星降る学術都市と、知識過剰な密航者
霧の渓谷を抜け、吸血鬼当主ファーレンハイトとの奇妙な「和解」を果たしたサンズグリーズ鉄道・特急リリス号は、一路、西へとひた走っていた。
車体を包むのは、風の精霊王シルフによる『追い風』の加護。
エメラルドグリーンの風が、漆黒の機関車を優しく、かつ力強く後押しし、リリス号は滑るように大地を駆けていく。
やがて、夜の帳が下り始めた頃。
地平線の彼方に、地上にあるまじき光景が現れた。
「うわぁ……」
車掌室の窓から身を乗り出し、若葉一利は思わず感嘆の声を漏らした。
それは、光の幾何学だった。
荒野の盆地に広がる巨大な都市。その上空には、無数の「浮遊島」が浮かんでいる。
ある島には巨大な天体望遠鏡が設置され、ある島には神殿のような図書館が鎮座している。それらの島々と地上の都市が、光のライン、魔力供給路と思われる青白い光の帯で結ばれ、まるで巨大な星座が地上に降りてきたかのような輝きを放っていた。
「ご乗車ありがとうございます。まもなく、学術都市トリスメギストス、トリスメギストスに到着いたします」
若葉のアナウンスにも、自然と熱が帯びる。
サンズグリーズ有数の研究機関が集まる場所。魔法と科学、過去の遺産と未来の技術が交差する、知の都だ。
リリス号は、空中に張り巡らされた高架線路へと進入していく。
窓の外を、箒に乗った魔導師や、小型の浮遊機械が飛び交っている。
やがて、ドーム状の巨大な屋根を持つ駅舎へと滑り込んだ。
プシュウウウウウ……。
長い旅の疲れを吐き出すように、リリス号が蒸気を上げ、車輪の回転を止めた。
定刻より、約二時間の遅れ。
霧の渓谷での足止めが響いた形だ。
「申し訳ありません! 霧の渓谷での徐行運転により、到着が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます!」
ドアが開くと同時に、若葉はホームに立ち、降りてくる乗客一人一人に頭を下げた。
日本の鉄道員としてのプライドが、遅延を許せないのだ。
だが、乗客たちの反応は意外なものだった。
「気にするなよ、車掌さん。あの『ノインシュタイン家』の領地を通ってきたんだろ? 生きて着いただけでも奇跡みたいなもんさ」
「そうよ。むしろ、よくあの偏屈な吸血鬼を説得できたわね。貴方、なかなかの交渉上手じゃない」
「おかげで面白い土産話ができたわい。ガハハ!」
ドワーフやエルフ、人間の学者たちは、怒るどころか若葉の肩を叩き、労いの言葉をかけて去っていく。
この世界の人々は、トラブルに寛容だ。いや、トラブルが日常茶飯事すぎて、多少の遅れなど気にしていないのかもしれない。
若葉は胸を撫で下ろし、最後の一人が改札を抜けるまで見送った。
「本日の運行は、これにて終了……ですね」
若葉は懐中時計を確認し、パタンと閉じた。
リリス号はここトリスメギストスで一晩停泊し、明日の朝、新たな物資を積んで出発する予定だ。
つまり、今夜は「泊まり」である。
「キュッ! フゴッ!(おい若葉! 飯行くぞ、飯!)」
機関室から、作業着を脱いだウサギの親方が飛び出してきた。
小脇には、若葉がアルヴェルで買った「例の酒」の空き瓶……ではなく、また別の酒瓶を抱えている。どうやらこの街にも馴染みの店があるらしい。
「あ、親方。お疲れ様です。……はい、行きましょう!」
若葉は制帽を脱ぎ、鞄をロッカーにしまった。
ネクタイを少し緩める。
仕事終わりの、この瞬間。心地よい疲労感と共に訪れる解放感は、日本でも異世界でも変わらないものだ。
トリスメギストスの夜は、静謐でありながら華やかだった。
駅近くの広場にあるオープンカフェ。
頭上には、浮遊する魔導灯が蛍のように漂い、柔らかな光を落としている。
若葉と、親方、そして数羽のウサギ機関士たちは、テラス席を陣取っていた。
「かんぱーい!」
若葉がジョッキを掲げる。中身は、この地方特産の「麦芽と薬草の発泡酒」。少し薬っぽい香りがするが、喉越しは最高だ。
ウサギたちは、山盛りの野菜スティックと、人参を絞ったオレンジ色のカクテルで乾杯した。
「ぷはぁっ! ……生き返るなぁ」
若葉は一口飲み干し、夜空を見上げた。
日本で働いていた頃、仕事終わりの酒なんて「ただの現実逃避」でしかなかった。
でも今は違う。
「今日も一日、無事に走りきった」という達成感が、酒を何倍も美味しくしている。
「早いもので、僕がこの世界に来てから、ちょうど一ヶ月が経ちました」
若葉がしみじみと言うと、親方は野菜スティックをポリポリとかじりながら、「フゴッ(まだ一ヶ月か?)」と意外そうな顔をした。
「ええ。感覚的にはもっと長くいる気がしますけどね。……最初は、本当にどうなることかと思いましたよ」
若葉は苦笑した。
突然の異世界転移。魔王軍あがりの駅長。ウサギの同僚。
何もかもが常識外れで、毎日がパニックの連続だった。
切符の切り方も、魔法蒸気機関の仕組みも、モンスターへの対処法も分からなかった。
「でも、親方たちが助けてくれたおかげで、なんとか車掌の真似事ができるようになりました。……本当に、ありがとうございます」
若葉が頭を下げると、親方は照れくさそうに「キュッ(よせよ)」と耳をパタパタさせた。
そして、テーブルの下から若葉の足をポンポンと叩いた。
『お前が頑張ってるのは知ってるよ』。
言葉はなくとも、その温かい信頼が伝わってくる。
この世界は、過酷だ。
戦争の傷跡は深く、人手不足は深刻で、危険な魔物もいる。
けれど、人々は手を取り合っている。
種族の違いも、過去の敵味方も超えて、「復興」という未来に向かって走っている。
その最前線を走るリリス号の乗務員であることに、若葉は誇りを感じ始めていた。
「でも、油断は大敵ですね」
若葉は自分に言い聞かせ、新しいジョッキに口をつけた。
「仕事に慣れた頃が、一番危ないって言いますから。大きな失敗をしないように、明日からも気を引き締めないと」
親方は「フゴゴ(真面目すぎるんだよお前は)」と呆れ顔をしつつも、その瞳は優しく笑っていた。
宴は穏やかに続き、夜が更けていった。
学術都市の夜風は、古書のようなインクと、乾いた紙の匂いがした。
カフェを出て、駅の車両基地に戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
ウサギたちは、自分たちの寝床である機関室のハンモックへと潜り込んでいく。
若葉はまだ少し酔いを醒ましたくて、リリス号の屋根に備え付けられた点検用の足場へと登った。
そこは、彼のお気に入りの場所になりつつあった。
冷んやりとした鉄の感触を背中に感じながら、仰向けに寝転がる。
「……すごい」
視界いっぱいに広がるのは、宝石箱をひっくり返したような星空だった。
空気の澄んだ学術都市の夜空は、格別だった。
見たこともない星座たちが、瞬いている。
七色の光を放つ星団。帯状に伸びる天の川のような銀河。
そして、何よりも目を引くのは、空に浮かぶ二つの月だ。
一つは、地球の月よりも大きく、青白く輝く「蒼月」。
もう一つは、小さく、妖しく赤く光る「紅月」。
二つの月が寄り添うように夜空を照らし、リリス号の黒い車体に幻想的な陰影を落としている。
「本当に、遠くまで来たんだなぁ……」
若葉は手を伸ばした。指の隙間から、二つの月が見える。
日本の空にはない月。
東京の空にはない星々。
アパートの四畳半で、不採用通知に埋もれて天井を見上げていた一ヶ月前の自分が、今の自分を見たら何と言うだろう。
『お前、異世界で鉄道員やってるぞ』
『ウサギと一緒に働いて、吸血鬼と喧嘩してるぞ』
きっと、信じないだろうな。
「……帰りたくない、わけじゃないけど」
家族のことは心配だ。友人のことも懐かしい。コンビニのホットスナックが恋しくなる夜もある。
でも。
「今は、ここが僕の居場所だ」
若葉は呟いた。
誰かに必要とされ、自分の仕事が世界の役に立っているという実感。
それが、若葉一利という人間を支えていた。
何もない自分に、「車掌」という役割をくれたこの世界に、少しだけ恩返しがしたい。
「よし」
若葉は起き上がり、夜空に向かって大きく伸びをした。
冷たい夜気が肺を満たし、酔いがすっきりと抜けていく。
「明日も頑張ろう。……まずは、早起きからだな」
若葉はリリス号の屋根を軽く叩き、「おやすみ、リリス」と声をかけてから、梯子を降りていった。
巨大な機関車は、寝息のように静かに蒸気を漏らし、若葉の言葉に応えた気がした。
翌朝。
トリスメギストスの朝は早かった。
日の出と共に、多くの学者や学生、商人たちが駅に押し寄せる。
リリス号は、この街で開発された新型の魔導具や、貴重な古文書、そして次の目的地である港湾都市ベルンリングへ向かう乗客たちを乗せて、定刻通りに出発した。
ポォォォォォォォォッ!!
朝霧を切り裂く汽笛。
リリス号は、学術都市の幾何学的な街並みを背に、広大な草原地帯へと進路を取った。
ここからベルンリングまでは、約三日の行程だ。
大きなトラブルもなく、順調な滑り出しだった。
そう、最初の二日間は。
トラブルというものは、得てして「慣れた頃」に、そして「平和な時間」の隙間に、ひょっこりと顔を出すものである。
若葉の決意を試すかのように。
トリスメギストスを出発して二日目の昼下がり。
窓の外には、見渡す限りの緑の大草原が広がっていた。
風は穏やかで、リリス号は快調に走っている。
若葉は検札と車内清掃を一通り終え、一息つこうと最後尾の車掌室へと戻ってきた。
「ふぅ……。今のところ、定刻通りだな」
独り言を言いながら、車掌室の重い鉄扉を開ける。
そこは、若葉だけの聖域だ。
誰にも邪魔されず、日報を書き、少しだけ仮眠を取るための場所。
……のはずだった。
「ん?」
違和感。
いつもの風景と、何かが違う。
若葉は目をしばたたいた。
車掌室の奥。書き物机の前に置かれた、若葉専用の椅子。
そこに、誰かが座っていた。
それは、一人の少女だった。
年齢は、人間で言えば十四、五歳くらいだろうか。
だが、その容姿は明らかに人間のものではなかった。
褐色の肌。夜空のような深い色の銀髪。そして、髪の間からピンと伸びた、長い耳。
服装は、黒を基調としたゴシック調のドレス。フリルやレースがふんだんにあしらわれているが、どこか古めかしく、埃っぽい。
少女は、若葉が入ってきたことにも気づかない様子で机の上に広げた本、若葉が勉強のために置いていた『サンズグリーズ現代史』を熱心に読み耽っていた。
「……えっと」
若葉は固まった。
思考が停止する。
客が間違えて入ってきたのか? いや、車掌室には「立入禁止」の札を掛けて鍵も閉めていたはずだ。
幽霊? いや、影があるし、ページをめくる音もする。
若葉は恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……お客様?」
少女の肩がピクリと動いた。
ゆっくりと顔を上げる。
振り返ったその瞳は、鮮やかなアメジスト色。
知的で、理屈っぽそうで、そしてどこか眠たげな瞳だった。
「……なんだ? キミは」
少女は、鈴を転がすような、しかし少しハスキーで少年のような口調で言った。
まるで、自分の部屋に他人が入ってきたかのような不服そうな顔だ。
「なんだ、じゃないですよ! ここは車掌室です! 関係者以外立ち入り禁止なんですけど!」
若葉が抗議すると、少女は「ふうん」と興味なさそうに鼻を鳴らし、再び本に視線を落とした。
「関係者ではないが、閲覧者だ。この書物はなかなか興味深い記述が多い。著者の歴史認識には多少の偏りが見られるが、まあ、入門書としては悪くないな」
「いや、感想を聞いてるんじゃなくて!」
若葉は机に詰め寄った。
この少女、ただ者ではない。鍵のかかった部屋に侵入し、平然としている神経。そして、その独特の雰囲気。
若葉は車掌としての職務を思い出した。
「失礼ですが、お客様。乗車券(切符)を拝見できますか?」
若葉が手を差し出すと、少女はきょとんとして首を傾げた。
「ジョウシャケン? ……なんだそれは。魔法の触媒か何かか?」
「……はい?」
「ボクはそんなものは持っていないぞ。この鉄の箱が面白そうに動いていたから、窓から飛び乗っただけだ」
窓から飛び乗った。
走行中の列車に。
若葉の顔から血の気が引いた。
「む、無賃乗車だーーーっ!!」
若葉の絶叫が、平和な午後の草原にこだました。
これが、リリス号の新しいトラブル。いや、新しい仲間との出会いだった。
「無賃乗車……? それは、この鉄の箱に乗るのに対価が必要だという意味か?」
少女、リュシアは若葉の絶叫にも動じず、アメジスト色の瞳をパチクリとさせた。
悪びれる様子は微塵もない。本当に、心から理解していない顔だ。
「当たり前です! 鉄道はボランティアじゃありません! 運賃を払って切符を買った人だけが乗れるんです!」
若葉は頭を抱えた。
相手は子供だ。しかも、服装や肌の色からして、普通の人間ではない。
褐色の肌に銀髪、そして長い耳。
若葉の脳内データベース(先日読んだ種族図鑑)が検索結果を弾き出す。
『ダークエルフ』。
深い森の奥に住み、排他的で、高度な魔法知識を持つとされる種族だ。なぜそんな希少種族がここに?
「ふうん。人間社会というのは、移動するだけで『金』という概念を介在させるのか。非効率的だな」
リュシアは本を閉じ、つまらなそうに言った。
「ボクの名はリュシア。『深緑の森』のダークエルフだ。一族の閉鎖的な掟に嫌気が差してな、真理を求めて家出……いや、『知的探求の旅』に出たのだ」
「家出ですよね!? 完全なる家出少女ですよね!?」
若葉のツッコミを無視して、リュシアは胸を張った。
「ボクは学術都市トリスメギストスまで出てきたのだが、あそこの学者たちは頭が固くて話にならん。そこへ、この黒い鉄の塊……リリス号が通りかかったのだ。その身に宿る精霊の加護、そして魔導機関の独特な構造……実に興味深い。だから飛び乗った。研究対象を観察するのに、なぜ対価がいる?」
理屈が通っているようで、全く通っていない。
要するに、「面白そうだから乗った、金はない」と言っているだけだ。
「はぁ……。事情は分かりましたけど、ルールはルールです」
若葉は努めて冷静に告げた。
「運賃を払えないなら、次の駅で降りていただきます。……と言いたいところですが」
若葉は窓の外を見た。
見渡す限りの大草原。次の街まではあと二日はかかる。
今ここで彼女を降ろせば、野垂れ死ぬか、魔物の餌食になるのは確実だ。
いくら無賃乗車犯とはいえ、まだあどけない少女を死なせるわけにはいかない。
「困ったな……」
若葉が腕組みをして唸っていると、コンコン、とドアがノックされた。
機関室から、騒ぎを聞きつけた親方が顔を出したのだ。
「フゴッ?(どうした若葉、女連れか?)」
親方はリュシアを見るなり、鼻をヒクつかせた。
リュシアもまた、親方を見て目を輝かせた。
「ほう! 月兎族か! 魔導機関の整備においては右に出る者がいないという伝説の職人種族……実物を見るのは初めてだ。ふむ、その耳の角度と毛並みの光沢、実に興味深い」
リュシアがいきなり親方の耳を触ろうとする。
親方は「フゴッ!(気安く触んな!)」とスパナで威嚇したが、リュシアは全く怯まない。
「親方、実は困ったことになりまして……」
若葉が事情を説明すると、親方は呆れたように溜息をついた。
そして、リュシアをジロジロと値踏みするように見回し、若葉に向かって親指と人差指で輪っかを作った。
『金』のジェスチャーだ。
「フゴッ、フゴゴッ!(金がねえなら、体で払わせろ)」
「えっ!? 親方、それは倫理的にちょっと……!」
「フゴーーッ!!(違うわボケ! 働かせろって言ってんだよ!)」
親方はジェスチャーで「床拭き」や「皿洗い」の真似をした。
労働だ。
運賃分、働かせて回収すればいい。
その時だった。
開いていた窓から、ふわりと心地よい風が吹き込んできた。
若葉の耳元で、鈴のような涼やかな声が囁く。
『……鉄道屋よ』
「えっ? この声……シルフ様?」
若葉が空を見上げると、風が言葉を運んできた。
『その娘は、我が眷属であるエルフの一族。森の掟を破った跳ねっ返りだが……根は悪くない。悪いようにはしないでやってくれぬか』
風の精霊王シルフからの直々の嘆願だ。
あのファーレンハイトすら退けた最強のバックが、「頼む」と言っているのだ。断れるはずがない。
「……わかりました」
若葉は腹をくくった。
彼はリュシアに向き直り、ビシッと言い放った。
「リュシアさん。貴方を警察に突き出しません。その代わり」
若葉はロッカーから、予備の制帽と、女性用の制服(予備のベストとエプロン)を取り出した。
「目的地に着くまでの間、ここで働いてもらいます。運賃分、きっちりと労働で返してください!」
リュシアはきょとんとして、渡された制服を見つめた。
「労働? ボクが? ……ふむ、未知の体験だ。それもまた『研究』の一環と考えれば悪くない」
彼女は不敵に笑い、バサリとマントを翻した。
「よかろう! このリュシアの頭脳、存分に使わせてやる。感謝するがいい!」
こうして、サンズグリーズ鉄道に、史上初(?)の「車掌見習い」が誕生したのだった。
数分後。
リリス号の客車に、奇妙な二人組が現れた。
一人は、慣れた手つきで改札鋏を鳴らす人間の青年車掌。
もう一人は、ぶかぶかの制帽を目深に被り、黒いドレスの上に車掌用ベストを無理やり着込んだ、ダークエルフの少女だ。
袖が長すぎて、萌え袖のようになっている。
「いいですかリュシアさん。貴方の仕事は、お客様へのご案内と、車内販売の補助です。笑顔で、丁寧に、ですよ」
「笑顔? なぜ歯を見せる必要がある? 威嚇行動と取られないか?」
「取られません! 親愛の情を示すんです!」
前途多難だった。
リュシアの知識量は凄まじいが、社会常識とコミュニケーション能力は壊滅的だったのだ。
ある商人の席を通った時のことだ。
商人が扱っている「回復ポーション」を見て、リュシアがいきなり立ち止まった。
「おい人間。そのポーション、成分比率がおかしいぞ」
「は、はい?」
「マンドラゴラの根と聖水の配合比率が7対3になっている。これでは回復効率が悪い上に、副作用で腹を下す。適正価格は今の半値以下だ。ぼったくりだな」
「な、なんだと小娘ぇ!?」
商人が顔を真っ赤にして立ち上がった。
若葉は慌てて割って入る。
「申し訳ありません! こいつはまだ新人研修中でして! 数値の見間違いです、はい! お客様の商品は最高品質です!」
若葉はリュシアの首根っこを掴んで、強制的に退場させた。
デッキに連れ出し、説教をする。
「本当のことを言えばいいってもんじゃないんです! お客様の商売の邪魔をしないでください!」
「解せぬ。真実を伝えて何が悪い? あのままでは購入者が下痢をするぞ」
「言い方があるでしょう、言い方が!」
若葉は頭を抱えた。
労働力どころか、トラブルメーカーを抱え込んでしまったかもしれない。親方の提案に乗ったのは失敗だったか。
だが、そんな若葉の評価が覆る出来事が起きたのは、その直後だった。
次の車両には人間以外の乗客、魔物たちが乗っていた。
その一角に、巨大なプルプルとした緑色のゲル状の塊が座っていた。
スライム族の貴婦人だ。
彼女は何かを訴えるように、激しく泡立ち、ゴボゴボと音を立てていた。
「ゴ、ゴボッ……ブクブク……!」
「えっと、どうされましたか? 気分が悪いんですか?」
若葉が声をかけるが、言葉が通じない。
スライム族の言語は特殊すぎて、翻訳魔法も効きにくいのだ。
周囲の乗客も困惑している。
すると、リュシアがすっと前に出た。
「ふむ。古代粘性語か。懐かしいな」
リュシアはスライムの前に立つと、喉を鳴らして「ゴボッ、ジュルッ、ピチャ?」と奇妙な音を発した。
スライムがピタリと動きを止め、「ブクッ! ブクブク!」と嬉しそうに応答した。
二人はしばらく謎の音で会話を交わした後、リュシアが若葉に向き直った。
「若葉。彼女は『乾燥してお肌がカピカピする』と言っている。『もっと湿度が欲しい、あと冷房が効きすぎている』そうだ」
「えっ、わかるの!?」
「当然だ。スライム族の言語体系は、魔力波動の周波数変化に基づいている。基本中の基本だぞ」
リュシアはそう言うと、若葉の腰から清掃用の霧吹きを抜き取り、スライムに向かってシュッシュッと水をかけた。
さらに、座席の空調口をハンカチで塞ぎ、風が直接当たらないように調整した。
「ブキュ~ン♪」
スライム貴婦人は、とろけるような声を上げて喜び、体からキラキラした結晶(スライム族にとってのチップのようなもの)を出してリュシアに差し出した。
「おお……ありがとう。助かりました、リュシアさん!」
若葉は素直に感嘆した。
自分では絶対に解決できなかったトラブルだ。
「ふん、これくらい造作もない」
リュシアはチップを受け取りながら、少し得意げに鼻を鳴らした。
「人間相手の遠回しな会話は苦手だが……魔物や精霊、古代語の類なら任せておけ。ボクの知識は、伊達ではない」
その姿を見て、若葉は確信した。
彼女は「使えない」のではない。「使い所が特殊」なのだ。
この多種多様な種族が乗り合うサンズグリーズ鉄道において、あらゆる言語と知識を持つ彼女は、最強の通訳になり得る。
「頼りにしてますよ、リュシア『先生』」
若葉がからかうように呼ぶと、リュシアは帽子を目深に被り直して顔を隠した。
その耳が、少しだけ赤くなっているように見えた。
夕暮れ時。
業務を終えた若葉とリュシアは、車掌室で向かい合っていた。
机の上には、若葉が作ったサンドイッチと、コーヒーが置かれている。
リュシアは、若葉の手書きの『接客マニュアル』を、まるで魔導書でも解読するかのような真剣な眼差しで読んでいた。
「……『お客様は神様です』。この記述は宗教学的に誤りではないか? サンズグリーズにおいて神とは創造主のみを指し」
「それは比喩です! 心構えの話です!」
若葉がツッコミを入れると、リュシアは「なるほど、比喩か。人間は複雑だな」とサンドイッチをかじった。
「でも、助かりました。貴方がいなかったら、スライムのお客様は干からびていたかもしれません」
「ボクも、タダ乗りをした借りを返せてよかったと思っている。……それに」
リュシアは窓の外に広がる夕焼けを見た。
森の中では見られなかった、果てしなく続く水平線。
「この鉄の箱から見る世界は、書物で読むよりもずっと鮮やかだ。……悪くない」
彼女のアメジスト色の瞳が、夕日で金色に輝いていた。
若葉は微笑んだ。
手のかかる妹分ができたようだ。でも、きっと退屈はしないだろう。
「次は、港湾都市ベルンリングです。海が見えますよ」
「海か! 塩分濃度3.5%の生命の揺り籠だな! 実物を見るのは初めてだ!」
リュシアが子供のように身を乗り出す。
リリス号は、新たな仲間を乗せて、オレンジ色に染まる草原を駆け抜けていく。
若葉と、ウサギたちと、そして天才ダークエルフの少女。
凸凹なチームだが、きっといい旅になる。
若葉はそう信じて、次の駅への到着アナウンスの準備を始めた。




