焔を越えて、円環の外へ
――それは確かに、物語の“終わり”だった。だが、同時に“始まり”ともなる。
魔王カリスタの放った焔は、従魔ア・イチの身を焼き尽くした。忠誠を捨て、主に牙を剥いた代償として、その存在ごと灰となり、円環の輪からも静かに消えていった。
……原作では、そう描かれていた。
そして、その通りに“彼”は、燃え尽きた。円環の輪にしても、ゲーム内ではコンティニューといって程度の意味。ゲーム内の存在はその意思さえあれば何度でも復活できる。
原作に書かれるように、その可能性すら否定されている。
だが――あの時、ほんの一瞬、物語は“逸脱”したのだ。
舞台は黒き玉座の間。業火は消え、魔王は静かに玉座に身を沈めていた。
燃え尽きた灰のなかで、一筋の銀が鈍く光を帯びる。
それは《従魔のくさび》。主と従魔を縛る鎖を壊すアイテム。
これは劇場版でのみ登場したアイテムだった。
パキィン――
音が鳴る。光が零れる。
舞い上がる灰の中心で、ゆっくりと、何かが“再構成”されていく。
脈動するような闇の空間。そこは、既にこの世界ではなかった。いや、“別の円”の上――
骨が生まれ、肉が形を成し、皮膚が張られ、血が流れ……
そして最後に、眼球が再生された。
そこにあったのは、“人間の目”だった。
「俺は……まだ、生きてるのか?」
ア・イチ――否、もはやその名ですら旧き呼び名かもしれない存在が、手を見下ろす。
肉がある。血がある。熱がある。命がある。
それは、かつての彼にはなかった感触だった。
胸元には、メアリーが手渡した《従魔のくさび》が壊れていた。
「……裏切り者の貴方なら、“これ”を効果的に使えるのじゃない」
無愛想な彼女の声が、脳裏から蘇る。だが、劇場版では受け取りを拒否することで、裏切りの意図を語り、その忠義の重さを誰からも再認できるシーンであった。
だが、クロウはその説明をしていたが、受け取ったまま壊すことを忘れていた。その些細な違いが今こうして、違う結末を生んでいた。
そのとき――空間が揺らいだ。
誰かが、笑っていた。
「やっぱり……面白いねぇ」
振り返れば、そこに立っていたのは誰とも分からない人物。
だが、見覚えのある、そのニヤけた顔に恐怖する。
「初めましてかね。それでも、説明はきちんとしたはずなんだけどねぇ」
そう、彼が転生執行人だ。クロウはこの世界に来る前に聞かされた彼の名前を思い出した。物語の外からすべてを眺める者。ゲームの運命を揺さぶる、観測者。
彼の周囲には、かつて消えた者たちがいた。没ルートのNPCたち。バグとされて消去された転生者。そして、魔王カリスタの“影”すら、黙ってそこに佇んでいた。
魔王カリスタの“影”、原作で主人公が転生する前の魂である。つまり、本当の魔王カリスタ。ややこしいが異世界転生する前の主人格だ。
「円環は閉じた。でも、すべてが戻るわけじゃない……サイは、まだ振り切れてないからね」
掌で転がるのは、数値のないサイ。“選ばれなかった可能性”の象徴。
転生執行人が静かに微笑む。
「ようこそ。“円環の外側”へ。……ア・イチでも、クロウでもない、“お前自身”の物語を始めようか」
もはや彼は、誰かの従魔ではない。定められた敗北者でもない。
――“焔に抗う者”の、その先へ。
その瞳が見据えるのは、次なる円環すら超えた自由だった。
* * *
「なんだこれは」
転生執行人は静かに笑った。今回も実験は失敗か、と。
いや、笑っていなければ、ただの嘆きがこぼれていただろう。
「プレイヤー間の認知が繋がらない。だから、“物語”もこうなったと。本来、“体験”とさせたかったのに」
彼は舞台の奥に残った灰を指先で弾く。
ラストは分岐し、逸脱し、確かに新しい物語になった――だが、当のプレイヤーたちはそれを“何が起きたのか分からないまま”受け取った。
そうして、理解のない拍手だけが場内に虚しく響いた。そのまま、「おめでとう」、「おめでとう」、「おめでとう」と言い合っていればいいんだ。
「やっぱり、見てるだけじゃダメだったな」
背後から声がした。別の開発者が、笑いを含ませて肩を叩く。
彼は初期実験に関わった古参の一人だ。
「まぁ、落ち込むな。俺たちも最初は何度もやらかした。“認知”ってやつは、ただの記憶や知識じゃない。経験と前提が揃って、初めて噛み合うんだ」
慰めの言葉は温かいが、現実は冷たい。
今回もまた、『書き手にナロロン』の読者層はメタ構造を認識できなかった。
物語の中の物語、その外側の物語――そうした層の重なりを理解しないまま、ただ“イベント”として消費する。
転生執行人の用意した仕掛けも、円環の外からの介入も、「なんかすごいことが起きた」で終わってしまった。
「それにまだ手直しすべき点は多い。何も相手側の“認知”だけに頼るのも問題だ」
「確かにそうだが……おい、そこのお前」
転生執行人は不意に、視線をこちら――物語の外へと向ける。
「お前らな……物語ってのは、表面の展開だけじゃないんだよ。
パロディや引用や構造の奥に、ちゃんと仕掛けがある。
それを受け取る準備もせずに、ただ“面白かった”って言うな。
……いや、言ってもいいけどさ、その一言じゃ、何も届かねぇ」
彼は深く息を吐き、虚空に笑いを散らした。
「ま、次はもっと分かりやすくしてやるよ。そうでもしなきゃ、お前ら円環の外には出られねぇ」
「まあ、プラットフォームを変える手もある。『カクリウム』なら最近、モキュメンタリーの認知度も上がっている。構造を少し手直しすれば、あそこの読者層にも受け入れられるかもしれない」
「それなら、いっそデスゲームでよくないですか。これなら“認知”の問題も少ないですし」
「……確かに手堅いアイデアだ。だが、それはホラー映画だ。我々、ゲーム屋の本分ではない」
「そうですね」
短いやり取りの後、転生執行人はふいに視線を宙に向けた。
そこには、この世界の誰にも見えない“観客”がいる。
「お前らがメタ構造を理解しないせいで、
こっちは何度もループをやり直してんだぞ。
せめて、チートとBANぐらいは現実基準で認知してくれや」
笑っているのか、怒っているのか分からない声音。
だが、その視線は確かに円環の外側――読者の席へと突き刺さっていた。
「だから、考察も一つもできない、と……」
転生執行人は、次の手を考えながらサイを振らなければいけない。




