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寝ている間に誰か、多分母親が勝手に入ってきてカーテンを開けたのだろう。顔面をジリジリと灼く眩しい日差しに俺は目を覚ました。
朝とはいえ夏の太陽は強烈だ。額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、壁の時計に目を走らせる。
早くもなければ遅くもない時間だった。
「ふあぁぁ~」
のんびり準備していても少し余裕があるくらいだろうか。
ベッドから床へと足を下ろし、立ち上がるついでに大きく伸びをひとつ。
「今日も朝から元気だな、おい」
やけに前が突っ張るハーフパンツの履き心地を直してから部屋の外へ。
二階のトイレで腰を軽くしてから、そのままの格好で階下へ降りる。
洗面所経由でリビングに入ってみれば、既に来ていた幼馴染み、小前田傑がその巨躯をダイニングチェアに押し込め、のんびりとコーヒーを啜っていた。
「なんだ、来てたんなら起こしてくれりゃいいのに」
「ん?」
掛けた言葉に、マサルは窮屈そうに椅子の上で身じろぎしてから、細い目を向けてきた。
「急かすような時間じゃねぇしな」
眠そうに見えるが、これが奴のいつもだ。本気で瞼を開くと三白眼気味になって人相が悪くなるとかで、本人は意図的にしているらしい。もっとも日本人にあるまじき彫りの深い顔のせいで、光線の具合によっては細い目がより威圧感を与えてくるのだが。
高校生とは思えぬ、常識的成人男性の倍はある筋肉の束を全身に貼り付けていて、世界陸上が開催されるたびに名前があげられる某砲丸投擲選手を彷彿させる。当人は某肉体派ハリウッド・スターを心の底から崇拝していて、柔道を辞めたら男性ボディービルダーの憧れミスター・オリンピアを目指すと公言してはばからない。それ以上筋肉をつけても、他人を怖がらせるだけだろう?
あと、人当たりを気にするのなら側頭部2ミリ頭頂部8ミリの極悪海兵隊カットはやめればいいと俺は思う。が、シャンプーのいらない髪型が気に入っているようで、月一回の床屋通いは欠かさない。
同じツー・ブロックでも、俺が刈り上げているのは耳の上のみで、他はわりと長めに伸ばしている。マサルの父親、小前田賢治さんに教えてもらった“長髪の禁じられている職場でも通用する”髪型だ。
純和風な起伏の乏しい顔の俺が前髪をおろすと実年齢よりも若く見えてしまうので、隣に立つ機会の多い老け顔のマサルには是非ともマイルドな外見造りを心掛けてほしい。
ちなみに、賢治さんの影響で二人とも将来の志望は警察官で、髪は地毛のままの黒だ。
「おはよう、トシちゃん、朝ご飯食べるでしょ?」
マサルの相手をしていた母親が、キッチンに入りながら話しかけてきた。
「おはよう、母さん、トーストは二枚で」
カウンター越しにコーヒーを受け取ってから、マサルの向かいの椅子に腰を下ろした。
「結局、柔道部の合宿はどうするんだ?」
ふと思い出して、問う。返答次第ではこれからのスケジュールに変更を加える必要がある。
マグカップの中で揺れる焦げ茶色の液面にフウフウ息を吹きかけていたマサルは、チラリと一瞬だけ視線を投げてきた。
「んなもん、ブッちに決まってんだろ」
「……いや、わかってたけど、さ」
そういう奴だと判っていたさ。
マサルには前科がある。
中学三年の時、地方大会個人戦決勝を見事にドタキャンしてのけた。
当日、俺は応援するつもりでマサルと一緒に家を出たのだが、奴が向かったのは会場ではなくて成田空港だった。
「閣下が新作宣伝のために今日来日するんだよ」
得意げに胸を張る奴に、俺が溜め息を吐いたのは言うまでもない。
有名なハリウッド・スターを一目見ようと大勢の人が押しかけていた。混乱を避けるために通路に沿ってロープが張られ、等間隔でガードマンが立っていた。
到着ゲートにお目当ての人物が現れた時、マサルは一匹の獣になった。
結果は夕方の全国ネット・ニュースで確認できた。
黒人のガードに取り押さえられる、黒詰め襟姿の一人の学生。我が幼馴染みの勇姿だった。
その頃でもマサルの身長は180cmをオーバーし、踏ん張れば制服の胸ボタンを弾くほどの大胸筋を誇っていた。そんな奴が突進したきたら、そりゃ誰だって焦るだろう。
俺だって躊躇わずに逃げる。
“マサルちゃんの好きな人が出演するって聞いたから”
といってレグザの録画ボタンを押していたマイ母、ナイス・プレイだ。
賢治さんが迎えに来るまでの間、空港保安室の片隅で肩を震わせて男泣きするマサルに、俺は掛ける慰めの言葉を持ち合わせてはいなかった。
もちろんマサルの愚行は権威ある決勝戦をスッポかされた大会運営側にも伝わり、その後半年間の公式戦出場停止をくらっていた。
「なんでこのクソ暑い中、汗まみれの野郎と組んずほぐれつしなきゃいけねぇんだよ」
エアコンの効いた室内で熱いコーヒーを啜りながら、マサルが面倒くさげに吐き捨てる。
俺も小学校の高学年まではマサルと一緒に柔道をしていたから、言いたいこともなんとなく理解できた。あの頃は男女混合で練習していたからな。
高学年の部の大会で、対戦相手の小僧がやたらと足ばかり蹴ってきたので、ムカついてやり返したのが、俺の最後の柔道だ。
今思い出しても、あれは人生の中でも最高の右上段回し蹴りだった。
当然審判に叱られ、ふて腐れた俺は柔道着を投げ捨てて剣道に転身した。警察官になるためには柔道か剣道のどちらかが必須と教わっていたので、残る選択肢がそれしかなかったのだ。
今でも週一で警察署の道場に通っているが、自分でも才能はないなぁと思う。身長も175cmから一向に伸びようとしないし、高段者の竹刀捌きは自身の限界というヤツを容赦なく突きつけてきた。
初段をとってからそろそろ一年になるので二段をどうかと勧められているが、どうも真剣になれないんだよな。
その点、格闘技系に関してのみであれば、マサルは才能の塊だ。
俺は間違っても試合場でマサルと向き合いたいとは思わない。
「真面目にやってれば、来年あたり、代表選考会にも呼ばれるんじゃないのか?」
もったいない、と考えるのは俺だけではないはずだ。
ものぐさに振る舞っているが高校の部活動程度で満足していないのは、長いつきあいだからこそ筒抜けだった。
「うぜぇ年寄り連中のご機嫌取りなんてゴメンだぜ」
冗談めかしてマサルが答える。
「ま、好きにすればいいさ」
本人がそう言うのだから、それ以上突っ込みを入れるのは野暮というものだろう。
それからは、とりとめもない雑談を交わしながら、俺は母の用意した朝食を平らげた。
夏の課題の進行状況を互いに話していた時、キッチンから声が掛かった。
「トシちゃん、そろそろ時間じゃない?」
俺は時間を確かめる。
「だね。ちょっと着替えてくる」
マサルをその場に残し、歯を磨いてから自室に戻った。
寝間着にしていたTシャツとハーフパンツを脱ぎ捨て、昨夜のうちに用意していたメッシュ地の半袖ポロと、迷彩模様のカーゴパンツを身に着ける。
小物を納めたウエストバッグを腰に巻き、パンパンに膨らんだグレゴリーのバックパックを背負えば準備は完了だ。
下に降りると、マサルが身支度を終えて玄関に立っていた。
框に腰掛け、出してあったホーキンスのトレッキングシューズを履く。長時間の歩行を予定しているから、靴紐はきつめに縛っておく。
「よし」
気合いを入れて立ち上がる。背中の荷物の重さにバランスを崩し掛けたが、ショルダーベルトの位置を調整して重心をとり、ウエストベルトをきちんと填めた。
マサルの持つ薄茶色のバックパックはJ-TECH製のヘラクレスで俺のよりも一回りは大きく、重量も余計にあるはずなのだが、それをまるでショルダーバッグかのように軽々と左肩から下げているのだからイヤになる。
「二人とも、危ないトコロに近づいちゃダメよ。困ったことがあったらすぐに連絡するのよ。いいわね?」
毎年聞かされる母の注意に生返事をして、玄関の外に出た。
降り注ぐ夏の日差しに、視界が瞬間白色に染まる。
「うわぁ、あちぃなぁ~」
陽光が痛みを伴って剥き出しの肌に照りつける。
アスファルトがギラギラと光っていた。
06.06 一部表現を修正