1.旅路
――原作第2巻。
そこにおけるア・イチの出番は、ほんのわずかしかない。
なにしろ、物語の中心である魔王カリスタは、たったひとりで天界に殴り込みをかけているのだ。
逆に言えば、それは“自由”を意味していた。原作に縛られない、転生者としての余白として。
「ならば、今のうちに見ておきたい。俺の知っている“物語”の地を」
そうしてア・イチは、束の間の空白の時間を使い、旅に出る決意をする。
英雄たちが剣を交えた古代遺跡。
魔族の都に沈んだ幻の王城。
神話に語られし神樹の地。
画面の向こうで熱狂した名シーンが繰り広げられた地を、自らの足で巡る。
聖地巡礼。かつてのファンとしての、ささやかな願い。
しかし、ただの旅では終わらなかった。
ア・イチが足を踏み入れたのは、原作第8巻――ア・イチが物語から退場した後に描かれる重要な舞台。
そこに立った瞬間、世界の歯車は音を立てて軋み始めたのだ。
本来、出会うはずのない人物との邂逅。
原作の“外側”にいたはずの男が、静かに物語の因果を捻じ曲げ始める。
巡礼の旅の果て、辿り着いたのは、エンドラク荒原の外れにある、小さな集落。
ここは原作で“反逆の拠点”と呼ばれるレジスタンスの本拠地となる場所。だが今は、ただの寒村、いや村と呼ぶにもおこがましいほど集落。
それだけに魔王に敵意を向けるでもなく、ひたすら無関心でいる。
「……いたのか、やはり」
そこにいたのは――確かに原作にも名を残した存在。
この先、レジスタンスを率いて魔王に真っ向から“否”を突きつける、ただひとりの存在。
名はエルヴィア。
銀糸の髪と、氷のような瞳を持つ、美しき“静謐”の化身。
だが、今時点ではまだ年端もいかぬ少女。その“反逆”の種も植えられていない、無垢なる少女である。
それでもア・イチの胸に、どうしようもなく複雑な感情がうごめいている。
そもそも、原作ではエルヴィアの少女時代は描かれていない。
だからこそ、動揺の一つに、この少女がエルヴィアと気がつけた点がある。銀髪にしても、これは親譲りで姉妹もいる彼女。確かにのちの容貌から面影を読み取ることはできる。
しかし、そうだとしてなぜ、直感的に感じとれたのか。
「どうしたの」
そんな様子に先に声をかけてきたのは、少女の方だった。
髪を背中で束ね、深い碧色の瞳でこちらを見据えている。
年齢はまだ十にも満たないだろう。しかし、その眼差しには不釣り合いなほどの理知と、強い光があった。
夕暮れの光が差し込み、荒野の風が質素な建物に当たりきしんだ音を立てている。
「……旅の者だ。迷ってな」
ア・イチはその言葉をなぜか否定する言葉で会話を続けた。
「……いや、荒原の向こうに何があるか、見てみたくなってな」
「こんな場所に、わざわざ?」
少女、エルヴィアは、疑わしげに眉を寄せる。そもそも、エンドラク荒原自体、魔族であっても住むのに適していない。
「ここは何もないよ。風と土と、冷たい夜だけ」
それでもこの地に住む理由は、魔界の騒がしさが少なく、穏やかな暮らしができること。
「あんたみたいな立派な……ガイコツが来るところじゃない」
少女は力強く見つめて言った。そして、その強さは敵対する目。穏やかな暮らしを脅かす者には彼女達は人一倍敏感なのだ。
だが、ア・イチはそんなことに気がついていない。だからこそ、言葉のみに反応する。
「立派なガイコツってのも、聞き慣れないな」
ア・イチは苦笑した。ただ、骨だけの顔では苦笑と分かりにくい話。だからこそ、ガイコツに立派も粗末も関係はない。ただの骨でしかない。
「でも……あなた、魔王軍の人でしょう」
「……どうしてそう思う?」
「わかるよ。だって……その骨の中に、“焔のにおい”がするから」
その瞬間、ア・イチの心に冷たい何かが突き刺さった。
この少女は、すでに“焔の魔王”を見ているのか。あるいは――“彼女がもたらす未来”を、直感で感じ取っているのか。
「……名前を、聞いてもいい?」
「ア・イチだ。君は?」
すでにア・イチには確信はあったが、それでも会話の流れもあり訪ねた。
「エルヴィア。……ただの、村の子」
ア・イチは、無言のまま彼女を見つめる。
確かに、まだ何者でもない。だが、この小さな村からやがて“反逆”が始まる。
未来で、魔王に最も鋭く刃を向ける少女が――今、ここにいる。
「ねえ、ア・イチさん」
「ん?」
「“強い”って、正しいこと?」
その問いに、彼は一瞬、返す言葉を失った。
なんて答えればいい?かつての自分なら、「当然だ」と断言しただろう。また、魔族にとっても当然の答えだ。
だが、今の彼はこの後、焔に焼かれた者たちを、ひとりひとり思い出せる。
彼女にしても、その一人だ。
そんな彼女に“強さ”をどう答えれば良いのか?
「……強さは必要であっても、時に、正しさをねじ曲げる」
「じゃあ、“弱い”ことは間違いなの?」
エルヴィアの声はまっすぐだった。疑問でも、挑発でもない。
ただ、純粋な問い。彼女の中で芽吹き始めた“反逆”の原点。
「間違いじゃない。ただ、選べるほど余裕のある時代じゃないことが多い」
「そっか……難しいね」
少女はそう呟き、小さく笑った。
その笑顔に、クロウは“魔王”が交わした別れの記憶を重ねていた、「この子も、いつかは私の背中を向けるだろうか」そんな哀愁がある台詞。
それはア・イチにとって後に語られる台詞。だが、クロウにはすでに聞かされている台詞。原作知識とは、かくも残酷である。
ふと覗いた、この地でクロウは感じた。
自分はどう在るべきなのか。
まだ答えは出なかった。
「ありがとう、ア・イチさん。また話、しようね」
「……ああ。またな」
少女が去った後、荒原の風が再び吹き抜けた。周囲の目も厳しく見つめられている。
ここでは自分が異質であった。
骸骨の指が、ひとりそっと胸を押さえる。
そこに鼓動などない。けれど確かに、なにかが震えていた。
そして、叶わない少女の願いに申し訳ない気持ちとなった。




