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嵐を呼ぶ嘆きと、感謝の「ごちそうさま」


 港湾都市ベルンリングを出発して、三日目の朝。

 サンズグリーズ鉄道・特急リリス号は、陸地を遥か後方に置き去りにして、見渡す限りの大海原をひたすら走っていた。

 シュッシュッ、ポッポッ。

 リリス号の煙突から吐き出される白煙が、青い空と海に溶け込んでいく。

 先頭車両の排障器カウキャッチャーから放たれる『自動架橋魔法』の光が、海面を瞬時に凍結・硬化させ、半透明の美しい氷のレールを作り出している。リリス号はその上を滑るように駆け抜け、通過した後には白い航跡だけが残る。それはまるで、海に筆で一本の線を描いているかのような幻想的な光景だった。


「ふむ……。海水のマナ濃度、および氷結レールの強度は安定している。シルフの追い風による推進力補助も計算通りだ」


 車掌室の窓際で、ダークエルフの少女リュシアが計器を睨みながら頷いた。

 彼女はもうすっかり、この鉄道の「頭脳担当」として定着していた。ぶかぶかの制帽も、なんとなくサマになってきている。


「順調ですね。この調子なら、今日の夕方には海上都市リングベルに到着できそうです」


 若葉一利は、淹れたてのコーヒー(ベルンリングで仕入れた豆だ)をリュシアに差し出しながら、窓の外の水平線に目を向けた。

 穏やかな波。飛び交うカモメたち。

 平和そのものの海だ。

 だが、若葉の胸の奥で、何かがチリチリと警鐘を鳴らしていた。

 長年の接客業で培った「嫌な予感」というやつだ。平和な時ほど、その反動で大きなトラブルがやってくるのが世の常である。


「……ん?」


 若葉が目を細める。

 水平線の彼方。進行方向の空に、小さな黒いシミのようなものが見えた。

 それは見る見るうちに大きくなり、空を侵食していく。


「リュシアさん、あれは?」


「……気圧の急激な低下を感知。前方に高密度の魔力溜まりが発生している。あれは……ただの雨雲ではないな」


 リュシアの表情が険しくなる。

 数分もしないうちに、その正体が明らかになった。

 壁だ。

 天と海を繋ぐ、巨大な漆黒の壁。

 スーパーセルと呼ばれる超巨大積乱雲の群れが、渦を巻きながらリリス号の進路を塞いでいたのだ。

 その中心には、世界を飲み込むかのような暗黒の瞳、台風の目があり、周囲には紫色の稲妻が龍のように走り回っている。


「で、でかい……!」


 若葉が息を呑む。

 地球の台風なんて目ではない。サンズグリーズ規格の、災害級の大嵐だ。


「キュウ!キュウ!(おい若葉! 前方海域、荒れるぞ!)」


 伝声管から親方の大声が響いた。


「フゴフゴフゴ!!(風速六十メートル以上! 波の高さは十メートル超えだ! 普通の船なら即沈没するレベルだぞ!)」


「引き返しますか!?」


「フゴッ!(バカ言え!)」


 親方が吠える。


「キュウ!キュウ!キュウ!(後ろからも嵐が来てる! 突っ切るしかねえ! リリスの結界と、シルフの加護を信じろ!)」


「り、了解! お客様へのアナウンスを入れます!」


 若葉はマイクを掴んだ。

 手が震えそうになるのを、ぐっと堪える。車掌が動揺すれば、乗客はパニックになる。


「お客様にお知らせいたします。当列車はこれより、前方の悪天候エリアを通過いたします。少々揺れますが、リリス号の防護結界は万全です。絶対に、窓を開けたりデッキに出たりなさいませんよう、お願い申し上げます」


 アナウンスが終わると同時に、リリス号は黒い壁の中へと突入した。

 ズガァァァァァァァン!!

 世界が一変した。

 青い空も海も消え去り、視界は漆黒の闇と、叩きつけるような豪雨に塗り潰された。

 風の音が、ゴウゴウという重低音から、キィィィィンという金属音のような高音に変わる。

 巨大な波が牙を剥き、リリス号の側面を打ち据える。

 だが、リリス号は揺るがなかった。

 車体を包むエメラルドグリーンの光、シルフの加護が、暴風雨を弾き返しているのだ。

 

「すごい……。本当に、嵐の中を進んでる」


 若葉は窓に張り付いて外を見た。

 結界の外は地獄のような荒天だが、車内は嘘のように静かだ。ティーカップの水面すら揺れていない。

 改めて、精霊王の力の偉大さを思い知る。

 嵐の中を走ること数時間。

 闇の向こうに、ぼんやりとした光の集合体が見えてきた。

 海上都市リングベルだ。

 海の上に巨大な円環状の土台を築き、その上に白亜の建物が立ち並ぶ美しい都市のはずだが、今は分厚い雨雲の下、必死に嵐に耐えているように見えた。

 都市全体を半透明のドーム状結界が覆っているが、その表面は激しい雨風で波打ち、悲鳴を上げている。


「まもなく、海上都市リングベルに到着します」


 リリス号は、都市の外周にある巨大な駅舎へと滑り込んだ。

 駅のドーム内に入った瞬間、風の音が少しだけ遠のいた。

 だが、完全に安全というわけではなさそうだ。頭上のドーム天井はミシミシと音を立て、いつ破れてもおかしくない状況だ。

 プシュウウ……。

 リリス号が停車する。

 若葉がドアを開けようとすると、ホームに立っていた駅員(魚の尾を持つマーマン族)が、血相を変えてバツ印を作った。


「降りるな! ドアを開けるな!」


 駅員の声は、ドーム内に響く轟音にかき消されそうだった。

 若葉は慌てて窓を開け、大声で尋ねた。


「どうしたんですか!? ここは駅の中でしょう!?」


「気圧調整が追いついてないんだ! 外の嵐が強すぎて、ドームの結界が不安定になってる! 下手ドアを開ければ、気圧差で乗客が外に吸い出されるぞ!」


 マーマンの駅員は、必死に叫んだ。


「現在、リングベルは全域がロックダウン(封鎖)中だ! 嵐が過ぎ去るまで、誰も外には出られない! リリス号も、そのまま待機してくれ!」


「そ、そんな……」


 若葉は顔面蒼白になった。

 外は嵐。駅についても降りられない。完全な缶詰状態だ。

 客車の方からは、不安げな乗客たちの声が聞こえ始めていた。


「いつ降りられるんだ?」

「この駅、壊れるんじゃないか?」


 若葉は一度窓を閉め、深呼吸をした。

 まずは落ち着かせなければ。

 彼は再びマイクを取り、乗客たちに状況を伝えた。

 安全確保のための一時待機であること。リリス号自体はシルフの加護と自前の結界で守られており、駅舎よりも安全であること。

 努めて明るく、力強い声で。

 放送を終え、若葉は車掌室の椅子に崩れ落ちた。


「……どうなってるんだ、この嵐は」


 窓の外を見る。

 駅のドーム越しに見える空は、まるで世界の終わりかのように荒れ狂っている。

 ただの台風ではない。憎悪のような、あるいは慟哭のような、強烈な負の感情が渦巻いているのを感じる。


「……若葉。この嵐、自然的要因によるものではない」


 リュシアが静かに言った。

 彼女は分厚い魔導書を広げ、何やら計算をしていた。


「マナの乱れ方が異常だ。大気中の水分元素が、何かの意思に呼応して暴走している。これは……精霊レベルの干渉だ」


「精霊?」


 若葉の脳裏に、ある存在が浮かんだ。

 風の精霊王、シルフだ。

 彼女なら、何か知っているかもしれない。


「聞いてみよう」


 若葉は目を閉じ、手を組んだ。

 人攫いの森で出会い、吸血鬼の城で助けてくれた、気まぐれで偉大な風の女王へ。


「シルフ様……。風の精霊王シルフ様。聞こえますか?」


 祈りを捧げる。

 数秒の沈黙の後。

 ピュゥ……と、密閉されたはずの車掌室に、一筋の風が吹き込んだ。

 その風が、若葉の耳元で言葉を紡ぐ。


『……聞こえているぞ、鉄道屋』


 いつもの凛とした声。だが、今日はどこか沈んでいるように聞こえた。


「シルフ様! この嵐は一体何なんですか? リングベルの街が、もちそうにありません!」


『……すまぬな。これは、我が友の嘆きなのだ』


「友?」


『水の精霊王、セイレーンだ』


 セイレーン。

 その名は、若葉も聞いたことがあった。

 海を司り、美しい歌声で航海の安全を守り、海洋生物を育む慈愛の女神。


『セイレーンは、誰よりも優しく、そして誰よりも傷つきやすい。……この海は、先の大戦で最も激しい戦場となった場所だ』


 シルフの声が、悲しげに揺れた。


『数え切れないほどの船が沈み、多くの人間や魔族が海の藻屑となった。セイレーンはその全てを見ていた。彼女の美しい海が、血と油で汚れ、死体で埋め尽くされるのを』


 若葉は息を呑んだ。

 戦争が終わって一年。地上の復興は進んでいる。

 だが、海の中には、まだ戦争の爪痕が深く残っているのだ。


『彼女は嘆いているのだ。失われた命を想い、守れなかった自分を責め……その悲しみが歌となり、涙となり、この嵐を生み出している。彼女に悪意はない。ただ、悲しすぎて、泣き止むことができないのだ』


 セイレーンの涙。

 この全てを破壊する暴風雨の正体が、精霊王の悲しみだというのか。


「……止められないんですか? シルフ様の力で」


『我の力は風。水を操る彼女とは相性が悪い。それに、力でねじ伏せれば、彼女の心はさらに壊れてしまうだろう』


 シルフは言った。


『必要なのは、力ではない。彼女の心を癒やす「何か」だ』


 風が止んだ。

 若葉は目を開けた。

 窓の外では、依然として暴風雨が吹き荒れている。

 あれは、泣き声だったのだ。

 世界を憎んで暴れているのではなく、悲しくて悲しくて、どうしようもなくて泣き叫んでいる子供と同じ。


「……リュシアさん、親方」


 若葉は立ち上がった。


「セイレーン様に、声をかけに行きましょう」


 若葉たちは、リリス号の最後尾にある展望デッキへと向かった。

 二重扉を開けると、凄まじい轟音が鼓膜を叩いた。

 駅のドーム内とはいえ、外の嵐の余波で風が吹き荒れている。

 ドームの向こう側、漆黒の海に向かって、若葉は叫んだ。


「セイレーン様ーーーっ!!」


 声は、一瞬で風にかき消された。


「聞こえますか! 戦争は終わりました! 世界は平和になりました! もう誰も傷つけ合ってはいません! だから……もう泣かないでください!」


 喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。

 隣でリュシアも、親方も、ウサギたちも叫ぶ。

 しかし、嵐は弱まるどころか、ますます勢いを増していくようだった。

 ゴウゴウという風の音が、「悲しい、悲しい、悔しい」という慟哭のように聞こえる。

 セイレーンの悲しみはあまりにも深く、巨大すぎた。若葉たちの「言葉」だけでは、彼女の耳に届かない。


「くそっ……! ダメか……!」


 若葉は手すりを握りしめた。

 雨飛沫が顔を叩く。

 このままでは、リングベルのドームが崩壊するのも時間の問題だ。

 街の人々も、リリス号の乗客も、そしてセイレーン自身も救えない。


「……若葉」


 その時、リュシアが若葉の袖を引いた。

 彼女は冷静な瞳で、荒れ狂う海を見つめていた。


「言葉では届かない。音響的な干渉力が足りない以前に、概念的なアプローチが間違っている」


「どういうこと?」


「セイレーンは『死』を嘆いている。失われた命を想い、この海を『死の場所』だと認識してしまっている」


 リュシアは眼鏡の位置を直した。


「ならば、我々が示すべきは逆の概念だ。『死』の対極にあるもの……すなわち『生』だ」


「生……」


「この海は、死だけの場所ではない。今もなお、多くの命を育み、我々を生かしてくれている。それを証明しなければならない」


 リュシアは若葉の目を真っ直ぐに見た。


「生物にとって、最も根源的で、最も力強い『生』の営みとは何か? ……それは『食事』だ」


 その言葉に、若葉の中に電撃が走った。

 食事。

 他の命をいただき、自分の血肉に変え、明日を生きる力にする行為。

 それは、命の循環そのものだ。


「ベルンリングで買った魚!」


 若葉は叫んだ。


「まだたくさんあります! デビルブルも、蟹も、トビウオも!」


「そうだ。あれらは全て、セイレーンの海が育てた命だ」


 親方が「フゴッ!(なるほど!)」と膝を打った。

 食べて、感謝する。

 「あなたの海のおかげで、僕たちはこんなに元気です」と伝える。

 それこそが、母なる海への最大の慰めになるはずだ。


「やりましょう、大宴会!」


 若葉の目に光が戻った。


「親方、冷蔵庫の中身を全部出してください! 食堂車を開放します! お客さん全員に振る舞いましょう!」


「キュッ! フゴゴッ!(任せろ! 腕によりをかけるぜ!)」


 親方とウサギたちが、弾丸のように走り出した。

 リュシアもマントを翻す。


「ボクは調理の化学的補助を行う。加熱時間の最適化と、旨味成分の抽出だ」


「頼みます! 僕は車内放送でお客さんを集めます!」


 若葉は車掌室へダッシュした。

 ただの食事じゃない。これは、精霊王への祈りの儀式だ。

 日本人が食事の前に唱える、あの魔法の言葉。

 『いただきます』。

 命への感謝と、生きる喜び。それを、嵐の向こうへ届けるんだ。


「お客様にお知らせいたします! これより、食堂車および全車両にて、緊急の『特別配給』を行います!」


 若葉の声が車内に響いた。


「外は嵐ですが、車内では美味しいお祭りを開催します! ベルンリングで仕入れた新鮮な魚介類を、皆様に無料で振る舞います! どうか皆様、食堂車へお集まりください! 座席に座ったままでも結構です!」


 最初は不安そうにしていた乗客たちも、「無料?」「魚?」と顔を見合わせた。

 そして、食堂車の方から漂ってきた香りが、彼らの心を鷲掴みにした。

 香ばしい焼き魚の匂い。濃厚な蟹のスープの香り。そして、炊きたてのご飯(のような穀物)の甘い香り。

 不安で縮こまっていた胃袋が、グゥと鳴る。

 食欲は、恐怖に勝るのだ。


「うわあ、うまそうだ!」

「なんだこのデカイ魚は!?」

「クリスタル蟹だ! 高級品だぞ!」


 食堂車はあっという間に満員になり、通路にまで人が溢れた。

 ウサギたちが忙しく料理を運び、リュシアが魔法で的確に配膳していく。

 テーブルには、デビルブルの刺身、カニ鍋、トビウオのフライ、海藻サラダが山盛りに並べられた。

 全員に行き渡ったのを確認して、若葉が食堂車の中央に立った。


「皆様、聞いてください!」


 若葉は声を張り上げた。


「この食事は、この海が、そして水の精霊王セイレーン様が育ててくれた命です。今、セイレーン様は悲しんで嵐を起こしています。でも、僕たちがこうして命をいただき、元気に生きていることを伝えれば、きっと悲しみは癒えるはずです」


 乗客たちが、真剣な顔で若葉を見た。


「だから、お願いがあります。食べる前に、全員で大きな声で、感謝の言葉を言ってください。僕の故郷の言葉です」


 若葉は両手を合わせた。

 乗客たちも、ドワーフもエルフも獣人も、見よう見まねで手を合わせる。


「いきますよ! せーのっ!」


 「「「いただきます!!!」」」


 数百人の声が重なり、一つの巨大な波動となって響き渡った。

 それは、嵐の音すら凌駕する、力強い「生」の宣言だった。



 「「「いただきます!!!」」」


 その言葉は、ただの挨拶ではなかった。

 数百人の乗客たち、そして若葉やリュシア、ウサギたちが込めた「生きる意志」の塊だった。

 声は食堂車の天井を震わせ、リリス号の壁を突き抜け、外の暴風雨に向かって波紋のように広がっていった。

 そして、宴が始まった。


「う、うめえええええ!!」

「なんだこの魚!? 脂が乗っててトロトロだぞ!」

「こっちのスープも最高だ! 蟹の出汁が身体に染み渡る……!」


 あちこちから歓声が上がった。

 最初は不安げに箸やフォークを伸ばしていた乗客たちも、一口食べた瞬間に目を見開き、笑顔を弾けさせた。

 あのグロテスクな深海魚『デビルブル』の刺身は、瞬く間に皿から消えていく。

 『クリスタル蟹』の鍋からは、湯気と共に芳醇な香りが立ち昇り、冷え切った乗客たちの身体と心を芯から温めた。


「ほら、どんどん食べてください! おかわりもありますよ!」


 若葉は額に汗を浮かべながら、大皿を運んで回った。

 ウサギたちもまた、自分たちの身体より大きな鍋を協力して運んだり、空になったグラスにジュースを注いだりと、忙しくも楽しげに跳ね回っている。


「ふむ……観測データ更新。車内の『正のエネルギー』が指数関数的に上昇している」


 リュシアが満足げに頷きながら、自分もデビルブルの唐揚げを頬張った。


「『美味しい』という感情は、生物が生存に適したエネルギーを摂取した際に発生する報酬系シグナルだ。つまり、この空間は今、最も純粋で強力な『生命力』の輝きに満ちていると言える」


「難しいことは分からないけど……とにかく、みんな笑顔になったね!」


 若葉が言う通りだった。

 先ほどまで「駅が壊れるんじゃないか」「もう助からないんじゃないか」と震えていた人々はもういない。

 そこにあるのは、美味しい食事を囲み、隣の人と笑い合い、明日への活力を蓄える、逞しい生命の姿だった。

 その熱気は、物理的な温度を超えて、魔法的な熱量となって外部へ漏れ出していた。

 リリス号全体が、ぼんやりと温かな金色の光に包まれ始めている。

 それは、シルフの加護とはまた違う、人間や亜人たちが持つ「命の炎」の色だった。

 ガタン……。

 不意に、駅舎を揺らす風の音が少し変わった気がした。

 鋭く切り裂くような悲鳴のような風音が、少しずつ丸みを帯び、戸惑うような音色へ。

 セイレーンが、気づいたのだ。

 自分の悲しみの嵐の中で、力強く灯る無数の小さな光に。


「……若葉。そろそろだ」


 食事が一段落し、乗客たちが満腹で幸福なため息をつき始めた頃、リュシアが若葉に合図を送った。


「みんなのお腹は満たされた。魂も温まった。今こそ、感謝の言葉を届ける時だ」


「はい!」


 若葉は再び、食堂車の中央に立った。

 マイクを握りしめる。

 全員の視線が若葉に集まる。その顔は、どれも満足感に満ちていた。


「皆様! 美味しかったですかー!?」


「「「美味かったぞーーー!!」」」


 割れんばかりの返事が返ってくる。


「この美味しい魚たちは、セイレーン様の海が育ててくれたものです。僕たちは、この命をもらって、明日も生きていきます。……その感謝を、最後にもう一度、空に向かって叫びましょう!」


 若葉は天井を指差した。その向こうにある、暗い空と、泣いている精霊王に向けて。


「悲しみに暮れるセイレーン様に教えてあげるんです。貴女の海は、こんなにも豊かな命を育んでいるんだって! 僕たちは、こんなにも元気なんだって!」


 乗客たちが立ち上がる。

 ドワーフも、エルフも、獣人も、人間も。

 誰もが手を合わせ、あるいは胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。


「いきますよ! 心を込めて……せーのっ!」


 「「「ごちそうさまでした!!!!」」」


 その声は、轟音となって炸裂した。

 「いただきます」の時よりもさらに強く、深く、そして温かい波動。

 それはリリス号の装甲を抜け、駅のドームを抜け、分厚い雨雲を突き破った。

 暴風雨の音をかき消し、荒れ狂う波を鎮め、海中深くへと届いていく。


 ――ありがとう。

 ――美味しかったよ。

 ――生きているよ。


 無数の感謝の念が、光の粒子となって海へと降り注いだ。

 その直後だった。

 ピタリ。

 世界から音が消えた。

 叩きつけていた雨音が止み、唸りを上げていた風が凪いだ。


「……止んだ?」


 誰かが呟いた。

 若葉が慌てて窓を開ける。

 駅のドーム越しに見える空。

 そこにあった黒い絶望の雲が、まるで嘘のように割れていく。

 雲の切れ間から、黄金色の光の柱「天使の梯子」が、真っ直ぐに海面へと降り注いだ。

 ザザァ……ッ。

 光が差した海面が、大きく盛り上がった。

 そこから現れたのは、水でできた巨大な女性の幻影だった。

 透き通るブルーのドレスを纏い、泡のような髪をなびかせた、美しくも儚げな精霊王、セイレーン。

 彼女の頬にはまだ涙の跡があったが、その表情はもう悲痛に歪んではいなかった。

 まるで、愛しい我が子を見守る母親のような、穏やかで優しい微笑みを浮かべていた。


『…………』


 声は聞こえなかった。

 だが、彼女はリリス号の方を見て、ゆっくりと、深く一礼した。

 そして、ふわりと手を振ると、無数の光の粒となって海へと溶けていった。

 その瞬間、海上都市リングベルを覆っていた全ての雲が消え去った。

 眩いばかりの陽光が降り注ぎ、濡れた街並みをキラキラと輝かせる。


「おおお……っ!!」


 歓声が上がった。

 駅のドームが開放され、新鮮な海風が吹き込んでくる。

 そこには、絶景が広がっていた。


「これが、海上都市リングベル……!」


 若葉は目を奪われた。

 嵐の中では見えなかったその全貌。

 海の上に浮かぶ円環状の都市。建物はすべて白亜の大理石で作られ、随所に青いクリスタルが埋め込まれている。

 街中を巡る水路にはゴンドラが行き交い、空には虹がかかっている。

 セイレーンの加護を受けた、水の都。

 その美しさは、嵐の後の澄んだ空気の中で、神々しいほどに輝いていた。


「安全確認完了! ロックダウン解除! リリス号、入線許可!」


 駅のスピーカーから、興奮した駅員の声が響いた。

 リリス号はゆっくりと動き出し、正規のホームへと入線した。

 プシュウウウ……。

 ドアが開く。

 乗客たちは、我先にとホームへ降り立った。

 だが、誰もが改札へ向かう前に、若葉たちの元へ駆け寄ってきた。


「ありがとう、車掌さん! 美味しいご飯だったよ!」

「あんたのおかげで助かった! 最高の旅だったぜ!」

「また乗るよ、サンズグリーズ鉄道!」


 口々にお礼を言い、手を振って去っていく乗客たち。

 その笑顔を見て、若葉の目頭が熱くなった。


「……よかった。本当によかった」


 若葉は制帽のツバを下げて、涙を隠した。

 隣でリュシアが、優しく微笑んでいる。


「ふむ。感謝のエネルギーが事象を改変する……非科学的だが、実証されてしまったな。『ごちそうさま』の魔力、侮りがたし」


「キュッ! フゴッ!(飯は世界を救うってな!)」


 親方も満足げに腹を叩いた。


 その日の夜は、リングベルの美しい夜景を見ながら、静かに過ごした。


 翌朝。

 リリス号は、一日遅れでリングベルを出発することになった。

 新しい乗客と、港で積み込んだ大量の海産物(お土産用)を乗せて。


「ご乗車ありがとうございます。昨日は悪天候による運休、大変ご迷惑をおかけいたしました」


 若葉がアナウンスを入れるが、車内の空気は明るい。

 昨日の「奇跡の宴」の噂はすでに広まっているようで、新しい乗客たちもワクワクした顔をしている。


「次は、鉱山都市ツェルベルス。ツェルベルスに止まります」


 ポォォォォォォォッ!!!

 リリス号が高らかに汽笛を鳴らし、海の上を走り出す。

 窓の外、海面から数頭のイルカがジャンプして見送ってくれた。その中には、水の精霊たちの姿も混じっていたかもしれない。

 リリス号は海を渡り、再び大陸へと上陸する。

 目指す先は、地平線の彼方に見える、噴煙を上げる巨大な火山だ。


「ツェルベルスか……。鉱山と、あと温泉があるんでしたっけ?」


 若葉が地図を見ながら言うと、親方が「フゴッ!(温泉!)」と即座に反応した。


「親方、温泉好きなんですか?」


「キュッ!(当たり前だ! 仕事の後のひとっ風呂は最高だぜ!)」


 親方はタオルで背中を洗うジェスチャーをした。ウサギが温泉に入って大丈夫なのかは謎だが、楽しみなのは間違いない。


「温泉か。成分分析が楽しみだな。硫黄泉か、炭酸泉か……。疲労回復効果の数値データを取らねば」


 リュシアもまた、期待に目を輝かせている。彼女の場合、楽しみ方が少しズレているが。


「よし! 次は温泉を目指して、出発進行ォォォッ!!」


 若葉の号令と共に、リリス号は加速する。

 海から山へ。

 復興する世界を繋ぐ旅は、まだまだ続く。

 次の街では、どんな出会いと、どんな「美味しいもの」が待っているのだろうか。

 リリス号の車輪は、希望のリズムを刻みながら、荒ぶる火山の方角へと力強く進んでいった。



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