2-01
外に出ると、そこは廃墟だった。
神殿という響きから連想される壮麗な建築物はなく、元柱や元壁と覚しき石材が至る所に散乱していた。屋根の残る箇所は皆無でなにもかもが野晒しだ。
床だったであろう足下は土や雑草に覆われ、ムッとする青臭さが鼻の奥から離れない。歩いてみても平らな場所を探すのが難しく、気をつけなければずれた床石の段差に躓きそうだった。
やや高くなった階の周辺には大小様々な破片が落ちていた。翼の先端のような部位が瓦礫の合間から覗ける。先刻立派な胸部を見せつけてくれた女神像の本尊バージョンの成れの果てだろう。
「あ、ああ……そんな」
エスカの呆然とした呟きを捉える。
彼女があの石室に引き籠もっていた間に起きた神殿の遺棄らしい。
「まさか……こんなことが……」
フラフラと、エスカの身体が宙を滑っていく。
知人も多くいたはずだ。思い出の詰まった場所の無残な姿に、その薄い胸を痛めているのだろう。性格はアレでも、さすがに打ちひしがれた表情を見ては同情の念を禁じ得ない。
強く生きろよ。
いや、もう死んでたか。
とりあえず、荷物を持たれたままどこかに行かれても困るので、俺はマサルを促して後を追う。
ランタンの明かりを頼りに、地面に転がる残骸を避けながら進んでいく。
そこで、ふと気になった。
石が広範囲に、規則性もなくランダムに散らばり過ぎているのだ。月日の劣化に耐えきれず倒壊、ではなくて、まるで神殿の真ん中で爆弾が爆発したかのようである。
周囲を観察しながら歩いていると、何か乾いた物を踏み砕く感触がした。
また骨か、と一瞬焦り、慌てて靴を上げて確認する。
黒い粉が白っぽい石の表面に擦りつけられていた。炭だった。
焚き火の残り滓か、それとも火災の跡なのか、近くの壁面を調べれば判るかもしれないが、さすがにそこまでする気はおきなかった。
視線を正面に戻す。
エスカは移動を止めて蹲っていた。二つのバックパックが小柄な彼女の上半身を完全に隠していたため、背後からだと大きなリュックがモコモコしているだけに見える。滑稽ではあるが、傷心の少女を虐める趣味はないので無言で近づいた。
神殿関係者の住居跡のようだ。小石積の基礎部だけが残っていて、そこより上の壁や屋根は見事に消失していた。不動産屋のチラシでよくある建物の平面図を実寸大で眺めている気分だ。
エスカの横に立つ。
バックパックがフルフル小刻みに揺れている。
慰めの言葉が見つからない。こういうシチュエーションは苦手だ。
「……そんな……頑張って貯めたのに……」
え!?
「せっかく神官さまに内緒で集めた寄付金が……」
「おい」
「アイミスお姉さまに無理言って譲ってもらったニーナリーチの鞄が……ウバーフおじさんに買ってきてもらった“バラの君”創刊号から最新号までの……」
「悲しむのはそっちかよ……」
「なっ、何も知らないくせに余計な口を挟まないでください!」
「お、俺が怒られるのか?」
「私が十四年かけて集めた宝モノを馬鹿にしないでください。私が生きてきた時間がそこには凝縮されているんです、私の人生そのものなんです、それがちょっと留守にしていた間に無になってしまった、この無力感、喪失感、どうして理解できないのですか?」
「いや、理解したくないし」
もの凄い剣幕に俺は萎縮して後ずさる。
マサルが肩を叩いて顔を寄せてきた。
「なんでそうやって自分から地雷を踏みにいくんだよ」
「悪い、俺が甘かった」
「二人で何を話しているのですか、いやらしいです、この角度からだと唇が耳を舐めてます」
「どわぁ!」
「おおっ!」
俺達が急いで離れたのは言うまでもない。鳥肌がやばい。
「おいお前」
マサルがビシッと指さして宣告する。
「妄想禁止だ」
「そ、そんな、私の心はダイドー鳥の翼のように自由です」
悲壮な表情でエスカは言い返した。
「なら口に出すな」
必要な情報を入手したら、さっさと行動を別にするべきだろう。精神的疲労がハンパない。とりあえず神殿を見つけたら有無を言わさずに押しつけるのだ、それがいい。
まずは、この神殿跡からどこへ向かうか、だが。
会話はマサルに任せようと思った、その時だ。
そのマサルの様子が一変した。
「喋るな!」
両腕を左右に拡げて俺達の動きを制する。
そのただならぬ様子に、俺もまた即座に反応した。幼馴染みの間合いから飛び出すと、ランタンのLEDを直接視界に入れない位置にまで移動する。
訳がわからずオタオタしているエスカに、後ろに回れと手で指図した。
マサルが警戒しているのは前方の茂みだ。距離にして二十メートル近くあるだろう。
俺には何が潜んでいるのか見当もつかない。これが狩猟民族小前田家との違いか。
掌にじっとりと浮いた汗をカーゴパンツで拭い、太腿に添って下げられた鉈の鞘を左手で押さえる。ここは日本じゃない、場合によってはこれを抜く覚悟を求められるのだ。
「どうした?」
マサルの低く落ち着いた声が響いた。
「もう見つかっちまったぜ、出てこいよ」
直後だった。
茂みから黒い影が飛び出してきた。
瞬く間に、四つ足のシルエットは横たわる距離を走破した。
速い! その動きを目で追うのがやっとだった。
実際のところ、フルスロットルの原付より幾分速い、ぐらいの速度なのだろう。が、未知のモノが急迫する脅威に、肉体は反応できず、腕の一本さえ持ち上げられなかった。
四つ足から二本足へ、直前で姿勢を変えたそいつが跳躍する。
一番近く、そして最も危険であろう人物をターゲットに選んだのか、襲撃者は一気にマサルへと襲いかかり、大地へと引き倒した。
ランタンが宙に舞い、瞬間浮かび上がった姿にエスカがその名を口にする。
「ネバブウェアウルフ!」
地面に叩きつけられたランタンの明かりが消え、辺りが薄闇に包まれる。
この時になって、俺はようやく自分を取り戻した。叫びだしそうになる激情を堪えながら、駆けだした。
いや、駆けだそうとして、地面で蠢くシルエットを見て思い切り脱力した。
「と、トッシー?」
エスカの問いに軽く肩を竦め、ランタンへと進行方向を変更した。
「な、なにをしているんですか! はやくマサルさまを」
「大丈夫だって」
ランタンを拾いあげた。落ちた衝撃で裏蓋が外れたらしい。レンズ部に破損はなかった。転がっていた充電池を填め直し、蓋を閉じてスイッチを回す。
「柔道家に寝技を仕掛けるなんて、そりゃどんな馬鹿だ? ってことさ」
ランタンのLED光に照らされたマサルは、笑っていた。
仰向けにしたその上にのしかかるウェアウルフ、一見すると優位だが形勢はまったくの逆だ。
マサルの両太腿は狼の頸部を左右から挟みつけ、膝の曲げられたほうの足首をもう片方の足の膝裏で完璧にロックしていた。
片腕は足の内側に巻き込まれているのか、ウェアウルフの見える一本の腕はまっすぐに引き延ばされ、その手首をマサルがきつくホールドして決めていた。
三角締めだ。
隙間なく絞まった拘束から抜け出すのは難しいだろう。マサルの巨体を持ち上げて振り回すには、狼の下半身は貧弱に思えた。
伏兵がいないか一応周囲の気配を探ってみたが、俺にはその手の才能がないことを実感するだけに終わった。
「マサル、手伝いいるか?」
「いや、もう落ちてるぜ」
あっさりとした返事の後、マサルは首をエスカの方へと傾けた。
「こいつ、退治してもかまわねぇんだろ?」
「は、はい」
なにこの人たち? という風な驚きの表情に、少しだけ優越感をくすぐられる。
「ウェアウルフは害獣指定されているので、常に討伐の対象にはなってますけど……」
加護を受けたばかりの一級の人間がなんとかと呟き続けているが、放っておくに限る。
俺はランタンを地面に置き、マサルの横に立つ。
「夜に血の臭いはまずいよな」
「だな」
ここがどんな世界かは知らないが、狼人間もどきが世間的に認知されている物騒な場所なのだ。夜の森の傍で血を流したら凶悪な肉食獣がここぞとばかりに集まってくるだろう。
マサルが掴んでいるウェアウルフの腕を引き受けると、強引に背中側へ捻り上げた。
マサルは両足をほどくと、素早く身体を回転させて下から抜け出した。
俺は尖った背骨に膝を当て、体重をかけて地面にウェアウルフを押し潰す。
直後、マサルのブーツの底が頸骨を踏み砕いた。
生き物の肉体を破壊する生々しい音に、一瞬胃袋の奥が蠢く。かろうじて堪える。
毛皮の下の肉が何度か痙攣し、やがて活動を停止した。
気づけば、全身が汗で濡れていた。去年のキャンプでも思ったが、命を奪うという行為は精神的にかなりくるものがある。
「怪我はないのか?」
「ああ、この図体なら、狼の姿のほうが厄介だったな」
人型のほうが動きを予測しやすく、組みやすいということなのだろう。
と、ウェアウルフの死体から、淡い光の玉が一つ、音もなく浮かんできた。
ユラユラと揺れながら二つに分裂し、それぞれが俺とマサルの胸の中へと吸い込まれる。衝撃も違和感もなかったが、ちょっとだけビビッたのは内緒だ。
「なんていうか、判りやすいシステムのような」
「経験値だろ、こりゃ」
念のため確かめる。
級、すなわちレベルが3になっていた。マサルも同じらしい。
後から聞いた話では、この世界では生命力と呼んでいるもので、通常はとどめをさした者の総取りだという。仲間内で分配するには事前に神官が術でメンバーの加護を紐付けするらしい。俺とマサルの場合は、本来なら個別の封陣石で加護を与えるところを一つの石で済ませたために、最初から紐付け、つまりパーティー認定された状態なのだとか。
「パラメータの数値は変わらないな」
「才能限界値みてぇなものか」
まずいなぁ、とマサルがぼやく。日本にいた頃よりも身体が軽く感じられるという。普通なら喜ぶべきところだが、肉体への負荷が減ると筋肉が細くなってしまうからダメなのだと真剣な顔で嘆いていた。
知性値の高い俺がレベルを上げれば利口になるのだろうか。
いや、あり得ない未来よりも現実と向き合おう。
「コイツをどうするか、なんだけど」
大地に横たわったままのウェアウルフを顎で示しながらマサルに問いかける。
「食えるのかな?」
「毒つきの狼なんて聞いたことはねぇからな、犬ッコロと一緒だろ、食えるとは思うんだが……」
判らなければ訊けばいいと、呆然と立ち尽くしたままのエスカに、俺とマサルは目を向けた。
「これ、食えるの?」
率直に問う。
「え、えぇ!? 食べるんですか!」
信じられないものを見たかのような反応に、当たり前だろと憤然と睨み返す。
もともと食料は現地調達のつもりでいたから、荷物の中には非常食が僅かしかない。
「あ、でも、水のないところで捌くのはなぁ」
「そこの娘に頼めばいいんじゃねぇか? 神殿だったんだ、近くに水場ぐらいあるだろ」
「そっか、ついでに薪も頼んで、場所はさっきの部屋でいいか」
「暗いが大丈夫だろ、なにより安全だしな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺達の会話にエスカが猛然と突っ込んできた。
「勝手に話を進めないでください。何を勝手に決めているんですか、こんな危ない場所に少女を一人で放り出すなんて人としてどうかと思います、いえそれよりも仮宮の間をそれも獣の血で汚すなんて正気を疑います、バチが当たります、当てちゃいます、呪います祟ります」
かなり本気でダメらしい。唾が飛んできそうな剣幕に、俺達は今夜の焼き肉は諦めた。
「もったいないけど、あっちの茂みに捨ててくるか……」
「肉は貴重なんだがなぁ」
と、
「え、売らないんですか?」
エスカが再び割り込んできた。
「売れるの、これ?」
「神殿に来る商人さんの話によれば、防寒着としてウェアウルフの毛皮は高く売れるそうです」
「それを早く言えよ」
「冬期限定ですけど」
「生え替わるのかよ!」
「夏場は安く買い叩かれるので、この時期、村の人はベアやスパイダーを狩って暮らしていると聞きました」
例え安かろうとも、この地の金を一切持ち合わせていない俺達には貴重な資金源だ。明日の朝一番で内臓を処理してから、その村とやらに持ち込もうと結論する。
「じゃ、寝床を決めるか」
地面に置きっぱなしだったランタンに手を伸ばす。
先ほどよりも森の繁りがはっきりと見えるのは、夜空に月が出たからだろう。
なんとなく明るい方に顔を向けた俺は、隣にいる相棒の背中を手で叩く。
「マサルマサル」
「んっ?」
丁寧に指で示してやる。
「……目玉だな」
「目が浮かんでるよな……」
無数の星々を散りばめた漆黒の夜空には、赤い虹彩を持つ目玉がポッカリと浮かんでいた。
さすが異世界、なんともファンタジーな月だった。
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