No.45 Couple’s Santa Claus~もうひとつの「目に見えない贈りもの」~
ふたを開ければ、こんなにくだらないことだった。
三年も無駄に費やしてしまった、限りある大切な時間を。
取り戻してやるさ、今この瞬間から。
何だかんだと言いながら、俺とおまえは比翼連理、ってことのようだから――。
きっかけは、クリスマスプレゼント、だった。依子は自分の分を忘れても怒りはしないが、子供達に関することには容赦がない。三年前のクリスマスイブの夜、俺は営業回りの合間を縫って買った 夢人へのクリスマスプレゼントを持ったまま飲み会につき合い、そのまま翌朝を迎えてしまったのだ。
『もう……たくさん! 私も子供達も、父親としても不適格なパパなんて要りません!』
『いや、だからごめんって。忘年会と重なっちゃった、ってのは話してあっ』
『だからって泊まって来るなんてこと、聞いてない! 夢人、自分だけプレゼントがないって泣いてたのよ!』
『だから、手紙を添えたじゃないか。“遅刻してごめんなさい”って』
『謝ればいいってもんじゃないのよっ。クリスマスイブだから、ってことに意味があるの! 子供の気持ちも考えなさい!』
ああ、でももういいわ、と途端にトーンを落として小さな声で呟かれ。
『夢人と理女を連れて、今すぐ家を出ますから』
『な、や、え、そんな、冗談だろ。今何時だと思って』
『邪魔。どいて』
『……』
年の暮れ、寒くて忙しくて冷たい夜。そんな空の下に妻と子供を歩かせるくらいなら。
『それなら俺が出て行く。寝起きで外を歩かせたんじゃあ子供達が風邪をひくだろう』
泣きながら荒っぽい仕草で手荷物を用意し出した依子の頭上から、それだけ言って家を出た。やっと手に入れたマイホームで暮らしてから、一年も経っていない頃だった。
理女はまだ二歳だったから解らないだろうと思い、依子が仕事に出ている時間を見計らって夢人だけに電話を掛けた。
『夢人。パパとママな、別々に暮らすことになったんだ』
《え……。パパ、出張じゃなかったの?》
不安げな息子の声に、またやらかした、と胸の内で舌を打つ。
『う、うんまあそんなところだ。詳しいことはママから聞いて。ちゃんと夢人に行って来るって挨拶をしてなかったから電話をしただけなんだ』
夢人が次の問いを口に仕掛けていたが、あの子は依子に似て、妙に賢く勘が鋭い。ばれるのを恐れた俺は、聞こえない振りをして携帯電話の電源を切った。
依子のことだ。長期の海外出張とでも言い含めたに違いない。それならば長い時間俺がいなくてもしばらくの間はごまかせる。
『おふくろにも、そういうことにしておこうかな』
その日以来今日まで、俺が私用の携帯電話の電源を入れることはなかった。
依子とは大学のアウトドアサークルで知り合った。学年は同じでも学部が違ったので、彼女が専攻していた都市デザイン科の“マドンナ”と呼ばれているなどまったく知らず、テントを張りながら零す汗さえ珠と思わせたその笑顔に、俺は一瞬で恋に落ちた。
落ちたのは一瞬だったが、手に入れるまでが困難極まりなくて。才色兼備にしてそれを鼻に掛けない、さっぱりとした男のような気風のよい漢乙女。冗談交じりにそうからかう女性の同期達からも嫉妬を受けない、まさに完璧な女だった。そんな彼女に近づく男が、溢れるほどいたのだから。特にこれといった特技もなければ、イケメンでもおしゃれでも気か利くでもない取り柄なしの俺に、チャンスなど巡って来るはずがないと思っていた。思っては、いたのだが。
『ねえ、香椎。あなた、いつ私を釣り上げてくれるつもり?』
それぞれが好んだポイントで釣りを楽しんでいるときに彼女の方から告げられた。
『ぅえ? お、あ、や、え? なんで? 俺?』
『そう、俺。いつまでもうじうじ、うじうじ、見てるこっちが苛々するの。もうあと半年で卒業よ。学生時代の思い出、ただの仲間だけで終わらせちゃう気?』
口許に軽く握った拳を寄せてくすくすと笑う。余裕たっぷりの振りをして、その耳たぶまでが真っ赤になっている。思えば間近で彼女を見たのはその時が初めてだった。間近に彼女を見たことで、彼女の滑舌のよさがただの強がりだったということを、俺はその時初めて知った。
『あ、や、えっとでもあの俺、え、でも新見は俺のどこがいいんだ?』
『そのうだうだしてるところ、かな。何でも早とちりして勘違い街道まっしぐらなところとか。一緒にいて飽きないし、もうね、私が何とかしてやんないとこの人どんどんずれてくわ、みたいな?』
言いたい放題言われたのだが、それはもう見事なくらいにどんぴしゃりな俺の欠点で。
『……そういう、恰好つけない自然な修治が、ね』
『ね……って……ねえ』
初めて名前を呼ばれた俺は、そのときかなりテンパった。
『じゃあ結婚して。今すぐに』
『はぁ?』
結局お互いの就職以降にそれは実行された訳だが。
『私は子供が出来ても仕事を辞めるつもりはないわよ。好きで選んだ仕事だもの』
『その代わり、すべてに手抜きはしないわ。だから修治も頑張って』
最初から、尻に敷かれた鬼嫁とへたれ亭主だった。
依子の美貌が好きだったわけじゃなく。いや、それも好きだけど。彼女の“瞳”に恋をした。艶っぽく見つめる癖に、それは変な意味の視線ではなく。自然や造形物や、何もかもを慈しむ博愛の瞳。強気で颯爽として強い女を強調しながら、肝心なところではいつも誰かを思いやる。自分の意思だと見せ掛けながら不自然さなく我を控え、するりと思ったことを言える形へこちらを促してくれる――奥底に潜む大和撫子、彼女のそんな本当の部分が、俺は何よりも愛しかった。
あの頃の気持ちを思い出すことが出来たのは、息子、夢人が事件を起こしてくれたお陰だ。
玩具量販店で目ぼしいものを物色しながら、昨日依子から聞いた話を思い出しつつ夢人にふさわしいプレゼントを探した。
クリスマスが近づいた昨日、依子が、あの気の強い女が声を震わせて電話をして来た。それも職場へ、三年振りに。
《仕事中なのにごめんなさい。どうしても、こんな気持ちのままじゃあ夢人の顔を見れなくって》
『夢人に何かあったのか』
そうでもなければ、子供達にさえ会わせないと言い切った彼女が夢人の名前を出すはずがない。急速に血の気が引いていく寒さを感じ、受話器を持つ手が小刻みに震えた。
《子供達に会わせないなんて言った癖に、今更勝手なこと言ってるって思うわ。でも、お願い》
――夢人のクリスマスプレゼントを選んでやって欲しいの。
『……は?』
夢人が学校でサンタクロースの存在について友達と喧嘩をして殴ってしまい、彼女は学校から呼び出されたという。夢人が担任に泣きながら言ったそうだ。
『僕は嘘なんか言ってません。サンタクロースなんか本当はいない、って言っただけです。だってパパがいなくなってから、僕のサンタは僕のことを解ってくれなくなったんだもの。嘘をつくのは悪いこと、って先生いつも言うじゃないか』
《先生が驚いていらっしゃったの。夢人君が敬語を使わずに話したのも、怒鳴ったのも初めてだ、って。何か悩みを抱えているんじゃないかと心配して下さって……私には、解らないの。男の子は男親の方が解るだろう、って、あの子へのプレゼント選びをあなたに任せきりでこれまで来たから……》
零す嗚咽が不安にさせた。ただならぬ事態になっているのだろうか、と。彼女はこれまでどんな時でも、私用で職場まで電話をして来たことなどなかったから。俺はふたつ返事で快諾した。そして、ひとつの願いごとを彼女に添え伝えた。
『……届けさせてくれないか。昔のように、サンタの姿でこっそりと。あの窓から』
夢人の顔を見れば大体解る。自分が安心したかったのだ。そして同時に浮かんだもうひとつの願い。またいつものように、つるりと舌を滑らせてくれる彼女から促す誘いの言葉も心の片隅で期待しながら。
《ありがとう。……子供部屋の窓の鍵を開けておくわ》
彼女の言葉はそれだけに終わり、俺が期待した「帰って来て」という言葉がないまま、その通話は途切れてしまった。
「でも、もう一度だけは必ず会えるから、まあいいか」
毎年恒例のお礼の手紙。文字の読み書き練習を兼ねていつも依子がさせていた。きっとそれを届けてくれるはずだと踏んで、沈んだ気持ちを奮い立たせた。同時に浮かんだ“息子の心配で心を満たせなかったダメな父親”という夢人に対する罪悪感を、それで無理矢理掻き消した。
まだ癖になっている。日曜に見る子供番組。かつて自分が子供の頃にはまりまくったヒーローモノ。
「今期はダブル、か。うーん……」
変身ベルトを見ながら唸ってしまう。昨年のキバ以降、どうも面白みに欠けるというか。
「っていうか、電王があまりにもツボ過ぎたんだよな」
クウガ辺りから面食らうほどのイメージチェンジを感じた仮面ライダーシリーズ。自分の子供の頃に見たアマゾンやV3とはまた別の意味で「らしく」ないその設定。今頃夢人も見てるだろうかと思いながら見ていたシリーズだったが、電王については、自分自身が嵌っていた。
「んー、でもなあ。子供は最新が好きだしなあ」
ふと隣のからっぽな空間を見る。
値札のプレートに“電王ベルト完売――入荷は二十四日の予定です”と記されている。俺ならどうだろう、今を追うか、本当に好きなものを追うか。一昨年の夢人は電王が好きだっただろうか――。
「すみません」
一か八かの賭けに出る。
「これ、先に代金を支払いますので、入荷し次第連絡をいただけますか」
俺は店員へ携帯の番号を伝えて支払いを済ませると、祈る思いでその店をあとにした。
その夜は子供のように寝つけなかった。どうか明日朝一番で入荷してくれますように。営業回りの合間に引き取りに行って、今度こそイブの夜には夢人の枕元へ。
三年振りに息子と娘の顔を見ることが出来る。
もしかしたら、妻がいつものようにお礼の紅茶とクッキーを用意し、待っていてくれるかも知れない。
もしかしたら、そのまま家に帰ることを許されるかも知れない。
膨らんでいく妄想は夢の中にまで侵蝕し、俺は久し振りに甘くて温かで賑やかな「家族」の夢で満たされた。
「そんな殺生な」
愕然とした想いが言葉と声に乗る。夕刻になっても玩具店から連絡が来ず、堪り兼ねて直接店に出向いて問い合わせてみたら、とんでもない返答が返って来た。
「本当に申し訳ございません。昨年も映画化された人気キャラクターの商品ということで生産が間に合わなかったらしくって」
都市部へ優先的に入荷されてしまい、この店への入荷が明日になってしまったという。
「今日じゃないと意味がないんだ!」
思わず声を荒げてしまった。今年こそ、今夜でないと困るんだ、俺は。
「本当に申し訳ありません。返金は」
「そういう問題じゃないんですよ!」
がくりとうな垂れカウンターへ両の肘をつく。ウィンドウに映るくたびれた親父が自分の姿とは情けない。それを認めたくなくて、背けるように再び受けつけた従業員へ視線を戻す。何度もぺこぺこと頭を下げる彼の姿と、営業先で半身を曲げて理不尽な謝罪をしまくる自分の姿が重なった。
この人が悪いわけじゃあない。そんな当たり前のことに、ようやく気がついた。
「……すみません、大人げなかったですね。あなたの所為じゃあないのに」
「本当に、申し訳ありません」
やむなく返金処理をしてもらった。
残り時間は約二時間。玩具店を練り歩いた。夕飯の時間も惜しく、閉店ギリギリまで探し回った。
物心ついた頃から一緒に見ていた。俺の膝の上に座りながら。隣に座り、俺にもたれながら。次第にじっと座って見ていられなくなり、テレビの隣でポーズを取りながら。
きっと、あれしかないと思うんだ。夢人が一番欲しいもの。流行ものが好きなのではなく、カッコいいながらもコミカルな一面も忘れずに持っている、面白カッコイイものが夢人は好きだったはずだ。夢人が好きな前のライダーは仮面ライダーカブトだった。
ふと小さな個人経営のプラモデル店に気づいたのは、そこの店主が看板を店内へ運ぼうと入口の扉を開けたからだ。その古びた曇りガラスには。
「……あ、った……」
手書きの無愛想なマジック文字で、『電王ライダーベルト在庫あります』というA4サイズの張り紙だった。
恥だのなんだの言えなかった。急いでそれを買い取り、包装なしだと言われたので慌てて先ほどの大型玩具店へ戻って頼んでみた。
「す、すみません! お金は払います、これを包装してもらえませんか」
先ほど対応してくれた店員がひとりでサービスカウンターを守っていた。
「見つかったんですか」
彼もほっとした笑顔を返してくれる。
「内緒ですよ」
通常の包装紙でよければ、と言ってこっそり無料対象の店名入り包装紙でプレゼントを包んでくれた。申し訳なさで何か買わねばと思い、ふとよいことを思いつく。
「すいません。マジックボイスはどこですか」
それもあわせて袋へ入れてもらい、俺は急いで家路を走った。
万全の準備を整え、依子の携帯へ電話を掛ける。
『何? 鍵は開いてるから、って言ったじゃない』
「いや、サンタの服をどう受け取ればいいかと思って。訊き忘れていたな、と思ってさ」
『あなたが用意してるんじゃないの?!』
「す、すまん……」
『もう、相変わらずどっか頼りないんだから。あの子達が寝たら、おばあちゃんのところへ預けておくわ。あっちへ取りに行ってちょうだいね。ここにはパパの姿では来ないで』
向こうから母を呼ぶ理女の声が聞こえた。「はぁい」という依子の声とともに、通話はまた一方的に切られてしまった。
今更どのツラ下げて依子の実家へ顔を出せ、と言っているんだ。昔から彼女は時折こうやってさらりと意地悪を言って寄越す。何だかもうくたくただ。結局俺は、彼女の実家へ赴くことが出来なかった。
翌朝出勤ギリギリの時間。会社用の携帯へメールが入る。
「げ。お義母さん……」
恐る恐る本文を読んでみると。
『修治さん、お帰りなさい。クリスマスに帰国だなんてタイミングがよくてよかったわ。ごめんなさいね、依子がむうちゃんやりいちゃんのことばかりで、あなたの旅疲れも考えずに無理を言ったみたいで。ホテルから直接家へ昨夜の内に、なんて、まったくあの子ったら。修治さんが気の毒でしょう、と叱っておいたから。絶対来るなんて言ってたけれど、疲れて眠ってしまったんだろうと思ったから、昨夜はこちらからメールするのを遠慮したの。いつでも服を取りに来てちょうだい。今日はパートが午後からだから』
あの親だからこそ、あの依子だと思う。いたわる心遣いにディスプレイの文字が揺れる。そして。
「あいつ、自分の実家にもそういうことにしてあったのか……」
まだ、望みがあるかも知れない。見限られている訳ではないかも知れない。また、一緒に暮らせるかも知れない。巧く甘えた言葉を出せないのが依子だから。俺から甘えてもいいのかも知れない。
「あ、まずい。遅刻する」
まずは一度タイムカードを押して。それから営業回りに出て。その空き時間に懐かしい我が家へ。夢人が学校へ行っている間になってしまうのが残念だけど。
俺はプレゼントとブリーフケースを抱え、狭いアパートを飛び出した。
どう見ても不審者だ。イブの夜を過ぎた日中に、包みをひとつしか持っていないサンタクロース。
狭い車内でどうにか着替えたまではいいが、昼近いこの時間、行き交う人があまりにも多過ぎた。主婦達よ、家の嫁は働いているぞ。井戸端会議をしているその間にも。
(いやいや、それぞれ家庭の方針というものがある)
共働きをさせていたのは、自分の給料が彼女よりも少ない所為だ。学費の心配ばかりしていた依子の言葉を思い出し、慌てて前言撤回した。
車に入れっぱなしておいたマジックボイスのスプレー缶。本当は昨夜の内に来る気でいたから、万が一子供達が起きてしまった場合のごまかし対策として買っておいたものだ。一応それを自分の喉へ仕込んでおく。万が一通報されても、せめて近隣の住人にだけは自分が香椎修治とばれないように。
我が家を守るベニカナメの生垣、そのすぐ脇に車を停めた。周囲を見渡し素早く門をくぐると、急いで生垣の内側へ身を隠した。そっと子供部屋の窓から覗けば、珍しくベッドメイキングを怠っている。無用心なことに窓の鍵も開いたまま。
(依子のヤツ、意外と俺がいない時は手抜きをしているのかな)
どうでもよい憶測がふとよぎっていった。
静かにゆっくり窓を開ける。サンタの衣装には似合わない革靴を揃えて素足になる。抜き足差し足でベッドの脇へ回り込むと。
「え……、なんでいるんだ?」
学校へ行っているはずの夢人の頭が布団からちょこりと見えていた。
「……ぷっ」
しかも、起きてる!
しまった、これは想定外だ。マジックボイスが意外な形で予定どおりに役立ったのは嬉しいことだが、思い切り夢人にばれてしまった。昨夜プレゼントを届け損ねたこと。ベッドの下へ隠すことで、気づかなかっただけだと思い込ませようとしていたのに。
「夢人……クン、かな?」
恐る恐る声を掛ける。どうかこれが父だとばれませんようにと、心の底から願いつつ。
「え?」
布団のすきまからそう聞こえたかと思うと、少し背の高くなった夢人が飛び起きた。懐かしい母譲りの端正な顔が目を見開いて、食い入るように俺を見つめて来る。
「うそ! マジ?!」
よかった、ばれてない。じわりと滲んだこめかみの汗が退き、ようやく俺にも笑みをかたどるだけの余裕が出来た。
「ご、ごめんね。昨夜はプレゼントが間に合わなくて」
「ホンモノ?」
「もちろん。知らないのかい?」
――サンタってのは、人の名前じゃなくて、この愛ある仕事の職種名なんだよ。
夢人の、このキラキラとした瞳にも俺は弱い。生活に何の役にも立たない雑学、と依子は馬鹿にするのだが、夢人はいつもこうして綺麗な目をまっすぐ向けては俺の話に聞き入ってくれる。だから俺も、つい饒舌になってしまう。
「サンタってのはね、本当の発音はセイント、というんだ。聖なる使いという意味で、その下に名前が」
「ん。もういいです」
……ほんの少しの間だけだがな……。
「あ、ごめんごめん。はい、これ」
そう言ってプレゼントを手渡すと、夢人は嬉しそうにすぐ包装紙のつなぎ目に手を掛けた。だがその動きがすぐにぴたりと止まってしまった。遠慮がちに上目遣いで俺を見る。
「ママに、いただいたものをその場で開けるのは失礼だからいけません、って言われてるんです。でも、僕、サンタさんの前で見たいです。開けたら僕は、“悪い子”ですか」
いつも依子と口論になっていたテーマのひとつ。礼儀作法に厳し過ぎる。子供の内は大らかに育てた方がいい。やはり、同じように思う。だが、本来あるべき礼儀を知った上で、時にはそれを緩めるのも必要。どちらも必要なことなのかも知れない。夢人の問いと表情から、ふとそんな風に認識が改まった。
それが笑んだ口と弓なりになった目に表れた。夢人はぱっと明るい表情を取り戻すと、じれったい手つきで包みをいそいそと開け始めた。それをこっそりベッドの下へ隠す几帳面なところは、依子に似たのか、彼女のしつけの賜物なのか。
「わ……ぁ、やったぁ!! 電王ベルト、欲しかったんだ!」
正解! 俺も心の中で夢人と一緒にやったと叫ぶ。まだまだ俺の勘も捨てたもんじゃあなかった。離れた時間が夢人と俺の心の距離まで遠のかせているのでは、という不安が、その瞬間に霧消した。――柔らかな子供の感触に包まれた、その瞬間に。
「サンタさん! ありがとう!」
堪え切れずに抱き返す。潤む瞳を息子に見られるなんて情けないから慌てて拭う。
「よかった、よかった。喜んでもらえて。……ん?」
サンタの衣装で直接触れる部分はかなり少ないというのに、妙な温かさが夢人からつけひげ越しに伝わって来ていた。
「ちょっと熱があるようだな。ママはどうしたんだい?」
これまでからの彼女からするとあり得ない状況に首を傾げてしまった。それを夢人はどう解釈したのだろう。ほんのりと染まった頬を浮かせ、嬉しそうな笑みを零して言った。
「おととい僕がお仕事を早帰りさせちゃったから、ママに仕事へ行って、って僕がおねがいしたんだ」
なんとも誇らしげな声で、はっきりとそう言う。もうそんなに心の成長も進んでいたのか、と失くした時間が悔やまれる。
「そうか」
馬鹿な意地を張って来た自分の数年間が口惜しい。少しでもその片鱗のお裾分けを乞うように、夢人の頭をくしゃりと撫でた。
予定外のハッピーハプニングによる感傷はそこまでになり。
「サンタさん、どうして変な声なの?」
「ん? あ、いやこれはだね。ほら、高い空を飛び回っているだろう? 空の上の方には、ヘリウムガスが多いんだ。それに喉をやられてしまってねえ」
「サンタさん、そりはどこ?」
「……トナカイに時間外労働はゴメンだ、と帰られてしまってね。見せてあげられなくて残念だ」
なかなかどうして、鋭い夢人の追及から逃れるべく、俺はほうほうの体で子供部屋をあとにした。
喧嘩と聞いて心配したが。熱の原因もそれの所為かと思ったが。
「よかった……大丈夫だ、あの子は依子に似て、強い」
キラキラとまたたく母親譲りの瞳に、濁った色は皆無だった。
夢人からの贈りものは、まっすぐな心を表す笑顔だけでは終わらなかった。
御用納めの二十八日。俺の予測どおり、依子から待ち合わせの連絡が来た。
『夢人と理女からお礼の手紙を預かってるわ。時間を作ってもらえるかしら』
勿論という俺の答えに、彼女は意外な待ち合わせ場所を告げた。
『じゃあ、大学時代によく待ち合わせてた、あの喫茶店の、例のテーブル席で』
大学を卒業してから一度も立ち寄ったことがない。ガラス張りのモダンで小洒落た喫茶店。学生時代の依子が気に入っていた場所のひとつで、サークルの面子に隠れてよく待ち合わせをしていた店。
「解った。挨拶回りが終わり次第向かうよ。一時には着けると思うから」
期待と不安が入り混じった。
結局師走の混雑に巻き込まれ、約束の時間から二十分も過ぎてしまった。時間厳守とすぐ怒っていたあの頃の彼女を思い出すと、いきなり喧嘩になるのでは、と憂鬱になる。
だが彼女を怒らせたのはそのことではなく。
「ばかっ! 何で気がつかないのよ! 何度も口許に手を寄せてたのに!」
突然「いい人、出来た?」なんて訊く彼女に新しい男の影を見て、期待から絶望へ針の振れた俺が発した「離婚届にサインをしてやる」という言葉に対してだった。
言われるまで、まったく気づいていなかった。俺の視線は彼女が口許に添えたその手指ではなく、色香を帯びている癖に清楚を感じる矛盾した瞳にばかり惹きつけられていて。
「ほら、これっ」
立ち上がった身を椅子に落とし直した彼女が、乱暴にバッグから出したもの。
それは先に言われた子供達からの手紙と――家を出た時外していった、俺の結婚指輪だった。
そして子供達が性急に頼んで来た、次のクリスマスプレゼント。
――来年のクリスマスには、パパをプレゼントしてください。夢人
――ママにもプレゼントください。パパをください。 りおん
「……そういう、ことよっ。だから、その……」
――意地を張って、ごめんなさい。勝手だけど、でも、お願い。
「……帰って来て、パパ」
声もなく、ただ何度も子供のように頷くことしか出来なくて。零す涙をハンカチで顔ごと拭っても、また零れては鼻水をすする。その音が雰囲気を台なしにする。どこまでも頼りない、情けない男。それが、俺。
思い出す、彼女とつき合うきっかけになった、彼女のくれたあの言葉。
『……そういう、恰好つけない自然な修治が、ね』
遠い昔の彼女からの声に、今の声が重なった。
「パパのアパートへ荷物を取りに行って、それから、二人で帰りましょう」
結婚して十一年。俺はまだあの頃の気持ちのまま、“ママ”ではなく“依子”に恋をしていると改めて思い知った。
「あなた、どうやって暮らしてたの?」
閑散とした部屋をひと通りぐるりと眺めると、心底呆れる声が何もない部屋でエコーした。
「どう、って。だって帰ってもいろいろ考えてしまうから残業とか飲みに行ったりとかで、ほとんどモノなんて必要なかったし」
土間を上がって狭いキッチンをすり抜け、どかどかと奥に面した六畳一間の窓を全開する依子。俺はその背中に向かって口ごもりつつそう答えた。
「健康管理は三十路からが大事なのよ。外食ばっかじゃ四十代に入ってから生活習慣病が一気に出るんだからっ」
堪えろ、俺。口調がキツいだけで、心配してくれているのだ。
「だって作ってくれる人がいないし」
……堪え性じゃない俺に堪えるのは無理だった。
「はあ? 桑原瑞穂さん、とやらは」
は?
よく見ると、依子の行動が、かなりおかしい。片づけているというよりも。
「おい、布団がどうかしたのか?」
敷きっ放しの万年床で、目を皿のようにして何かを探している。かと思うとキッチンへ向かい、シンク下を確認し出す。
「おい」
今度は風呂場かよ。
「瑞穂って、なんのことだ」
それは職場の総務の女性で、この春同期の鮫島と結婚した鮫島瑞穂のことだろうか。確か今年で二十六。鮫島が皆に犯罪者呼ばわりで冷やかされる原因となった八歳年下の後輩だ。
「なかなか手馴れたものね。その女」
そんな口汚い言葉を彼女の声で聞くのは初めてだ。
「瑞穂君のことを言っているのか、その“女”ってのは」
そう問う俺の声には、依子に対する批判が混じっていた。
「もう続いてないの?」
「続くって、仕事か?」
「誰が仕事の話をしてるのよ。愛人だったんでしょ」
「何……っ?!」
乱暴に風呂を洗いながら視線を合わせずそう言った依子の腕を取って浴室から連れ出した。
「ばれてないとでも思ったの。彼女、あの日の晩、家に電話を掛けて来たんだから。“今夜はご主人をお借りしますね”って。勝ち誇ったみたいに半分笑った声で!」
あの日の晩……あの日? の、晩?
「……まったく記憶にないんだが。それ、いつの話?」
「あなたが帰って来なかった日よっ。クリスマスイブの夜、三年前の!」
堪えて、いたのだろうか。髪を振り乱してボロボロと涙を零し、声を荒げる依子など、この十一年間で見たのはあの夜だけだ。
「あ……あれは、鮫島のマンションに運ばれてたんだよ。目が覚めたらあいつんちのリビングに放り出されてて」
「だから言い訳なんかしなくていいの! まさかあなたに嘘がつけるなんて思わなかったわ。私はそれが許せなかったの!」
「ちょっと、落ち着け。立ち話もなんだし、とにかく座って」
盛大な勘違いを解くべく六畳間へ彼女の腕を引こうと力をこめると
「触らないで! 自分で行けるわ」
といきなりすげない態度で振り払われた。
座布団などないから布団の上に座らせる。安いアパートを借りたので、畳のいぐさが毛羽立っていて、依子のストッキングを破ってしまいそうだから。
「あのな、瑞穂君は鮫島の奥さんで、あの頃もうあの二人は一緒に暮らしていたんだよ」
そう説明している間にも、沸々とこみ上げて来るものがある。フレアスカートの裾を握りしめて俯き、堪えるように泣く姿がそうさせる。
「……そんなこと、もうどうでもいいわ。浮気なんてのは男の人のしょうがない部分、って思ってるもの」
問題は、子供のことまでほったらかしたことよ。しかもクリスマスイブだったのに。
「……ちょっと待て。何だそれは。俺はどうでもいいけど、子供達の気持ちは大事、ってか」
心外だ。彼女の言葉は、それじゃまるで。
「俺の気持ちがどこ行ってようとどうでもいい、ってことなのか!」
握り拳に力がこもる。諭すつもりがどうしても怒声に近くなる。
お前にとって俺は一体何なんだ。可愛い我が子の父親としてしか必要ない、ということか。確かに子供は可愛い。目に入れても痛くないし、辛い営業仕事も、あの子達に温かな家と充分な食事を提供し、きちんとした恰好をさせてやる為。あの子達に惨めな思いをさせない為だと思えばこそ、安月給でも頑張って来れたのは確かだが。
「けどな。子供達の為だけに働いてた訳じゃないんだぞ。少しでもノルマを上げて……少しでもお前が仕事を減らせるように、家にいられるように、って……」
だから何でここで情けない声になっていくんだ、俺は。だからこうして依子が驚いた顔で自分の言葉を飲んでしまうのに。
「いっぱい、これでも我慢してたんだぞ……お前が子供子供って、そっちばっかで……ママばっかりしてるから……」
広いダブルベッドで一人寝の続く夜。起きても時折誰もリビングにいなくて、一人で作って食う朝飯。彼女が家に図面を抱えて帰れば、コーヒーを淹れて先に休んだ日もたくさんあった。貴重な有休を二人だけの時間ではなく、家族旅行にばかり当ててもニコニコ笑顔で快諾して来た。
「子供は、可愛い。それはそうだけど……」
結婚してすぐ夢人が出来て、全然二人の時間がなかったじゃないか――。
「浮気する余裕なんか、なかった。全然依子が掴らないから」
解っているんだ。仕事が好きとか言いながら、本当は家計を支えてくれていたこと。俺より出来がよくて収入もあって、どこか嫉妬していたことも自覚していた。
「……呆れた。普通、そんなほったらかしの奥さんに愛想尽かして浮気するのが男じゃないの」
ちょっとこらしめてやろうと思って実家へ帰ろうとしただけなのに。本当に出て行ったきり、部屋まで借りたなんて、電話じゃなく手紙なんか送って来るんだもの。
「瑞穂さんとやらに、本気になっちゃったのかと思ってた。それがあなたの選んだ道ならって思って、我慢してた」
なのにあなた、そのあと全然離婚の話を切り出して来ないんだから。
子供達をあやす時とよく似た声で、彼女がそっとうな垂れた頬に触れて俺の顔を上げさせる。
「それに甘えて、ずるずる延ばしてた。馬鹿みたい。三年も無駄に離れてたなんて」
柔らかな胸に顔を押しつけられる。もう母乳の匂いはしなくなっていた。本当に、無駄な歳月を過ごして来たと胸がキリリと悲鳴を上げる。意地の張り合いなんかの所為で、子供達に酷い仕打ちをしてしまった。
「帰りたい、家へ。子供達の為だけじゃなくて……依子と、やり直す為に」
うん、と小さく呟く声で、やっと彼女の背に腕を回せた。
「俺、まだ一度も聞いたことがないんだ」
お前からの“愛してる”っていう言葉――。
それがいつも不安にさせた。子供の為に傍にいてくれるだけだと思うと、彼女に意見のひとつも言えなかった。汲み取ってくれるのは、子供という弱味の所為だとずっと勝手に思い込んでいた。
「そ……うだっけ……」
そう言って震わせる喉へ口づける。喫茶店で言っていた。目許に見惚れて指輪に気づかなかったと言った俺に、怒って叫んだ「小皺が目立って来てることに対する嫌味?」という言葉。
「何年振りだろ。全然、変わらない」
「馬鹿……」
甘ったるいその声が、彼女の身体を押し倒させた。
開けっ放しの窓が気にならない。変に火照る体が互いに熱を放つ所為か。
「依子」
愛してると耳許へ囁き甘噛むと、彼女がびくんと身をよじらせて喘ぐように呟いた。
「あ……私も……」
愛してる――“パパ”。
「萎えた――っっっ!!」
「あ」
パパ、というひと言で鮮明に浮かんだ、ふたつの愛する幼い笑顔。瞬間、親父としての俺が、男としての俺を無理矢理鎮圧しやがった。気分は徳山動物園で頭を抱えて悩めるマレーグマ、ツヨシの状態だ。
「ご、ごめんなさい、だって今更……」
ばつの悪い気分で身を起こし、互いに俯いたままで、互いのシャツのボタンをのろのろと留め合う。窺う視線を上目遣いに送ると、依子のそれと合ってしまった。
「……ぷっ」
「……ふふ」
それから、触れるだけの淡いキスをした。
結局何も持たず、でも隣り合うシートで手を繋いだままオンボロ車で家路を急いだ。
「ビックリするかな。二人とも」
「困ってしまうんじゃないかしら。来年のクリスマスプレゼントをパパにしちゃったから」
来年どうしよう、なんて。うろたえる二人の姿を想像したら、俺も妙に笑えて仕方がなかった。
「来年までには頼んだことさえ忘れるだろ」
「そうね。あ、そうだ。家に帰ったらサンタクロース協会のサイトを見せてあげて」
せっかくパパみたいに夢を忘れない子にと願って夢人と名前をつけたのに、嫌なところが私に似たわと彼女が言う。
「でもこっちがドキっとするような目の綺麗さは、お前に似ていてよかったと思うよ」
「あら、じゃあ理女の嫉妬深さも、私に似ていてよかったと思ってくれる?」
そう言ってきゅ、と繋いだ手に力をこめる。滅多に見れない素直な彼女の、そんな仕草が嬉しくて。
「そりゃ俺に似た悪いとこだな。理女は俺の理想どおり、いい女に育つ勝気な目がやっぱりお前に似たところだよ」
そう答えて力強く握り返す。あと数分で「親」の自分達に戻らなくてはならないから。
「たまにはさ。お義母さんに子供達を預けて、二人で映画でも見に行こう」
勝手に勘違いして、また大切な時間を失くしてしまわないように。
「そうね。折角夢人がくれたプレゼントだものね」
ちゃんと素直に話し合える時間。目には見えない贈りもの。
「来年はフンパツしなきゃな。プレゼント」
ガレージに車を停める。最後にもう一度だけ唇を触れ合わす。
「じゃ、頑張って働いてもらわないとね、パパ」
そう言った彼女を見ると、今も変わらぬ艶っぽい瞳が「お帰りなさい」と告げていた。
「パパっ?!」
「おかえりなさーい!! シュッチョーおわりーっ?」
廃車も間近なオンボロ車の無駄にうるさいエンジン音に気づいた子供達が、愛くるしい笑顔を携え玄関から同時に飛び出して来た。
もどかしい気分でシートベルトを外す。何はさておき車を降りる。目の前に駆け寄って来る二人は、やはり依子とは異なる意味で愛しくて。両の腕で飛び込んで来た二人を受け止め、二人同時に抱きかかえた。
「ただいま、夢人、理女」
天使達からのもうひとつの贈りもの。それは両の頬へのキスだった。