世界からきたっていうのか?」
『だからいったじゃん。僕はお前の世界にきたって。僕は、お前がいる世界と平行している所からきたんだよ』
「は? そんな話あるわけないだろ!」
言葉だけなのに、妙に圧迫感がある。もしかしたら、本当に。
『まぁ、ウソだけどね』
「な、お前……!」
思わず声を荒立たせてしまった。妹に聞かれていたら、「独り芝居?」と、バカにされているところだ。
『ま、細かいことは今は抜きで、彼女を追うことを考えよう。先読みは出来ないけど、この流れは女の子が危ない目にあうって相場が決まってるんだよ』
「相場って……。でも、追うにしても、一体どこに行けばいいんだよ」
『うーん、そうだねぇ……じゃ、初めて会った場所に行ってみたら案外いるかも』
「随分楽観的だなお前」
『これでも真剣なんだよ。ところで、お互いお前って呼び合うの止めない?』
「今はそれどころじゃねぇだろ」
『不便じゃん。ねー、なんか決めよう!』
確かに、融通の利かない呼称ではある。だからといって、一刻も争うかもしれない状況で、優雅に名前を決めていてよいのか。いや、よくない。
『じゃ、僕は……シャッテン』
「シャッテン? なんだよそれ」
『で、お前はヴァール!』
「……? 意味が分からん。というか、呼び方勝手に決められたんだけど!」
『決まりね! さぁ、いこうヴァール』
「だからどこに……って、例の十字路か」
俺は声の主───シャッテンが促す道へと向かった。
歩いて十分強、《口裂け女》もとい、霧裂千尋と出会った場所に到着した。
とっくに夜は訪れており、どこかの家からカレーの香りがしている。
一人十字路の壁に寄り添って立っているので、通行人から奇抜な視線が注がれる。
「流石にいないか。ここじゃないとしたらどこなんだよ」
俺はひそひそと目の前にある空間に向けて言葉を投げかけた。
『なら、ヴァールの家までの途中に何かある? 例えば、公園とか』
「公園ならあるぞ。って、おま……シャッテンはずっと俺の近くにいたんじゃねぇの?」
すると、女々しい声をあげて、シャッテンは応答した。
『も、もー。大胆なんだねヴァールって。それくらい積極的にいこうよ。女の子に向かってさ』
「はぁ!? なにいってんだよ!」
『なにって、積極的に霧裂さん捜しなよってことだよ? 何か勘違いしてるのかな?』
「こいつ……!」
まんまと引っかかってしまったようだ。
何故か、シャッテンは嬉しそうな声色である。
「とりあえず、公園にいってみるか」
それから、数分後、小規模な公園に着いた。
遊具はブランコとすべり台、それと、ジャングルジムといったところだ。
昼間や、休日は、よく元気な子供たちの姿をみかけるのだが、流石に今は静寂が場を支配している。
「おい、誰もいねーよ。もうこの町をでてるんじゃ───」
『しっ! 誰かくるっ。早く隠れて!』
シャッテンは俺よりも先に誰かが来るのを察知していた。
だが、辺りを見回しても、特に誰かが来る訳でもなく、変化は見受けられない。
「別に誰もいないんだから大丈夫だろ。気のせいに違いない」
『御託はいいからさっさと隠れてよ! 嫌な感じがする』
「また嘘だろ、どうせ」
『違うよ! これは本当! 同じ匂いがするんだもん!』
「同じ匂い……?」
匂いもなにも、まず、シャッテンの存在自体が意味不明であるので、いわれても理解出来ない。
『この匂い……まさか!?』
シャッテンはあるまじき事実を知ったかのように、顔をしかめた───ような気がする。
「なぁ、町の外にいってみれば何か───」
『あぁ、もう! 仕方ない!』
痺れを切らしたのか、シャッテンは一瞬沈黙すると、何かを唱え始めた。
何をいっているか、理解出来ないまま、詠唱が終了する。
すると、突然、眼前の空間が発光し、そこから俺に向かって一筋の光が伸びてきた。
「…………!」
光は俺に何もさせるはずがないまま、ただ、俺の体を貫いた。
痛みは感じない。しかし、全身の力が急激に抜け、俺は意識を失った。
それから、意識を失っているはずなのに、妙に心地よい感覚が俺の体細部までわたっていることに気づいたのはすぐである。
全身を暖かい毛布で囲っているような感覚に近い。
常識的に考えれば、夏前の気温と照らし合わせてとても暖かいと感じるのは余程の冷え性か、痩せ我慢か、頭のネジが狂っているかだ。勿論、ネジの取り替え工事を施工する必要がないと信じたい。
ふと、自然に瞼が開いた。
視界には何も反映されていない。公園の遊具や、地面、もっといえば、自分以外が存在していないのだ。
無という表現で事が足りるのか分からない。
だが、呼吸が可能であるということは、空気は存在し、視覚が機能しているのだから、光があるのだろう。
「初めまして、かな」
思考に気を配っていたので、声が聞こえたのは幻だと思った。これがデジャヴなのか。
しかし、いつの間にか、真正面に一人の人間が起立しているのではないか。
容貌は、少女の体躯で、奇妙なドレスを着ている。
ドレスは、俺から見て右が黒色、左が白色で、元々一枚ずつあったドレスを半分結合したもののようだ。
ストレート状の髪は銀色であり、腰くらいまでの長さまで伸ばしている。
整った顔立ちで、何人もの男を美貌とスタイルで虜にしていても不思議ではない。
だが、どちらかというと、清楚を窺わさせるお嬢様みたいだ。
雰囲気からして、ただ者ではない気がする。
俺は何かを呟こうとしたが、言葉が出ない。
代わりに、少女が銀髪を揺らして俺に接近し、鼻先が触れそうな至近距離で、まじまじと俺の顔を観察してきた。
俺はといえば、心臓の鼓動を加速させて今にも転倒しそうだ。
息遣いと甘い吐息が、俺をどうにかしてしまいそうなのだから。
少女、と表現したが、全体的にスレンダーな体型なので、俺と同年代か、それとも年上くらいの女性と相違はない。
少女は二回、俺を凝視してから、飛び退き、満足したように首を前に振った。
「どんな奴が僕なんだろうって思ってたけど、案外イケてるね。だけど、もうちょっとおどおどしないで欲しいなっ」
僕と。
少女の唇から、そう出たのだ。
気さくな様子や、からかうような言動。
「お前、まさか───」
俺は、少女の一人称と、聞き覚えがある声から少女を特定した。
「うんっ。僕は俺だよ。ヴァール」
「シャッテン……なのか? どうして現実に?」
シャッテンの姿は知らない。だから、性別なども知らない。
僕、といっていたから、先入観で男だと断定して、女性よりの声に目を瞑っていた。
シャッテンが男でないのも驚きであるが、そもそも、現実に出てこられない話のはずだ。
「そうさ、僕は現実に行けない。不可能ではないけど、まだ条件を満たしてないからね。だからヴァールをこっちに呼んだんだよ。《三途空間》という別名、境の間に呼び寄せる為の力を使ってさ」
「全然意味が分からないのは気のせいか?」
理解に追いつけない俺を放置し、シャッテンは言葉を続ける。
「僕のような存在は、僕ら二人だけの場所へ呼ぶことが出来るんだ」
意味が納得出来ぬまま説明が続くというのは、勉強でも当てはまるように、途轍もなく暇になる。
俺の思考回路はショート寸前だったのだが、自動的に思考を放棄することによって、回路を回帰し、暇を手に入れた。
ちなみに、断じて口ずさんでいない。
「ねぇ、聞いてる? 月光に導かれてたりしないよね?」
「お仕置きしないでぇぇぇっ!」
「ヴァール」
「え?」
「ふざけてる場合じゃないし、キャラ崩壊してるよ」
それは、言わずもがな。俺自身も自分がおかしいと思う。
変にテンションが舞い上がるのだ。今なら、何でも出来そうである。
そして、俺は、とある行動に出ることにした。
「シャッテン」
俺はシャッテンと、名を呼び、大胆にも彼女を抱き締めた。
「ふぇぇっ!? ヴァールっ!?」
彼女の銀髪が俺の鼻を擽ると同時に、ほんのり甘い微香が漂う。
「何だか自分じゃないみたいだよシャッテン。こうして君を抱き締めていると、凄く安心するし、ドキドキする」
「───っ。ひゃ、ひゃなせー……」
まるで、抵抗しないような口調だ。解こうとする力も全力でない。
俺ともあろうか男が、女性と密着しても冷静でいられるとは。
「あぁ、なんて心地よいのだろう。君に会えて良かった」
「しょ、しょんなのっ……ズルい、よぉっ」
シャッテンの耳がみるみる紅色に染まる。
本当に、幸せである。
このまま未来永劫続けばいいと思った。
しかし。
「ヴァールっ! し、しっかりしろー!」
幸福は堕ちかけたシャッテンが回生し、見事に砕き散ってしまったのだ。
彼女が膝を鉛直方向に上げ、俺の───いや、全世界の男性におけるウィークポイントに膝蹴りを放った後、俺の下半身に凄絶な激痛が電撃の如く巡りたもうた。
高揚な気分が一転して、生命の危機が訪れることになった始末である。
おそらく、子孫は繁栄出来るだろうが、一生あじわいたくない。心が砕ける。
シャッテンは地面(空間上)に突っ伏して悶える俺を一瞥すると、静かに発声した。
「ごめん……ちょっと、強くしちゃった。でも、ヴァールが悪いんだよ」
「あ、あぁ。こちらこそごめん……。無性にシャッテンと触れ合いたくなって」
「なんでそっぽ向いて話してんのさ。……でも、確かに普通じゃなかったね。やっぱり、長居はできないみたい」
「どういうことだ?」
「ここが、境の間っていったでしょ。文字通り、この空間は僕と俺を繋ぐ境界なんだ。つまり、本来なら交わるはずのない者達が唯一存在できる領域であり、遭遇してはならない場所でもある。ゆえに、慣れない人がこの空間にくると目に見えない負荷がかかって精神状態が安定しないんだ」
「また謎の設定が淡々と……」
「うーんと、簡単にいうと、僕と俺がお互いを認識することは禁忌なんだ。それこそ、設定に背く形になるからね」
「今設定っていったよな。いったよな」
「うん。設定。ヴァール達が決めた設定に基づいてるの」
「俺達? お前は?」
謎が、深まっていく。
理解しろというのが、困難であるのがお分かり頂けただろうか。
「ヴァール達の世界で、僕は───」
逡巡しているのか、シャッテンは俯き、そして、首を横に振った。
「まだ、僕の事は秘密ね!」
「秘密って、まだ一向にお前の説明に合点があわないんだけど」
「とにかく、今は僕のいう通りにお願い。霧裂さんを助けたいんでしょ?」
「そうだよ。こんなとこで油売ってる訳には……」
シャッテンが、霧裂が危ないといっていた。時は一刻を争う。
「大丈夫! 僕はいつでもヴァールについているからね。例え、ヴァールが孤立しても、僕は味方につくよ」
「よく分からんが、ありがとう」
知らず知らずのうちに、嫌悪感しか抱いていなかった見えない自分に礼をいうとは思いもしなかった。
「じゃ、いくよ! 現実に戻ったら、指示に従って!」
「てか、なんでこんな変なとこに俺をよんだの? 完全に理解してないけど、何かが必要なんだろ。いいのか?」
「そ、それは……ただ、あい……」
「あい? あいがどうした?」
「なんでもない! ほら、後でね」
「お、おい───」
あやふやな説明のみで、理不尽なまま、俺は現実へと飛ばされた。
「……いえないよ。こんなのが本来の僕じゃないし。それに、『昔』のことは覚えてないだろうし……」
俺が去った空間で、シャッテンは独り言を呟いていたのだが、俺が知る由はない。