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人攫いの森と、初めての交渉


 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。

 規則正しいリズムが、足の裏から全身へと伝わってくる。それは心臓の鼓動にも似た、巨大な鋼鉄の生命体が刻む脈動だった。


「失礼いたします。検札に参りました」


 若葉一利の声は、まだ少し硬さが残るものの、だいぶ板についてきていた。

 紺色の制服に身を包み、制帽を目深に被った彼は、二等客車の通路をゆっくりと進んでいく。右手には、すっかり手に馴染んだ重厚な金属製の改札鋏。腰には、乗務員必携の鞄と懐中時計。

 彼が歩くその足元は、決して平坦な大地の上ではない。

 窓の外を見れば、そこにあるのは断崖絶壁の谷底だ。本来ならば道など存在しない、鳥しか通れないような空中の回廊。

 だが、サンズグリーズ鉄道の誇る魔法蒸気機関車『リリス』号にとって、道なき道こそが正規ルートだった。

 先頭を走る漆黒の機関車『リリス』の排障器カウキャッチャーから、鋭いマナの光が放たれる。その光は空間に複雑な幾何学模様を描き出し、瞬く間に半透明の光のレールと、それを支える橋脚を生成していく。

 『自動架橋魔法』。

 魔導兵器時代の技術を平和利用転用した、この鉄道の最大の特徴である。

 リリス号が通り過ぎた後、光のレールは数分もしないうちに霧散し、あとにはただの風が吹くだけとなる。環境負荷ゼロ、建設コストゼロ(ただし莫大な魔力消費を伴う)の、究極のインフラだった。


「すごいなぁ……」


 就職して一週間が経つが、若葉はいまだにこの光景に見とれてしまうことがあった。

 かつて東京の満員電車に揺られていた頃、窓の外といえば灰色のビル群か、疲れたサラリーマンの顔が映る暗いガラスだけだった。

 だが今は違う。

 右手に広がるのは、雲海を突き抜ける山々の頂。左手を見下ろせば、エメラルドグリーンに輝く大河が蛇行し、その畔には復興中の街がジオラマのように広がっている。

 世界は広く、美しく、そして何よりも驚くほど混沌としていた。


「おい、車掌!」


 野太い声に呼び止められ、若葉は我に返った。

 声の主は、通路側の席に座るドワーフの男性だった。立派な髭を蓄え、膝の上には自分の背丈ほどもあるツルハシを抱えている。


「はい、お客様。いかがなさいましたか?」


 若葉が穏やかな営業スマイルで応じると、ドワーフは隣の席を親指で指し示した。


「こいつがよ、油臭くてたまらねえんだ。席を変えてくれねえか」


 指された隣の席には、全身が銀色の金属で覆われた人型。明らかに「サイボーグ」とおぼしき乗客が座っていた。頭部の半分はメカニカルなパーツで、目は赤いレンズが光っている。

 サイボーグの乗客は、機械的な合成音声で反論した。


『異議アリ。当機ノ駆動音及ビ排熱ハ、規定値内デアル。ムシロ、貴殿ノ放ツアルコール臭ノ方ガ、環境汚染レベルト推奨サレル』


「なんだと!? これはドワーフの嗜みだ!」


 一触即発の空気。周囲の乗客たちが迷惑そうに顔をしかめる。

 以前の若葉ならオロオロとしていただろう。だが、今の彼は「サンズグリーズ鉄道の車掌」だ。


「お客様、落ち着いてください」


 若葉は二人の間に割って入るのではなく、一歩引いた位置から、しかし毅然とした態度で声をかけた。


「まず、こちらのお客様ドワーフ。車内での飲酒は許可されていますが、泥酔による他のお客様への迷惑行為は運送約款第十二条により乗車拒否の対象となります。少しお声を落としていただけますね?」


「う……む」


 約款という言葉と、若葉の真剣な眼差しに、ドワーフが気まずそうに髭を撫でる。


「そして、こちらのお客様サイボーグ。駆動音等は正常範囲内とのことですが、もしメンテナンス用のオイル等が漏れているようでしたら、こちらの布をお使いください。精密機械にとって湿気は大敵でしょうから、窓側の席のカーテンを閉めさせていただきますね」


 若葉は鞄から清潔なウエスを取り出し、サイボーグに手渡すと同時に、日差しが直撃していた窓のカーテンをさっと閉めた。


『……感謝スル。直射日光ハ冷却効率ヲ下ゲル為、助カル』


「へん、気が利くじゃねえか」


 ドワーフも、直射日光が遮られたことで少し居心地が良くなったのか、毒気が抜けたように椅子に深く座り直した。

 若葉は「ご協力ありがとうございます」と深く一礼し、再び通路を進み始めた。

 客席を見渡せば、まさに人種のるつぼだ。

 エルフが静かに古文書を読み、その隣ではジャージ姿の人間(おそらく現代日本かそれに近い世界からの召喚者)がスナック菓子を食べている。頭に角が生えた魔族の商人が、翼の生えた獣人と商談をしている。

 剣と魔法、科学と機械、古い伝統と新しい文化。

 それらが無理やりミキサーにかけられ、まだ混ざりきっていないマーブル模様のような状態。それが、現在のサンズグリーズだった。

 一通り検札を終えた若葉は、最後尾の車掌室へと戻った。

 重い鉄の扉を閉めると、ようやく喧騒が遠のく。

 若葉は制帽を脱ぎ、一つ大きく息を吐いた。


「ふぅ……。今日も満席か」


 彼は小さな木製の机に向かい、日報を広げた。

 『区間:鉱山都市ガルド~学術都市ムーンサイド。乗車率:120%。特記事項:異文化間トラブル多発、定時運行順守中』。


 ペンを走らせながら、ふと机の隅に置かれた分厚い革表紙の本に目が留まる。


 『サンズグリーズ現代史概論 ~復興への道のり~』。


 駅長室の書庫から借りてきたものだ。車掌として客と接する以上、この世界のことをもっと知らなければならないと思い、休憩時間に少しずつ読み進めていたのだ。

 コンコン。

 控えめなノックの音がして、車掌室のドアが開いた。

 入ってきたのは、白い毛並みのウサギだった。油で汚れた作業用つなぎを着て、首からタオルを下げている。機関助士を担当しているウサギの一羽だ。


「お疲れ様です。休憩ですか?」


 若葉が声をかけると、ウサギは「キュウ」と短く鳴き、持っていたバスケットを机に置いた。中には焼きたてのパンと、スープが入った魔法瓶が入っている。賄いの差し入れだ。


「ありがとうございます。助かります」


 ウサギは若葉が広げていた歴史書に気づくと、長い耳をピクリと動かし、興味深そうに鼻を近づけた。


「これですか? まだ勉強中なんです。正直、複雑すぎて……」


 若葉は苦笑しながら、本のページをめくった。そこには、荒廃した大地の挿絵と共に、戦争の経緯が記されていた。

 サンズグリーズ歴20XX年。人類国家連合と魔王軍による全面戦争が勃発。

 当初は領土を巡る小規模な紛争だったものが、泥沼化するにつれてエスカレートしていった。

 戦局を打開するため、双方は禁忌に手を染める。『異世界召喚』だ。

 人類は強大な力を持つ「勇者」を。魔王軍は破壊の化身たる「魔王候補」や「魔獣」を。

 異なる次元から呼び寄せられた圧倒的な力は、サンズグリーズの軍事バランスを崩壊させ、戦場は焦土と化した。

 森は焼かれ、海は干上がり、空は瘴気に覆われた。

 そして十年の歳月が流れ――

 勝者は、いなかった。

 残ったのは、戦う力すら失った両軍と、ボロボロに破壊された星だけだった。


「一年前の停戦条約。それが全ての終わりの始まりだったんですね」


 若葉が独りごちると、ウサギは悲しげに「フゴッ」と鼻を鳴らし、両手を広げて「何もない」というジェスチャーをした。


「そうですよね。平和にはなったけど、復興するための力が残っていない。勇者たちは故郷に帰るか、力を失った。だから……」


 若葉は窓の外を見た。

 荒野に点在する集落。そこには、自分と同じように異世界から召喚されたであろう人々が働いている姿が見える。巨大な重機を操るドワーフ、魔法で水を浄化するウンディーネ、そして測量を行うジャージ姿の若者たち。


「僕たち『労働者』が呼ばれた」


 かつての召喚陣は、今やハローワークの入り口のようなものだ。

 平和維持のための軍事力よりも、明日のパンを焼くための労働力が求められている。

 ドワーフの技術、エルフの知識、地球人の組織力とサービス精神。ありとあらゆる異世界の「得意分野」を集結させ、この世界をパッチワークのように修復している。それが今のサンズグリーズの実情だった。


「僕も、使い捨ての部品の一つかもしれません」


 若葉は自嘲気味に呟いた。日本で「替えの効く人材」として扱われ、結局は弾き出された記憶が蘇る。

 だが、ウサギは違った。

 ウサギは若葉の膝にポンと手を置き、真っ直ぐな瞳で見つめてきた。そして、自分の胸をドンと叩き、次に若葉の胸を指差した。さらに、両手を繋ぐような仕草をする。


「……部品じゃなくて、仲間だ、って言ってくれてるんですか?」


「キュッ!」


 ウサギは力強く頷いた。

 その純粋な瞳に、若葉の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 そうだ。ここでは、誰もが必死だ。元魔王軍だろうが、異世界人だろうが、一つの列車を動かすために汗を流している。

 自分は一人じゃない。この「リリス号」というチームの一員なのだ。


「ありがとうございます。元気が出ました」


 若葉がパンを一口かじろうとした、その時だった。

 キキキキキキキキキーーーーーッ!!!

 突如、耳をつんざくような金属音が響き渡った。

 凄まじい慣性が働き、若葉の体は前方に放り出され、壁に激突した。


「ぐっ……!?」


 机の上の本やスープが床に散乱する。

 緊急停車だ。それも、尋常ではない急ブレーキ。


「くっ、何事だ!?」


 若葉は痛む肩をさすりながら、すぐに立ち上がった。まずは乗客の安否確認だ。

 壁の伝声管を引き寄せ、全車両への放送を入れる。


「た、ただいま急停車いたしました! 事故防止のための緊急ブレーキと思われます。怪我をされた方はいらっしゃいませんか? 座席から動かず、そのままでお待ちください!」


 放送を終えると、若葉は制帽を被り直し、車掌室を飛び出した。

 通路では乗客たちがざわついている。


 「なんだ!?」「敵襲か!?」「荷物が崩れたぞ!」


 若葉は「申し訳ありません! すぐに確認して参ります!」と声をかけながら、先頭車両へと走った。

 機関車の運転室に飛び込むと、そこは戦場のような騒ぎだった。

 計器類が警告音を鳴らし、赤いランプが点滅している。

 そして、運転席の中央で、一際大きな白ウサギ、機関長の「親方」が、窓の外を指差して激怒していた。


「フゴーーッ!! フゴッ! フゴゴッ!!(どきやがれ! 何考えてんだあの野郎!)」


 親方は咥えていた乾燥人参を床に叩きつけ、地団駄を踏んでいる。

 若葉は親方の隣に駆け寄り、フロントガラスの向こうを見た。


「な……っ!?」


 言葉を失った。

 そこにあるはずの「道」が、消えていた。

 リリス号は現在、山岳地帯を抜ける峡谷ルートを走行していたはずだ。予定では、この先は広大な谷が広がり、そこを魔法の橋で渡るはずだった。

 だが、目の前には「壁」があった。

 いや、壁ではない。

 鬱蒼と生い茂る、巨大な木々。空を覆い尽くすほどの枝葉。そして、脈打つように蠢く無数の蔦。

 黒に近い濃緑色の森が、谷を埋め尽くし、リリス号の進路を完全に塞いでいたのだ。


「森……? どうしてこんな場所に森が?」


 地図にはない。昨日までは存在しなかったはずだ。

 リリス号の「自動架橋魔法」の光が、森の結界に弾かれ、行き場を失って空中で散っている。これでは道が作れない。


「おい、あれを見ろ!」


 後ろからついてきた乗客の一人、元兵士らしき男が叫んだ。


「あれは……『人攫いの森』だ!」


 その名を聞いた瞬間、車内に悲鳴が上がった。

 人攫いの森。

 それはサンズグリーズの御伽噺に出てくる恐怖の存在。

 意思を持ち、移動し、迷い込んだ人間や魔族を捕らえて養分にするという、生きた魔の森。

 戦争中、多くの兵士がこの森に行軍を阻まれ、二度と帰ってこなかったという伝説の場所だ。


「まさか、移動してきたのか……? 鉄の匂いを嗅ぎつけて?」


 若葉の背筋に冷たいものが走る。

 リリス号には、数百名の乗客と、復興支援のための食料、資材が大量に積まれている。

 森にとって、これほどの「御馳走」はないだろう。

 ズズズ……ッ。

 森の端から、触手のような太い根が這い出し、線路の枕木を砕きながらリリス号の方へと伸びてくる。

 敵意は明白だった。


「フゴッ!(やるぞ!)」


 親方がゴーグルを装着し、レバーに手をかけた。

 ボイラーの火力を最大にし、正面突破を図るつもりだ。リリス号の突進力と、排障器に込められた破砕魔法なら、森の一部を焼き払って進むことも不可能ではないかもしれない。

 だが――


「待ってください親方!」


 若葉が親方の腕を掴んだ。


「燃やすのは駄目です! この距離で火を使えば、客車に引火する危険があります! それに、森を刺激して総攻撃を受けたら、ガラス窓なんて簡単に破られます。乗客に犠牲が出ます!」


 親方は「フゴッ?(じゃあどうするんだ、食われるのを待つのか?)」と睨みつけてくる。


「バックもできません。後ろのレールはもう消滅しています。待機していても、森に取り囲まれるだけです」


 進むも地獄、退くも地獄。

 車内はパニック寸前だ。子供が泣き叫び、武器を持った乗客たちが窓から身を乗り出そうとしている。

 どうする。どうすればいい。

 若葉は唇を噛み締め、必死に思考を回転させた。

 戦う? 無理だ。こちらは輸送列車で、戦車ではない。

 逃げる? レールがない。

 ならば――

 若葉の脳裏に、日本の営業時代、クレーム対応で修羅場をくぐり抜けてきた経験が蘇る。

 相手がどんなに理不尽なモンスター(クレーマー)でも、まずは相手の言い分を聞き、こちらの誠意を見せる。それが解決の糸口だった。

 相手が「森」であっても、意思があるなら、通用する可能性はある。


「……話してきます」


 若葉は静かに言った。


「はあ!?」


 人間の言葉がわかる乗客たちが一斉に若葉を見た。親方も目を丸くしている。


「僕が降りて、森の主と交渉してきます。どいてくれるように」


「正気か!? 相手は『人攫いの森』だぞ! 話が通じる相手じゃねえ!」


 元兵士の客が怒鳴る。だが、若葉は揺るがなかった。


「戦えば、必ず誰かが傷つきます。僕の仕事は、乗客の皆さんを目的地まで『安全に』送り届けることです。そのための可能性が1パーセントでもあるなら、僕はそれに賭けます」


 若葉の瞳には、不思議な光が宿っていた。

 それは勇者のような燃え盛る闘志ではない。

 どんなトラブルがあっても、定刻通りに列車を走らせる。その一点のみに執着する、鉄道員ぽっぽやとしての静かなる狂気と、責任感だった。

 親方は若葉の目をじっと見つめた。

 数秒の沈黙の後、親方は「フン」と鼻を鳴らし、レバーから手を離した。

 そして、自分の腰にぶら下げていた巨大なモンキーレンチを外し、肩に担いだ。


 『俺も行く』。


 言葉はなくとも、その意志は伝わった。


「……ありがとうございます、親方」


 若葉は制帽のツバをグッと下げ、身を引き締めた。

 鞄の中には、マニュアルも武器もない。

 あるのは、積み荷のリストと、誠実さだけ。


「車掌、若葉一利。行って参ります」


 プシューッという音と共に、乗降口のドアが開く。

 生暖かい湿気と、濃密な草の匂いが流れ込んでくる。

 若葉は革靴で、異世界の土を踏みしめた。

 目の前には、天を摩すような巨大な森の壁が、黒々と立ちはだかっていた。



 森の中は、異様な静寂に包まれていた。

 外から聞こえていた風の音や鳥の声は一切なく、ただ湿った土を踏みしめる若葉と、親方の足音だけが響く。

 鬱蒼と茂る木々は太陽の光を完全に遮断し、視界は薄暗い緑色に染まっていた。空気は水飴のように重く、呼吸をするたびに肺が腐葉土の匂いで満たされる。


「……親方、離れないでくださいね」


 若葉は震える声を抑えながら、背後の白ウサギに声をかけた。

 親方は無言で頷き、巨大なモンキーレンチをいつでも触れるように構え、油断なく周囲を警戒している。その長い耳は、レーダーのようにせわしなく動き、見えない敵の気配を探っていた。

 シュルリ。

 足元で何かが動いた。

 蛇ではない。木の根だ。

 太い根が意思を持った生き物のように蠢き、若葉の足首を狙って鎌首をもたげる。

 瞬間、親方が動いた。

 目にも止まらぬ速さでレンチを一閃。バゴッ!という鈍い音と共に、根が弾き飛ばされる。

 親方は「フゴッ(進め)」と顎で前を指した。


「あ、ありがとうございます……」


 若葉は冷や汗を拭いながら、歩を進めた。

 周囲の木々の幹には、人の顔のようなこぶが浮き出ており、それらが一斉に若葉たちを見下ろしているような感覚に陥る。

 そして、頭の中に直接響くような、無数の「声」が聞こえ始めた。


『鉄ノ匂イ……』

『焼キ尽クシタ者タチ……』

『養分……肉……骨……』


 怨嗟の声。

 それは森そのものの怒りだった。

 数百年にわたる戦争。その中で、どれだけの森が焼かれ、大地が毒されたのだろう。彼らにとって、金属の塊であるリリス号は、破壊の象徴そのものに見えるのかもしれない。

 恐怖で足がすくみそうになる。逃げ出したい。

 だが、後ろには何百人もの乗客がいる。自分がここで交渉に失敗すれば、あの列車は森に飲み込まれる。


(仕事だ。これは仕事なんだ)


 若葉は自分に言い聞かせた。

 クレーム対応だと思え。相手は怒っている。まずはその怒りの原因を理解し、誠意を見せること。それが、とあるブラック企業で培った、若葉一利の唯一の生存スキルだった。

 森の深部、開けた場所にたどり着いた。

 そこには、樹齢数千年あろうかという巨大な老木が聳え立っていた。

 その根元に、緑色の光が渦巻く。

 風が吹き荒れ、落ち葉が舞い上がる。

 光の中から、半透明の緑色のドレスを纏った、巨大な女性の姿が現れた。

 身長は五メートルほど。髪は蔦で、瞳は琥珀。美しくも恐ろしい、大自然の化身。


『去れ、人間よ。そして薄汚い鉄の獣よ』


 森の主、風の精霊王シルフの声が、暴風となって若葉たちを打ち据えた。

 若葉は吹き飛ばされそうになりながらも、踏ん張った。親方が若葉の背中を支える。


『我らはもう許さぬ。貴様ら人間と魔族が、この大地に何をしたか忘れたとは言わせぬぞ。森を焼き、川を干上がらせ、同胞たちを殺し尽くした! 平和になっただと? 笑わせるな。貴様らの都合で荒らすだけ荒らしておいて、今さら何食わぬ顔で我らの聖域を通ろうなどと……傲慢にも程がある!』


 シルフが腕を振るうと、周囲の枝が槍のように尖り、一斉に若葉たちに向けられた。

 殺気。圧倒的な死の予感。

 親方がレンチを握る手に力を込める。戦うつもりだ。だが、勝てるわけがない。相手はこの森そのものなのだから。

 若葉は、親方の前に出た。

 そして、武器を構えるのではなく、持っていた鞄を地面に置いた。

 スーツの膝を、泥だらけの地面につける。

 両手を地につき、額を擦り付ける。

 日本古来の最大級の謝罪作法、「土下座」だ。


「申し訳、ありませんでした!!」


 若葉の絶叫に近い謝罪の声が、森に響き渡った。

 シルフの動きがピタリと止まる。予想外の行動に毒気を抜かれたようだ。


『……何だ、それは。命乞いか?』


「いいえ。謝罪です。過去に、人類と魔族がこの森に対し、取り返しのつかない過ちを犯したことへの、深い謝罪です」


 若葉は顔を上げず、地面に向かって叫んだ。


「僕たちは戦争を知りません。僕は異世界から来たばかりの、ただの鉄道員です。ですが、この世界の人間が犯した罪は、今ここに生きる僕たちが背負うべきものです。森を焼き、貴方たちを傷つけたこと……本当に、申し訳ありませんでした」


 静寂が戻る。

 シルフの怒気が、わずかに揺らいだ。

 「鉄の悪魔」だと思って殺そうとした相手が、無抵抗で、しかも地面に這いつくばって詫びている。精霊としてのプライドが、一方的な虐殺を躊躇させたのだ。


『……謝罪など聞き飽きた。言葉だけで、失われた緑は戻らぬ』


「仰るとおりです」


 若葉は顔を上げた。その顔は泥で汚れていたが、瞳は真っ直ぐにシルフを見据えていた。


「だからこそ、僕たちは『償い』を持参しました」


『償い?』


「はい。言葉だけではありません。実利のある、具体的な償いです」


 若葉は懐から、一冊のファイルを慎重に取り出した。貨物リストだ。

 彼は立ち上がり、リストを開いてシルフに見せた。


「現在、我々リリス号の四号車には、コンテナ三つ分の『特殊肥料』が積載されています」


『肥料……だと?』


「はい。これは異世界『アグリカルチャー』から直輸入した、最高級の魔法培養土と、高濃度の栄養剤です。枯れた大地を瞬く間に蘇らせ、若木の成長を百倍に早める効果があります。本来は、西の穀倉地帯へ運ぶためのものでした」


 若葉は、営業マンの顔になった。

 商品の魅力をプレゼンし、相手のニーズ(栄養不足)に突き刺す。


「拝見したところ、この森の土壌は長年の戦争による魔法汚染で、かなり疲弊しています。木々の成長も遅く、貴方様自身の魔力供給も不安定なのではありませんか?」


 図星だった。シルフの眉がピクリと動く。

 人攫いの森が人間を襲うのは、悪意だけではない。痩せた土地では足りない養分を、生物から摂取しなければ生きられないからだ。


「人間を一人養分にするより、この肥料一袋の方が、遥かに効率的で、良質なマナを含んでいます」


 若葉は一歩前に出た。


「通行料として、この四号車の積荷すべてを、この森に差し上げます」


 シルフは目を細めた。

 風が若葉の持つリストを撫でる。そこに書かれた成分表(魔法文字)を読み取ったのだろう。シルフの顔色が変わり、ゴクリと喉を鳴らす気配がした。

 喉から手が出るほど欲しいはずだ。森を再生させるための、純粋な魔力塊。


『……その積荷は、西の人間たちが待っているものではないのか?』


「待っています。ですが、今ここで僕たちが死ねば、肥料も列車もすべて失われます。ならば、今ここで最も必要としている貴方様に使っていただくのが、輸送のプロとしての判断です。……それに」


 若葉は微笑んだ。


「僕たちの仕事は、物を運ぶだけじゃありません。世界を繋ぎ、傷を癒やすことです。この肥料で森が元気になれば、それは立派な『復興』の一つですから」


 シルフは長い間、若葉を見つめていた。

 やがて、彼女はふっと息を吐き、まとっていた殺気を消した。


『……変わった人間だ。剣も魔法も持たず、土下座と肥料で道を開こうとするとは』


 シルフは指を鳴らした。

 すると、若葉たちを取り囲んでいた槍のような枝が、スルスルと引っ込んでいく。


『よかろう。その取引、応じてやる。置いていけ』


「ありがとうございます!」


 若葉は再び深々と頭を下げた。親方も、帽子を取って一礼した。

 交渉成立だ。

 その後は、実に迅速だった。

 若葉が無線で連絡を入れると、リリス号からウサギの作業員たちがわらわらと飛び出してきた。彼らは四号車の扉を開け、手際よく肥料の袋やタンクを森へと運び出す。

 袋が開けられ、金色の粒子のような土が地面に撒かれる。

 その瞬間だった。

 カサカサカサ……!

 枯れかけていた下草が、見る見るうちに鮮やかな緑色を取り戻し、細かった木々が太く逞しく成長していく。

 森全体が、「ああ、美味い!」と歓喜の声を上げているようだった。


『素晴らしい……。これほどの魔力、数百年ぶりだ……』


 シルフ自身も、その姿がより鮮明に、より美しく輝き始めていた。

 彼女は満足げに頷くと、若葉に向かって手を振った。


『行け、鉄道屋。気が変わらぬうちにな』


 ゴゴゴゴゴ……!

 地響きと共に、リリス号の進路を塞いでいた巨木たちが、左右に割れていく。

 そこには、一直線に抜ける道が出来上がっていた。


「親方、行きましょう! 出発です!」


「キュッ!(おうよ!)」


 若葉と親方は全速力でリリス号へと走った。

 ステップに飛び乗り、ドアを閉める。

 乗客たちは、窓の外で起きている奇跡。森が再生し、道が開く光景に、言葉を失っていた。


「発車ァーッ!!」


 若葉の合図と共に、親方が汽笛を鳴らす。

 ポッポーッ!!

 高らかな音色が、再生した森に響き渡る。リリス号が動き出した。

 車輪が回転し、加速する。

 左右に流れる森の木々は、もう襲っては来ない。それどころか、枝葉を揺らして見送っているようにさえ見えた。

 最後尾の車掌室から、若葉は窓の外を見た。

 遠ざかる森の中心に、シルフの姿が見えた。

 彼女は何かを呟き、ふわりと風を送ってきた。

 その風はリリス号の後ろを押し、列車をさらに加速させた。

 『追い風』の魔法だ。


「……よかった」


 若葉はその場にへたり込んだ。

 緊張の糸が切れ、全身の力が抜けていく。

 スーツは泥だらけ、冷や汗でシャツはびっしょりだ。

 けれど、心は晴れやかだった。

 誰も傷つけず、誰も失わず、難所を切り抜けた。

 それは、剣や魔法では成し遂げられない、彼なりの戦い方だった。

 コンコン。

 ドアがノックされ、親方が入ってきた。

 親方は無言で、若葉に缶を差し出した。

 『ブラックコーヒー』と書かれた、異世界ブランドの缶コーヒーだ。

 親方自身も、同じものをプシュッと開けて飲んでいる。


「親方……」


 親方はニカッと笑い(ウサギの顔で笑うと少し怖いが)、親指を立てた。


 『いい仕事だったぜ』。


 そう言われた気がした。


「ありがとうございます。……いただきます」


 若葉は震える手でプルタブを開け、コーヒーを流し込んだ。

 苦い。でも、とてつもなく美味かった。

 泥だらけの車掌と、油まみれのウサギ。

 二人は並んで、車窓を流れる夕焼けの景色を眺めた。

 次の駅では、肥料が届かなかったことを謝らなければならない。始末書も書かなければならないだろう。

 それでも、列車は進む。

 希望と物資と、そして物語を乗せて。

 サンズグリーズ鉄道、特急リリス号。

 その旅路は、まだ始まったばかりだ。


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