眼球ポルカ
ちょっと前に紙媒体に書いたもののリサイクル品です。
特にオチらしいオチのない話という点、ご了承下さい。
鈴木青子の右目眼球は兄・鈴木藍であり、兄・鈴木藍は鈴木青子の右目眼球である。
「ごめん、俺、彼女いるんだ」
―――故に、その瞬間、鈴木青子が二年間にも及ぶ片恋の果てに想い人に振られた時も、彼女の右目眼球は冷徹に乾いたまま瞬きを繰り返すに止まった。
物心つく頃から、とはよく言ったものだが鈴木青子の場合もまさにその例に洩れず、「物心つく頃から」鈴木青子と鈴木藍は共生していた。共生、また口の悪い藍は寄生などとも言っている。
青子は胎児の頃は双生児(二卵性ということは出生してから分かったことである)であったが、母親が妊娠時に事故にあったのちは一人になり、そのまま一人で子宮の中でまどろんだ末、やはり一人で産声を上げ生まれてきた。
青子の右目は非常に黒い。日本人における虹彩の色彩は黒と言いながら濃い茶色で彼女の左目の虹彩もやはり焦げ茶色だが、しかし青子の右目の場合は医者も驚く、本当に真っ黒にも等しい黒い色だった。そして、その右目こそが、確固とした自我を持つ青子の兄・鈴木藍なのである。
『―――あおこ、』
青子が藍と会話をしたもっとも古い記憶は三歳、青子が(今考えても自分が何を思ってどこに行こうとしていたのかは定かではないが)田舎の祖父母の実家裏手にあった山中を彷徨っていた時である。
時刻は恐らく夜だった。歯を食いしばって立ち尽くす青子の頭上には皓皓と青子の愚かさを嘲笑う満月が輝いていた。そんなとき 、唐突に青子は酷く乾いて冷たく、やさしい声をかけられたのだ。
幼いくせに大人びたその声は頭の中、それももっと正確に言うならば右目の奥を震わせて(ひどく理解しがたい形容だが青子にはそれ以上その声の出所を説明できない)青子に言葉を伝えていた。
『ばかだな、あおこ』
声は本当にどうしようもないものを見るように、侮蔑と限りないあたたかな労りがあったように思う。
『ばかなあおこ。だからあんなにひとりでやまにはいっちゃだめっていわれただろうに』
ぐずりながら青子はそのまま声の言うとおりに進んだ。
その声はくるりと青子を後ろに向き直らせるなり、草を踏みわけ、獣道を遡り、木の枝の下をくぐり抜けるように指示を出しながら、へとへとになりなった彼女を、だけど最後まで幾度も幾度も宥め賺しながら山の裾にあった祖父母の家に帰した。それはそれは、優しい声で 、幾度も青子の名前を呼びながら。
『あおこ、ねるなよ。あとすこしあるきなさい』
それからも時折(主に青子の失態から)会話を繰り返し、ついには何でもない時にも会話をするようになり、やがて自分のことを何も言わない右目に、青子は両親が用意したまま眠りに就くことになった名前を使い始めた。
右目は散々青子に十分にも及ぶ憎まれ口をたたいた末(その頃には青子の右目は眼球一つにはとても収まりきらないような、そして持ち主の青子でも遥かに及ばないほどの豊富な語彙と知能を保有していた)、『仕方がないな、使ってやるか』と名前を受け入れた。
以来、鈴木青子の右目は、兄である鈴木藍なのである。
『人の話を聞かないからだ、青子』
家に文字通り逃げ帰った青子の右目は機械的に瞬きを繰り返しながら、乾いて冷たく、そしてやはり相変わらずどこかやさしさをにじませた声で泣き続ける青子を宥めた。青子の意識の外にある瞼がぱちりぱちりと機械的に瞬く。
(なによっ彼女がいるなんて、言わなかった!)
『やめておけと言っただろう?』
藍は堅苦しい口調を使っている。藍曰く、青子たちが使う言葉は「美しく」ないし、何より彼にとっての最も身近な言葉というものは小説などにはじまる活字という文語的文字媒体だからだ。
左目で涙を流しながら青子は枕に顔を埋め、藍がため息をつくほど情けない声で声にならない嘆きごとを連ねる。藍の思考は青子にはさっぱり理解できないが、青子の思考はしっかりと藍に伝わるという事実は何時考えても理不尽だった。
そのときの青子の思考は恨み事という言葉の方がふさわしいかもしれない。つまりは理性も理論も理屈もない、完全なる逆上であり八つ当たりじみて感情的な思考の吐露だった。
(ひどいひどいひどい初恋だったのにふられちゃったじゃないない勇気をふりしぼったのに彼女なんている素振りなんてなかったじゃないややこしいメール返してきたくせに!)
『やめなさい、青子』
(うるさいうるさいうるさい!)
年上のような言葉とともに右目が二度、視界を覆って、開く。見慣れた自分の部屋を他人事のような藍の視線で眺める。机、ベッド、本棚……。不思議な、だが手慣れたその世界が無性に苛立たしくて青子はいつの間にか握っていたクッションを壁に投げつけて、きぃきぃする甲高い声で、喚いた。
「藍の馬鹿馬鹿馬鹿! いっつも口先ばっかりのくせに偉そうにしないで!」
『――――――』
ヒステリックな己の最後の声が消える前にクッションが床に跳ねる微かな音が耳に触れた。その音を認識した瞬間にやった、と思った。
快哉ではなく、青ざめた絶望じみた吐息とともに。青子は思いきり、息を吸った。喉に冷たい空気が張り付く。
―――やった、やってしまった。
どうしよう、藍。
あたしは今、藍にとって一番残酷な言葉を吐いた。言ってしまった、どうしようどうしよう。藍、藍、藍!
混乱する思考のまま、それでも青子は咄嗟に右目に手を伸ばした。右目は青子ではない。右目は藍だ。しかし眼球に触れる感触はしない。指先に感じるのは青子の睫毛と内側に球体を秘めた瞼だけで青子はそこでようやく、藍が瞼を閉ざしたことを知った。
「あ、い」
小さな吐息を感じる。胸が震えるような、ささやかで、だけど確かな藍の吐息だった。
「あい、」
酷く、長く感じる沈黙が胸に落ちた。
『 、青子』
やがて聞こえた藍の声はいつもと変りなく酷く乾いたそれだった。
『青子、青子。いい、分かってる』
震える青子の手を、瞼を上げた藍の視線が見詰めていた。何か異常な病気のように、青子の手は震えていた。
『泣かなくていい、お前は悪くない。傷つかなくていい』
(ごめんなさい、)
青子は胸の内で繰り返した。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。幾度繰り返しても吐き出してしまった言葉は元には戻らないのだ。
青子は唇をかんだ。投げ出された自分の腕を睨みつける。皓皓と、電球が不健康に細い青子の腕を照らしていた。
藍は幾度か青子の名前を繰り返した。藍の乾いて冷たくて、やさしい声は謝り続ける青子の胸の内をそっと宥めた。まるで、あの迷子になった夜のように。
やがて青子の謝罪が途切れ、そのあとには藍のそれすら途絶え、室内にも胸の内にも沈むような静けさが横たわる。
『嗚呼、』
気の遠くなるほどの間をおいて、胸の内を震わせたのは溜息のような藍の深い深い、吐息だった。
『駄目だなぁ、私は』
一回、二回―――瞼は震えながら右目を潤ませた。藍は小さく小さく、ささやきにも小さな音で青子の胸に言葉をこぼした。
『私は、青子を抱きしめることも、泣きそうな青子の手も握れないのか』
「あい、」
呻くような声だった。青子がはじめて聞いた、ねじれて震える、藍の声だった。胸が軋んだ音を立てる。もう、謝罪すら浮かばなかった。
青子の右目から涙がこぼれる。ほとりほとりと零れた涙は、まるで慰めるように、青子の左手の甲を温かく柔らかく叩き、伝い落ちていった。
(あおこ、やまはいけないよ。いっただろう、あぶない)
(いいの、あおこやまがみさまにおねがいしにいくの)
(やまがみ? さっきおばあちゃんのいっていた?)
(そう、やまのかみさまならあおこのおねがいきいてくれるかもしれないでしょう? かみさまならかなえてくれるもん)
(なにを、たのむ)
(おにいちゃんとあえますようにって)
(……、)
(おにいちゃんとあえるようにおねがいするの。おはなしだけじゃないの、おにいちゃんがうちのこになれますようにって。そうすればおにいちゃん、さびしくないでしょう?)
(……)
(おにいちゃんがかなしいときにはあおこがぎゅってできるでしょ?)
(あお)
(それでね、おにいちゃん。ずっとずっといっしょにいようね)
いっしょにいろいろなものをみましょう
いつでもてをつないで、わらって、ないて、
ねえ、それはきっととってもすてきなことでしょう?
(嗚呼、)
(それはきっととても幸せな光景に違いない。)
(青子)
オチてない上、お粗末すみません。
ご読了ありがとうございました。