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港町ベルンリングの美食と、海を渡る鉄路


 学術都市トリスメギストスを出発して数日。

 サンズグリーズ鉄道・特急リリス号は、内陸の草原地帯を抜け、険しい山脈を越え、なだらかな丘陵地帯をひた走っていた。

 シュッシュッ、ポッポッ。

 リリス号の煙突から吐き出される白煙が、青い空に溶けていく。

 その煙の匂いに、少しずつ変化が現れ始めていた。

 乾いた土や草の匂いに混じって、どこか懐かしい、鼻腔をくすぐる塩辛い香りが漂ってきたのだ。


「……海だ」


 車掌室の窓を開け放ち、若葉一利は深呼吸をした。

 間違いない。これは潮風の匂いだ。

 日本という島国で育った彼にとって、海は心の原風景とも言える場所だった。異世界に来てからずっと内陸部での勤務が続いていたため、この香りは郷愁を誘うと同時に、胸が高鳴るような冒険の予感をもたらしてくれた。


「おい若葉。塩化ナトリウムの濃度が上昇しているぞ。計器の腐食対策が必要ではないか?」


 隣で難しい顔をして計測器を覗き込んでいるのは、車掌見習いとして採用されたダークエルフの少女、リュシアだ。

 ぶかぶかの制帽を目深に被り、黒いドレスの上に車掌用のベストを着込んでいる。その姿はアンバランスだが、どこか愛らしい。


「大丈夫だよ、リュシアさん。リリス号には防錆の魔法がかかってるし、何より……ほら、聞いてみて」


 若葉は窓の外へ耳を澄ませるように促した。

 ヒュルルルル……ザザァン……。

 風の音が聞こえる。

 だが、それはただの風鳴りではなかった。

 リリス号を包み込む「シルフの追い風」の高い音色と、海から吹き付ける重厚な「海風」がぶつかり合い、まるで二つの楽器がセッションをしているかのような、心地よい和音を奏でていたのだ。


「ふむ……気流の干渉音が、不快ではない。むしろ、旋律のように聞こえるな」


「でしょう? シルフ様も海を見て喜んでるのかもしれませんね」


 若葉が微笑むと、前方の視界がパッと開けた。

 丘を越えた先。眼下に広がっていたのは、太陽の光を浴びてキラキラと輝く、一面の大海原だった。

 そして、その海岸線に沿うようにして、巨大な扇状の都市が広がっていた。

 港湾都市ベルンリング。

 かつては魔王軍が大陸侵攻の足がかりとして築いた、鉄壁の海上要塞。

 巨大な防波堤は軍艦を停泊させるためのドックであり、岸壁に並ぶ石造りの倉庫群は弾薬庫だった場所だ。

 しかし今、そこに殺伐とした空気は微塵もない。

 かつての砲台跡には色とりどりの洗濯物が翻り、ドックには武装を解除された軍艦や、大小様々な漁船がひしめき合っている。

 黒い煙を上げる工場からは、魚を燻製にする香ばしい匂いが漂い、活気ある人々の声が風に乗って聞こえてきた。


「ご乗車ありがとうございます! まもなく、港湾都市ベルンリング、ベルンリングに到着いたします!」


 若葉のアナウンスが弾む。

 リリス号は長い坂を下り、要塞の跡地を利用して作られた巨大な駅へと滑り込んでいった。


 プシュウウウウ……。

 蒸気を吐き出し、リリス号が完全に停車する。

 ホームに降り立つと、そこは既に熱気と湿気に包まれていた。

 磯の香りが濃厚に立ち込め、カモメ(によく似た翼竜)の鳴き声が響き渡る。


「さて、ここでの停車時間は丸一日。明日の朝まで出発はありません」


 若葉はプラットホームに集まった「リリス号補給部隊」を見渡した。

 メンバーは、若葉、リュシア、そして機関長のウサギ(親方)と数羽の部下たちだ。


「これより、補給作戦を開始します。親方チームはリリス号の燃料と水の補給を。僕とリュシアさんは、車内販売用および乗務員用の食料買い出しを担当します」


「フゴッ!(了解!)」


 親方がビシッと敬礼し、部下たちに指示を飛ばす。

 彼らの目当ては、この街の海底鉱脈から採掘されるという『海底炭』だ。魔力を豊富に含み、燃焼効率が極めて高い最高級の石炭らしい。親方の鼻息が荒いのも頷ける。


「じゃあ、後で合流しましょう! 解散!」


 若葉の号令と共に、ウサギたちは資材搬入路へ、若葉とリュシアは市場へと向かう出口へと駆け出した。


 駅を出てすぐの場所に、ベルンリング中央魚市場はあった。

 そこは、まさに「食の戦場」だった。

 巨大な天蓋の下、見渡す限りの露店と生簀いけすが並んでいる。

 飛び交う怒号のような競りの声。氷を砕く音。台車が走る音。

 そして何より、圧倒的な「魚」の量と種類。


「らっしゃいらっしゃい! 今朝あがったばかりのマグロだよ! 剣で切っても刃こぼれしないくらい身が締まってるよ!」


「奥さん! 今夜のおかずに『爆発ウニ』はいかが! 口の中で弾ける刺激がたまらないよ!」


 若葉は目を白黒させた。

 日本の築地や豊洲を知っている彼でも、この光景には圧倒される。

 並んでいる魚介類が、いちいち常識を超えているのだ。


「リュシアさん、見てあれ! 蟹が……クリスタルみたいに透き通ってる!」


 若葉が指差した先には、ガラス細工のように透明な甲羅を持つ巨大な蟹が積み上げられていた。


「ふむ。あれは『アーマード・クリスタル・クラブ』だな。甲殻の硬度は鋼鉄に匹敵し、魔法耐性も高い。主に海底火山の近くに生息している」


 リュシアが即座に解説を入れる。彼女の頭脳には、あらゆる図鑑データがインプットされているようだ。


「へぇ……すごいね。で、味はどうなの?」


「味? ……データには『硬い』としか記述がない。そもそも、あのような硬度の物質を咀嚼しようという発想自体が、生物学的に見て非効率的だ」


 リュシアは興味なさそうに肩をすくめた。

 彼女は知識こそ豊富だが実体験、特に「食」に関する経験が乏しい。森の中では木の実や保存食ばかり食べていたらしい。


「もったいないなぁ。蟹は硬い殻の中にこそ、美味い身が詰まってるんだよ」


 若葉は市場の奥へと進んでいく。

 空中を泳ぐように浮遊しているトビウオ(物理的に空を飛んでいる)や、バチバチと放電している鰻など、ファンタジー全開の食材たち。

 見ているだけでワクワクするが、いざ食べるとなると勇気がいりそうだ。

 そんな中、一際人だかりができている店があった。

 店先には、筋骨隆々とした強面の男が仁王立ちしている。

 潮焼けした肌に、無数の傷跡。ねじり鉢巻きをしたその姿は、漁師というより海賊の親分といった風情だ。


「おう! そこの兄ちゃんたち! 迷ってるならウチを見ていきな!」


 ドスの利いた声に呼び止められ、若葉とリュシアは足を止めた。

 店主のハラルドは、ニカッと白い歯を見せて笑った。


「見たところ、他所から来た旅人だろ? しかも鉄道屋の制服……噂のリリス号の乗務員かい?」


「あ、はい。車掌の若葉です。こっちは見習いのリュシア」


「へぇ、あんたらか! 復興資材を運んでくれてるって話は聞いてるぜ。恩人に変なモンは売れねえな」


 ハラルドはバン!と自分の胸を叩くと、店の奥から巨大な木箱を引きずり出してきた。


「今日は特別に、とびっきりの極上ネタを食わせてやるよ!」


 期待に胸を膨らませる若葉。

 しかし、箱が開けられた瞬間、その場の空気が凍りついた。


「……ひっ」


 若葉の喉から、短い悲鳴が漏れた。

 箱の中に鎮座していたのは、魚ではなかった。

 いや、生物学的分類では魚なのだろうが、若葉の知る魚の概念を遥かに逸脱していた。

 全長一メートルほど。体色は毒々しい紫色で、表面はゴツゴツとしたイボに覆われている。

 口からは猪のように鋭い牙が飛び出し、目はなんと四つもある。

 そして極めつけは、額から生えたねじれた角だ。


「な、なんですかこれ……魔獣の生首ですか?」


 若葉が震える声で尋ねると、リュシアが冷静に(しかし若干顔を引きつらせながら)分析を始めた。


「……学名『アビス・グロテスク・ギガント』。通称『デビルブル(悪魔猪魚)』。水深三千メートルの深海に生息する肉食魚だ。その風貌から、見る者に精神的ダメージを与え、食欲減退効果をもたらすと言われているが……」


「おう、詳しいなお嬢ちゃん! その通り、デビルブルだ!」


 ハラルドは愛おしそうにデビルブルの頭を撫でた。ヌメッとした音がした。


「こいつは網にかかると他の魚を食い荒らす厄介モンでな。見た目がこれだから、市場じゃ捨て値で取引されてる。だがな……」


 ハラルドは巨大な出刃包丁を構えた。


「俺に言わせりゃ、こいつこそが海の王様よ。騙されたと思って食ってみな!」


 ダンッ!

 包丁がまな板に振り下ろされる。

 ハラルドの手つきは魔法のように鮮やかだった。

 硬い皮を一瞬で剥ぎ取り、骨を外し、内蔵を取り除く。

 すると、あの禍々しい紫色の塊の中から、信じられないものが現れた。


「え……?」


 若葉は目を疑った。

 現れたのは、透き通るような桜色の身だった。

 宝石のように美しく、適度な脂が乗ってキラキラと輝いている。

 先ほどの怪物の姿からは想像もつかない、可憐で上品な姿だ。


「へい、お待ち! デビルブルの刺身だ!」


 ハラルドは皿に美しく盛り付け、若葉とリュシアの前に差し出した。

 小皿には醤油のような調味料と、緑色の薬味(ワサビに似た香りがする)が添えられている。


「さあ、食ってみな」


 若葉はゴクリと喉を鳴らした。

 見た目はグロテスクだが、中身はこんなにも美しい。

 そして何より、漂ってくる香りが素晴らしい。生臭さは全くなく、ほのかに甘いフルーツのような香りがするのだ。

 若葉は箸を取り、一切れをつまみ上げた。

 醤油を少しつけ、口へと運ぶ。

 パクッ。

 ……!!

 若葉の目がカッと見開かれた。

 噛んだ瞬間、口の中に濃厚な旨味が爆発した。

 舌の上でトロリと溶ける脂。それは決してしつこくなく、まるで上質なバターのように滑らかだ。

 そして噛むほどに溢れ出す、上品な甘み。

 マグロの大トロの濃厚さと、タイの淡白な旨味、そしてフルーツのような爽やかさが、奇跡的なバランスで同居している。


「う、美味いッ!!!」


 若葉は叫んだ。


「なんですかこれ!? めちゃくちゃ美味いですよ!?」


「だろ? 見た目で損してるが、味は最高なんだよ」


 ハラルドがニヤリと笑う。

 隣では、リュシアがまだ半信半疑の顔で箸を持っていた。


「……理解不能だ。あの外見的特徴を持つ生物が、味覚的に優れている確率は統計的に見て0.1%以下のはず。視覚情報と味覚情報の乖離が著しい」


「つべこべ言わずに食べてみなよ、リュシアさん! 世界が変わるから!」


 若葉に促され、リュシアはおそるおそる刺身を口に入れた。

 モグモグ……。

 ピタリ。

 リュシアの動きが止まった。

 長い耳が、ピーンと垂直に立つ。

 アメジスト色の瞳がキラキラと輝き出した。


「!!!!」


 言葉にならない衝撃。

 リュシアは無言のまま、二切れ目、三切れ目へと箸を伸ばした。

 そのスピードは加速していく。


「検体サンプル2、解析……美味。サンプル3、解析……極めて美味! なんだこれは? 脳内物質が過剰分泌されている! ボクの知識にある『魚の味』の定義を根底から覆すデータだ!」


「ははは! 気に入ったかい嬢ちゃん!」


 ハラルドが豪快に笑う。

 リュシアは頬を膨らませながら、必死にノートを取り出して書き込み始めた。


『デビルブル:外見評価ランクE(最悪)。味覚評価ランクS(至高)。特記事項:脂の融点が低く、口内温度で即座に液化する。ワサビ状薬味との化学反応マリアージュが絶品』


「おじさん! これ、もっとないですか? あと、このクリスタル蟹も食べてみたいです!」


 完全に「食」に目覚めた若葉が追加注文をする。


「おうよ! あら汁もサービスしてやるから待ってな!」


 こうして、若葉とリュシアの「ベルンリング食い倒れツアー」は、最高のスタートを切ったのだった。


「ほれ、こいつも食ってみな。『クリスタル蟹』の姿焼きだ!」


 漁師のハラルドが、焼きたての巨大な蟹をドンとテーブルに置いた。

 鋼鉄並みの硬度を誇ると言われる透明な甲羅は、火を通したことでルビーのように赤く染まり、香ばしい磯の香りを漂わせている。

 ハラルドが専用のハンマーで甲羅を叩き割ると、中から湯気と共にプリプリの白身が現れた。


「熱っ、あつ……うまっ!!」


 若葉がハフハフと身を頬張る。

 繊維の一本一本がしっかりとしていて、噛むとジュワッと濃厚なカニ汁が溢れ出す。


「ふむ……! 硬度変化を確認。加熱によりタンパク質構造が変化し、旨味成分が増幅されている……! 素晴らしい、これは『硬い』というだけのデータでは記述しきれない情報だ!」


 リュシアもまた、夢中で蟹の爪にかぶりついていた。

 口の周りを少し汚しながらも、その瞳は知識欲と食欲で爛々と輝いている。

 先ほどまでの「食わず嫌いの学者先生」の面影はどこにもない。そこには、未知の世界に目を輝かせる一人の少女の姿があった。


「気に入ったようで何よりだ。……で、これを持っていくんだろ?」


 ハラルドは若葉たちの食べっぷりに満足そうに頷くと、店の奥から魔法陣が描かれた木箱を持ってきた。


「こいつは『魔法氷マジック・アイス』の冷蔵箱だ。中に入れた魚は、鮮度を保ったまま一週間は持つ。デビルブルもクリスタル蟹も、これに入れて持っていきな」


「ありがとうございます! あと、この魚に合うお酒ってありますか?」


 若葉が尋ねると、ハラルドはニカッと笑って、棚から青い瓶を取り出した。


「よくぞ聞いた! ベルンリング名物『海藻焼酎・波の花』だ。海藻を発酵させて作った酒でな、独特の磯の香りが魚の脂をさっぱり流してくれる。度数は高いが、悪酔いはしねえぞ」


「おお……! ぜひそれも!」


 若葉とリュシアは、デビルブルの切り身、クリスタル蟹、トビウオの干物、そして大量の海藻焼酎を買い込んだ。

 リュシアは買い物の合間にも、新しいノートに猛烈な勢いでメモを取っている。


『現地調査報告:ハラルド氏による講義。食材の保存には氷結魔法の持続性が重要。海藻焼酎におけるアルコール発酵プロセスと魚介脂質との親和性について……追記:デビルブルのエンガワは至高』


「リュシアさん、そろそろ戻らないと親方たちが待ちくたびれてますよ」


「む、そうだな。……しかし、実地調査とはこれほど有意義なものだったとは。書物の中に、魚の味は書かれていなかった」


 リュシアは満足げにノートを閉じ、重たい荷物の一つをひょいと持ち上げた。ダークエルフとしての身体能力も伊達ではないようだ。

 二人はハラルドに礼を言い、夕暮れの市場を後にした。


 港の日が沈み、マジックアワーの紫色の空が広がる頃。

 若葉とリュシアは、大量の食材を抱えて駅のプラットホームに戻ってきた。


「ただいま戻りましたー!」


 リリス号のそばでは、すでにウサギたちが補給作業を終えて待機していた。

 機関室の前には、黒い山のようなものが積み上げられている。

 石炭だ。だが、いつもの黒い石炭とは違う。ほのかに青白い燐光を放っている。


「キュッ! フゴッ!(おう、遅かったな!)」


 親方が石炭の山の頂上から飛び降りてきた。顔もツナギも真っ黒だが、その表情は充実感に満ちている。手に持っているのは、ひとかけらの青い石炭だ。


「親方、それが例の『海底炭』ですか?」


 若葉が尋ねると、親方は得意げに石炭を掲げた。


「フゴーーッ!(そうだ! こいつはすげえぞ!)」


 親方のジェスチャーとリュシアの通訳によると、この海底炭は、長年海底のマナを吸収して結晶化したもので、通常の石炭の三倍の熱量と、十倍の燃焼持続時間を持つらしい。

 これさえあれば、リリス号の出力は大幅に向上する。


「リリスも喜んでるみたいですね」


 若葉が機関車を見上げると、リリス号のボイラーからは、いつもより澄んだ、青みがかった蒸気が「シュウウウ……♪」と心地よさそうに漏れ出ていた。良い燃料をもらってご機嫌なようだ。


「よし、こっちも大収穫ですよ! 今夜は宴会です!」


 若葉が買ってきた食材と酒を見せると、ウサギたちが「ワァーッ!」と歓声を上げ(たように見えた)、一斉に耳を立てて飛び跳ねた。


 その夜、リリス号の食堂車は、臨時の居酒屋と化した。

 テーブルには、デビルブルの刺身、クリスタル蟹の塩茹で、トビウオの香草焼き、そして市場で買った新鮮な海藻サラダが所狭しと並べられた。


「それでは、ベルンリング到着と、素晴らしい補給に感謝して……乾杯!」


 若葉の音頭で、宴が始まった。

 ウサギたちは、若葉が買ってきた新鮮なキャベツやニンジン(これらは道中の農村で仕入れたものだ)を肴に、『海藻焼酎』をあおっている。

 意外なことに、ウサギたちは海藻サラダも気に入ったようで、コリコリとした食感を楽しんでいるようだった。


「クゥ〜ッ! この焼酎、クセがあるけど美味い!」


 若葉は刺身を口に放り込み、焼酎で流し込んだ。

 魚の脂と、酒の磯の香りが口の中で混ざり合い、鼻に抜けていく。至福の瞬間だ。


「ふむ……。アルコールの摂取による思考能力の低下を確認。だが、精神的な高揚感がそれを上回っている」


 リュシアも顔をほんのり赤くしながら、箸とペンを交互に動かしている。

 彼女の前には、食べ終わった蟹の殻がきれいに並べられ、解剖図のようなスケッチが描かれていた。


「リュシアさん、食べるか書くか、どっちかにしなよ」


「両立させるのが学者だ。……それにしても、この世界にはまだボクの知らない『味』が存在するのだな」


 リュシアは少し遠くを見る目をした。

 森の中で、書物に囲まれて過ごしていた日々。それはそれで満ち足りていたと思っていた。だが、こうして外に出て、風を感じ、未知の食材を味わい、仲間と笑い合う時間は、どんな古い文献にも載っていなかった輝きを持っている。


「リリス号に乗ってよかっただろ?」


 若葉がからかうように言うと、リュシアはフンと鼻を鳴らした。


「ま、今のところはな。研究対象としては退屈しない」


 そう言って、彼女はまた一切れ、デビルブルの刺身を口に運んだ。

 その口元が、わずかに緩んでいるのを若葉は見逃さなかった。

 親方も、上機嫌でリュシアの背中をバシバシ叩いている。

 言葉は通じなくても、美味しいものと良い酒があれば、種族の壁なんて関係ない。

 リリス号の夜は、笑い声と共に更けていった。


 翌朝。

 ベルンリングの空は、抜けるような快晴だった。

 朝日に照らされた海面が、黄金色に輝いている。

 リリス号はたっぷりと水と石炭を積み込み、新たな乗客たちを乗せて出発の時を待っていた。

 今回の乗客は、海を渡って隣の大陸へ向かう商人たちや、海上都市へ観光に行く家族連れが多い。

 貨物車には、ベルンリング特産の干物や、魔法具の部品などが満載されている。


「出発準備、完了! 機関圧、正常! シルフ様の追い風、良好!」


 若葉がホームで指差喚呼を行う。

 機関室では、親方がゴーグルを装着し、新しい『海底炭』を釜にくべていた。

 青い炎がゴウッ!と燃え上がり、リリス号が力強く身震いする。


「ご乗車ありがとうございます! 特急リリス号、海上都市リングベル行き、発車いたします!」


 ポォォォォォォォォッ!!!

 高らかな汽笛が港に響き渡る。

 カモメたちが一斉に飛び立ち、漁師たちが手を振って見送る。

 あのハラルドも、店先から大きなマグロ包丁を振っているのが見えた。

 ガタン、ゴトン。

 リリス号が動き出す。

 駅を出ると、そこには陸地はない。あるのは広大な海だけだ。

 だが、リリス号は止まらない。

 先頭の排障器から放たれる『自動架橋魔法』の光が、海面に向かって伸びていく。

 バシュゥゥゥゥッ!

 光が海面に触れた瞬間、海水が瞬時に凍結・硬化し、半透明の氷のようなレールと橋脚が形成された。

 リリス号はその上を、滑るように駆け抜けていく。


「うわぁっ……!!」


 若葉は車掌室の窓から身を乗り出した。

 足元には、青い海。

 車輪がレールの下の波を切り裂き、白い飛沫がキラキラと舞い上がる。

 まるで海の上を飛んでいるようだ。

 海底炭のおかげか、リリス号の加速はいつもより鋭い。

 シルフの風が帆のように車体を押してくれている。


「すごい……! 海の上を走ってる……!」


「ふむ、水面歩行魔法の応用術式か。接触面積と表面張力の計算が完璧だ。揺れもほとんどない」


 リュシアも窓に張り付いて、海の中を泳ぐ魚たちを目で追っている。


「見て、リュシアさん! イルカだ!」


 並走するように、数頭のイルカ(のような海獣)がジャンプした。

 その向こうには、水平線がどこまでも続いている。


「次は、海上都市リングベル。海の上に浮かぶ街ですよ」


「浮遊都市か。建築構造学的にも興味深いな」


 若葉とリュシアは顔を見合わせ、笑った。

 昨日食べたデビルブルの味を思い出しながら、若葉は思う。

 この世界は広い。

 まだまだ知らない景色、知らない味、知らない出会いが待っている。

 

 リリス号は白い航跡レールを残しながら、大海原を真っ直ぐに突き進んでいった。

 風は追い風。

 旅路は順調そのものだ。


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