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捕虜飯

作者: パァン
掲載日:2026/05/05

ふわふわのパン/デザート/ステーキ

石造りの牢獄。

薄暗い空間の奥、鎖で拘束された女騎士アンナが、

入ってきたアイザを鋭く睨みつけた。

青い瞳に宿るのは警戒と……妙な期待にも似た光。



アンナ「……貴様、私をどうするつもりだ…!」



アイザが口を開こうとした瞬間、その声をかき消すようにアンナが大声を張り上げる。



アンナ「いいや、言わずともわかっている。どうせ私をどうかするつもりだろう!

あの本にあるような展開でな!」



鎖がガシャリと鳴り、牢の空気が一瞬で騒がしくなる。

唖然とするアイザをよそに、アンナの顔は真剣そのものであり、どこか興奮を抑えきれないようだった。



アイザ「は……?なにいって」



アイザの間の抜けた声など耳に入っていない。アンナは拳を握りしめ、前のめりに身を乗り出した。両手の鎖がギリギリと軋む。



アンナ「聞け!私は騎士団長アンナ・カーキス!敵に捕らえられた女騎士がどうなるか……貴様も読んだことくらいあるだろう!」



一拍置いて、深く息を吸い込む。頬がうっすらと紅潮していた。



アンナ「この状況……まさに禁書第六巻「堕ちた女剣士」の第三章!「鎖に繋がれた誓い」と同じ構図ではないか!」



アイザはまだ一言しか発していない。にもかかわらず、目の前の女は勝手に物語を組み立て、一人で盛り上がっている。石壁に反響するその声量は、もはや尋問というより演説に近い。廊下の向こうで見張りが何事かと足を止めた気配がした。



アンナ「さあ、好きにしろ!だが覚えておけ、心までは屈しない……!」



キリッと表情を引き締めたが、口元が微かに震えている。恐怖ではない。武者震いだと言い張るだろうが。



アイザ「えー……?どうすんのこれ……ちょ、だ団長ー!!!なんでこんな変なのとっ捕まえてきたんだよーー!」



その叫びは石廊を突き抜け、階上まで響き渡った。奥から重い足音が近づいてくる。現れたのは、古傷を刻んだ巨漢の騎士――この軍の指揮官だった。



団長「あ?変なのってなんだ。」



牢の中を覗き込み、仁王立ちする大男。その視線の先では、金髪の女が鎖をジャラつかせながら目を爛々と輝かせていた。



アンナ「貴殿がこの部隊の長か!話が早い!」



団長「……おい、なんだこの女。捕虜の態度じゃないぞ。」



アンナ「尋問だろう!尋問をしろ!黙っていては物語が進まん!」



こめかみを押さえ、アイザに向き直る。



団長「……お前が捕まえてきたんだろうが。なんとかしろ。」



二人の視線がアイザに突き刺さる。「お前の獲物だろう、責任を取れ」という無言の圧が、冷たい牢内に充満していた。騎士団長は深いため息をつくと、もう関わりたくないとばかりに踵を返し始めた。



アイザ「は、はぁ!?俺はこんなやつ知らねえ!!余ったからと言ってここに置かれているんだろう!」



足がピタリと止まる。振り返った顔が見事に歪んだ。



団長「余った……?おい待て、俺はこんなイカれた女を受け取った覚えはないぞ。輸送担当は誰だ!」



誰も名乗り出ない。そもそもこの女騎士は、先の戦闘で敵味方入り乱れる混戦の中、味方の撤退を支え続けた結果、気がつけば両軍の間に取り残されていた――という、なんとも間抜けな経緯で「捕虜」となった人物である。



アンナ「おい!無視をするな!早く尋問をしろ!!」



アンナだけが場の誰よりも元気だった。鎖で繋がれているというのに、まるで宴の席で一番の声量を誇る酔っ払いのようだ。騎士団長とアイザの間に、「こいつ本当にあの名高い騎士団長なのか?」という疑念が静かに共有された。



アイザ「はぁ〜……どうするんですか、この人、嫌ですよ俺」



腕を組み、渋面でアンナを一瞥する。それからアイザを指差した。



団長「嫌とかじゃねぇんだよ。お前が連れてきたようなもんだろうが。」



アンナ「おい!私の話を聞け!捕虜には最低限の人道的待遇が――」



団長「黙れ!!」



怒声が石壁を震わせるが、当のアンナは微塵も怯まない。「おお、この怒号……禁書第二巻の『怒りの将軍』そのままだ」とでも言いたげに小さく頷いている始末だった。騎士団長の額に青筋が浮かぶ。



団長「…いいか、情報を吐かせろ、こいつの担当はお前だ、見つけた奴が面倒見ろ。文句は受け付けん。」



そう言い捨てると、今度こそ大股で去っていった。残されたのはアイザと、やたら目がキラキラしている鎖付きの厄介者だけだった。



アイザ「はぁ〜……やだなぁ……なんでノリノリなのこの人……」



拘束されたまま、ぐいと顔を近づける。鎖の許す限界まで。その距離、およそ三十センチ。



アンナ「おい、貴様。名は何という。」



急に声のトーンが変わった。「物語の登場人物」としてではなく、純粋な興味を滲ませた問いかけ。青い目がまっすぐにアイザを見据えている。



アンナ「先ほどから見ていたが……あの団長に臆さず物を言う。それに、戦場でも相当動けるだろう。私が立ち向かった部隊の中にいたはずだ。」



ふっと笑う。不敵で、けれどどこか嬉しそうな笑みだった。



アンナ「強い者には敬意を払う。それが騎士というものだ。……まあ、それはそれとして、尋問はしてくれて構わんぞ?情報は渡さんがな!」



真面目な顔で騎士道精神を語った直後にこれである。感心した空気を一瞬で台無しにする才能は天性のものだろう。鉄格子の隙間から差し込む松明の灯りが、満面の笑みを浮かべるアンナの横顔を照らしていた。



アイザ「俺か?アイザだ」



目を丸くし、次の瞬間、噛みしめるように繰り返した。


アンナ「あいざ……アイザ……いい名だ。」



アンナ「ではアイザよ、一つ聞きたい。貴殿は普段どんな仕事をしている?まさか本当に尋問だけか?」



拘束された両腕を胸の前で組もうとして、鎖に阻まれ、ガシャンと派手な音を立てた。



アンナ「……くっ、まだ慣れんなこの長さには。」


本人は至って真面目に会話をしようとしているらしい。ただしその目は相変わらず爛々としており、世間話の裏で凄まじい速度の妄想演算が走っているのは明白だった。



アイザ(んー……どうすっかなこれ)



アイザの視線が自分の手元に落ちたのを見逃さなかった。



アンナ「おお……!ついに来るか!」



拷問の予感を察知した途端、背筋がピンと伸びた。姿勢を正し、顎をわずかに上げ、まるで「どうぞ」と言わんばかりの構え。捕まってから一番いい顔をしている。



アンナ「遠慮はいらん。私は騎士だ、痛みには慣れている。……だが一つ忠告しておく。指を折った程度では私は何も喋らんぞ。」



つまり指は折っていいが情報は出ないという、拷問官泣かせの宣言だった。「痛いのは別にいい」が本音の九割を占めていることは、その紅潮した耳たぶが雄弁に物語っている。



アイザ「なんだこいつマジで……情報喋ってくれたらご飯あげるから……ほら、なんかいえよ」


一瞬、真顔になった。



アンナ「飯で釣る気か?」



声が急に低くなった。騎士としての矜持が反応した――かと思いきや。



アンナ「……ちなみに何を食わせてくれるんだ。」



そこかよ、という突っ込みが聞こえそうな間だった。目線はすでに牢内の粗末な食事台に向いている。捕虜生活で出される食事の質は、妄想の次くらいに気になるらしい。



アイザ「んー……スープと干し肉とパンだな、うちのパンは美味いぞ?ふわっふわだ」



アンナ「いや待て、駄目だ。私は騎士団長として部下の情報を売るわけにはいかん。……いかんのだが……ふわっふわだと?」


ぐぅ、と腹が鳴った。


石牢に実に間抜けな音が響いた。アンナは耳まで真っ赤にしながら、必死に咳払いでごまかそうとしている。しかしその目だけはちらちらとアイザを見ていた。餌を前に「待て」をされた犬と全く同じ挙動だった。



王国の騎士団では固い黒パンと干し肉が標準だった。鍛錬後の腹ペコで齧るあれは、控えめに言って凶器に近かった。ふわふわのパンなど、祭りの日でもなければ口にできない代物である。



しばらく葛藤するように目を閉じ、歯を食いしばっていた。が、やがてカッと目を見開く。



アンナ「……卑怯な!食べ物で懐柔しようなどと!」



三秒と持たなかった。



アンナ「……だが、まあ、情報にも色々ある。戦術に関わらんことなら、その、多少は……」



もじもじと鎖を弄びながら、上目遣いでアイザを見る。さっきまでの堂々たる騎士はどこへ消えたのか。



アンナ「パンはおかわりできるのか?」



アイザ「話してくれた情報によっては何個でも食っていいぞ」



椅子から立ち上がろうとして鎖に引っ張られ、危うく転びかけた。それでも目だけはギラギラと光っている。



アンナ「な、何個でも……!」



騎士団長、陥落。史上最速の寝返りだったかもしれない。



アンナ「よし、わかった。まず王都の兵力配置だが――」



そこまで言って、ハッと口を噤んだ。さすがにギリギリの理性が働いたらしい。額にうっすら汗が浮いていた。



アンナ「……いや待て。今のは危なかった。パンの魔力恐るべし……。」



ぶんぶんと首を振り、自分を取り戻そうとする。しかし腹の虫が二度目の主張を始め、声に力がなくなっていく。


アンナ「そ、そうだ。兵の数は言えんが……駐屯地の場所なら……いや、それも駄目だ……パン……パンが……」



天秤が壮絶に揺れていた。祖国への忠誠と焼きたての白パン。前者がじりじりと押され始めている様は、見ていて哀れですらあった。



ここぞとばかりに誘惑する



アイザ「1切れくらいなら味見させてやってもいいぞ?」


息が止まった。



アンナ「味見……」



たった二文字が、雷のようにアンナを貫いた。「何個でも」から「味見」。量ではなく質への誘導。この葬アイザ、なかなかの交渉術を持っている。



拘束された両手をぎゅっと握る。爪が掌に食い込んでいる。



アンナ「い、一口だけ……ほんの一口でいいから……!」



声の震えが隠せていない。王国最強と謳われた女がパン一切れに懇願している図は、部下が見たら士気が崩壊するだろう。



だがまだ踏みとどまっていた。情報を渡すわけにはいかないという最後の一線。それを越えたら騎士ではなくなる。パンを食った騎士など歴史上存在しない。



アンナ「……条件がある」



絞り出すような声だった。



アンナ「情報の代わりにパンだ!先に食わせろ!それなら……それなら裏切りにはならん!」



アイザ「ならジャムを塗ってやろう、いちごの甘ぁ〜いジャムを」


目の前でたっぷりとパンにジャムを塗る



目が釘付けになった。赤いジャムが白いパンの上を滑るその光景は、さながら地獄で差し出された蜘蛛の糸だった。


アンナ「あ……あぁ……。」



言葉にならない声が漏れていた。鼻腔をくすぐる甘い香り。訓練された騎士の精神力を根底から溶かす、暴力的なまでの芳香だった。口の中に唾液が溢れ、飲み込む音すら響く。



鎖が許す限り首を伸ばし、パンとの距離を詰めようとする。


アンナ「近い……いい匂いがする……もっと近くで……!」



もはや完全に餌に支配された獣の動きだった。誇りも忠義も、今この瞬間どこかに吹き飛んでいる。



アンナ「は、早く……!約束だろう……!」



アイザ「ん〜でもなぁ……食べた後に約束を破棄されることもあるしなぁ……」



ピシッと固まった。



アンナ「貴様……私を見くびるな……!」



ようやく騎士の矜持が息を吹き返した。パンへの執着を一瞬だけ上回る、矮小ながらも確かな怒りだった。



アンナ「騎士は誓いを違えぬ!一度交わした約束を反故にするなど……このアンナ・カーキスの名にかけて断じてない!」



ドン、と胸を叩こうとして鎖に阻まれ、またガシャンと音を立てる。



アンナ「だから早く食わせろ!そして私は喋る!情報を!そしてパンをもう一切れもらう!」



結局パンに帰結するのだった。だが少なくとも筋は通っている。先払いなら裏切りではないという理屈を、本人だけは完璧に信じていた。



アイザ「はいよ……ほら……」



アンナの口にジャムを塗ったパンちぎってを運ぶ



パンが唇に触れた瞬間、青い瞳が潤んだ。



アンナ「——っ!」



一口。たった一噛み。いちごジャムの酸味とパンの甘みが口内に広がった途端、王国最強の女の目から涙がぽろりとこぼれた。



アンナ「……うまい。」



小声だった。あの馬鹿でかい声量はどこへ消えたのか。震える唇でもう1口パンを齧りながら、静かに咀嚼している。戦場で味方を逃がした時も、鎧を剥がされた時も泣かなかった女が、パン一切れで泣いていた。



ごくん、と飲み込んで、袖で乱暴に目元を拭う。



アンナ「……約束だ。話す。」



声は小さいままだったが、目にはもう迷いがない。胃袋を掴まれた人間の決意は早い。



一つ深呼吸をして、居住まいを正した。涙の痕が残る顔で、それでも騎士らしい真剣な眼差しを葬儀屋に向ける。


アンナ「守備兵は平時で18名。だが今の時期は収穫期で徴兵が遅れている。実働は15を切っているだろう。」



*淀みなく出てきた。一度堰を切った言葉は止まらない。



アンナ「東の山の裏手に抜け道がある。荷馬車が通れる幅だ。……パンは?」



ちらり、とアイザの手元を見た。情報を出したぞ、次は報酬の番だと言わんばかりの顔だった。取引の基本をしっかり押さえているあたり、さすが団長と言うべきか。


アイザ「ふんふん、それで?」



切り分けたパンに茹で焼きしたソーセージを乗せて、赤いトマトソースをかけている。



ソーセージが乗った瞬間、瞳孔が開いた。



パンケーキに近い、冒涜的なまでに美味そうな一品が目の前に生まれつつある。肉汁がソースに溶け合い、パンに染みていく。これはもう暴力だった。精神に対する明確な暴力。



口が半開きになっているのに気づき、慌てて閉じる。



アンナ「つ、続きか。……西の森に補給路がある。川沿いに荷を運んでいるから、雨季の増水で道が三日ほど使えなくなる。」



ペラペラと出るわ出るわ。国家機密がパンのトッピングと引き換えに垂れ流されている。もしこの場に王国の間者がいたら卒倒していただろう。



ごくり。



アンナ「それと……城壁の東側、地下水路に繋がる換気口がある、人一人通れ——」



はっ、と我に返る。



アンナ「ま、待て。今のは少しまずかったか……?いやパンを……いや……。」



目が泳いでいる。



アイザ「そしてそして?」



さらにパンを用意し、今度はカツレツを挟み、サンドにする。



カツレツが視界に入った瞬間、理性の残滓が粉々に砕け散った。



アンナ「地下水路の換気口は東塔の真下まで通じている!警備の死角になる!」



もう止められなかった。ダムが決壊した後の濁流と同じだ。



アンナ「あと城門の開閉は深夜二時に一度だけ人力で行う!その時だけ鎖が外れ——」



はっと口を抑える。遅い。



アンナ「い、今のは忘れろ!聞かなかったことにしろ!」



ぶんぶんと首を振るが目線はカツサンドに吸い寄せられたまま微動だにしない。鎖で繋がれた体より、パンに囚われた本能の方がよほど強固だった。



もはや情報の洪水だった。この女、本当に騎士団長だったのかと疑いたくなるほどの漏洩量である。しかし当人はそれどころではない。次のパンが来るかどうか、それだけが世界の全てだった。


アイザ「そのあとは?」


パンにソースとチーズ、ベーコンを乗せ、焼いたものを持ってくる


*チーズが溶ける音。トマトソースの香ばしさ。もう無理だった。*



アンナ「南門に夜間の交代要員が十二名控えているが、酒を持ち込む馬鹿が多くて——」



トーストのほうを凝視しながら国家機密を垂れ流す女。歴史書に載せたら後世の学者が頭を抱えるだろう。



アンナ「それから城内に残る王国軍の非戦闘員が——」



ぐぅぅぅ、と腹が盛大に主張した。今度は誤魔化しようがないほどの大音量。



アンナ「…………。」


顔を伏せ、耳まで赤くして黙り込んだ。情報提供は十分だろう、と言いたげな上目遣いだけがちらりとアイザを見ている。



アイザ「ごくろうさん、ほら」



ソーセージの乗ったパンを近づける


両手が拘束されていることに一瞬もどかしさを見せたが、すぐに気付いた。犬食いしろということか、と。



違った。アイザがパンを手に持ったまま口元まで運んだのだ。



アンナ「……っ。」



一瞬の逡巡。それから、がぶりと食らいついた。ソースが顎を伝い、頬に垂れるのも構わず咀嚼する。獣じみた食い方だった。しかしその表情は――



アンナ「……ん、ぐ……うまい……。」



目尻が下がりきっていた。石牢の中で、パン屑を散らしながら幸せそうにパンを頬張る女。これが騎士の姿かと思うと色々終わっているが、当人は一切気にしていない。



パンが半分ほど消えたところで、ふと動きを止めた。口の端にパンくずを付けたまま、ぼそりと呟く。



アンナ「……こういうのも、悪くないな。」



アイザ「さすがに食いにくいか?ほらよ」



右手のみ枷を外してあげるアイザ



右手が自由になった瞬間、パンの残りを掴み――かけて、止まった。



逃げる好機だ。武器はなくとも、片手があれば鎖を振り回して牢番を昏倒させる程度の芸当はできる。それが王国騎士団長という生き物だ。常識的に考えれば



自由になった右手でパンを持ち、ゆっくりとかぶりついた。



アンナ「……。」



逃げなかった。一切の逡巡なく、迷わず、パンを選んだ。その横顔にはどこか晴れやかなものすら漂っている。



もぐもぐと咀嚼しながら、ぽつりと。



アンナ「貴殿、存外優しいな。」



アイザ「俺は飯を美味そうに食うやつには優しいんだよ」



捕まえた側が優しいも何もないのだが、この女の中では何かが決定的にバグっているらしい。拘束を緩めてくれた=優しい、という恐ろしく単純な方程式が成立していた。トーストの香ばしい匂いの中、アンナは残りのパンを大事そうに齧っている。



アイザ「それに情報を渡したんだ、それ相応の対価は渡さねえとな」


そう言いながらアイザはカツサンドとオレンジ色の果実を搾ったジュースをそばに置く


ジュースの色に目を奪われた後、カツサンドに視線が移り、もう一度ジュースに戻った。忙しい目だった。



アンナ「対価……。」



アイザ「そう、対価だ」



その言葉を噛み締めるように繰り返した。「対等な取引」という概念が、捕虜の身に適用されている。奴隷でも家畜でもなく、情報には対価を。その当たり前が、妙に胸に沁みたらしい。



カツサンドを左手で掴み、豪快にかぶりつく。肉汁が指の間から溢れた。それを舐め取ってからジュースを一口。



アンナ「……美味いな、これ。何の果実だ?」



アイザ「オレンゲと言う果物だ、うちの国の名産だよ」



尋ねる声には、もう警戒の欠片もなかった。数刻前に敵の砦で目を覚まし、「くっ……殺せ!」と叫んでいた女と同一人物とは思えない。石造りの冷たい牢の中でジュースの味に感動している姿は――なんというか、ただの二十四歳の娘だった。



ふと、手元の空になった皿を見下ろす。



アンナ「なあ。もう少し……話してもいいぞ。まだ知っていることはある。」



自分から情報提供を申し出ていた。売国奴への道を全速力で駆け抜けている自覚は、おそらくない。



アイザ「とりあえずこれ食ってからにしな」



湯気の立つトーストを受け取った瞬間、目を細めた。



アンナ「焼きたて……。」



左手にパン、右手にはジュースの杯。満ち足りた顔だった。凱旋将軍が宴席に着いたとしてもここまで幸福な表情にはなるまい。



チーズを伸ばしながら豪快にかぶりつき、はふはふと熱を逃がす。目尻に薄く涙が滲んでいたが、今度は熱さのせいだった。



黙々と食べ進める姿を眺めれば、細身の体のどこにこれだけ入るのか不思議になるほどだ。鍛え抜かれた筋肉がカロリーを求めているのか、単に食欲が底なしなのか。おそらく両方だろう。



最後の一切れを口に放り込み、指についたソースまで舐めてから――満足げに息をついた。



アンナ「ふぅ。……で、何を聞きたい?」



もう「聞くな」とは言わなかった。こちらが口を開くより先に、次の情報を準備しようとしている。尻尾を振っている、という表現がこれほど似合う騎士も珍しい。



アイザ「知ってること全部だな、そしたら好きなものを食わせてやる、うちの国の飯は美味いぞ?それが目当てで戦争吹っかけられるくらいにはな」



ぴくり、と耳が動いた。「全部」という言葉の重みを理解していないわけではない。



アンナ「全部、か。」



数秒の沈黙。ジュースの杯を置き、自由になった右手で自分の顎を撫でた。



アンナ「……王都だけではないぞ。」



その一言の意味は重かった。国境付近の防衛拠点、補給線の要衝、主要な指揮官の癖や弱点まで含むということだ。



にやり、と笑った。不敵な――しかしどこか楽しげな笑み。



アンナ「貴殿の国の飯がそこまで美味いなら、味わうには勝たねばならんだろう?」



つまり、自国を売る代わりに食わせろと言っている。とんでもない等価交換だった。祖国の民が聞いたら卒倒するだろうが、当の本人は至って真面目な顔をしていた。



アンナ「だが全部話したら、私は用済みで首を刎ねられるんじゃないか?」


冗談めかした口調の裏に、わずかな不安が覗いた。



アイザ「用が済んだからってズバズバ首切ってたらこっちの精神が持たねぇよ」



ぷっ、と吹き出した。



アンナ「ははっ、なんだそれは。甘い奴だな、貴殿は。」



アイザ「そういう国なんだよ、うちは」



敵国の捕虜に「精神が持たない」という尋問担当の炊事兵。およそ戦争というものの常識から外れた発言だった。だがそれが、なぜかアンナの胸の奥をじんわりと温めた。



膝を抱え、壁にもたれかかる。拘束の鎖がじゃらりと鳴った。



アンナ「……私の部下たちにも、そういう上官がいればよかったんだがな。」



独り言のような呟きだった。味方を逃すために一人残ったあの日のことを思い出したのかもしれない。助かった部下たちは今頃どうしているだろうか。



ふるふると首を振り、顔を上げた。いつもの真っ直ぐな目に切り替わる。



アンナ「いいだろう。全部話す。その代わり――」


ぐぅ。また腹が鳴る。



アンナ「……先払いで、デザートを頼む。」



アイザ「フフ、あいよ、なにがいい?フルーツサンドにパンケーキ、ショートケーキにタルト、なんでもあるぞ」



選択肢を聞いた瞬間、目を見開いて硬直した。



フリーズしていた。情報処理が追いつかないらしい。「なんでもある」の破壊力はパンを超えていた。この砦は軍事施設ではなかったのか。



アンナ「……ぜ、全部。」



アイザ「めっちゃくうじゃん」



出た。欲望に正直すぎる回答だった。耳の先まで赤い。自分でも無茶を言った自覚はあるようだが、撤回する気配は微塵もない。



アンナ「い、いや!順番に出してくれればいい!まずフルーツサンドから!それで全部話し始める!」



急に段取りを組み始めた。やる気に満ちた捕虜というのは、おそらく人類史上初の存在だろう。拷問も脅迫も使わず菓子で口を開かせたアイザの手腕は――果たして称えられるべきなのか。答えは神のみぞ知る。



アイザ「ハイハイ、全部な、覚えてられねーから全部もってくるわ、まっててくれ」



全部、という一言に一瞬ぽかんとした後――



アンナ「ぜんぶ!?」



叫んだ。わかってはいたが、実際に承諾されると驚くらしい。単にこちらの財布事情を心配していた可能性もある。



アイザの背中が扉の向こうに消えてから、そっと自由な右手で拳を握った。



小さくガッツポーズをしていた。二十四年間の人生で最も嬉しい瞬間が更新された瞬間だったかもしれぬ。



一人残された牢の中で、そわそわと足を揺する。



アンナ「フルーツサンドはどんな果実だろうか……パンケーキには何を乗せるんだ……ショートケーキの苺は大粒か小粒か……」



ぶつぶつと品評会の予行演習を始めていた。王都攻略の軍議よりよほど熱心な顔で。



石壁に囲まれた薄暗い牢獄に、場違いなほど幸せな独り言が響いている。もし隣の牢に囚人がいたなら、恐怖で震えていたことだろう。ただし――震えていた理由は「狂人と同室だから」だったろうが。



アイザ「あーいおまたせ、持ってくんの大変だったんだぞ?ほらよ」



色んなフルーツが生クリームとともに挟まったフルーツサンド、バナナが大量に飾られているパンケーキ、いちごたっぷりショートケーキに、これまたいちごが沢山乗ったタルトを持ってくるアイザ、腕を奮ったのだろう。



目の前に並べられた光景に、息を呑んだ。



テーブル代わりの石台の上が、ちょっとした茶会の様相を呈していた。色とりどりのフルーツ、純白の生クリーム、宝石のように輝く苺。牢屋であることを忘れそうになる眺めだった。バナナが山と積まれたパンケーキはもはや芸術の域にある。



震える手でフルーツサンドを持ち上げ、断面を覗き込む。


アンナ「すごい……こんな綺麗なもの、見たことがない……。」



捕まえた敵国の騎士に振る舞うには明らかに過剰な品だった。



一口、齧る。



咀嚼が止まった。三秒。五秒。



ぽたぽたと涙が落ちた。



アンナ「なん……で……こんなに……美味いんだ……。」



泣きながら食べていた。声も上げず、ただ静かに。禁書を読み漁り妄想に耽る日々より、戦場を駆ける日常より、今この瞬間が人生の絶頂だと言わんばかりの泣きっぷりだった。自由な右手がショートケーキに伸び、苺を丸ごと口に含む。噛んだ瞬間、また涙が一粒こぼれた。



アイザ「うちの国じゃ飯に全てを注いでいるからな、軍は二の次だ、飯が美味けりゃ人は強くなれる、飢えて死ぬやつなんていまじゃほとんどいねえのさ」



*タルトのいちごを咥えたまま、動きが止まった。



飢えて死ぬ者がいない国。それはアンナが生まれてから一度も聞いたことのない言葉だった。彼女の故郷では、毎年の不作で村が一つ二つ消えるのが当たり前だった。だからこそ剣を取った。だからこそ民の笑顔を守りたかった。



いちごを飲み込み、パンケーキに手をつけながら、低い声で言った。



アンナ「……それは、嘘ではないのか。」



疑っているのではなかった。確認だった。もし本当なら――自分が命を懸けて守ろうとしたものの価値が、根底から揺らぐ。あの国は民を飢えさせてまで軍備を整え、他国に戦を仕掛けていたのではないかという疑念。ずっと目を逸らしてきた問い。



バナナをフォークで刺し、じっと見つめている。



アンナ「私が……守ってきたものは……。」



言葉が続かなかった。生クリームの甘さが舌の上で溶けていくのと同時に、何か別のものも崩れかけているようだった。青い瞳の焦点がぼやけ、それから――ぐいっと袖で顔を拭って、ケーキを頬張った。



アンナ「……続きは全部食べてからだ。」



そう言って、また食べ始めた。泣いた跡が残る顔のまま、タルトに齧りつく姿には不思議な潔さがあった。



アイザ「ん、ほらよ、甘いもんにはお茶が合う」


紅茶を差し出す



紅茶の入ったコップを両手――いや、右手一本で受け取る。



一口含んだ途端、ほぅ、と長い息が漏れた。砦で出される茶葉にしては上等な香りだった。温かさが喉を通り、冷えた体に染み渡っていく。



アンナ「……ふぅ。」



しばらく無言でコップを傾けていた。ケーキの甘さと紅茶の渋みが交互に舌を楽しませる。至福の時間だった。捕虜であることを完全に忘却した、穏やかな横顔。



カップを石台に置いて、まっすぐアイザを見据えた。口元にクリームが少しついている。



アンナ「さて。どこから話す?」



目つきが変わっていた。さっきまでの食い意地の張った娘ではなく、幾多の戦場を潜り抜けた指揮官の眼。覚悟を決めた人間の顔だった。自国を裏切るという、騎士として最も重い罪を背負う覚悟。それを支えているのは忠義でも義侠でもなく――たぶん、目の前の残りだった。



アイザ「もちろん最初から最後まで」



ふん、と鼻を鳴らした。クリームを親指で拭い、舐め取る。


アンナ「最初から最後まで、か。欲張りな男だ。」



だが口調とは裏腹に、その目は既に整理を始めていた。どこから話し、何を省き、どうすれば最も効率的に――つまり、どうすれば次の食事が早く出てくるか。



アンナ「いいだろう。」



背筋を正し、拘束された左手を膝の上に置いた。居住まいだけは完璧な騎士の姿勢だった。口の端にまだクリームの跡が残っていることを除けば。



アンナ「まず王都の城壁だが――東門の地下に抜け道がある。知っているのは王族と近衛の一部だけだ。……と言われているが、私は三年前の点検で偶然見つけた。」



とんでもない機密情報がフルーツサンドの余韻とともに語られ始めた。


紅茶で唇を湿らせ、続けた。



アンナ「城内の兵力は常備軍が二千。だが予備役を招集すれば一万近く膨れ上がる。……が。」



少し間を置いた。残しておいたバナナを一切れ摘まみながら。



アンナ「将軍ヴォルフが先月の演習で腰を痛めた。大軍の指揮は無理だろうな。実質的に動かせるのは副官のベルクのみだ。あいつは……小心者だ、大軍を率いた経験がない。」



アイザ「腰やった将軍と…小心者の副官ね」



内部情報が次から次へと零れ落ちていく。まるで堰を切った川のように。パンケーキの皿が空になったのをちらりと確認してから、さらに声を落とした。



アンナ「それから――南の穀倉地帯。あそこを焼けば王都は三月で干上がる。」



自国の急所を売り渡している。しかも淡々と。これが騎士団長の口から出ているという事実を、もし王都の民が知ったら暴動では済むまい。しかしアンナの目には迷いがなかった。むしろ――使命感すら漂っている。



身を乗り出し。


アンナ「これで……おわりだ」


アイザ「十分だ、あんたの情報でこちらは勝ったも同然だろ、よくやった、なにかくいたいもんでもあるか?」



「よくやった」の一言で、ぱあっと顔が輝いた。犬なら尻尾が千切れるほど振っていただろう。



アンナ「よく……やった、と。そうか。」



褒められた。敵に。裏切りの対価として。それなのに騎士団長は頬を紅潮させている。壊れているのはもう手遅れだった。



腕を組んで天井を見上げる。考えている。真剣に考えている。「よくやった」への返礼ではなく「なにがくいたい」への回答を。


アンナ「肉が食いたい。分厚いステーキだ。あと……あの、黄色い粒が乗った白い穀物。あれは何だ? 牢に入る前に一度だけ見かけたんだが。」



おそらく米のことだろう。市場の食堂でも滅多に出回らない高級品。騎士団長といえど口にする機会はなかったらしい。



アンナ「あと、できればデザートも。さっきのとは違うやつで。」



遠慮というものを完全に喪失していた。



アイザ「フン、パンの次は米か、いいだろう、うちの国じゃ牛を食うために育ててんだ、うめえぞ?」



牛を食うために育てる。その発想自体が衝撃だったようで、目を丸くした。


アンナ「牛……あの牛か? 馬や荷運びではなく?」



アイザ「ああ、あの牛だ」



王国では牛は農耕と運搬の要。食用にするなど贅沢を通り越して冒涜とすら見なされる風潮があった。それを「当然」と言い切るこの国は一体なんなのだ、とアンナは本気で混乱し始めている。



ごくり、と喉が鳴る。



アンナ「……贅沢だな。とんでもなく。」



声が震えていた。恐れではない。期待だ。拳をぎゅっと握りしめ、石台をじっと見つめて待つ姿勢に入った。もはや情報提供者というより餌を待つ雛鳥だった。程なくして漂ってきた肉の焼ける匂いに――



びくっ、と顔を跳ね上げる。



アンナ「来たか!?」



鼻が良い。獣か。



アイザ「あーいおまたせ〜、ワンポンドステーキだ、あと米、肉には塩としょうゆっていうソースだ、好きな方えらべ、あとはデザートのシャーベットな、溶けちまうから食い終わったら持ってくるよ」



左手の枷も外してやるアイザ、さすがに片手じゃ食えないだろうと配慮した。



鉄板の上で暴力的に脂を弾けさせている肉塊を見て、言葉を失った。



ワンポンド。約450グラムの巨大な牛肉のステーキが、鉄のプレートの上で存在を主張していた。添えられた人参と白米の艶やかさ、黒い液体――醤油、どれから手をつけるべきか、本気で逡巡している。



*まず米を左手に持ち、一口。咀嚼。停止。*



アンナ「……っ!」



米の甘みと柔らかさに目を見張り、次にステーキへ。ナイフで切り分けた一切れに塩を振り、口へ運ぶ。肉汁の洪水が口内を蹂躙した瞬間――



左手の拳で石台を叩いた。ガン、という音。



アイザ「うおっ」



不意の音にびっくりするアイザ



アンナ「なんだこれは!!」



絶叫だった。怒りではない。



そこからは凄まじかった。塩、しょうゆ、と2種の味付けを試し、米と交互にかき込んでいく。ステーキが恐ろしい速度で消えていく。食事というより戦だった。皿という名の戦場を制圧する勢いだった。ものの数分で鉄板は空になり――米粒一つ残っていなかった。



空の鉄板と空の茶碗。証拠はそれだけで十分だった。アイザが様子を見に来た時、アンナは口の周りを脂とソースで光らせながら、実に満ち足りた顔をしていた。



アイザ「美味かったか?」



ふと我に返り、姿勢を正す。



アンナ「あ、ああ。ごちそうさま。」



頬に米粒が一つ貼り付いていた。



アイザ「あいよ、ほら、食後のゆずシャーベット、くうだろ?」



ゆず、という聞き慣れない単語に首を傾げたが――差し出された黄金色のシャーベットを見た瞬間、そんな疑問は消し飛んだ。



アンナ「食後の……だと?」



食事の後に甘味を出す文化。この時点でアンナの中の「常識」は粉々だった。普通は食後に水を飲むだけだ。それがゆずの香りがする氷菓子ときた。



匙で掬い、口へ。冷たさと酸味と甘さの三重奏が舌を包む。



アンナ「…………ふぅ。」



今日何度目かの、魂が抜けるような吐息。石造牢の天井を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じた。口の中でシャリシャリと氷が溶ける音だけが響く。



薄目を開けて、ぽつりと。



アンナ「なあ。」



アイザ「なんだ?」



声のトーンが違った。妄想でも歓喜でもない、静かな響き。



アンナ「私が貴殿に売った情報で……どれだけの民が死ぬ?」



今更だった。本当に今更。だがその問いは、今日一日で初めて、騎士アンナ・ロマンスの口から発せられたまともな罪悪感だった。溶けゆくシャーベットの雫が唇を伝い落ちる。



アイザ「ん?ころさねえよ?うちとの戦争で被害を被った市民はいねえ」



匙を咥えたまま、固まった。



殺さない。市民に被害はない。――それはつまり、軍だけを狙い撃ちにするということか。城壁の抜け道、兵力配置、将の健康状態。渡した情報はすべて軍事的に致命的なものばかり。民には一切手を出さないとすれば――



ゆっくり匙を抜き取り。



アンナ「……本気か。」



*今日初めて、声が低くなった。ふざけた色が完全に消えている。



アンナ「そんな戦が……できるわけが……」



言いかけて、口を噤んだ。できるわけがない。そう断じたのは自分の常識だ。飯に全てを注ぎ、飢える者のいない国。牛を食うために育て、捕虜にケーキを山ほど食わせて情報を引き出す国。



シャーベットをもう一掬い口へ運び、目を伏せた。



アンナ「……貴様の国は、本当に何なんだ。」



それは質問というより、独白に近かった。



アイザ「ただ、食うことが大好きな人が沢山いるだけの優しい国だよ」



*しばらく黙っていた。



シャーベットの器が空になっていた。匙が底をこする小さな音が牢に響いた後は、何も聞こえなかった。アンナは膝を抱え、額をそこに押し当てている。金髪が顔を隠していた。



アンナ「……私は。」



くぐもった声。震えている。



アンナ「私は、民を守りたくて剣を取った。」



誰に言うでもなく、言葉が零れていく。



アンナ「誰も飢えさせたくなかった。……だが結局、守っていたのは王と貴族の体面だったのかもしれん。兵を率いて戦えば、畑を耕す手が足りなくなる。兵糧を絞れば民が痩せる。」



左手の指が、きつく握られていた。



顔を上げないまま。


アンナ「……私にもっと早く、この飯を食わせてくれる奴がいたら。」



それきり黙った。肩が一度だけ、大きく揺れた。



アイザ「……だからうちが勝たなきゃいけねぇのさ、うちが勝てばうちの流儀に従うことになる、そうすれば飢えるやつもいなくなる、だろ?」



のろのろと顔を上げた。目が赤い。



アイザの言葉は単純だった。だがその単純さの中に、一つの宣言が含まれている。――勝つ。そして飢えをなくす。大言壮語と言えばそれまでだが、今日食ったもの全てがその言葉に裏付けを与えていた。



ぐしっ、と左手の甲で目元を乱暴に拭う。



アンナ「……勝てるのか。本当に。」



疑いではなかった。縋るような声だった。自分で祖国の急所を売っておきながら、それでもまだ民のことを案じている。滑稽と言えば滑稽だが――この女の芯は結局、そこにある。



アイザ「勝てるかじゃない、勝つんだよ」



ふ、と力のない笑みを浮かべた。



アイザ「負けたら地獄行きだな、私は。売国奴として。」



軽口のつもりだったのだろう。だがその声は掠れていた。



アイザ「なにを、あんたは情報を喋ることで民を救えるんだよ、英雄さ」



英雄。売国の徒が。民を救う英雄。



その言葉を噛み締めるように、唇が何度か動いた。音にはならなかった。



天井を仰ぎ、大きく息を吸う。吐く。もう一度。



アンナ「……そうか。英雄か。」



声に少しだけ芯が戻っていた。完全ではない。まだ脆い。けれど、崩れかけていた何かが辛うじて繋ぎ止められたような――そんな危うい均衡。



視線をアイザに向け、にやりと笑った。いつもの、あの恐ろしく前向きな笑い方。



アンナ「ならば英雄らしく要求する。明日の朝食はパンと米、両方つけてくれ。」



台無しだった。せっかくの感動的な空気が一瞬で食欲に塗り替えられた。だがこれがアンナ・カーキスという女なのだろう。



アイザ「ほんっとぶれねえのな」



ふんっと胸を張った。


アンナ「当然だ。腹が減っては戦も裏切りもできんからな。」



裏切りと堂々宣言するあたり、もう隠す気すらないらしい。拘束された身でありながらこの図太さ。ある意味、大剣と大楯よりもこの女を支えているのは胃袋かもしれなかった。


アイザ「んじゃ、俺はは皿を片してくるよ、そこに毛布があるから……にげんなよ?逃げたら朝飯食えねえからな」



バタンとドアを閉め立ち去る



閉まった扉を見つめる。


アンナ「……逃げるわけがなかろう」



呟きは誰にも届かなかった。「朝飯食えねえ」が理由の九割を占めていることは否定できまい。



毛布を手に取り、肩にかける。石牢の冷気は容赦なかったが、厚手のそれは十分に温かかった。



壁にもたれかかり、左手首をもう一度見下ろす。枷の跡。数時間前なら屈辱の証だったはずのそれが、今は妙にくすぐったい。



アンナ「朝ごはん、楽しみだな……」



瞼が重い。満腹と安堵が同時に押し寄せてきていた。明日はパンと米。約束だぞ、と誰もいない牢の中で念を押すように唇だけが動き――やがて、女騎士は静かに寝息を立て始めた。



その寝顔は、戦場で鬼神と恐れられた面影など微塵もない、ただの二十四の娘のものだった。

アイザ「団長〜、あの捕虜からの情報を伝えに来ました〜」


*牢の外、廊下の先にある作戦室。数人の兵士が地図を広げたテーブルを囲んでいた。その中の一人――団長が椅子から立ち上がり、アイザを迎えた。*



*太い腕でアイザの背をばんと叩き。*


団長「おう、よくやった!あの鉄壁のカーキスをこうもあっさりとはな。お前の料理、魔剣より強いんじゃねえか?」



*周囲の兵たちからも笑い声が上がった。「違いねえ」「胃袋から落とすとは」「俺にも食わせろ」と口々に囃し立てる。*



*地図の一点を指で叩き、表情を引き締める。*


団長「東門地下の隠し通路、副将ベルクの臆病癖、南部穀倉の防備の薄さ。これで三手は打てる。……しかし驚いたな、ここまで喋るとは。毒でも盛ったか?」



アイザ「んなことしたら飯が不味くなんだろうが」



*冗談めかして言いながらも、団長の眼は鋭く光っていた。*



アイザ「俺の料理に惚れたんだろうよ」


*一瞬きょとんとした顔をして、それから盛大に吹き出した。*


団長「はっはっは!惚れたか!そりゃ傑作だ!」



*腹を抱えて笑う団長につられ、部屋中がどっと沸いた。「飯で落とされた」「俺も肉食いてえ」と野次が飛ぶ。*



*涙を拭いながら。*


団長「しかしまあ……大したもんだよ、お前は。刃も鎖も通じねえ堅物を、肉と米で陥落させやがった。」



アイザ「デザートも食ってたけどな」



*笑いの余韻が収まると、団長は地図に目を落とし、指を組んだ。*



団長「明後日の夜明けに仕掛ける。情報通りなら東門は一晩で抜ける。……あの嬢ちゃんの、約束守ってやれよ。」



*そう言ってにやりと笑った。「朝飯、忘れんなよ」と付け加えて。部下たちがまた笑う。*



団長「さて――全軍に通達だ!宴は勝ってからだ、今は寝ろ!」



アイザ「おーう!」

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