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ユーリィ①

 躯が鉛みたいに重く感じられたのは嫌なことを思い出したからで別に学校に行きたくないからというわけじゃない。でも今だけは、そういう子たちがよくそうするように、急に吐き気でも催せたらと願わずにはいられない。イグルーシカに会いたかった。ずんと重く気怠い下腹をさすって唇を噛んだ。学校に行きたくないわけじゃない。

 学校にはユーリィがいる。

「アイヴィーも行くよね? アイヴィー?」

 朝の時間、授業が始まるまで僕らは教室でおしゃべりをする。

 おしゃべりは誰か一人の机の周りに集まってする。その一人はユーリィかもしれないし、高飛車なリズかもしれないし、ちびのクルィーサかもしれないし、ときには僕のことさえあった。場所なんてほんとうは誰のところでもいい。大事なのはそこにユーリィがいることだけだ。

「ねえ、アイヴィー?」

 今日はユーリィの周り。ユーリィの周りのことが一番多い。たぶん明日もユーリィだろう。結局腹痛も吐き気も起こさなかった僕は、今日もユーリィの隣にいた。

 まだ先生の来ていない教室はめいめい好きなことをしている。僕らのようにおしゃべりを楽しむグループは他にも幾つかあるし、独りで読書する奴、予習復習に余念のない奴、躯の調律を確かめる奴もいる。今からやり直そうとしたって、躯の調律なんていうのはそうそう簡単にどうにかできるものではなくて、そんなことができるのはイグルーシカくらいのものなのに。馬鹿な奴らだ。

 イグルーシカのことを思い出すとまた鉛になる。イグルーシカとのことがあって、それで今日は朝からことさら憂鬱だったのだ。

 ぼんやりと自分の躯を見下ろす。ひ弱で、鈍そうな、生っ白い躯。こんな躯は要らない。

 欲しいとしたら、断然ユーリィだ。考えるだけで鈍色の鉛は融けて気分が良くなるようだった。僕は大きく息を吸う。

 ユーリィの躯は好い。大きくて深い優しさを湛えた瞳、揺れる小さな唇、すっと締まった顎のラインが最高にかっこよくて、撫で肩、くねる曲線美の躯はどんなに調律しても僕には真似できない。腰のくびれ方なんてほとんど芸術だ。夢の中で何度あのラインを指先でなぞったことだろう。ユーリィ。美しい躯。僕の大好きな肉体。

「アイヴィー? どうしたの?」

 眉をわずかばかり下げて、少し絞った声帯から切なげな高音で囀る。ああ躯が芸術ならこの声帯もまた至高の宝物だ。どうしたらあんな聞く者をとろかすような声を出せるのだろう。ユーリィはころころと鈴を鳴らすような清かな声で僕の名を呼ぶ。アイヴィー。ねえアイヴィー。どうしたのアイヴィー。まあおかしなアイヴィー。ユーリィの調律はいつだって最高だ。でも誰もそれに気づいていない。僕だけがユーリィの芸術を知っている。

「アイヴィーったら」

「ううん、なに?」

「ほらやっぱり聞いてない」

ストローを吸うときみたいに唇を尖らせて、怒ったポーズを取ってみせる。ツンと突き出した上唇がほんとうに愛らしい。

「お祭だよ、夏祭。アイヴィーも行くでしょう?」

「夏祭」

 行こうよぅ、とユーリィの声がまた調子を変えて耳をくすぐる。だからわざと僕は答えを先延ばしにする。もっとその声を聞きたくて。その眼で見てほしくて。その躯で反応してほしくて。

夏祭のことは随分以前から話題になっていた。

 娯楽のない寂しい街だ。家で一人で遊ぶか、上手く見つけた良いお友達とよろしく遊ぶか、それとも都会まで行ってさっさと大人の仲間入りをしてしまうか。それくらいしか人生の楽しみのない哀れな片田舎なのだ、この街は。

 だから街ぐるみでおおっぴらに騒げる夏祭は――あらゆる意味で、誰もが――必死になって楽しむのだ。一年の鬱憤をここぞと吐き出してしまう。どうせ祭が終われば、またすぐに白くて空虚な憂鬱の季節が来るのだから。

「ねえ、行こうよアイヴィー。きっと楽しいよ」

 ユーリィの甘えた声が鼻先に匂った。ユーリィはとても美しい躯をもっているのに、どうしてかとても無防備だ。世界は平和で、安寧に満ちていて、自分を守ってくれると信じて疑わない。そんなだから、僕はユーリィに惹かれてやまない。

 僕がうんと頷くと、やったと喜んで鞠のように跳ねる。ユーリィの躯の筋肉がしなやかにうねる。筋繊維の一本一本の動きまで手に取るように想像できた。あの躯はどんなに気持ちいいんだろう。きっと僕の躯など比べ物にならないに違いない。その想像だけで僕は気持よくなれる気がする。

 ねえ、ユーリィ?

 ユーリィは女の子っぽく笑いながら僕の視線に首を傾げた。

「じゃあたっぷりオメカシしなくっちゃ。新しい儀眼買っちゃおうかな」

「そんなに楽しみ?」

「一昨年は来たばっかりで全然わからなかったし、去年は誘おうとしてもアイヴィーは僕のこと避けてたし。一緒に行くのは初めてだよね、夏祭」

「避けてなんかないよ。でも、そういえば、そうかな……」

 僕は思い返すような振りをして応える。

 やっぱりそうだよね。ユーリィは笑う。やっぱり去年居なかったよね。

 それはそうだろう。

 だって僕は夏祭が好きではない。


ユーリィは転校生だった。

 三年前のことだ。家族で海の向こうからやってきた。海の向こうの国といえば誰だって戦争をしている相手と知っていたから、初めは亡命なのだと思った。実際には両親がこの街の出身で、戦争になったので戻ってきたのだそうだ。

『パパもママも懐かしいと言うけれど、わたしは向こうで生まれて向こうで育ったのだもの。こちらの言葉も習ったけれど、舌が回らないし、なんだか変な感じがするよ』

 そういうユーリィは、確かに訛りが強い話し方をした。だから僕らはしばしばユーリィに合わせて向こうの言葉を使って話した。動詞の活用は驚くほど少なく、名詞に至ってはほとんど変化せず、母音の読み方の不規則さと語法の複雑さには若干閉口したけれど、それでも僕らが覚える分には難のない言語だった。

 ユーリィもすぐに僕らの言葉を覚えていった。両親が熱心に教えてくれるのだと言う。二人ともこの国とこの街を深く愛しているのだそうだ。

『だから名前もあなた達と同じように付けられてるんだって』

 そうはいってもユーリィは僕らの姓名制度には詳しくなかった。だから僕らの名前を見てもどれがどれなのか分らないようだった。僕らのミドルネームは洗礼名ではない。言語の違いはいつも不意のクレバスのように僕らの間に現れる。たとえば僕の名前を聞いた時、初めユーリィは変な響きねと言った。綴って見せてもそもそも使う文字が違う。全然読めないと拗ねるので、向こうの国の文字で綴ってあげたら、初めの二文字を指して

『じゃあ貴方の名前はアイヴィーね』

 と言った。それから僕はアイヴィーと呼ばれている。そう呼ぶのはユーリィだけだ。他の皆は使わない。だからアイヴィーは僕とユーリィだけの名前になった。

 そうしてユーリィは次第に皆に馴染んでいった。この街の皆に。

 ここは躁鬱の街だ。

 長い長い鬱の季節と、色彩鮮やかな短い躁の陽射しを持っている。極東管区のアルテミィダ州の中でも東の外れにあるこの街は周りを何の起伏もない雪原に囲われている。決して小さくはないがさほど大きくもない市街を、立っていることに意味があるとでも言いたげな誰も防げそうにない低い柵が廻り、そしてこれより先には、吹雪以外には何も無い。一年の半分以上は白く空虚な冬に覆われており、厚い埃のような堆積の下、街は死に眠る。雪風が容赦するわずかに一月か二月だけ、魂の底から暖まるような光熱に浴することが出来る。それでも汗をかくなんてことはない、涼しい気候でしかないのだった。

 夏はかくも短く、ゆえに放埓だ。この街も例外ではない。白い堆積物が姿を消すその数週間だけ、まるでそれが人生の全てであるかのように笑い、泣き、怒り、歌い、踊り狂いと浴び溜めた日光を吐き出すように騒ぎ立てて、放蕩の限りを尽す。どうせ今だけの夏なのだ。今楽しまずに何時楽しむのだ。誰もが数々の楽しみを交わし、幾つもの過ちを笑いあって夏を過ごす。そうして夏が終わればまた無感動と無関心の吹雪の中に街は鬱々と死にゆくのだ。この街の住人は祭に全てを懸けている。長く続く空白の季節の埋め合わせを求めるかのように。


 夏祭りの話題は尽きない。

 場所と時間を隔てず、誰もその話ばかりする。昼休みになっても、朝のつづきとばかりに、夏祭りのおしゃべりは止まない。

 仕方がない。この街全体が夏祭りのために生きているようなものなのだから。

 僕は出来るだけ聞かないようにそっぽを向くけれど、どうしたって耳には入ってきてしまう。

 リズはユーリィの机にのせた両腕に頭を寝かせながら言う。

「じゃあ、ユーリィはそろそろ新調?」

「うん、しようかなと思ってる。これもけっこう気に入ってるけど」

 とユーリィは自分の目をつついて示す。ガーリッシュなピンクの眼球がカツと硬い音で応えた。

「やっぱり、そろそろね。だってお祭りだし、特に今年は」

「だって機能的にはまだまだいけるんでしょ?」

「でもデザインがね」

「あーあ、ユーリィん家ってお金持ちなんだ。良いなぁ」

「そんなことないよ。フツーだよ」

「いいのいいの。ちょっとデザインが気に入らないって新しい儀眼に買い替えられるなんて、まったくフツーの家庭だわ」

「嫌だよ、別にそういうつもりじゃないんだエリザヴェタ」

「リズ」

 鋭く遮って、彼女はユーリィの手を握る。

「エリザヴェタなんて嫌だよ。リズって呼んでって、私も言ったよ」

「ごめんよ、リズ。だからそんな言い方しないで」

「いいよ、リズって呼んでさえくれれば、私はなんだって。こっちこそゴメンねユーリィ、君のこと大好きだから、ついついいじめたくなっちゃうんだ」

 エリザヴェタ・イズミェナはユーリィを撫でて笑った。

 僕はひそかに奥歯を噛み砕く。

 どうしてこいつはそんなにはっきりと言ったり為たりできるんだろう。大好き? いじめたいって? どうしてそんなことをユーリィ本人に言えたものだろう。そんなことは誰もがユーリィに対して思っていたにしても。

 顔には出さないようにしたつもりだったけど、僕はあんまり驚いていたのだろう、気に障ったらしいリズが僕を睨め上げて喰いかかってきた。

「なによ、なにじろじろ見てんのよ。私とユーリィが仲良くしてると不満なわけ?」

「そんなこと言ってないだろ。因縁つけるなよ」

「へん、どうだか。頭ン中じゃ何考えてるか分かんないわね」

「リズ、そんな言い方ないよ」

 ユーリィがたしなめるとリズは黙る。僕も顔を背けて窓の外に視線をやった。雪がなくなってここぞと芽吹きだした新緑が、木という木、枝という枝を覆っていた。でも、少し青みがかって見えた。憂鬱の色に違いない。

「ごめんねアイヴィー。エリザヴェタを許してやって」

 後ろからはリズでしょ、という呟き。優しいユーリィは、僕らをとりなそうとしてくれているっていうのに。それに許してもらいたくなんてないし。ぼやき声。

「かまわないよ、ユーリィが謝るようなことじゃない」

 当たり前だわ。ぼやきはユーリィが振り返ると黙る。

「リズもべつに君が嫌いなわけじゃないよ」

 そんなことないわよ。だいたいあんたにリズって呼ばれたくない。うるさいぼやき。いつまで続けるつもりなんだこいつ。

 ほら、ユーリィが困っているじゃないか。

「あ、ね、じゃあ、アイヴィー。アイヴィーはどう思う、これ」

「何が?」

「儀眼を新調しようと思ってるの。朝も言ったよね」

「新しい儀眼? だってユーリィはもう飛びきりのを持っているじゃない」

「でもさ、お祭りだよ?」

 ふうん。僕は肯いた。

 先生が教室に入ってきて、おしゃべりはおしまいになる。


 儀眼と躯はボクらがボクらである証だと、大人は言う。

 子供はみんな生まれてある程度まで育つと、体から躯へと脱ぎ替える。

 躯は極々精巧緻密に仕組まれた駆動機構で、ふつう人型をしている。血と肉と骨の入ったズタ袋である生体と違い、躯は衰えない。機能疾患はまずないし、感染病というのも旧世のものだ。壊れれば部品の交換がきくし、そもそも劣化に著しく強い。あらゆる点で現代の人間社会に適応している。だから「ヒトは動物として生まれて、躯を得てようやく人間として」云々。

 僕らの齢で教わるのはこのぐらい。難しいことは分からないし、興味もない。僕らにとって大事なのは躯は好きに調律ができる優れものってことだけで、調律も出来ない生体に何の価値があるのか、ちっともわからない。初めから躯で生まれてくればいいのにと思う。

 だけど僕の躯は鈍臭い。

 当然、躯の性能を活かす実技教科の点は低くて、いままで保っていられたのもイグルーシカの調律があってようやくなのに違いなかった。今日はそのイグルーシカの力を借りられていない。

 五時間目の授業は見学にしてしまおうかしらと考えながら昼休みの鐘を聞いた。


「ねえアイヴィー、今日の五限の体育は自由行動だよ、湖まで行く約束だよね」

 元気な声が僕を滅入らせた。

 違う、ユーリィが悪いのではない。応えられない自分が情けなくってうつむくのだ。

「それがさ、ユーリィ、今日はダメなんだ、ちょっと、体調が」 

 嘘をついた。

「そんな!? 約束だったよ!」

 信じられない。僕だってそうだ、信じられない。目を瞠って驚かれても僕こそ困ってしまう。どうして昨日はあんなにイグルーシカと喧嘩をしてしまったのか。思い返しても理由は見当たらなかった。

「ううん、確かにアイヴィー、朝からぼんやりしてたもんね。風邪?」

「ああ、うん、まあ、」

「どうせ昨日お酒でも飲み過ぎたんじゃないの?」

「きみは黙ってろよリズ」

 横から割り込んできた親衛隊長を追い払い、眼尻を下げ潤んだ瞳を揺らすユーリィにそっと耳打ちした。嘘をつくのはしのびなかった。

「ええ! 調律してきてない!? ダメじゃないの!」

 ユーリィは弾けるように驚いた。慌てて口をおさえて黙らせる。

「え、だってもう次の時間だよ。今からじゃ調律間に合わないんじゃない?」

「そうなんだ、だから、ほんとに悪いとは思うけど今日は行けない。湖はまた今度にして」

「そんなぁ」

 実技にはそのためのちゃんと調律した躯が必要だ。

 躯を作り直さなければならない。調律忘れは体操服を忘れたのとは違う。いまから帰って別の躯を取ってくるというわけにもいかない。

「アイヴィーが出ないなんて、つまんないよ」

 僕だってつまらない。まるでイグルーシカとの喧嘩の罰を受けてるみたいだった。不仲、不和、争いの罰。でもこれで、贖われるような気もした。ユーリィとの時間を差し出すことで、またイグルーシカと仲直りが出来るような、それはなんていうか、とても微妙な問題だったけれど、でもこれでユーリィとの仲が終わってしまうわけじゃない。だから、これでいいのだ。

 そのはずだった。

 ユーリィはちょっと難しい顔をして、それからパチンと小さな手を打ち合わせた。

「……そうだ! 私の躯を使いなよ」

「………なんだって?」

「そうだよ、それが良いよ。アイヴィー、私の躯で授業出ようよ」

 嬉しそうに手を叩いてそう言う。

 僕は、まさかユーリィが、だってそんな、そんな提案をするなんて、まったくの予想外で、ちょっとの間、いったいどういうことなの、判断力が全然働かない。魂では、拒むわけなんてないって、判ってはいたんだけど。

「どういうこと?」

「マグワヒだよ。しよっ」

 その行為は、名前だけならよく知っている。でも実際に体験したことはない。見たことだって僕はない。それは、たぶん少し社交的な奴らになら、当たり前のことなんだろうけれど。

「ほらほら、それじゃあ私の眼を見て、真っ直ぐ」

 柔らかな両手の指で僕の頬をはさみ、互いの視線を重ね、からめた。

 マグワヒ。魂は眼から出入りする。

 《僕》は押し出されるように眼球から飛び出し、ふたりの眼をつなぐマナザシに乗ってユーリィへと向かう。途中ユーリィとすれ違ったような気がした。魂は不可視存在だ。お互いに見えはしない。けれどあたたかな物が通り過ぎるのを《僕》は確かに感じたのだ。

 ユーリィの眼球に飛び込んだ。

 あまりにあっさりと、ユーリィの躯に入ってしまった。まろやかな座に魂を据える。まずは脳とラインを結んで、そこから全身の神経の隅々にまで行きわたらせる。瞬間的に、僕は自分が躯中に溶けていくのを感じた。ユーリィの躯の中はとても温かくてとろけそうになる。ぬるま湯にでも浸かっているような心地良さ。輪郭が曖昧になってどうかするとユーリィになってしまいそうになる。ユーリィの躯はとても気持ちいい。しなやかで、張りがあって、それからちょっぴり乳と蜜の匂いがした。

 これが、僕の大好きな体。

 ちょっとした酔いが醒めて視覚が安定すると、向かいで僕の躯がはにかんでいた。僕がユーリィに入ったように、ユーリィは僕の躯に入ったのだ。ユーリィは僕の躯でだって可愛い。あんな鈍くさい躯でさえ、その仕草、振る舞い、ユーリィのすべてが魂から溢れだす。

 どうやら無事に終わったようだ。試しに手を握ってみるとちゃんと小さな拳ができた。

「うまくいったね」

 はにかみながらユーリィが言う。僕はユーリィが触れていた頬からユーリィの手を離す。いつもの躯とは勝手が違う、躯は予想以上に動き過ぎて、まるで振り払うみたいになった。ユーリィの手が僕の躯を叩く。ユーリィは短い悲鳴を上げた。つまり僕がユーリィを叩いたので、でもそれは僕の躯で、だから、

「ごめん。でも、なんだかわけがわからない。どうしよう、ぼくはどうすればいい?」

 ユーリィの躯に喜んでいる暇なんかなかった。

 立っているだけで膝が抜けそうになる。いま下手に触られたらその場で失神してしまいそうだ。

「慌てることないよ。もしかして初めてだった?」

 マグワヒくらいは知っている。

 魂の交感を指してそう呼ぶ。ちょっと異国めいたこの単語は、けれどれっきとした僕らの国の言葉らしい。どんな意味なのかは、全然知らないのだけれど。

「でもこれで実技出られるね」

 ぼんやりと揺れる意識でユーリィの言葉を聞く。

 そうだ、これで僕は五時間目にユーリィと一緒に湖に行ける。僕はユーリィの躯で、ユーリィは僕の躯で……待てよ。

「それじゃダメだよ、ユーリィが僕の躯じゃ、やっぱり出られない」

「あ、そっか!」

 いい考えだと思ったのも束の間、暗雲はやはり邪魔をしていた。

 やっぱりどうしても、これは罰なのだ。イグルーシカと喧嘩をしてはいけなかったのだ。

 ユーリィは不満げな表情だけど、それもまたユーリィの可愛さに花を添えるだけだけど、でもとにかくこのまま授業に出るなんてとんでもなかった。

 いっそもう一度マグワヒをして戻ってしまおうか――、

「俺の使うか?」

 教室の隅から声が掛った。

「オリョーロフ?」

 机の上に座って雑誌を読んでいた視線を、こちらに上げていた。草色の蓬髪をくしゃくしゃと掻きながら、眠たそうな半眼で近づいてくる。

「俺の躯貸してやろうか。どうせ俺はフケるつもりだったし、ちょうど好いわ。エンジンかけといてくれよ」

 軽薄な調子でオリョーロフは笑って言った。とても社交的な態度だった。

「大丈夫なの?」

 今日フケようという奴の躯が、ちゃんと飛行用に調律してあるとは思えない。

 オリョーロフは横目で僕をつまりユーリィの躯を睨みつけた。

「嘗めてんのか、俺はオリョーロフだ。俺の躯だぞ」 

 喉が詰まって僕は何も言えない。

「じゃ、よろしく」

 言うが早いかオリョーロフはユーリィの入った僕の顔を掴んでマグワヒを始めた。

 そこには何の感慨や感動もなく、まるで事務的にこなして、ものの数秒で事を済ますと、大した酔いもない様子でオリョーロフつまり僕の躯は大欠伸をかきながらさっさと教室を出て行った。ユーリィがその背にありがとうと、声を掛けたのに返辞はない。動きづれぇというぼやきだけが残された。

 でも、と僕は思う。オリョーロフが声を上げるのがもう少し早くなくてよかった。もしそうでなかった、僕はただオリョーロフの躯に入るだけになっていただろうから。

「さ、アイヴィーも行こう。そろそろ五限始まっちゃう」

 ユーリィは僕が入ったユーリィの手を取って駆け出す。僕つまりユーリィの躯はそれに引っ張られて、ユーリィの入ったオリョーロフの躯の背を追った。

「ほんとはね、」

 ユーリィは振り返ると秘密めかして囁く。

「ぼくも初めてだったんだ、マグワヒ」

 ユーリィはまたはにかむ。

 緑色の髪はあまり似合わないな、と僕は思った。


 五時間目には無事出席できた。一緒に湖に飛んでいって、湖畔を静かに散歩して帰ってきた。

 ユーリィの躯は本当に素晴らしくて、外装だけでなく能力の調律も完璧だった。空を、まるで羽のように軽々と飛び跳ねるなんて今でも信じられない。僕の躯ではせいぜいが金属塊を放り投げたようにしかならない。鈍重とは僕のためにあるような言葉だった。あまりに夢見心地で、もうよくその感触を覚えていない。髪の毛から爪先まで、全ての感覚が愛おしい。全部記憶にとどめておけないのがひどく悔しくて、自分の躯に戻った時には大きな虚脱感に襲われた。何かが抜け落ちてしまったような気分だった。

オリョーロフの躯も大したものだった。やはりオリョーロフの姓は伊達ではないということか、何にしろあの躯は飛行のためにあるような躯だった。皆が羨ましがっていたから、次回からは朝からマグワヒの申し出が殺到するかと思うと、ちょっとおかしかった。


 放課後になって、めいめいに部活や帰路に散るなか、ユーリィがきた。夏祭りの話だった。

 一緒に買い物に行かない? 僕は用事があるからと謝って、急いで教室を後にした。

 どうしてもやらなけりゃならないことがある。ユーリィの横に立つ自分を想像して、それはどうしても、買い物を断ったって必要なことだった。言ってみればユーリィのためでさえあるのだ。


 イグルーシカに会いたい。


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