記憶喪失?
草の匂いが、強く鼻をついた。
ざらりとした感触が頬を撫でる。柔らかく湿った地面。ゆっくりと意識が浮上するにつれ、全身が重く感じた。
「……ん、う……」
自分の声に、違和感を覚えた。
それは、どう聞いても女の声だった。
高くて、透き通っていて、自分のものじゃないような、そんな声。
「え……なに……?」
体を起こそうと腕をつく。驚いた。腕が細い。華奢すぎる。
そして……服が、赤黒く染まっている。
「……これ、血?」
目を見開く。白い布地が、肩から胸にかけてざっくりと裂けている。あらわになった肌も、血で汚れていた。けれど不思議なことに、痛みがない。感覚もある。出血もしていない。
「……傷、ない……? どういうことだ……?」
とにかく、移動したい。血の匂いが濃すぎる。このままじゃ動物が来る。どこかで洗わないと。
私は辺りを見渡す。木々。草。森。どこまでも緑。人の気配は、ない。
「水……水の音、川とか……どこ……?」
耳を澄ませる。風に乗って、かすかに水音が聞こえた気がした。
「こっち……?」
木々の間をすり抜け、草をかき分けながら進む、しばらくして、ようやく川に辿り着いた。
「……あった……助かった……」
しゃがみこみ、水に手を浸す。冷たい。けれど、それが心地よかった。
血で汚れた服を脱ぐことに迷いはなかった。というより、今の自分が女だという感覚に、まだ現実味がなかった。
無意識に男のままの感覚で、服を脱ぎ捨てる。
「ふぅ……」
冷たい水が、汚れた肌を洗い流す。服も何度もすすぐ。血の色はなかなか落ちないが、少しはマシになった。
日が傾いていた。ここは森。夜になると危険だろう。けれど、今は動くより、休むべきだと思った。
川辺の大きな岩を背もたれにし、座る。
「……落ち着け、俺……いや、私?」
自分の体を見る。白く滑らかな肌、ふくらみのある胸、そして……股の違和感。
「……はは……マジか……女、になってる……?」
鏡がなくても、川の水面に映る顔が見えた。赤い瞳、長い黒髪、そして尖った耳エルフ?
「これ、ゲームの……キャラ……? いや……名前は……思い出せない……」
記憶を探る。けれど浮かんでくるのは、「男だった」という事実だけ。
家族も、友達も、何をしていたかも、何も思い出せない。
「……でも、これだけはわかる……」
私は川辺の地面に手をつく。
「ここ、異世界…?」
空気が違う。草の匂い、風の音、どれもが現実離れしている。
見たことのない植物も目についた。
ならば、もしかして。
「ステータス・オープン」
思いつきで言ったその瞬間、目の前に淡く光るウィンドウが現れた。
「……マジか……本当に、出た……」
淡く浮かぶ光のパネル。そこには「ミゼリア」という名前と、ずらりと並ぶ数値が表示されていた。
名前:ミゼリア
種族:エルフ
職業:聖職者
HP:845
MP:730
STR:A / VIT:B / INT:S
ATK:A / DEF:B
AGI:A / DEX:A
「……ミゼリア……?」
見覚えのあるような、ないような。
それよりも、この数値の並びに、妙な既視感があった。
「これ……どこかで……いや、ゲーム……? なんか、こんな感じのキャラ使ってたような……」
記憶が曖昧だ。確かに似たような数値構成のキャラを使っていた気がする。
でも、そのキャラの名前も、どんなゲームだったかも、思い出せない。
「……俺、何やってたんだろ……」
脳裏に浮かぶのは、かすれた靄のようなものばかり。
自分がかつて「男」だったことはわかる。けれど、それ以外思い出せない。
「他に……何か、できることは……?」
試しに言ってみる。
「ストレージ!」
ピロン、と軽快な音とともに、別の画面が現れる。そこにはアイテム一覧がぎっしりと並んでいた。
「……これも……なんか、見たことある気がする……」
装備品、回復薬、素材、食料一つ一つが、手に馴染みそうな感覚を伴っている。
どれも、“自分が使っていたもの”のような気がする。根拠はない。でも、そんな気がする。
「……マップ!」
今度は地図が表示された。森の中で、自分がいる現在地が光っている。
「……テレポート!」
沈黙。何も起きなかった。
「……ま、うまくはいかないか」
と、急に。
ぐぅ~っ
「……っ、う……喉……腹、減った……」
喉の渇きと空腹感が同時に押し寄せる。
そういえば、目が覚めてから何も口にしていなかった。
ストレージを開き、軽食アイテムを探す。あった。
『ほうじ茶』『塩むすび(2個)』
目の前に、お茶とおにぎりが現れる。
「……助かる……」
そっと口に含むと、おにぎりの塩味、お茶が体の芯に染み渡る。
「……うま……」
ほうじ茶の香ばしい香り。程よく塩味の効いてる塩むすび。
ただの食事。それだけで、涙が出そうになった。
お腹を満たし、ようやく落ち着いたところで、ストレージを再確認。
「……今の服、ボロボロだし……着替え、あるかな……」
血に染まり、胸元の裂けた服では、さすがに外を歩くのは気が引ける。
装備一覧を開くと――
「……あ、うわ……趣味、全開……」
和装メイド、ゴスロリ、軍服、踊り子風衣装……どれもこれも、目立つことこの上ない。
「マジで……こんなんばっかかよ……」
溜め息をつきながらスクロールしていくと、ようやくまともな装いを見つけた。
商人風の、地味なベージュのチュニックとロングスカート。
「……これなら、まあ……人前に出ても変じゃないよな」
着替えを終え、私はふぅと一息ついて、川辺にしゃがみこむ。
水面に目を落とせば、そこには――
「……わ、ほんとにエルフだ……」
赤い瞳、白い肌、整った顔立ち。尖った長い耳。そして、絹のような黒髪。
知らない“誰か”の顔が、そこに映っていた。
「って、いや、これ俺か……」
そう、これが今の“自分”。
頭では理解しているはずなのに、胸の奥が妙にそわそわする。
エルフで女で、しかもめっちゃ美人って、もうなんかテンプレ感すごい。
「……でもまあ、こんな顔してたらちょっとは興味わくよな……」
つい出来心で、服の中を覗こうとして――
「……って、いやいや、外だぞ!? おい俺落ち着け!」
ぐっと拳を握る。
ここは森。風通し抜群。鳥もいる。動物もいる。虫もいる。誰か見てるかもしれない。
いくらなんでも、野外でそんなことはダメだ。そう、自制しろ俺。
「……部屋とか、個室で……ゆっくり堪能しよう……」
自分で言って、若干引いた。
そんなゲスな思考をなんとか追い払いながら、ストレージから一枚の布を取り出し、岩陰に身を寄せる。
辺りはすっかり暗くなり、森特有の静けさが空気を満たしていた。
「これ、夢だったりしないかな……」
布を体にかけ、目を閉じる。
耳を撫でる風の音だけが、妙にリアルだった。
朝。
冷たい空気が、目を覚ます合図になった。
ゆっくりとまぶたを開けると、昨日と変わらぬ川のせせらぎと、木々のざわめき。
「あぁ……おはよう、異世界」
水面を覗き込めば、そこに映るのはやっぱり知らないエルフの顔。
これは夢じゃない。本当に、別の世界に来てしまったんだろう。
「まあ、今は考えても仕方ないか……」
布をたたんでストレージへしまい、昨日と同じく塩むすびとほうじ茶を取り出す。
もはや安心の朝ご飯だ。
「うん……うまい。昨日より落ち着いて味わえるな……」
軽く食事を終えた私は、マップを開く。
画面には現在地のほか、近くに道らしきものが表示されていた。
そしてその先、明らかに町らしいマークが見える。
「……よし、まずは人のいるところに行こう。情報もいるし、泊まる場所も欲しい」
とりあえず道を目指して歩き始める。
しばらくすると、木の陰から何かがぴょこんと飛び出した。
青くて、ぷるぷるしていて、ボールより少し大きい物体。
「……これ……」
直感が告げた。
「スライムだ!!」
それはなんの根拠もないのに、確信だった。
ゲームとかでよく見るアレ。前世の記憶なのか、感覚的にそう理解していた。
スライムはぷるぷると揺れながらこちらに近づいてくる。
あまりにかわいくて、つい
「つんつん……」
指先で突いてみる。もちもちしてて、でもべたつかない。ゼリーみたい。
「うわ……気持ちいい……」
楽しくなって、しばらくつんつんを繰り返す。
すると
「うわっ!?」
スライムがぴょんと跳ねて、私のお腹に体当たりしてきた。
「……あれ? 痛くない……?」
ちょっとだけ衝撃はあるけど、まるでボールが軽く当たったくらい。
「お前、戦う気あんのか……?」
そうつぶやきながら、私はストレージから武器を一つ取り出した。
――聖翠槍リューリア
名前の割に見た目はシンプルな細身の槍。緑がかった装飾が神聖さを感じさせる。
「えいっ!」
軽く突いた瞬間、スライムはどろりと溶けて消えた。
「……うわ……ほんとに倒した」
その場に残った小さな石のようなものを拾うと、ストレージに入れたとたん表示が出た。
魔石 ×1
「……アイテムドロップまであるのか。やっぱゲームだな……」
その後もスライムは何度か現れ、そのたびに軽く突いて倒した。
気づけば、魔石の数は40個になっていた。
そして、森を抜けた先
ついに、町の門が見えてきた。
町は、高くそびえる城壁に囲まれていた。
その壁は石でできており、年季の入った表面がこの町の歴史を物語っているようだった。
大きな門の前には、人の行列。
中に入ろうとする者、出ていく者、行き交う人が思ったよりも多い。
「……思ったより賑わってるな」
まるで観光地の門前町みたいだ、と心の中で呟きながら私は門へ向かう。
そして、ふと横を通りすぎた一人の人物に目を奪われた。
(……ん? 今の……)
びくっ、と体が反応する。
耳が、頭から生えているのだ。狼のようなふさふさした耳が、もふもふ揺れている。
顔立ちは人間そのもの。でも、腰のあたりにはしっぽまでついている。
多分男性であろう、彼は胸当てをつけて剣を携えた、まさに冒険者らしい姿だった。
「うお……すご……これが、獣人……?」
思わず見入ってしまっていた。
その瞬間、向こうと目が合った。
「ミゼリア……!? お前、生きてたのか!!」
突然の叫びに、反射的に首をかしげる。
(……誰?)
「おいおい……お前、ギルドから死亡報告出てたんだぞ!? 俺、信じられなくて、何回も確認したのに……!」
そう言われて、私は目を伏せた。
確かに、あの森での状況。死んでいたとしてもおかしくなかった。
(つまり、この体は……本当に、“死んだ後”だったんだ)
「ああ……たぶん、運が良かっただけかも。……で、えっと……」
「覚えてないのか?」
「あ、いや、ちょっと……頭、打ったのかもしれない」
「……とにかくギルド行こう。説明とか色々要るだろ」
そう言って、彼、獣人の冒険者は、私を門の方へ導く。
門の前には、鎧を着た兵士のような人物たちが立っていて、
通る人々は皆、カードのようなものを彼らに提示していた。
「……あれ、俺……持ってないぞ……?」
獣人の人は当たり前のようにカードを見せ、先に門の中へ。
私は列に並び、内心ドキドキしながら自分の番を迎える。
門番が、私の顔を見るなり目を見開いた。
「ミゼリア!? お前、生きてたのか!」
「え、あ、うん……?」
またか、と思いながら曖昧に返事をする。
すると門番は、眉をしかめて私の荷物を探すような視線を送ってきた。
「あんた……持ち物は?」
「……ないです。たぶん、全部……魔物に持っていかれたか、盗まれたかも?」
ストレージのことは、なんとなく言ってはいけない気がした。
ゲームでの隠しシステムのような、そんな空気感。
門番は一瞬あたふたしながらも、「まぁ……ミゼリアならいいか」と呟いて手を振った。
「通っていいぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
町の中へ入ると、先ほどの獣人の冒険者が門のそばで待っていてくれていた。
「ごめん、待たせた」
「いいって。変な目で見られたくなかっただけだし」
それから私たちは並んで歩いた。
町の中は、どこか中世ヨーロッパ風の石造りの建物が並び、活気があふれていた。
荷車を押す商人、路地裏を駆け抜ける子どもたち、見慣れない種族たち。
(なんだこれ……すご……ゲームとかの世界そのまんま……)
きょろきょろと視線を巡らせていた私に、獣人の人が声をかけた。
「着いたぞ、ギルド」
その声にハッとして、私は目の前を見る。
そこには、大きな二階建ての建物。
冒険者たちが出入りしており、立て札には剣と盾の紋章が描かれていた。
「ミゼリア、ほら」
「……うん、ありがとう」
ギルドの建物に足を踏み入れた瞬間、場の空気が一変した。
「……え?」
ざわっ、と耳をつんざくような空気の振動。
何十人もの視線が、同時にこちらに注がれる。
「……っ……!」
思わず体がすくみ、横にいた獣人の腕にしがみついた。
「お、おい……お前、ほんとにミゼリアか?」
彼の声には、戸惑いと少しの疑いが滲んでいた。
私はそっと顔を近づけ、彼の耳元で小さく囁く。
「目が覚める前の……記憶が、ないんだ」
その言葉に、彼の目が大きく見開かれた。
びっくりするのも無理はない。
でも、あえて口にはしない。今はそれが正しい気がした。
入り口で立ち尽くしていると、突然、怒鳴り声が食堂のような奥の部屋から響いた。
「なんでお前、生きてるんだッ!!」
「ひぃっ……!」
肩をすくめた瞬間、巨体の影が姿を現した。
背丈は2メートルはあるだろう。体には鱗、目は鋭く、皮膚は硬質な灰色まるで人型のドラゴン。
(こ、こわっ……!)
「生きてたのか、てめぇ……!」
私は胸ぐらを掴まれ、軽々と宙に持ち上げられた。
「わ、わわっ……!?」
ふわりと浮いた体がぶら下がる感覚に混乱しながら、なんとか言葉を振り絞る。
「な、なんで……生きてちゃダメなんですか……?」
すると、ドラゴンのような彼は少し顔をしかめて言葉を飲み込んだ。
「……あん時、お前をころ__……いや、なんでもねぇ」
そのまま手を離され、私はストンと地面に落下。
(……着地、完璧100点♪)
体に衝撃はなく、ただわけのわからないまま、彼は後ろを振り返って去っていった。
「……え?」
私は獣人の袖を引っ張って、こっそり尋ねる。
「今の人……誰?」
「覚えてないんだな。あれはヴァルグロスって言って、種族はイグナート。いい話は聞かないから気をつけろよ。あと俺はガルド、覚えておけよ。それより、大丈夫だったか?」
「うん……ありがとう。受付、行ってくる」
落ち着かないまま受付へ向かうと、そこには整った顔立ちの人間の女性がいた。
「ミゼリアさん!? 生きてたんですね……!」
「うん……なんか、3.4回目くらい……そのセリフ……」
少し笑って返すと、受付の奥から別の女性エルフの受付嬢が姿を現した。
私を見た瞬間、その顔がぐっと険しくなる。
「……死んでればよかったのに」
「……え?」
あまりに直球な言葉にぽかんとする私。
人間の受付嬢が、慌てて彼女を制する。
「セレイナさん、それはさすがに言いすぎです!」
「リーナ、そんな忌子をかばうのはやめなさい。あいつは……忌まわしい存在なのよ」
二人の間に静かな火花が散っていた。
(ああ……なんかよく思われない存在なんだな、私)
何かあるらしい。だが、今の私は知る由もない。
「……あの、荷物が全部なくなってしまって。ギルドカードも……。再発行って、できますか?」
そう切り出すと、リーナはすぐに対応に入ってくれた。
「はい、できますよ。ただ……再発行には銀貨1枚が必要です」
「……銀貨?」
価値がわからない。私はすぐにガルドの元へ駆け戻った。
「ねぇ、ガルド。銀貨1枚って、どれくらい?」
「ふむ、今のレートだと魔石30個くらいでちょうど1枚と、銅貨ちょいってとこか? 」
「うん、40個あるからなんとかなるか、ガルドありがとう!」
リーナのところに戻って、私は魔石を一つずつ丁寧にテーブルに置いた。
全部で40個。ギルドの表示には:
魔石 ×40 → 銀貨1枚+銅貨60枚(1L+60F)
「確かに。じゃあ、銀貨1枚頂きギルドカードの再発行手続きに入りますね
こちら残りの銅貨になります」
リーナが微笑み、奥のカウンターへと去っていく。
その間、セレイナは一言も発しなかったが、私を見る視線は冷たかった。
(……この世界、やっぱりそう甘くはなさそうだな)
– – – – – – – – – – – – – – – – – –
所持金
銅貨:60F
装備品
【武器】
《聖翠槍リューリア》
特徴:回復魔法の効果範囲拡大・詠唱短縮・状態異常回復補正あり