金魚
狭い水槽の中、五、六匹の金魚が泳いでいる。
時刻は夕方、すでにほとんどの児童は下校し、二年二組の教室にいるのはマサキ達三人だけだ。
水槽の前に二人、少し離れてもう一人。
「なあ、もう帰ろうや」
そう言って肩に置かれた手にも気付かない様子で、ガラスの中で泳ぐ金魚を見つめているマサキ。
「勝手によその教室に入ったら、怒られるで」
マサキはこのクラスの児童ではない。帰りに二組の前を通ったときに金魚の水槽が目に入ってから、もうずっとこうしている。
「マサキ、帰ろってば」
言葉とともに体を揺さぶられ、ハッと我に返る。
それでもしばらく水槽を眺め、ぽつりと呟く。
「なあタケシ、こいつらかわいそうやな」
「はあ?」
「だって、こんな狭い所に閉じ込められて、どこにも行かれへんねんで」
「それは……そやな」
しばらく考えて、マサキは力強く宣言した。
「よし、こいつら逃がしたろ」
「え?」
驚くタケシにかまわず、給食で余ったパンを持って帰るためのビニール袋を取り出して、水槽の水をすくう。
「いや、勝手にそんなことしたら、先生にめっちゃ怒られるって」
「お前これ持っとけ。上んとこ開けとけよ」
「うん。……いや、だからあかんて」
「待っとけよ。今、広いとこに連れてったるからな」
タケシの抗議には耳を貸さずに、棚に置いてあった網で金魚を移していく。
すぐにビニール袋への引っ越しは完了した。
「体育館の近くに、水ためてる所あったやろ。あそこに、いっぱい金魚いてんねん。こいつらも連れてったろ」
タケシの手からビニール袋を奪い取り、意気揚々と教室の出口に歩き出す。
そこで、今まで黙って二人の行動を見ていたユウマの姿に気付く。
「あれ、ユウマまだおったん」
「おもろそやな。オレも行くわ」
ユウマは、なぜかニヤニヤしながらついてきた。
校舎と体育館に挟まれた位置に、ひっそりと貯水池があった。濁った水はどれだけ深いのか見当もつかず、金網で蓋がしてあっても、覗き込むと吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じた。その中に時折、小さな赤い姿が見える。
タケシは最後まで反対していたが、マサキに押し切られて渋々いっしょにやって来た。
「よーし、今、広いとこに出したるからな」
ビニール袋がひっくり返され、自由になった金魚たちはすぐに水中深く潜って見えなくなった。
じっと水面を見ていたマサキは満足げに頷き、
「帰ろ」
タケシを促した。
二人の様子を、ユウマは面白そうに眺めていた。
「怒られへんかな。どうしよう」
帰り道でもタケシはぶつぶつ言っていたが、
「いいことしたのに、なんで怒られんねん」
マサキは相手にしなかった。
タケシやユウマと別れた後も、笑顔が浮かぶのを抑えられなかった。
金魚たちを解放した。
その達成感でいっぱいだった。
次の朝、いつものように時間ギリギリに二年三組の教室に到着。教卓の真ん前、先生から一番近い席に座る。
一時間目はプールなので、着替えて校庭に出る。学年全員で準備体操をするためだ。
と、不意に肩を突き飛ばされた。振り返ると、二組のイチロウが立っている。普段からふざけて叩いたりくすぐったりし合う相手だが、どうも様子がおかしい。
「ユウマが言うとったぞ。このドロボウ」
「へ? ドロボウ?」
訳が分からず聞き返そうとした時、先生が来て体操が始まった。イチロウは自分の列に戻っていった。
ドロボウ。そんなことを言われたのは初めてだ。イチロウは怒っていた。冗談を言っているふうではなかった。
なんで? わからん。なんでそんなこと言うんや。ユウマが言ってた? 何のことや。
よく怒られるマサキだが、ドロボウがいけないことなのは知っている。そして、自分がドロボウと呼ばれるようなことをした覚えは全くない。
どれだけ考えても、イチロウがなぜ、あんなひどいことを言ったのかわからなかった。
プールが終わって教室に戻るとき、先生に着替えたら職員室に来なさいと言われた。朝の出来事を聞いてもらいたかったから、ちょうどよかった。
大急ぎで服を着て職員室に行くと、担任の山田優子先生が困った顔で待っていた。その表情の意味に気付かず、
「先生、イチロウがオレのことドロボウって言うねん!」
声に出すと、改めて悲しみが襲ってきた。
「な……んで…や、ろ」
うまく言葉が出てこない。かわりに涙が溢れてきた。
先生はマサキの肩に両手をのせて、
「そうか、それは悲しいね」
と言った後、しばらく黙って、マサキが泣きやむのを待っていた。
「まさ君、先生の目を見てみ」
マサキが顔を上げると
「よう考えてな。本当に、イチロウ君が怒るようなこと、何にもしてない?」
先生の目を見ながら、考えた。これまでにないほど真剣に考えた。でも頭の隅々まで探してみても、何も見つからなかった。
「してない」
先生はどう話そうか迷っていたようだったが、
「昨日、さよならした後、まさ君二組の教室に行って、何かしなかった?」
それで思い出した。昨日はドロボウどころか、すごく良いことをしたのだ。すっかり忘れていた。
「金魚逃がしたった!」
マサキが嬉しそうに言うと、先生はびっくりした顔になって
「え、ほんまにやったん?」
ショックを受けたようだった。
「うん、狭くてかわいそうやから、体育館のとこの池に連れてったってん」
先生は怒ったような、困ったような、なんとも言えない顔になって、
「そう……」
とだけ言って、横で話を聞いていた二組の谷村先生の方を見た。
谷村先生は冷たい声で
「あんたなあ! 何したかわかってんの? あんたのしたことは、ドロボウやで!」
え?
なんで?
目と口を真ん丸にして谷村先生を見ているマサキに、優子先生が静かな声で話しかける。
「まさ君は、狭い水槽に閉じ込められてる金魚がかわいそうやから、もっと広い所で泳がせてあげたいと思ってんな。その気持ちは、先生もとってもいいと思う。でもな」
一旦言葉を切ってため息をついた後、ゆっくり続けた。
「あの金魚たちを、二組のみんなが一所懸命世話してたのは知ってるな。それが突然いなくなったら、二組の人たちはどう思うかな」
「あ」
頭を思いっきり殴られたような気がした。
ドロボウって、そういう意味やったんか。
かわいがっていた金魚が急にいなくなった人の気持ちは、想像もしなかった。
イチロウが怒んの当たり前や。イチロウだけやない。みんな怒ってる。
体が震えだした。目の前が滲んで、先生の顔がはっきり見えない。口の中がカラカラで、声が出ない。
「二組の人が怒るの、わかった?
「うん」それだけ言うのが精一杯だった。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
とんでもないことをしてしまった。
どうすれば、許してもらえるだろう。
「で、どうするん?」
谷村先生の声が聞こえた。
「君は、悪いことしたって思たんやろ。ほんなら、まずすることあるな」
すること
「あやまる……?」
「そやな。それから?」
「それから」
「また同じことするん」
「せえへん、絶対せえへん!」
首を振り、叫んだ。
「わかった。ほな二組のみんなに、自分で話し。許してもらえるかはわからへんで。君はそれだけのことをしたんやで!」
「うん」また涙が溢れてきた。
あの時、タケシがやめとこって言うたんは、こうなるってわかってたんかな。
ちゃんと聞いたらよかった。
オレのせいで、きっとタケシも怒られてる。
どうしよう。
あやまったら許してくれるかな。
みんなにもあやまるけど、タケシが許してくれへんかったらどうしよう。
ほんまにどうしよう。
次から次へと涙が流れる。大きな声を上げて泣き出したマサキの背中を、優子先生はやさしく撫でてくれた。
「ごめんなさい!」
タケシと並んで頭を下げる。
一度止まっていた涙がまた溢れてくる。
二組のみんながどんな顔でこっちをみているのか。どう思っているのか。
怖くて顔を上げることができない。
とんでもないことをしでかしたのだと、今はわかっている。
どんなに怒られても、許してもらえなくても仕方ない。
隣で、同じように項垂れているタケシをちらりと見る。
ずっと止めようとしてくれていたのに、オレが聞かなかったせいでタケシまでいっしょに怒られることになるなんて。
本当に申し訳ない。
「ごめんな」小さな小さな声で呟いた。
この後どうなっても、今後はもう二度とタケシを巻き込んだり、迷惑をかけるようなことはやめよう。
マサキは、心に誓った。