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吸血鬼当主の優雅なるクレーム


 世界は、白一色に塗りつぶされていた。

 サンズグリーズ鉄道・特急リリス号が走る『霧の渓谷』は、その名の通り、一年を通して晴れることのない濃霧に閉ざされた場所である。

 太陽の光は分厚い雲と霧に遮られ、昼間だというのに薄暮のような頼りない明かりしか届かない。

 窓の外を流れるのは、白い闇。時折、霧の切れ間から切り立った断崖の岩肌や、ねじ曲がった枯れ木が亡霊のように浮かび上がっては、瞬く間に後方へと消え去っていく。


「お客様にお知らせいたします。現在、当列車は『霧の渓谷』エリアを通過中です」


 若葉一利の落ち着いた声が、車内放送を通じて響き渡る。


「視界が悪くなっておりますが、魔法制御による自動運行システムは正常に作動しております。また、この区間では騒音防止のため、汽笛の使用を控えております。車内でも、なるべく静かにお過ごしいただけますよう、重ねてご協力をお願いいたします」


 放送を終え、マイクのスイッチを切ると、若葉はふぅ、と小さく息を吐いた。

 車掌室の窓から外を覗き込む。

 先頭車両のヘッドライトが、乳白色の霧を鋭く切り裂いている。だが、その光も数メートル先で拡散し、何も見えなくなってしまう。

 

「……静かだ」


 あまりにも静かだった。

 リリス号は、本来ならば轟音を立てて走る鋼鉄の巨獣だ。しかし今は、風の精霊王シルフから授かった加護「追い風」の魔法が車体を包み込み、空気抵抗と振動を極限まで打ち消している。

 車輪がレールを噛む音も、「シュルルルル……」という滑らかな衣擦れのような音に変わっていた。

 これなら、音に敏感だという噂の吸血鬼一家も、文句は言わないはずだ。

 若葉はそう自分に言い聞かせ、手元の運行マニュアルを強く握りしめた。

 この先に待ち受けるのは、古城の主、ノインシュタイン家。

 アルヴェルの冒険者たちが「面倒くさい」「関わりたくない」と口を揃えた、厄介な貴族だ。

 若葉の脳裏に、日本でのアルバイト時代の記憶が微かによぎる。

 理不尽な理由で怒鳴り込んでくる客。自分のルールを押し付けてくる客。

 異世界に来てまで、そんな手合いには会いたくないものだが。

 その時だった。

 キィィィィィィッ!!

 リリス号の緊急ブレーキが作動した。

 今回は、人攫いの森の時のような急激な衝撃ではなかった。まるで泥沼に突っ込んだかのように、ねっとりと、しかし確実に速度が奪われていく感覚。


「何だ!?」


 若葉は反射的に壁のパイプを掴んで体を支えた。

 速度計の針が急速に下がり、やがてゼロを指す。

 完全に停止した。

 伝声管に飛びつく。


「機関室! 状況報告を!」


『キュッ! フゴゴッ!(前だ! 前を見ろ!)』


 親方の緊迫した鳴き声が返ってきた。

 若葉は帽子を被り直し、車掌室を飛び出して先頭車両へと走った。

 客席では乗客たちが不安そうにざわめいている。


 「またか?」

 「今度は何だ?」


 若葉は「ただいま確認中です! 安全は確保されていますので、お席を立たないでください!」と声をかけながら、通路を駆け抜けた。

 機関車の運転席にたどり着き、フロントガラスの向こうを見た瞬間、若葉は息を呑んだ。

 そこには、「壁」があった。

 だが、それは岩や木でできた壁ではない。

 黒い、生きた壁だった。

 バサバサバサバサ……。

 無数の羽音。

 コウモリだ。

 数千、いや数万匹はいようかという大量のコウモリが、リリス号の進路を塞ぐように密集し、巨大な黒い壁を作り出していたのだ。

 赤い無数の瞳が、闇の中で蛍火のように明滅している。

 それは、物理的な障害物というよりも、圧倒的な「拒絶」の意志そのものに見えた。


「これは……」


 親方が巨大なスパナを構え、「フゴッ(突っ込むか?)」とジェスチャーで問う。

 リリス号の装甲なら、コウモリの壁など突破できるかもしれない。だが、相手は生き物だ。大量殺戮をしながら進むことになってしまう。

 それに、これは明らかに自然現象ではない。


「待ってください。攻撃はしないで」


 若葉は親方を制止した。


「相手はノインシュタイン家……知性ある貴族です。問答無用で押し通れば、それこそ戦争になります」


 若葉は深呼吸をして、身だしなみを整えた。

 ネクタイの歪みを直し、制服の埃を払う。


「僕が話してきます」


 若葉は運転席のドアを開けた。

 冷たく湿った空気が流れ込んでくる。

 ステップを降り、線路の上に立つ。

 目の前には、天まで届くかのようなコウモリの壁。

 若葉が一歩踏み出すと、壁の一部が渦を巻き始めた。

 ザワザワ……バサッ!

 コウモリたちが一斉に散開し、その中心から一人の人物が降りてきた。

 重力など存在しないかのように、ふわりと宙に浮いている。

 

 それは、絵に描いたような「吸血鬼」だった。

 夜の闇を溶かしたような漆黒のマント。その裏地は血のように鮮烈な深紅。

 フリルのついた白いシルクのシャツに、貴族然とした黒いベスト。

 長く艶やかな銀髪は、霧の中でも一本一本が輝いているように見えた。

 そして、この世の誰よりも整った、彫刻のような美貌。

 だが、その陶器のような白い肌には生気がなく、深紅の瞳は冷徹な光を放っていた。

 男の手には、脚の長いワイングラスが握られている。中には赤い液体、おそらく年代物のワインか、あるいは血液が揺れていた。


「……不愉快だ」


 それが、男の第一声だった。

 声量は決して大きくない。だが、その声はよく通り、若葉の鼓膜を氷の指で撫でるように震わせた。


「実に、不愉快だ」


 男はワイングラスを軽く回し、汚い物を見るような目でリリス号を見下ろした。


「我が静寂なる庭に、土足で踏み入る無粋な鉄塊。その車輪が刻むリズム、蒸気が奏でる不協和音……ああ、耳が腐りそうだ。私の美学に対する、これ以上の冒涜があるだろうか?」


 男は芝居がかった仕草で天を仰ぎ、大げさに嘆いてみせた。

 若葉は背筋を伸ばし、男に向かって恭しく一礼した。


「お初にお目にかかります。私はサンズグリーズ鉄道、特急リリス号の車掌、若葉一利と申します。……貴方様は、この地を治めるノインシュタイン家の当主様でしょうか?」


 男は赤い瞳だけを動かし、若葉を睥睨した。


「如何にも。私が当主、ファーレンハイト・ノインシュタインだ。……人間風情が、私の名を気安く呼ぶな」


 圧倒的な威圧感。

 常人なら、この視線だけで竦み上がり、地面にひれ伏してしまうだろう。

 だが、若葉は動じなかった。表情を崩さず、静かに言葉を継ぐ。


「これは失礼いたしました、ファーレンハイト様。この度は事前の連絡もなく、貴方様の領地を通過いたしましたこと、深くお詫び申し上げます。我々は復興支援物資を運ぶため、学術都市へと急いでおりました。どうか、通行の許可をいただけないでしょうか」


 若葉は教科書通りの、完璧な謝罪と要望を述べた。

 だが、ファーレンハイトは鼻で笑った。


「謝罪? 許可? ……ふん、片腹痛い」


 ファーレンハイトは空中で指を鳴らした。

 すると、数匹のコウモリが飛んできて、空中に巨大な幻影のスクリーンを作り出した。そこに映し出されたのは、リリス号が走る映像と、複雑な波形グラフだった。


「見ろ、この醜悪な波形を」


 ファーレンハイトが指揮棒のように指を振るう。


「貴様らの列車が出す車輪の音だ。一定のリズムを刻んでいるように聞こえるが、コンマ数秒のズレがある。これは私の鼓膜に対する暴力だ。今すぐ車輪を全て取り替え、四分の三拍子のワルツのリズムで走るように改造しろ」


「は……?」


 若葉は耳を疑った。

 ワルツのリズムで走る機関車? 何を言っているんだ、この人は。


「それに、その色だ」


 ファーレンハイトはリリス号の車体を指差した。


「黒光りするボディ……あまりにも下品だ。艶がありすぎる。もっと光を吸収するマットな質感の『漆黒ジェット・ブラック』に塗り直せ。今のままでは月光が反射して目に障る」


「あの、ファーレンハイト様……」


「まだあるぞ。煙突から出る蒸気だ。あれはなんだ? 無秩序に拡散して、霧の美しさを損ねている。蒸気を吐き出す際は、薔薇の花の形になるように調整しろ」


 次から次へと飛び出す要求。

 それも、運行の安全や実用性とは何の関係もない、純粋な「個人的なこだわり」による難癖ばかりだ。

 若葉は理解した。

 目の前にいるのは、高貴な吸血鬼ではない。

 これは「モンスタークレーマー」だ。

 それも、自分が絶対的な正義であり、相手を従わせることに快感を覚えるタイプの、一番厄介な種類だ。


「……申し上げにくいのですが、ファーレンハイト様」


 若葉は声を少し低くした。


「車輪の改造や塗装の変更は、直ちには不可能です。また、蒸気の形状制御に関しても、技術的に困難かと存じます。我々は現在、物資輸送の任務を最優先としておりまして」


「黙れ!!」


 ファーレンハイトが激昂した。

 ワイングラスの中身が波打ち、数滴が地面にこぼれ落ちて、ジュッ!と音を立てて岩を溶かした。やはりただのワインではない。


「誰に向かって口答えをしている! 私は被害者なのだぞ!? 貴様らの無神経な騒音と、醜悪な見た目のせいで、私の繊細な精神は深く傷ついたのだ!」


 ファーレンハイトは空中に浮いたまま、ズイと若葉に顔を近づけた。


「できない、ではない。やるのだ。それが『誠意』というものだろう?」


 誠意。

 その言葉が出た瞬間、若葉の中で何かが「カチリ」と音を立てて切り替わった。

 日本での記憶。

 コンビニのレジで。「弁当が温かくない」と怒鳴り散らし、土下座を強要した客。

 ファミレスで。「水を持っくるのが遅い」と難癖をつけ、食事代を無料にしろと騒いだ客。

 彼らは皆、同じ目をして言った。「誠意を見せろ」と。


「……では、ファーレンハイト様が仰る『誠意』とは、具体的にどのような形でしょうか?」


 若葉の声から、感情の色が消えた。

 営業スマイルの口角はそのままに、瞳の奥だけが、冷たく澄んだガラス玉のように変わる。

 それは、若葉一利が過酷な接客業の中で編み出した、自己防衛のための最終形態。

 通称、『心のシャッター』。

 相手を「人間」ではなく「処理すべき事案」として認識するモードだ。

 ファーレンハイトは、若葉の変化に気づかず、勝ち誇ったように笑った。


「決まっているだろう。賠償金だ」


 彼は指を一本、二本と立てた。


「通行料として金貨五千万枚。そして、私の精神的苦痛に対する慰謝料として金貨五千万枚。合わせて一億枚だ。これを今すぐ支払え。そうすれば、今回は特別に見逃してやってもいい」


 金貨一億枚。

 国家予算レベルの金額だ。当然、払えるわけがないし、払う理由もない。

 これは要求ではない。ただの嫌がらせだ。相手を困らせ、ひれ伏させ、自分の優位性を確認するための儀式。

 普通の人なら、怒るか、泣いて命乞いをするだろう。

 吸血鬼の王は、それを期待していた。怯える人間の顔を見るのが、何よりの娯楽なのだから。

 だが。


「……左様でございますか」


 若葉は、眉一つ動かさなかった。

 恐怖も、焦りも、怒りすら見せない。

 ただ淡々と、事務的な口調で返した。


「金貨一億枚ですね。承知いたしました」


 ファーレンハイトの口元が歪む。


「ほう、素直でよろしい。では今すぐ」


「お支払いできません」


「……は?」


 ファーレンハイトの動きが止まった。


「お支払いできません、と申し上げました」


 若葉は鞄から手帳を取り出し、ペンを走らせながら言った。


「当鉄道の規定により、現場での現金による賠償対応は一切禁じられております。また、ご請求いただいた金額は、当社の補償規定の上限を大幅に超えております」


「な、何を言っている……? 規定だと? 私が払えと言っているのだぞ!」


「ええ、伺っております。ですが、無理なものは無理です」


 若葉は顔を上げ、ファーレンハイトを真っ直ぐに見据えた。

 その目は、吸血鬼の魔眼を前にしても、微動だにしていなかった。


「お客様のご要望は理解いたしましたが、その要求には応じかねます。車輪の音も、塗装も、蒸気も、すべてサンズグリーズ鉄道法に基づく安全基準を満たしております。数値データもございますが、ご覧になりますか?」


「き……貴様……!」


 ファーレンハイトの白い頬が、怒りで紅潮していく。

 今まで、自分の言葉に「NO」と言った人間はいなかった。

 誰もが恐怖し、言いなりになった。

 なのに、この目の前の矮小な人間はなんだ?

 なぜ震えていない? なぜ謝りながら地面に頭を擦り付けない?

 まるで、ファーレンハイトを「ただの面倒な客」として扱っているかのような、その慇懃無礼な態度は。


「ふざけるなッ!!」


 ファーレンハイトが叫んだ。

 空気がビリビリと震え、周囲の霧が吹き飛ぶ。

 コウモリたちがキーキーと騒ぎ出し、殺気立って旋回を始める。


「私はノインシュタイン家の当主だぞ! この地の支配者だ! 私の言葉は法であり、絶対なのだ! それを……たかが鉄道屋風情が、あしらうような口を利くな!」


 ファーレンハイトの手から、どす黒い魔力の波動が放たれた。

 若葉の髪が風圧で煽られる。

 だが、若葉は一歩も引かなかった。

 むしろ、一歩踏み出した。


「ファーレンハイト様」


 若葉の声は、嵐の中でも揺るがない鋼のように響いた。


「ここは貴方様の領地であると同時に、世界復興のための『公共交通路』でもあります。我々は世界復興委員会、および各国の王族・代表者からの委任を受けて運行しております」


 若葉は懐から、一通の羊皮紙を取り出した。

 ルシフェルから預かった、運行許可証だ。そこには魔王軍と人類連合、双方の紋章が押されている。


「もし、貴方様が我々の正当な運行を、私的な感情で妨害されたとなれば……それは世界復興への反逆とみなされます。当然、委員会へ報告させていただきますが、よろしいですね?」


「報告……だと? 脅すつもりか?」


「いいえ。正当な手続きのご案内です」


 若葉はニッコリと、しかし目は笑わずに言った。


「『美学』と『格式』を重んじるノインシュタイン家が、復興の邪魔をするただの野蛮な賊として歴史に名を残すことになっても……本当によろしいのですか?」


 ファーレンハイトが絶句した。

 痛いところを突かれた。

 彼は誇り高い。だからこそ、「野蛮」や「賊」扱いされることだけは我慢ならない。

 しかし、振り上げた拳を下ろすこともできない。プライドが許さない。


「き、貴様……私を愚弄するか……! いいだろう、ならば力ずくで分からせてやる!」


 ファーレンハイトの瞳が、血の色に発光した。

 交渉決裂。

 彼は理性よりも感情を優先させた。

 コウモリたちが一斉に牙を剥き、リリス号へと殺到しようとする。


「死ね! 無礼な人間よ! その鉄屑と共に、永遠にスクラップになれ!」


 圧倒的な魔力の暴力が、若葉に降り注ごうとした。

 若葉は目をつぶらなかった。ただ、静かに鞄を抱きしめた。

 やるべきことはやった。あとは

 その時だった。

 

 ヒュオオオオオオオオッ!!

 若葉の背後から、猛烈な突風が吹き荒れた。

 ただの風ではない。

 エメラルドグリーンに輝く、清浄なる魔力の嵐だ。



 ヒュオオオオオオオオオッ!!

 突如として巻き起こったエメラルドグリーンの烈風は、若葉の体を避けるようにして左右に分かれ、前方へと突き抜けた。

 それは単なる空気の流れではない。高密度のマナを含んだ、意思を持つ防壁だ。


「な、なんだこの風は……!?」


 ファーレンハイトが驚愕の声を上げる。

 彼が召喚した数千のコウモリたちが、風に煽られて木の葉のように舞い散る。魔力で強化された使い魔たちが、ただの風圧で吹き飛ばされているのだ。

 風はさらに勢いを増し、ファーレンハイトの身体をも後方へ押しやろうとする。


「くっ、私の結界を物理的にこじ開けるだと? 馬鹿な、これほどの質量を持った風魔法など、そこらの魔導師に扱えるものでは……!」


 ファーレンハイトはマントで顔を覆い、風に抗いながら薄目を開けた。

 そして、見てしまった。

 若葉の背後に鎮座する漆黒の機関車、リリス号。その車体全体が、淡い緑色のオーラで包まれているのを。

 そして、そのオーラが巨大な女性の姿、風の精霊王シルフの幻影を象っているのを。


「あの姿……まさか、シルフか!?」


 ファーレンハイトの顔から、一瞬で血の気が引いた。

 風の精霊王シルフ。

 自然霊の中でもトップクラスの力を持ち、気まぐれで、一度怒らせれば地形が変わるほどの嵐を引き起こす、災害級の存在。

 吸血鬼という種族は強力だが、自然そのものである精霊王と正面からやり合って勝てる道理はない。

 ましてや、自分の領地であるこの古城で戦えば、城ごと吹き飛ばされるのは明白だった。


「な、なぜだ……なぜ人間ごときの列車に、精霊王の加護がある!?」


 ファーレンハイトは慄いた目で若葉を見た。

 目の前に立つ、魔力も持たないひ弱な人間。

 だが、その背後にはとてつもない後ろバックがついている。

 若葉が先ほど口にした「正当な手続き」という言葉が、ファーレンハイトの脳内で重みを増して響いた。

 こいつは……ただの人間ではない。

 精霊王を手懐け、世界の復興を背負って走る、アンタッチャブルな存在なのかもしれない。


(ま、まずい……)


 ファーレンハイトの額に冷や汗が伝う。

 このまま攻撃を続ければ、シルフの怒りを買い、サンズグリーズ鉄道を敵に回し、世界復興委員会からも糾弾される。

 それは、彼の愛する「静寂で優雅な生活」の完全なる崩壊を意味していた。

 だが、ここで引き下がるのは吸血鬼のプライドが許さない。

 「すいませんでした」と謝るなど、死んでもできない。

 どうする? どうやってこの場を収める?

 ファーレンハイトの瞳が激しく揺れた。

 一方、若葉は風の中に立ち尽くしながらも、冷静に相手の様子を観察していた。


 (……風のおかげで怯んだ。それに、シルフの加護に気づいて顔色が変わった)


 これはチャンスだ。

 相手は今、振り上げた拳の降ろし所に困っている。

 ここで追い打ちをかけて論破するのは悪手だ。相手を逆上させるだけだ。

 必要なのは、「相手の顔を立てつつ、こちらの要求を通す」出口戦略。

 若葉は、ふっと表情を和らげた。

 心のシャッターを少しだけ開け、再び営業マンの顔に戻る。


「……ファーレンハイト様」


 若葉は風が止むのを待って、穏やかに声をかけた。


「ご覧の通り、この列車は風の精霊王シルフ様より、『追い風』の加護を頂いております。これは、我々の復興支援活動に対し、シルフ様が賛同してくださった証です」


「ぐ、ぬ……」


 ファーレンハイトが呻く。


「ファーレンハイト様もまた、由緒ある貴族として、この世界の未来を憂いておられるはず。……違いますか?」


 若葉はあえて、相手を持ち上げた。

 ファーレンハイトがピクリと反応する。


「……当然だ。私は野蛮な破壊を好まない。私が求めているのは秩序と美だ」


「でしたら、ここで争うことは双方にとって不利益です。シルフ様も、貴方様と戦うことを望んではおられないでしょう。美しい森や城が傷つくことは、誰の美学にも反しますから」


 若葉は一歩下がり、恭しく頭を下げた。


「我々も、これ以上貴方様の静寂を乱したくはありません。……今回は、どうかシルフ様の顔に免じて、通行をお許しいただけないでしょうか?」


 『シルフ様の顔に免じて』。


 この言葉が、ファーレンハイトにとっての救命ボートだった。

 人間に負けたのではない。精霊王に敬意を表して引くのだ。それなら、貴族としての体面は保たれる。

 ファーレンハイトは、わざとらしく咳払いをした。

 マントを翻し、空中で居住まいを正す。


「……ふん。なるほど、そういうことであったか」


 彼は冷や汗を拭い去り、再び傲慢な表情を取り繕った。


「精霊王シルフが加護を与えているというのなら、この鉄塊……リリス号にも、多少の美的価値があるということなのだろう。私の目には相変わらず醜悪に映るが……精霊王の審美眼を否定するほど、私は狭量ではない」


 ファーレンハイトはワイングラスを傾け、中身を一気に飲み干した。


「良かろう! 今回は特別に見逃してやる! 感謝するがいい!」


「ありがとうございます。寛大なご配慮、痛み入ります」


 若葉は深々と最敬礼した。

 よし、通った。

 若葉が胸を撫で下ろそうとした時、ファーレンハイトが人差し指を突きつけてきた。


「ただし! 条件がある!」


「……はい、何でしょうか?」


 また金貨一億枚とか言われたらどうしよう、と身構える若葉。

 だが、ファーレンハイトの要求は違った。


「次に我が領地を通る時は、事前に手紙をよこせ」


「手紙、ですか?」


「そうだ。何月何日の何時何分に通るのか、正確に記した書状を送れ。そして、封筒の色は『真夜中のミッドナイト・ブルー』、封蝋は『深紅』にしろ。便箋の香りにはラベンダーを使うこと。いいな?」


 細かい。実に細かい。

 だが、それはつまり「手続きさえ踏めば通っていい」という許可だった。


「あと、通過する時はバッハの『G線上のアリア』を流せ。それなら騒音として許容してやらんでもない」


「……かしこまりました。次回より、そのように手配いたします」


 若葉は手帳に素早くメモを取った。


 『次回のタスク:青い封筒、ラベンダーの香り、BGMバッハ』。


 面倒だが、金貨一億枚に比べれば安いものだ。


「ふん。話は終わりだ。さっさと行け! 私の視界からその下品な黒い塊を消し去るのだ!」


 ファーレンハイトが手を振ると、空を覆っていたコウモリの大群が左右に割れた。

 霧の中に、一本の道が開かれる。

 それは、まるでモーゼの海割りのようだった。


「失礼いたします。……良い夜を、ファーレンハイト様」


 若葉は最後に一礼し、急いで運転席へと戻った。


「親方! 出してください! 今すぐに!」


「キュッ!(合点承知!)」


 親方がレバーを引く。

 プシュウウウッ!と蒸気が吹き出し、リリス号が動き出した。

 今回は汽笛を鳴らさない。静かに、しかし最高速で加速する。

 窓の外で、ファーレンハイトが腕を組んで見送っている姿が見えた。

 その背中には、どこか「やれやれ、話のわかる大人の対応をしてやったぞ」という満足感が漂っていた。

 実際は、若葉とシルフにビビって道を譲っただけなのだが、彼の中では「寛大な王の振る舞い」として処理されたようだ。

 リリス号は霧を切り裂き、古城の脇を駆け抜けていく。

 城の尖塔に灯る明かりが、一瞬だけ車窓を照らし、そして後方へと流れていった。

 安全圏まで離れた頃。

 若葉は車掌室に戻るなり、その場に崩れ落ちた。


「はぁぁぁぁ……。死ぬかと思った……」


 膝が笑っている。心臓が早鐘を打っている。

 制服の背中は冷や汗でぐっしょりだ。

 心のシャッターを下ろしていたとはいえ、相手は強大な吸血鬼。一歩間違えれば塵にされていたかもしれないのだ。


「フゴッ」


 親方が車掌室に入ってきて、若葉の肩をポンと叩いた。

 そして、無言でサムズアップをした。

 『よくやった。お前、口喧嘩なら最強だな』という称賛の眼差しだ。


「いや、喧嘩じゃないですよ……。ただの『クレーム対応』です」


 若葉は力なく笑った。

 日本で培った社畜スキルが、まさか異世界で命を救うことになるとは。人生、何が役に立つか分からないものだ。

 窓の外を見ると、いつの間にか霧が晴れ始めていた。

 分厚い雲の切れ間から、満天の星空が覗いている。

 その星空の下、遠く前方の盆地に、無数の魔法の光が輝く都市が見えてきた。

 幾何学的な形をした建物群。空中に浮かぶ図書館。巨大な天体望遠鏡。

 学術都市トリスメギストス。

 魔法と科学が融合した、サンズグリーズの知の拠点だ。


「次は、トリスメギストスか……」


 若葉は窓枠に手を置き、体を起こした。

 疲労はある。でも、列車は止まらない。

 乗客たちを、荷物を、そして自分自身の未来を運んで、リリス号は進み続ける。


「ご乗車ありがとうございます。まもなく、学術都市トリスメギストスに到着いたします」


 若葉のアナウンスは、霧の晴れた夜空に、どこまでも澄み渡って響いていった。

 サンズグリーズ鉄道の旅は、まだまだ続く。


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