拝啓、異世界より採用通知
日本、東京都某所。築四十年、木造二階建てのアパート「コーポ松風」。その一階の角部屋、四畳半の空間には、じっとりと重たい空気が沈殿していた。
六月特有の湿気ではない。それは、一人の若者が放つ、煮詰まった絶望と諦念の気配だった。
「……また、お祈りされた」
若葉一利は、スマートフォンの画面を親指でスワイプしながら、乾いた声で呟いた。
画面に表示されているのは、定型文のような不採用通知のメールだ。
『貴殿の今後のご活躍をお祈り申し上げます』
この世界には、一体どれだけの人間が俺の活躍を祈っているのだろうか。そんなに祈られているのなら、少しはご利益があっても良さそうなものだが、現実は残酷なほどに無風だった。
二十五歳。大卒。健康状態は良好。犯罪歴なし。
特筆すべき才能はないが、真面目さと協調性だけは自信があった。大学時代は無遅刻無欠席。アルバイト先では「使い勝手がいい」と重宝された。言われたことは守る。ルールは破らない。それが若葉一利という人間の美徳であり、同時に限界でもあったのかもしれない。
就職氷河期という言葉が生ぬるく感じるほどの就職難。加えて、AIによる業務自動化の波が押し寄せ、凡庸な事務処理能力しか持たない若葉のような人材は、社会の隙間からこぼれ落ちていった。
卒業から三年。非正規のアルバイトを転々とし、食いつないできたが、それも先月で雇い止めになった。
テーブルの上には、昨晩の残りのコンビニ弁当の空き容器と、督促状の束。
銀行口座の残高は、来月の家賃を払えば三桁になる。
実家には戻れない。戻りたくない。意地があるわけではない。ただ、「普通に生きる」ことすらできなかった自分を、老いた両親に見せるのが怖かったのだ。
「働きたいなあ……」
天井のシミを見上げながら、若葉は心の底から漏らした。
贅沢がしたいわけではない。大きな夢があるわけでもない。ただ、誰かに必要とされ、その対価として明日を生きる糧を得たい。社会という巨大な機械の、ほんの小さな歯車としてでいいから、噛み合っていたい。
そんなささやかな願いすら、今の日本社会では高望みだったのだろうか。
カタリ、と玄関の郵便受けが音を立てた。
夕刊の時間ではない。チラシか何かだろう。若葉は重い体を起こし、這うようにして玄関へ向かった。
薄暗い土間に落ちていたのは、一通の封筒だった。
ピザ屋のチラシでも、水道修理のマグネットでもない。
分厚く、ざらりとした手触りの、茶色い羊皮紙のような封筒。表には、見たこともない豪奢な筆記体で、宛名が書かれている。
『若葉一利 様』
そして、差出人の欄には、金色のインクでこう記されていた。
『サンズグリーズ鉄道株式会社 人事部』
「……鉄道会社?」
記憶を辿る。履歴書を送った会社の中に、鉄道関係はあっただろうか。いや、手当たり次第に送ってはいたが、こんな社名の企業は聞いたことがない。外資系だろうか。
若葉は首を傾げながら、封筒を裏返した。封蝋のような赤い蝋で留められている。爪を立ててそれを剥がすと、中から一枚の厚紙が現れた。
『採用通知書』
その五文字が、若葉の網膜に焼き付いた。
心臓が、ドクリと大きく跳ねる。
『拝啓
時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
さて、この度は弊社の求人にご関心をお持ちいただき、誠にありがとうございます。
厳正なる選考の結果、貴殿を「サンズグリーズ鉄道株式会社・車掌」として採用することを決定いたしました。』
「え……?」
採用。採用だって?
若葉は震える手で紙面を目で追った。
『勤務地:サンズグリーズ全域(転勤・長距離移動あり)
給与:当社規定による(現地通貨および現物支給、寮完備、食事付き)
勤務開始日:即日
備考:未経験者歓迎。人柄重視。やる気のある方、急募。』
怪しい。あまりにも怪しい。
まず、応募した記憶がない。それに「サンズグリーズ」という地名も聞いたことがないし、給与の通貨単位も不明だ。普通に考えれば、新手の詐欺か、闇バイトの勧誘だろう。
だが、若葉の目は「備考」の欄に釘付けになっていた。
未経験者歓迎。人柄重視。
そして何より、「貴殿を採用する」という明確な肯定の言葉。
社会から拒絶され続けてきた若葉にとって、その言葉は、まるで暗い海の底に垂らされた蜘蛛の糸のように輝いて見えた。
「……寮完備。食事付き」
若葉はゴクリと喉を鳴らした。
今の自分には、失うものなど何もない。あるのは、すり減った靴底と、空っぽの財布だけだ。
もしこれが詐欺なら、笑って逃げればいい。どうせ、これ以上落ちる場所なんてないのだから。
でも、もし、万が一、これが本当だとしたら?
働く場所があるとしたら?
「……行こう」
若葉は立ち上がった。
不思議と、体から重さが消えていた。
クローゼットから、就職活動で使い古したリクルートスーツを取り出す。安物だが、シワにならないように毎日手入れだけはしていた。白いシャツに袖を通し、地味な紺色のネクタイを締める。
鏡の前に立つ。無精髭を剃り、髪を整える。
そこには、どこにでもいる、けれど働く意欲に満ちた一人の若者が映っていた。
「よし」
鞄を持つ。中身は筆記用具と、印鑑と、身分証明書。
通知書には、面接会場や勤務地の住所は書かれていなかった。ただ最後に、一行だけこう添えられていた。
『準備が整いましたら、扉を開けてお越しください』
扉。
若葉は玄関のドアノブに手をかけた。
いつもの、塗装の剥げた鉄製のドア。これを開ければ、夕暮れの路地裏が見えるはずだ。野良猫がゴミを漁り、換気扇からは近所の夕飯の匂いが漂う、いつもの日常。
だが、今は何かが違った。ドアノブを通して、微かな振動と熱が伝わってくる。
意を決して、若葉はノブを回した。
ガチャリ。
重たい鉄の扉を押し開ける。
その瞬間、視界が真っ白な光に染まった。
路地裏の湿った匂いではなく、鼻腔をくすぐったのは、乾いた土の匂いと、オイルの焦げた匂い、そしてどこか懐かしいような、それでいて未知の香草のような香り。
足元の感覚が変わる。コンクリートの硬さから、石畳のゴツゴツとした感触へ。
光が収束していく。
若葉がおそるおそる目を開けると、そこは。
「ようこそ。第13次労働派遣団」
頭上から、腹の底に響くような重厚な声が降ってきた。
若葉は呆然と立ち尽くしていた。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
見上げるほど高い天井には、緻密な幾何学模様の鉄骨が張り巡らされている。だが、ところどころ鉄骨はひしゃげ、天井のステンドグラスは砕け散り、青空が覗いていた。
壁面には煤けたレンガ。床には無数の瓦礫が散乱しているが、それらは脇に寄せられ、中央には赤い絨毯が敷かれている。
駅だ。それも、とてつもなく巨大な、歴史ある中央駅の構内。
しかし、日本のそれとは決定的に違う。空を飛ぶ小さな光の球体(照明代わりだろうか?)や、箒がひとりでに動いて掃除をしている光景が、ここが地球ではないことを雄弁に物語っていた。
「おい、聞こえているか。ニホンの若者よ」
再び声がした。若葉は慌てて視線を戻す。
目の前に、男が立っていた。
その男の存在感は、背後の巨大な駅舎すら霞むほどだった。
身長は二メートル近いだろうか。黒い、軍服を思わせる詰襟のロングコート。その肩には金の装飾が輝いている。
彫りの深い顔立ち。白銀の長髪を後ろで束ね、瞳は燃えるような真紅。
圧倒的な美丈夫だが、その美しさは刃物のように鋭利で、見る者を威圧した。
そして何より、若葉の目を釘付けにしたのは、男の背中だった。
漆黒のコートの背中が盛り上がり、そこから黒い鳥の翼のようなものが、わずかに見え隠れしていたのだ。
「あ、あの……」
若葉は声を絞り出した。喉がカラカラだった。
スーツ姿の自分と、ファンタジー映画から抜け出してきたような男。
状況が飲み込めない。だが、男の胸元には、見慣れたプレートが付いていた。
『駅長』。
そしてその下には、禍々しいフォントで『ルシフェル』と刻まれている。
「貴様が、若葉一利か」
ルシフェルと呼ばれた男は、値踏みするように若葉を見下ろした。
若葉は反射的に背筋を伸ばし、大声で答えた。
「は、はい! 若葉一利です! 二十五歳です!」
悲しいかな、染み付いた就活生の習性が、恐怖よりも先に口を動かしたのだ。
ルシフェルは片眉を上げ、フンと鼻を鳴らした。
「声が良い。それに、その珍妙な服……『スーツ』と言ったか。礼節を重んじるニホン人の正装だな。悪くない」
ルシフェルは革手袋をはめた手を差し出した。握手を求めているようだ。
若葉はおずおずとその手を握る。氷のように冷たく、しかし万力のように力強い握手だった。
「私はルシフェル。この『サンズグリーズ中央駅』の駅長を務めている。……かつては魔王軍の総司令官補佐などという肩書きもあったが、今はただの鉄道員だ」
「ま、魔王軍……?」
聞き捨てならない単語に、若葉の顔が引きつる。
ルシフェルはマントを翻し、背後の巨大なアーチ窓を指差した。
「見ろ」
若葉は促されるままに窓の外を見た。
息を呑む光景が広がっていた。
見渡す限りの石造りの街並み。だが、その半分以上は崩れ、黒く焦げている。
遠くの山の中腹には、かつて壮麗であったろう巨大な城が、天守閣を失った無惨な姿を晒していた。
空にはドラゴンらしき巨大生物が資材を運搬し、地上では巨人族のような大男たちが崩れた城壁を持ち上げている。人間のような姿の人々も、魔法の杖を振るって道路を舗装していた。
復興。
その言葉が相応しい、熱気と混乱、そして希望と悲壮感が入り混じった光景。
「ここはサンズグリーズ。剣と魔法が支配する世界だ。……いや、支配『していた』と言うべきか」
ルシフェルが静かに語り始めた。
「我ら魔族と、人間たちの戦争は十年続いた。そして昨年、ようやく停戦協定が結ばれた。どちらが勝ったわけでもない。双方が戦う力を失い、共倒れになる寸前で手打ちにしたのだ」
ルシフェルの赤い瞳が、街の惨状を映して揺れる。
「平和は訪れた。だが、代償は大きかった。若者は戦場に散り、生き残った者も傷つき、疲弊している。街を直そうにも大工がいない。物資を運ぼうにも御者がいない。魔法使いは魔力枯渇で倒れ、戦士は剣をツルハシに持ち替える力すら残っていない」
彼は若葉の方に向き直り、その長身をわずかに屈めて、若葉の目を覗き込んだ。
「圧倒的な人手不足だ。今のサンズグリーズに必要なのは、勇者でも魔王でもない。『働ける者』だ。今日、明日を生きるために、汗を流せる労働力だ」
だから、とルシフェルは続けた。
「我々は古代の『勇者召喚』の魔法陣を書き換えた。異世界から英雄を呼ぶためではなく、職を求める若者を呼ぶために。……ニホンという世界は、優秀な若者が職に溢れていると聞いた。実に嘆かわしく、そして我々にとっては実にありがたい話だ」
若葉の中で、バラバラだったピースが繋がった。
就職難の日本。人手不足の異世界。
需要と供給。
自分は、勇者として選ばれたわけではない。ただの「労働力」として、ここに呼ばれたのだ。
普通なら、怒るべきかもしれない。「ふざけるな」と叫んで帰るべきかもしれない。
だが、若葉の胸に去来したのは、安堵だった。
世界を救えと言われたら荷が重い。魔王を倒せと言われたら逃げ出すしかない。
けれど、「働いてくれ」と言われたのだ。
人手が足りないから、助けてくれと。
それなら――自分にもできるかもしれない。
「……僕には、何の能力もありません」
若葉は正直に言った。
「魔法も使えないし、剣も振れません。こちらの世界の常識も知りません。それでも……ここで働けますか?」
ルシフェルは、若葉の問いにニヤリと口角を上げた。それは魔族らしい獰猛さと、上司としての頼もしさが同居した笑みだった。
「無能を自覚し、それでも問うか。良い心がけだ。魔法など、使える奴に任せればいい。剣など、警備兵に持たせればいい。貴様に求めているのは、定刻通りに動き、客に頭を下げ、荷物を運び、そしてどんな状況でも『運行を止めない』という意志だ」
ルシフェルはバシッと若葉の肩を叩いた。骨がきしむほどの衝撃だったが、若葉はよろけながらも踏みとどまった。
「合格だ、若葉一利。貴様をサンズグリーズ鉄道の車掌として正式に採用する」
「あ、ありがとうございます!」
若葉は深々と頭を下げた。スーツの生地が擦れる音が、心地よく響いた。
不採用通知の山に埋もれていた自分が、異世界の駅長に認められた。その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
「礼を言うのは早いぞ、新人。なにせ貴様の職場は、世界一タフな現場だからな」
ルシフェルは踵を返し、ホームの奥へと歩き出した。
黒いコートが翻る。
「ついて来い。相棒を紹介してやる」
若葉は鞄を握り直し、ルシフェルの大きな背中を追った。
ホームの先には、もうもうと白い蒸気を上げる、巨大な影が鎮座していた。
ホームの奥に進むにつれ、空気の密度が変わっていくのが分かった。
ピリピリとした静電気のような感覚が肌を刺す。そして、オイルの匂いに混じって、どこか甘く、危険な花の香りが漂ってくる。
「こ、これは……」
若葉は足を止め、目の前の巨体を見上げた。
そこにあったのは、蒸気機関車だった。いや、そう呼ぶにはあまりにも異形だった。
全長は日本の新幹線の一車両よりも長いかもしれない。ボディは濡れたような漆黒の金属で覆われ、その表面には血管のように赤いラインが明滅している。
ボイラー室と思われる部分からは、通常の白い蒸気ではなく、妖しく揺らめく紫色の煙が漏れ出し、それが天井の方へと昇っては消えていく。
機関車の前面には、猛獣の顎を模した排障器が取り付けられており、まるで今にも獲物に襲いかからんとする捕食者のような威圧感を放っていた。
「魔法蒸気機関車『リリス』号だ」
ルシフェルが愛おしそうに黒い車体を撫でた。すると、鉄の塊であるはずのリリス号が、ゴロゴロという猫の喉鳴りのような重低音を響かせ、シュウウ……と甘えたように蒸気を吐き出した。
「元は、魔王軍が誇る広域殲滅用移動要塞『魔導戦車リリス』だったものを改造した」
「せ、戦車……? 殲滅用……?」
若葉の顔からサーッと血の気が引く。就職先が鉄道会社だと思ったら、兵器のオペレーターだったということだろうか。
「安心しろ。主砲や装甲板は取り払った。今はただの、少しばかり馬力が強くて、少しばかり気性が荒いだけの機関車だ。エネルギー源も、人間の魂から石炭と魔石に変えたからな。クリーンエネルギーだ」
「魂で動いてたんですか!?」
全然クリーンじゃない過去にツッコミを入れる若葉を無視して、ルシフェルは運転席に向けて声を張り上げた。
「おい! 新入りを連れてきたぞ! 面を見せろ!」
ルシフェルの声に応えるように、運転席の窓からひょっこりと何かが顔を出した。
長い耳。つぶらな赤い瞳。もふもふとした白い毛並み。
ウサギだ。
ただし、そのウサギは油で汚れたグレーのつなぎを着て、頭にはゴーグルを装着し、手には自分の身長ほどもある巨大なスパナを握りしめていた。
「キュウッ!」
ウサギは若葉を見ると、ビシッと背筋を伸ばし、耳を立てて敬礼をした。
続いて、ボイラー室や炭水車からも、同じようなつなぎを着たウサギたちがわらわらと現れる。茶色いウサギ、黒いウサギ、垂れ耳のウサギ。総勢十羽ほどのウサギたちが、一斉に若葉に敬礼する姿は、壮観であり、シュールでもあった。
「あ、かわいい……」
思わず若葉の口元が緩む。殺伐とした元兵器機関車とのギャップが凄まじい。
「見た目に騙されるなよ。彼らは『月兎族』の精鋭エンジニアたちだ」
ルシフェルが真面目な顔で解説する。
「彼らはマナ(魔力)の流れを視覚的に捉えることができる。気難しいリリスの機嫌を損ねず、複雑な魔導機関を制御できるのは、この世界でも彼らくらいのものだ。機関士、機関助士、整備士はすべて彼らが担当する」
「なるほど、技術職の皆さんなんですね」
若葉は居住まいを正し、ウサギたちに向かって深く頭を下げた。
「はじめまして! 本日付けで車掌として配属されました、若葉一利です! よろしくお願いします!」
若葉が大声で挨拶すると、リーダー格と思われる白ウサギが、コクコクと頷き、持っていたスパナで若葉の肩をポンポンと叩いた。「任せとけ」とでも言いたげな、頼もしい仕草だった。
「だが、見ての通り彼らは人語を話さん。キュッとかフゴッとか鳴くだけだ。これでは乗客の対応ができん。切符の確認も、荷物の案内も、車内トラブルの仲裁もな」
ルシフェルは若葉に向き直り、懐から何かを取り出した。
「そこで、貴様の出番だ」
手渡されたのは、濃紺の生地に金の刺繍が入った制帽と、金属製の重厚な「改札鋏」だった。
そして、革製の鞄。中には路線図や切符の束、そして緊急時マニュアルらしき分厚い本が入っている。
「車掌の仕事は、リリス号の運行管理と、乗客の安全を守ること。いわば、この列車の指揮官だ。……できるか?」
ルシフェルの問いに、若葉は帽子を受け取り、スーツの上から被った。
サイズはあつらえたようにぴったりだった。
改札鋏を握る。ずっしりとした重みが、掌に食い込む。それは、命を預かる責任の重さそのもののように感じられた。
「やります。……やらせてください」
若葉は短く答えた。余計な謙遜はしなかった。
プロの技術者であるウサギたちが運転するのだ。ならば、自分もプロとして振る舞わなければ失礼だ。
「よし」
ルシフェルは短く頷くと、ホームの時計塔を見上げた。
出発の時刻が迫っている。
ホームには、いつの間にか大勢の人々が集まっていた。
大きな風呂敷包みを背負った行商人の一家。松葉杖をついた元騎士の男。復興支援に向かうのであろう、ツルハシを持ったドワーフの集団。
彼らの表情は一様に明るいわけではない。疲れ、傷つき、不安を抱えている。
だが、誰もが「前」を向いていた。次の街へ、次の仕事へ、新しい生活へ向かおうとしていた。
「さあ、仕事の時間だ。行ってこい!」
ルシフェルの号令と共に、若葉は客車のステップに飛び乗った。
そこは、一等客車と二等客車の連結部分。
若葉は深呼吸をし、腹に力を込める。日本の満員電車で鍛えた発声練習が、異世界で火を噴く時が来た。
「ご乗車ありがとうございます! まもなく、サンズグリーズ鉄道、特急リリス号の発車です! 危険ですので、白線の内側……いえ、ホームの端から下がってお待ちください!」
若葉の声が響き渡ると、乗客たちが一斉にこちらを見た。
物珍しそうな視線。だが、その中に敵意はない。
ウサギの機関士たちが、運転席でレバーを操作する。
リリス号のボイラーが唸りを上げた。
ゴオオオオオオッ……!
それは汽笛というよりは、竜の咆哮に近かった。紫色の蒸気が勢いよく吹き出し、ホームを幻想的な霧で包み込む。
ガタン、と大きな衝撃が走り、巨大な車輪が回転を始めた。
「出発、進行ォーッ!!」
若葉は右手を高く掲げ、指差喚呼した。
ゆっくりと、景色が流れ始める。
ルシフェルが、腕を組んで立っているのが見えた。その背中の黒い翼が、一瞬だけバサリと広がり、見送りの旗のように揺らめいた気がした。
若葉は姿勢を正し、駅長に向かって敬礼をした。
列車は加速していく。
崩れかけた駅舎を抜け、瓦礫の山を越え、修復中の城壁をくぐり抜ける。
窓の外には、見渡す限りの荒野と、その中で懸命に生きる人々の営みが広がっていた。
魔法生物の群れが並走し、空には浮遊する島々が見える。
見たこともない景色。
けれど、レールの響きだけは、日本で聞いていたものと同じだった。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
その規則正しいリズムが、若葉の心拍数と重なっていく。
若葉は客車の中へと向き直った。
そこには、それぞれの事情を抱えた乗客たちが座っている。
不安そうに窓の外を見る子供。地図を広げて議論するドワーフたち。静かに祈りを捧げるシスター。
ここが、俺の職場だ。
ここが、俺の居場所だ。
若葉は改札鋏をカチリと鳴らした。軽快な金属音が、車内に響く。
そして、満面の笑みで、第一声を放った。
「改めまして、本日はサンズグリーズ鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございます。切符を拝見いたします」
異世界の車窓から。
走り出した列車は、希望と、少しの不安と、一人の新人車掌を乗せて、復興の風が吹く荒野へと進んでいった。




