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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小説

作者: ・

 彼は図らずも禁忌に触れた。誰にも語れない知識を得てしまったのだ。


 脳内で記憶していることすら忌まわしく思えていた。このまま禁忌とともに生き続けるならば、死を選ぶ方が賢明かも知れない。彼がそんな考えへ至るのに時間はかからなかった。


 彼の住む八畳間の一室は真っ暗で、足の踏み場もないほどに荒れ果てていた。床を埋め尽くすほどの書籍や研究資料。壁一面に貼られた真っ白な紙。


 その全てに、一点の穴が穿たれていた。


 彼はもう何週間も家から出ていなかった。水や食料は尽きようとしていて、友人・家族からの連絡がひっきりなしにかかってきても、彼は外部とのコンタクトを絶っていた。怠惰や精神的異常によるものではない。外の世界に触れてはいけないという本能的な危機感があったためだ。


 読書やゲーム等の娯楽は一切楽しめなくなった。

 本を開いた途端、身体が自然と動いてしまう。近くにある鋭利な物体を手に取り、穴を穿ってしまうのだ。ゲームでもそうだ。彼はゲーム内の世界で限りなく小さな点を作ろうとしてしまう。どのような目標が設定されていようと、彼は点を穿つことへ向かってしまう。


 そうして彼は今、部屋の中央で死体のように生きながらえていた。死にたいと思っても、腹の底から湧く異様な衝動が身体を抑えてしまう。どうにも出来なかった。やがて彼の思考から言語は消滅しかけ、とある「一点」のことしか浮かばなくなっていた。


 それは数週間前、中米でのことだった。

 彼はある大学から遺跡調査隊の一員として派遣されていた。そうして、古代文明の遺跡について現地調査を行っていたのだ。


 その遺跡は密林の奥地にぽつんとあり、未解決の謎が数多く眠っていた。二千年前、遺跡にいる住民たちはこつぜんといなくなったのだ。近くの森林で、住民の一部が移動した痕跡は発見された。しかし、推定される移動者の数が少なすぎる。さらに墓地から発掘された人骨を解析すると、住民が消える直前の死者だけ異様に多い。彼らの死因の大半は、自死か他殺。内紛の発生によるものというのが定説だったが、建造物の大規模な損壊がないことや、無数の自死者を説明することはできなかった。


 そして、何よりも「点」の存在である。


 全ての建造物の壁や床には、おびただしい数の点が穿たれていた。その点は鋭利な刃物で彫られたと考えられており、出土した陶器や装飾具、人骨の一部に至るまで、狂気を感じられるほどに遍在していた。


 調査隊は遺跡の謎を解き明かさんと意気込んでやって来ていた。彼らが着目したのは「呪い」の可能性だった。その文明では予期せぬ現象を、呪いや厄災が到来する前兆として恐れていた。だから、住民たちが何らかの外的要因により被害を受け続け、この場所を忌避して移住したという可能性は否定できない。そうして彼らは遺跡周辺地域の実地調査を開始した。


 調査の途中、彼は田崎という男と行動を共にしていた。田崎は同僚の研究員であり、野心的な人間で、成果を得るためには手段を選ばなかった。本来、彼と田崎の役割は遺跡内の壁画を再調査するというものであった。だが、一通りの仕事を終えると田崎は暴走を始めた。無断で周辺地域の森林内部を調査し始めたのである。田崎曰く、「そこに鍵があると思う」。

 土地勘のない海外で、しかも調査隊幹部の承認を得ない行動は、あまりにリスクが大きい。彼は田崎を制止する言葉をかけながら、自らも密林の中へと分け入ってしまった。


 しばらく道なき道を進んでいき、三十分ほど経過したとき、もう彼は引き返すことを諦めていた。どうせ既に、調査隊の面々から叱られることは確定しているのだ。こうなったら田崎の言葉を信じ、成果物の一つでも持ち帰ってやれば、少しは処分が軽くなるだろう。そう考えながら、何気なく横を見たときだった。

 丈の長い下草の合間から、わずかに植物の少ない空間が見て取れた。人影のない密林でその部分だけ均一でない生え方をしている。その不自然さが目に留まり、彼は田崎に声をかけた。二人は無心に草むらをかき分け、その拓けた空間にたどり着いた。


 そこにはクレーターがあった。

 彼はその規模を見て、小惑星の破片が落下したか何かだろうと考えた。草があまり生えていないのを見るに、比較的新しいものだとも。

 彼らは古代文明と関係がなさそうなことに落胆したが、一方では拭えぬ違和感に襲われていた。森林の上層を見上げてみても、特に他の部分と相違はない。それに渡航前に行った下調べでも、遺跡付近に隕石が落下したなんてニュースは目にしていない。


 違和感に背を押され、二人はクレーターをじっと眺めた。すると田崎がクレーターの中央付近を指さし、「金属か」と小さくつぶやいた。彼はふらふらと歩き始めた田崎に付いていった。そうして、彼も悟った。木漏れ日を浴びて煌めいている箇所がある。被さっている土を払い、丁寧に掘り起こす。


 それは黒々とした光沢を放つ、金属製の箱だった。直径二センチ四方ほどの大きさではあったが、彼が持ってみると確かな重量感が伝わってきた。田崎に促されるままに箱上部の蓋を開ける。

 中には、白い板状の破片が入っていた。それは海に沈む貝殻のようにも、工場製の真新しいプラスチックのようにも思えた。田崎はその白板を見た途端に、「早くよこせ」と言わんばかりに彼を睨みつけた。おずおずと彼が箱を譲ると、田崎は一目散に箱を引っくり返し、白板を手のひらに乗せ、じっとそれを凝視したまま動かなくなってしまった。


 彼が声をかけても、目の前で手をひらひらと揺らしてみても、田崎は点を見つめたままだった。彼は一体何を見つめているんだという苛立ちを募らせた。いくら叱責が確定したとは言え、早く戻るに越したことはない。そうして田崎から白板を奪おうと、手のひらを注視したときだった。


 真っ白な空間の上に「点」が描かれていた。

 それは、全てだった。


 全てがそこには描かれていたのだ。決して黒一色の単なる点ではない。無限の情報を凝縮させ、遙か遠方から観測した代物である。

 「点」は理解の範疇を超えていた。しかし、脳はそれを拒まなかった。むしろ「点」の全てを知ることこそが、心身にとって正常な動作であると判断しているようだった。

 「点」の中には時間があった。逆行するもの、停止するもの、連続性のないもの。そして、全ての空間もあった。人類の見識が通用する余地はほとんど存在しなかった。


 彼らが正気を取り戻したとき、太陽は暮れかけていた。時刻を見ると、箱を発見した時点から二日と八時間弱が経過していた。遠くでは自分たちの名前を呼ぶ捜索隊の声が、森の中にぼんやりと響いていた。


 それから帰国して数週間が経ち、彼は今、生気を失いつつあった。あの日以降、やるべきことは多々積み重なっていた。調査報告書の作成、他班の調査結果の把握、撮影資料の整理等々。しかし、彼はどれも投げ出していた。

 彼と田崎が唯一行ったことと言えば、あの白板を粉々に破壊することであった。そして高まりゆく「点」への欲求を抑えながら、全てを投げ捨てて閉じこもることを決意した。


 「点」に侵略されかけた思考の端で、彼は携帯電話の画面に映る連絡を見た。田崎が自殺したらしかった。やはりあいつも同じ結論に至ったのだろう、と彼は思った。黒い箱を開ければ、「点」がこの世界を侵食してしまう。

 ならば、白板を破壊しなければ。


 彼がぼんやりと思考している間、指先は一定のリズムで床を叩いていた。無意識に新たな点を穿とうとしていたのだ。視界に映るものはすべからく「点」に思えてくる。自らで開けた書類の穴も、壁に空いた穴も、天井の模様も全身の毛穴も空に舞う埃も過ぎゆく時間も空腹も目も鼻も耳も口も、「点」との区別が徐々に付かなくなってゆく。


 彼自身の理性はもはや欠片しか残されていなかった。何か、存在という言葉ではくくれない大きなものに占拠されていくような、意識が蒸発していくような気分だった。

 まずい、と彼は感じていた。このまま彼も田崎も死んだとき、「点」の危険性は誰にも知られなくなる。あの白板が他にあるかも分からない現状、遺跡の研究が進められてはいけない。「点」が広まれば人類は終わりだ。あの遺跡の住民と同じ末路を辿るだろう。


 彼はわずかな気力を振り絞り、ノートパソコンのある場所まで這っていった。

 誰でもいい。誰かに「点」の存在と危険性を書き残す必要がある。


 残さなければ。

 残さなければ。


 遺さなければ。


 やがて、空間は静寂に満たされた。

 部屋の天井からは男がぶら下がっている。

 床には乱雑に蹴飛ばされた椅子と、無数の点が穿たれた資料の山と、朧気に光るノートパソコン。


 パソコンの画面上にはメール原稿が表示されており、「送信済み」という表示が浮かんでいた。

 原稿にはこうあった。











         ・











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