1-02
小学校に入るくらいの年からだから、もうそろそろ十年になる。那津家と小前田家、そしてもうひとつ狹山家の三家合同山岳キャンプは夏の恒例行事になっていた。
数年経ち、家族達に先行して小前田賢治さん引率による俺とマサルのサバイバル教室が実施されるようになり、二年前の中学三年の夏からは、とうとう引率者もなくなった。
自給自足による十日間の森林生活は、何も知らない素人にはハードでも、十分に実績を重ねてきた俺達二人にしてみれば鼻歌交じりの難易度だ。
そもそも賢治さんから行動範囲を決められていたし、その活動地域内での食料調達や水の確保などのレクチャーもバッチリである。万が一の場合も、森を抜けて山を登れば管理人の常駐しているキャンプ場があるから安心だ。
実を言えば、賢治さんには内緒にしているが、去年のキャンプで俺達は小型の猪を自力で仕留めていた。
二人でギャアギャア騒ぎながら解体して食した焼き肉の味は格別だった。生肉の保存方法を知らなかったばかりに数日でダメにしてしまったが、今年はその点も抜かりはない。
“でもこれって警察官より自衛官向きだよな?”
昔から抱く疑問だが、楽しければいいので深く考えないようにしている。
「清助も来りゃあいいのにな」
デジタルカモフラージュのブーニーハットでパタパタと顔を扇ぎながら、マサルが口を開く。
見上げながらの会話は首が疲れるので――は建前で本音は身長差を意識させられて悔しいから――前を向いたまま俺は応える。
「受験生だぞ、あれでも一応」
一応は余計だったか、当人はいたって真面目に取り組んでいる。
「あいつ、頭わりぃからなぁ」
「お前にだけは言われたくないだろうよ」
俺達と同じ高校が志望だと聞いていたので、先日期末の成績表を見せてもらったのだが……なんていうか、頑張れ?
「だいたい健輔さんが許可するわけないだろ」
あの人の過保護ぶりは三家族の中でも笑い話のネタになるほどだ。
「くくっ、おまえ、狹山の親父さんに嫌われてるからな」
「ほっとけよ」
その訳も自覚している。が、改めて他人に鼻で笑われると無性に腹が立つ。
俺は強引に話題を変えることにした。
「そう言えば、賢治さんまた出張なんだって?」
「ああ、そんなことも言ってたなぁ」
「自分の家族のことだろ、で、キャンプには合流できそうなのか?」
「最終日までにはなんとかするって話だぜ」
賢治さんの職場は警備部警護課というところらしい。
ググるという行為を知らなかった俺は、随分と長いこと、警察署脇駐車場のガードマンの姿を脳裏に描いていた。そのわりには長期出張が多かったり、アメリカへ研修? なんて話も出てたりもしていたから、おかしいとは思っていたのだ。
警視庁警備部警護課警護第3係、通称セキュリティポリス、海外からの要人警護任務に従事する専従警察官だ。
「親父が来たら、今年は熊に挑戦しようぜ。たしか隣の山で目撃されたってよ」
「どこの狩猟民族だよ、お前んチは」
ちなみにウチの父親は同じ公務員でも役所勤めの事務職である。
キャンプ場に通じるアスファルトの公道から離れて未舗装の林道を進むと、やがて涼しげなせせらぎの川縁にでる。
この場所に来始めの小学生の頃は、夜になると無数の蛍の乱舞が楽しめた。それがまったく見られなくなったのは中学に入ってからか。
足下の石と石の間にビニールのゴミが落ちているのを見て、少しだけ悲しくなる。
「ここも年々ゴミが増えてくるな」
俺の視線に気づいたのか、マサルがそんなことを言ってくる。
もっとも、思ったり言うだけであり、拾って処分しようなどというボランティア精神は皆無の俺達だった。
川に沿って上流へしばらく歩き続ける。
移動の列車の中で昼食は済ませていたから、このまま休みなくベース造りの予定だ。
進むにつれ川辺の石が岩になり、張り出した木々の枝が落とす影が次第に大きくなってくる。
両サイドの茂みの距離が近づいたためか、清流の響きも若干ボリュームを増していた。
一年ぶりだったが、目印の岩場は見落とさなかった。
茂みに入る前に俺はいったんバックパックを下ろし、中からゴアテックスのショートジャケットを出して羽織る。
二三日もすれば慣れて気にならなくなるだろうが、それでも極力肌の露出は控えて余計な虫刺されは防ぎたい。可能ならフェイスマスクもしたいぐらいだ。
「そうだな、オレも準備しとくか」
マサルも荷物を岩の上に置くと、まず捲り上げていたコンバットシャツの袖をきちんと手首まで引き下ろす。
次いで、バックパックからおもむろに9寸5分の和式ククリを取り出した。
「えっ!? もうつけるのかよ?」
マサルはニヤリと笑った。
「そのために買ったんだろうが」
悩んだのは一瞬だ。
「だよな」
俺も負けじと朱漆塗りの朴の鞘に収まった刃長27cmの鉈をいそいそと引っ張り出す。
一緒にバイトして、一緒に通販した狩猟鉈だ。
初めてのバイト代のほぼ全額を注ぎ込んだ記念の一品で、清助に苦笑されたが、まあ男の子ということで勘弁してもらった。
チラッと横目で窺えば、マサルは慣れた手つきで左腰にオイルスティン塗りの鞘を下げ、左太腿に固定用の紐を巻いていた。
こいつ、絶対部屋で装備の練習をしていたな。
俺もやったし。
薄ら笑いを浮かべ凶悪な刃物を装備する俺達二人は、端から見れば間違いなく通報レベルだろう。キャンプで使用するという理由が銃刀法における“正当な目的”と認められるのを切に祈るばかりだ。
おまけで、賢治さんから誕生日祝いに貰ったスパイダルコのネイティブナイフを腰の背中側のベルトにクリップで挟む。これは刃長8cm以下に該当するので街中での携帯も合法だ。プレゼントの選択がいかにも狩猟民族系小山田家らしくて微笑ましい。
再びバックパックを背負ったマサルはさっそくククリを抜き、手近な立木の枝をスパンと切り落とした。
「お、よく切れるぜ」
落とした枝を拾い、余分な小枝を削って即席の杖をこしらえると、俺に向かって放ってきた。
「俺が前なのか?」
「オレはクモの巣が嫌いなんだよ」
「好きなヤツなんかいないって」
言い合いをしても時間を潰すだけだ。諦めて先陣を了承する。
いつの間に頭に蜘蛛が、なんてことがないようにしっかりとベースボールキャップを目深に被る。
前方の空間に差しのばした杖を上下に振りながら、森の中へと踏み入っていく。
地面は緩やかな登り傾斜だ。湿った落ち葉に滑らないよう、慎重に足を運んだ。
川辺で露営しないのは、降雨時の増水を避けるためだ。奥深くまで分け入る必要はない。
「あったあった」
去年テントを張った、幹が途中から二股になっている大きな広葉樹を視界に捉える。
よく葉の茂った枝が広い範囲に広がっているのと、根元の地面がほどよく窪んでいて……。
立ち止まった俺のバックパックに、トンと軽い衝撃が伝わってきた。
「トシ、急に止まるなよ」
訝しみ、隣に並んだマサルもまた、
「なにがあっ……た……」
呆然として言葉を飲み込んだ。
どうやら、俺の目は正常だったらしい。
テントを張ろうと予定していた場所に、黒いナニかがポッカリと浮かんでいたのだ。
直径は二メートル程だろうか。周囲との境界部分はまるで陽炎のように揺らめいていたが、その内側は見ているだけで吸い込まれそうな、光をまったく反射しない黒だった。
極度の緊張で聴覚が狂ったのか、風に揺れる葉擦れの音も鳥や虫の鳴き声も、まるで耳に入らない。俺達だけが突然世界から隔離されたかのような、奇妙な感覚。
イヤな予感がビンビンだ。
「何に見える?」
目を離せば闇に喰われそうな、そんな恐怖心に耐えながら隣の相方に小声で問う。
「なにって……」
ゴクリという音はいったいどちらの喉元から発したのか。
「なんか、こういうやつ、漫画とかアニメでなかったか?」
「奇遇だな、オレもおんなじこと考えてたぜ」
前を向いたまま、俺は想像を口にする。
マサルの声がそれに重なった。
「すべてを喰らう闇」
「異界への扉」
“えっ!?”
空耳かと、慌てて顔を横に振り向ける。
見なければよかったと後悔した。
いっそ清々しいほどの、満面の笑みのマサルがそこには居た。
「よし、逝くぜ」
「ちょ、おまっ、なんだよ、その異界の扉って!」
歩き出したマサルの腕を掴んで改心させようとしたが、押しとどめるには、俺はあまりにも非力だった。
「冒険だ、ワクワクするじゃねぇか」
「しねぇよ、お前なに言ってんだよ、ドコに通じてるってんだよ、戻れるのかよ!」
前後不覚にも喚き散らしてしまった俺をいったい誰が責められよう。
と、マサルが足を止める。
思い直したか、と一瞬でも感動した俺は馬鹿だった。
マサルはカーゴパンツのサイドポケットから携帯電話を取り出した。
いや、ここ山ん中だから。
「もしもし、親父か? オレだオレ」
「繋がっちゃうのかよ!」
「ちょいと冒険いってくる。戻らなくても探さなくていいからな」
「探す前にイロイロあるだろ、そのセリフ!」
「ああ、トシも一緒だからな、心配ねぇだろ」
「一緒じゃねぇよ、心配しろよ!」
「じゃ、帰れたら連絡するぜ」
「なんだよその帰れたらって!」
携帯を仕舞うと、マサルはニカッと白い前歯を剥き出した。
「大丈夫だ、親父の許可は貰った」
「おかしいよお前ら親子……人の話をきけよ」
泣きたくなってきた。
「心配性なんだよ、トシは」
そう言うと、マサルは足下の石をひとつ拾うと、黒いナニかを狙って投げつけた。
勢いよく飛んだ石礫はそのまま闇に飲み込まれ……反応はなかった。
背後にある木の幹に当たる音すらしなかった。
「みろ、大丈夫だろが」
「どこが大丈夫なんだよ!」
「いいじゃねぇか、こんな機会二度とねぇぞ?」
「一度だっていらねぇよ!」
叫び続けたせいで喉が痛い。ついでに頭も痛かった。重症だ。今の俺に必要なのは柔らかなベッドと鎮静剤だ。冒険は敵だ。アドベンチャーなんて液晶ディスプレイの中にあるからこそ魅惑的に光り輝いて見えるのだ。
「ほら、いくぜ」
ドンッ
「えっ!?」
我が幼馴染みに突き飛ばされたのだと理解できたのは、黒いナニかに頭半分ほど突っ込んだ時だった。
「恨むぞぉ、コン畜生ぉ!」
06.05 一部の表現を修正
清助の本名は清美という無駄設定