1.背中の記憶
森の中に風が走る。
木々を揺らし、鳥たちを散らし――それでも、戦場の空気は張り詰めたままだった。
その前線に立つのは、ひときわ異様な姿の戦士。
全身を黒鉄の甲冑をまとい、無言で大剣を構える。その中身がガイコツの体など、外見では分からない。
ア・イチ、原作では出番は少ないが、確実な存在感を示していた寡黙な従者。
今、彼の背に宿るのは、確かなる意志と、覚悟。
「来るぞ。左から3体、後方に回り込む魔物も」
「……了解」
小さく返したのは、黒い靄に包まれた少女、影姫ことエーヨン。
カリスタに仕える、四番目の従魔。
まだ若く、未熟。だが、素質同様その魔力には目を見張るものがあった。
“ア・イチ”の役目は、その影姫を“鍛える”こと。
それも、カリスタからの命令。そして、何より、“クロウ”自ら望んだ役割でもある。
魔物が突っ込んできた瞬間、それをア・イチは真正面から受け止め、地を抉る音が響いた。
鋭い爪が甲冑を叩き、甲高い金属音がした。だが、ア・イチは一歩も退かない。
「今だ。撃て」
「――“影穿”」
影姫が地面に手を翳すと、そこから黒い杭が無数に伸びる。
魔物の足を貫き、動きを封じた。ただ、致命傷にはならない。ゲーム中でも相手の動きに制限を掛ける技だけにダメージは二の次である。
ア・イチの剣が、真横から振り抜かれた。
ずん、と空気が割れたような衝撃音とともに、魔獣の巨体が崩れ落ちる。
――これでも、経験値は十分に入るだろう。
ア・イチこと、クロウがしているのは、エーヨンのレベリング。
そのための盾役、タンクである。できるだけエーヨンに経験値が入るようとどめを刺させてやりたいが、レベル差がありすぎて決定打には至らない。
それでもレベル差ゆえに、少々の貢献でも今のエーヨンには莫大な経験値が入ってくる。
あくまでこれはゲーム上の仕様であるが、原作小説でもこの設定は生きている。だから、クロウはタンクを買って出ている。
ただ、エーヨンからしたら、ダメージはすべてクロウに肩代わりしているとはいえ、一撃を貰えば死、本当の死闘。こちらに至ってはまともなダメージも通らない。ゲームでは当たり前のレベリングも、実際の訓練であれば狂気の沙汰である。
エーヨンにダメージが蓄積していなくとも、精神の疲労は半端ない。
そして、息つく間もない。魔物もそんな隙を突き、次の1体が飛びかかってきた。
影姫が一瞬怯む。だが、その前に。
ア・イチの背中が――ふたたび、彼女の視界を覆った。
「……立ってろ。後ろは、任せた」
無機質な声。だがそこに、怒りも恐れもなかった。
あるのはただ、任務を全うする意志のみ。
もっとも、クロウからすれば単なるレベリングとしての作業だ。何しろレベルMAXの自身にとって、上位であっても雑魚モンスターでは命が脅かせることはない。
しかし、エーヨンからすれば、魔王カリスタが持つ覇気とも、他の従魔たちが持つ忠義とも違う。もっと静かで、もっと真っ直ぐで、もっと、信じたくなる背中だった。
その瞬間だった。
影姫の中に、奇妙な感情が芽生えたのは。
なぜだろう。
彼女にとって“主人”とは絶対の存在であるはずだった。
だが今、自分を守ってくれるこのガイコツの背中が、魔王以上に温かく見えた。
『……あの時、私は見ていたんだよ』
後に彼女はそう語る。原作四巻、その終盤で彼女は魔王に牙を剥く。ア・イチとともに歩くために。
理由はただ一つ。ア・イチを殺させないために。
魔王の忠実なる従魔であったはずの少女が、禁忌を破り、反旗を翻すきっかけ。
それはこのとき、たった一つの“背中”によって、始まっていた。
クロウはそんな心境も知らない。
ただ、ここは原作にもあまり語られない行間の話。
だからクロウも知らないうちに、自身の行動が行間を埋めていた。
一部の読者からは唐突に裏切るア・イチの様子に、馬鹿にされることがあった。そのやり取りから“原作4巻で伏線回収するマン”と揶揄されることに。
それはWeb小説連載時ではなく、コミカライズで広い人気を得てからの話ではあるのだが。




