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おかしな二人(デジタルの時代にあえてアナログに生きる)

 デジタルの時代にあえてアナログに生きる。だから、僕は、一分で行けるところを二分で行く。


 世界は一秒一秒ではなく、一歩一歩進んでいる。そこには確かな感触と手応えがあった。


 基本、僕は好意を持ってくれた女の子は誰でも受け入れた。

「遊びなんでしょ?」

 ある日、彼女が言った。

「僕はいつだって、その時その時真剣だよ」

 僕が真顔でそう言うと、彼女は、「ふふふっ」と笑った。その感じがどこかよくて、僕たちはつき合うようになった。


 駅なんかで、エスカレーターが隣りに流れていても、僕はあえて階段を使った。それを彼女は、一人隣りのエスカレーターに乗りながら笑って見ていた。

「これデジタルじゃないじゃん」

「いいんだよ。僕の中ではデジタルなんだ」

 そうむきになって言う僕を彼女はさらに笑った。

「体にいいんだぞ」

「ふふふっ」

 彼女はまた笑った。


 僕の職業は、売れない漫画家。多くの漫画家がデジタルで描く時代に、僕は未だアナログだった。スクリーントーンの種類も減り、その生産も終わりかみたいな話まで出ているそんな時代。担当の女性編集者にも、最初、目が飛び出るほど驚かれた。

「そこまで驚かなくても・・」

「すみません、大体若い人はデジタルなので・・、というか年配の人でも最近はデジタルなので・・」

 それがその時、僕たちの交わした会話だった。


「何で、アナログなの?」

 彼女が、レコードを聞く僕に訊いた。

「確かな感触が欲しいんだ」

「生きている?みたいな?」

「う~ん、それは大げさかな」

 僕は首を傾げる。

「ふ~ん」

 彼女は、そう言って、首を傾げ何かを考えた。

「なんだかよく分からないけど、でも、なんか分かるわ」

 そして、彼女は言った。

「うん」 

 僕はこの彼女とつき合ってよかったと思った。


「文章はパソコンで書くんだ」

 僕が使うパソコンの画面を、横から覗き込みながら彼女は言った。

「うん、便利だからね」

 僕もパソコンを使わないわけではない。もちろんインターネットも使う。

「あなたのそういうところが時々分からなくなるわ」

「自分でも分からなくなる時があるよ」

 彼女は呆れながら、お昼の焼きそばを作り始めた。彼女は焼きそばを作るのがとてもうまかった。

「おいしい?」

「うん、おいしい」

 今日も彼女の焼きそばはおいしかった。

「少し焦がしながら、ちょっと、お醤油をたらすの」

 彼女は、出来上がった焼きそばを食べる僕にうれしそうに言う。なんだかんだ世間は今日も平和だった。


 彼女はデジタルが好きな割に、全然それを使いこなせていなかった。なんなら僕の方が使いこなせていた。

「私最近初めて知ったわ」

「何を?」

 僕は彼女を見る。

「アプリをダウンロードすると色々便利なのね」

 彼女はスマホを片手に言った。

「・・・」

「なんで黙ってるのよ」

「いや、固まってたんだよ」

「固まることないでしょ」

 ちょっと頬を膨らませて彼女は言った。彼女は怒ると漫画のキャラクターみたいに、頬を膨らませる。

「それ、僕でも知ってるよ」

「好きと得意は違うのよ」

「まあ、そうだけど・・」

 言っていることは分かった。でも、なんかへんてこな感じがした。

「好きと得意は違うのよ」

 彼女はもう一度言った。

「うん」

 彼女は変なところにこだるところがあった。僕はそれを知っていたから、それ以上何も言わなかった。多分、僕たちの関係には、それが正解なのだと思う。

 時に正しいことを言い過ぎることは、大事なものを壊してしまうことがあるからだ。


「メール打てばいいじゃない」

 僕がせっせと手紙を書いていると、横から彼女が言った。

「手紙がいいんだよ」

「何で?」

「・・・」

 そう言われると僕も分からない。

「メールなら一瞬で着くのに」

「そういうことじゃないんだよ」

「じゃあどういうことなの?」

「・・・」

「どういうことなの?」

 今日の彼女は追及が厳しい。

「そういうことじゃない何かだよ」

「何よそれ」

 彼女は不満げに言う。

「手紙が届くまでの待つ時間がいいんだよ」

「それの何がいいの」

「・・・」

 今日は本当に彼女の追及は容赦ない。

「なんかいいんだよ」

「なんか、ねぇ・・」

 彼女は少し呆れたように言った。

「あなたってまどろっこしいのね」

「僕は複雑なんだ」

「へぇ~、そうなんだ。初めて知ったわ」

 彼女は時々、ちょっときついことを言う。

「君は普段とてもやさしいのに、時々、きついことを言うよね」

「私関西人の血が流れているのよ」

「そうなの」

「うん、おじいちゃんが言ってた」

「ふ~ん」

 だから何だという話だったが、なぜか妙に納得してしまった。関西には何かそういったものがある。


 蜩のなく声。

 どこか寂し気な心地よさ。

 夏の暑さ、畳の匂い。

 窓辺ですだれがゆっくりと風に揺れる。

 木造二階建て築六十年の二階の六畳一間。

 僕たちは、畳の上でゴロゴロと寝転がる。そんな昼下がり。

 そんな時、言葉はいらない。というかめんどくさい。

 僕たちは、二人でただゴロゴロと堕落する。それが気持ちいい。

 そんな時、人生には意味もなく、価値もなく、すべてはどうでもよかった。

 

「私思うのよね」

「何を?」

 彼女はいつも突然、ふいに思いついた自分の考えを言って来る。

「生きるって、本当はそんなに難しくないんじゃないかしら。みんなはけっこう難しく考えるじゃない?」

「うん」

「でも、本当はすごくかんたんなんじゃないかしら。だって、どうせみんな死んじゃうわけだし」

「う~ん、なるほど・・」

 僕は少し考え込んでしまう。

「なんか理屈はよく分からないけど、なんか分かるような気はする」

 そして、僕は言った。

「そう、ありがとう。こんな話するとみんな決まって、変な顔をするの。家族もよ」

「そうなんだ。でも、それも分かる気がするな」

「あなたはどっちの味方なの?」

 彼女が不満顔で僕を見る。頬が少し膨らんでいる。

「君だよ」

「ほんとかしら」

 彼女は、やっぱり不満顔で僕を見た。そんな彼女のそんな顔が僕は好きだった。


「へぇ~、新聞読むんだ」

 玄関脇に積まれた新聞の束を見て彼女が言った。

「うん」

「今新聞読んでいる人なんてほとんどいないんじゃない。若い人で」

「だからこそさ」

「でも、読むなら、ネットで読めばいいじゃない」

 彼女は僕の顔を覗き込む。

「まあ、そうだね」

「じゃあ、何で取ってるの」

 彼女は、至極まっとうなことを訊いてきた。

「ネットで読めばかんたんだし、新聞の束も積み上がらないし、捨てる手間も省けるし、配達員の人が朝早く起きて苦労して配る必要もないでしょ。それに環境にやさしいわ。紙は木からできているのよ」

 そして、至極まっとうな正論を言う。

「アナログが大事なんだ」

「アナログの為にとっているの」

「新聞はアナログの代名詞だからね。新聞はアナログの最前戦なんだ」

「アナログに前戦があるんだ」

「もちろん、戦いだからね。デジタルとの」

「ふ~ん」

「新聞は、年々その発行部数を減らしているんだ。その存続すら危ぶまれている。アナログの重要な守るべき防衛線なんだよ」

「ふ~ん、私には全然分からないわ」

「僕はそれを守っているんだ」

「守ってどうするの?」

「・・・」

 僕は黙る。

「守ってどうするの?」

 しかし、彼女はしつこい。

「アナログという手触りを失うことは、人間としての身体感覚を失うことなんだよ。これはとても重要なことなんだ。アナログは人間の実存と繋がっているんだ」

「ふ~ん」

 しかし、彼女は全然納得していないみたいだった。というかじろりと僕を疑いの目で見てくる。彼女は意外と鋭い。


「何で、すぐに好きって言ってくれなかったの?」

 なんてことないのどかな一日。彼女が突然不満げに言って来る。やっぱり彼女は、いつも脈略もなく突然だ。

「えっ」

 僕は驚いて彼女を見る。

「最初に会ってからだいぶ、時間が経っていた気がするんだけど」

「そうだったっけ」

「そうよ」

「う~ん」

「なんですぐじゃなかったの」

 やはり、不満顔だった。

「う~ん」

「なんで?」

「すぐに何でもとんとん拍子にうまくいったら、おもしろくないじゃない」

「何が?」

「物語として」

「何で物語なの?」

「物語ってのは色々困難があって、謎があって、戦いがあって、やっぱり困難があって、それを乗り越えて、それで最後ハッピーエンドで、それが面白いんだよ。最初から全部うまくいってたら、物語として全然おもしろくないじゃない」

「私たちの関係は物語なの?」

「違うよ」

「・・・」

「・・・」

「あなたは何でも物語に考えるのね」

「うん」

「それって、ちょっとした病気よね」

「う~ん」

 確かに病気かもしれない。職業病。僕はすべての物事を物語として考えてしまう。彼女は時々鋭い。

 その時、ボ~ン、ボ~ンと、僕の部屋の壁にかかった柱時計の凡庸な音が鳴った。ガラクタ市で見つけ、一目惚れして衝動買いしてしまったかなりの骨董品だ。

「これ、うるさくないの。夜中も鳴るんでしょ」

「まあ、慣れるよ」

「ふ~ん、そうなの」

 彼女は、不思議そうにその古い柱時計を見つめた。そういえば彼女はまだこの部屋に泊まったことがない。


「何見ているの?」

 彼女は何か動画を熱心に見ている。

「歯車」

「歯車?」

 僕は彼女のスマホを覗き込む。

「・・・」

 確かに、歯車だった。歯車がただグルグル回っているだけの動画だった。

「・・・」

 僕たちは、その動画に無言で見入る。

「なんか見ちゃうのよ」

「うん、見ちゃうね」

 僕たちは、ただ歯車が回るだけの動画を二人で見続けた。


「今どき、懐中時計なの?」

 僕たちは久しぶりに二人で映画を見に行くところだった。彼女が僕が手に持つ懐中時計を見つめる。僕は腕時計ではなく、古い懐中時計をいつもズボンの前ポケットに入れていた。

「一日三分ずつ遅れるんだ」

「大変ね」

 呆れ顔で彼女が言った。

「柱時計も遅れるからね。何が正解か分からなくなるんだ」

「現代人としては致命的じゃない?」

「うん」

 ちなみにカメラも未だにフィルム式のを使っている。現像するのが大変で、隣りの隣りの隣り町の専門のお店まで行かなければならない。

 音楽もレコードならまだいいが、カセットテープとなると、巻き戻しが大変だった。気に入った曲をもう一度聞きたいと思うと、毎回ある一定の時間待たなければならない。

「CDで聞けばいいじゃない。もしくはネットとか、色々あるでしょ今は」

 僕がラジカセの巻き戻しボタンを押していると、彼女が至極まっとうな正論を言う。

「この待っている時間がいいんだ」

「ほんとかしら」

「・・・」

 正直、僕も自信がなかった・・。


「私たちってなんか合ってるわよね」

 彼女が突然僕を見て言った。

「えっ」

「なんか合ってる感じしない」

「う~ん、まあ、確かに」

 僕もなんとなくそう思った。

「なんかうまく言えないんだけど、割れ鍋に綴じ蓋って感じよね」

「なるほど」

 僕もなんかそんな感じがした。理由は分からないけど、なんか生まれつきピタリと何かが合っている、そんな感じがする。波長が合うというのだろうか。

「私、結構最近まで綴じ蓋ってドジ豚だと思っていたのよね」

「ん?」

 僕は彼女を見る。彼女が僕を見返す。彼女は真顔だった。

「何よ」

「さすがにそれはないんじゃない」

「そうかしら」

「だって意味が繋がらないじゃない」

「意味なんてなんとでもなるわよ」

「そうなの」

「そうよ」

「・・・」

 彼女の頭の中は、時々ちょっと自由過ぎる時がある。そんな彼女とピタリと合っている自分に、僕はちょっと、不安を感じる。


「未だに固定電話しか使ってないうちって、日本中でここぐらいじゃないの?」

 うちの黒電話を見ながら彼女が言った。それは僕のおばあちゃんの家で六十年以上前から使っていたかなりの年代物だった。

「そうかもね」

 僕は漫画の原稿用紙に向かいながら答える。

「携帯かスマホにすればいいじゃない」

「まあね」

「不便でしょ」

「かなりね」

 僕は生返事を繰り返す。

「変なとこが頑固なのよね。あなたって」

「こだわりだよね」

「ものは言いようよ」

「価値のあるものは時代が変わっても価値があるんだよ」

「でも、さすがに携帯ぐらいは持たないと生活できなくなるんじゃない。今のこの社会では」

「行けるとこまで行くよ」

「どこまで行く気かしら」

 彼女は呆れたように言った。

「ていうかよく携帯もなしで生きてられるわよね」

「すべては慣れと工夫だよ」 

「何がいいの?私にはさっぱり分からないわ」

 彼女はまた黒電話を見た。

「このダイヤルを回す時のこの重厚感が堪らなくない?」

「全然堪らなくないわよ。ていうか使い方が分からないし」

「えっ」

 僕はそこで初めて彼女を見た。

「何よ」

 彼女が僕を見返す。

「だって、ボタンがないじゃない」

「回すんだよ」

「回す?」

 彼女は本当に分かっていないみたいだった。

「その丸に指を入れて回すんだ」

 僕が実演しながら説明する。

「一回一回?」

 まるで海の中にいるどうやって餌をとって生きているのかまったく分からない珍妙な魚を発見した時みたいな目で、彼女は黒電話と僕を見た。

「うん」

「・・・」

 そして、言葉を失った。

「重いわ」

 彼女はダイヤルを回してみる。

「これを十一回も回すの」

「そうだよ。電話番号の数だけ回すんだ」

「回している途中で、何番まで回したか忘れたわ」

 彼女は自分のスマホにかけようとしていた。

「それ僕もたまにあるよ」

「スマホなら登録しとけばボタン二、三回よ」

「苦労した方が達成感があるだろ」

「そんな達成感なんていらないわよ」

 彼女はちょっとキレていた。


「君は何でヌードモデルをしているの?君は美大を出ているんだろう?逆なんじゃないの?」

 窓際に置いてある小さな植木鉢に咲いている小さな白い花を、せっせとデッサンしている彼女に僕は訊いた。彼女は、ヌードモデルの仕事をしていた。

「私は恵まれた家に生まれた自分が嫌になったの」

「ん?」

「ある日気づいたのよ。ヌードモデルをやっている人は、家が貧乏で、それを描いている美大生はみんな恵まれた家の子だって。それで、そんな恵まれた側にいて、恵まれていない側を描く自分が嫌になったの」

「そうなのか。でも、ヌードモデルをやる必要はないんじゃない?」

「なんか、そちら側の立場で、描かれる側にいることの方が芸術って感じがしたのよね」

「ふ~ん、そうなのか」

 分かるようで分からないような、でも、なんとなく分かるような気はした。

「君はやさしいんだね」

「そうよ。今気づいたの?」

「うん」

「あなたは、思ったより嫌な人ね」

「う~ん」

 僕は唸る。

「冗談よ」

 そう言って彼女は笑った。

「う~ん・・」

 でも、僕はまた唸る。彼女の言葉は、ある意味僕の本質をついているような気がした。


「私たちってなんなのかしら」

「どうしたの突然」

 僕は彼女を見る。彼女の突然はいつものことだったが、やっぱり、驚く。

「うん、だって、なんだか不思議じゃない?突然こういう関係になって、その前は全然そんなじゃなかったのよ」

「まあ、あらためて考えると確かに不思議だね」

 僕も首を傾げる。

「でしょ?」

「うん」

「好きってなんなのかしら。あらためて考えると分からなくない?」

「う~ん」

 確かに唸ってしまう。

「そういうのはあらためて考えちゃいけないもんなんじゃないの」

「そうなの?」

「うん、多分そうなんだよ」

「そうなんだ。じゃあ、やめるわ」

 彼女は素直な性格だった。


 僕はいつだって、誰かを救いたいと思っている。自分すら救えないのに。

「自分すら救えないのに?」

 彼女にそのことを話すと、僕が思っていることと同じことを言われた。

「でも、そんなもんじゃない?」

「うん、そうかも」

 その結論に、僕たちは二人で妙に納得した。こんなところは、妙に息が合う。こんなところが僕たちのつき合っている理由なのかもしれない。


「わあっ、きれい」

 二人でプラプラとその辺を散歩しての帰り道、近所の家の前を通りかかった時だった。彼女が突然声を上げる。

「ん?」

 僕も彼女が見ている方を見る。近所の家の前の花壇に生える立派な幹に、ピンクの花が無数に咲き誇っていた。

「きれいなカーネーション」

「バラじゃないの」

「えっ、カーネーションじゃないの」

「カーネーションじゃないよ」

「カーネーションじゃなきゃ何なのよ」

「だから、バラだよ」

「これがバラなの」

 彼女は花を見る。

「バラだよ」

「う~ん」

 彼女は花に顔を近づけてしげしげと見つめる。

「ほんとにバラ?」

 そして、僕を見る。

「バラだよ」

「バラですよ」

 いつの間にか家主のおばさんが僕たちの隣りに立っていた。

「ほらっ」

 僕が言う。

「でも、似てるじゃない」

「似てないよ」

「似てるわよ」

「全然似てないよ」

「似てないわね」

 穏やかに、物腰やわらかくおばさんも言う。

「・・・」

 さすがに彼女は黙る。

「色しか合ってないよ」

「そこまで言わなくていいじゃない」

 彼女はプリプリ怒り出す。

「それに、カーネーションは幹には咲かないよ」

「じゃあ、どこに咲くのよ」

「いや、普通にチューリップとかみたいに土からだよ」

「そんなのおかしいわ」

「ええっ」 

 彼女は興奮すると時々理屈を超越する。

「じゃあ、何が正解なの」

「それは知らないわよ」

 なんだか話が変な方向に行っている。それに気づきながら、でも、軌道修正できない時ってのがある。それが今だった。

「カーネーションが幹から咲いたっていいじゃない」

「・・・」

 僕は困った。

「あなたにバラの花を上げるわ」

 すると、おばさんが突然そう言って、彼女にバラの花を何本かはさみで切って渡してくれた。

「なんか得しちゃったね」

 彼女はバラの花に顔を近づけその花の香りを嗅ぐ。その帰り道、彼女はあれだけ怒っていたのに、上機嫌だった。

「うん」

 彼女は訳の分からないことに怒り出すが、立ち直りは滅法早い。


「宇宙が一周して、もう一度私たちが私たちで出会えた時、世界は平和になっているかしら」

 テレビ画面を見つめながら彼女がぼそりと言った。彼女は、さっきから食い入るようにずっとテレビを見ていた。そこには戦争で傷ついた子どもたちが映っていた。

「うん、きっとなっているよ」

「そうよね」

「うん」

 きっとそうだ。僕は自分に言い聞かせるように言った。


 すべてのデジタルがとまった畳の部屋。緩い時間が流れていく。その時間の中を僕たちはだらだら、ゴロゴロと過ごしていた。多分、これが僕が思うに、人間の一番贅沢な時間の過ごし方だと思う。

「ねぇ」

 ふいに彼女が声をかけてくる。大体いつも彼女が声をかけるのは、ふいにだった。

「なんだい?」

「なんか目標とかあるわけ」

「目標?」

 僕は彼女を見る。

「人生の、的な?」

「ああなるほど」

「あるの?」

「僕は究極の物語を描くんだ」

「究極の物語って何?」

「究極は究極だよ」

 それ以外に説明のしようがない。

「ドラゴンボールみたいな?」

「う、うん・・、ちょっと違うかな・・」

 ちょっと考えてから、僕は首を傾げる。僕が思い描く感じとは、ちょっと違う気がした。

「君にとって究極の物語ってドラゴンボールなの?」

 僕は逆に彼女に訊き返す。

「うん、まあ、そうかも。だって、世界中ですごい人気なのよ。前NHKでやってたわ」

「まあ、そうだけど」

「それって究極なんじゃないの」

「う~ん、そうなのか?」

 僕はまた首を傾げる。

「人気があるから究極とは限らないよ」

「そうなの?」

「うん、多分」

 僕にもよく分からなかった。

「そうなんだ」

「でも、以外だな君がドラゴンボールなんて」

「そう?」

「うん、なんかドラゴンボールって感じじゃない気がする」

「ドラゴンボールじゃない感じってどんな感じなの?」

「う~ん」

 僕はまた首を傾げる。

「ドラゴンボールじゃない感じはドラゴンボールじゃない感じだよ」

 僕にもよく分からない。

「ふ~ん」

「というか君がドラゴンボール好きだとは知らなかったよ」

「別に好きじゃないわよ」

「えっ?」

「だって、私ドラゴンボール読んだことないもの」

「・・・」

 外は、夏の強烈な日差しが、世界中をその内臓まで照らし出そうとするかのように降り注いでいた。

 そんな外との境界線である窓にすだれが揺れている。夏にはすだれがよく似合う。

「君のそういうとこ」

「うん」

「ほんとにすごいと思うよ」

「そうかしら」

「うん、なんかすごい。他人には絶対にまねできないと思う」

「それって褒めてるの?」

「うん」

「バカにしてるんでしょ」

「うん」

 僕がそう言うと、彼女は笑いながらクッションを投げてきた。僕たちは、笑った。

 やっぱり、それはとても贅沢な時間だった。


「ありがとうで終わりたいよね」

 今日も彼女は、ふいに声をかけてくる。

「ん?」

 僕は漫画を描く手をとめて彼女を見る。

「別れる時」

「別れるの?僕たち」

「分かんないけど、でも、来るでしょ。そういう時って」

「まあ・・」

「その時はありがとうって言って別れたいなって」

「・・・」

「多分、無理だけど」

「・・・」

 僕も無理な気がした。でも、僕もそうありたいとは思った。


「私セクハラって、セクシーハラスメントの略だと思っていたわ」

 窓辺の観葉植物の手入れをしながら彼女が言った。今日は、観葉植物をいじるには絶好の、とてもいい天気だった。その天気のいい心地よい空気感が、窓から部屋に入ってくる。

「そうなんだ」

 僕はもう、彼女のそういうところに驚かなくなっていた。

「セクシーなハラスメントってよく考えるとおもしろいわね」

 そう言って、彼女は自分でカラカラと笑った。

「うん、そんなハラスメントだったら、逆に世の中幸せになるんじゃないかな」

「うん、きっとそうだわ」

 そう言って、彼女は大きなあくびをする。その隣りで、猫も呑気にあくびをしていた。いつか、彼女の後について、この部屋にやって来た茶トラの猫だった。首には赤いバンダナをきれいに巻いているところを見ると、飼い猫らしいが、最近はずっと僕の部屋に入り浸り、ほぼいついてしまっている。

「・・・」

 彼女も猫も、だいぶいい加減だった。


「どうしたの?」

 彼女が僕に声をかける。僕は膝を抱えうなだれていた。

「僕はとても弱い人間なんだ」

 人生ってのは、どうしてもこんな心になってしまう時がある。

「みんなそうよ」

 彼女はやさしく僕に言った。

「うん」

 そして、彼女は僕をやさしく抱きしめてくれた。それはとても温かかった。


「どうして君はそんなに絵がうまいのに画家になろうとしないの」

 彼女は今日も窓辺で絵を描いていた。彼女の絵は美大を出ているだけあってとてもうまい。

「私はお金の為には絵は描かないの」

「そうなの」

「そう、そういう小さな枠の中で自分の絵を評価されたくないの」

「そうなんだ」

「国宝ってあるじゃない」

「うん」

「ああいうのは値段がつかないじゃない」

「うん、そうだね」

「私はそういう領域に行きたいの」

「なんかすごいな」

「もっと言えば地球宝とか宇宙宝とか、そんな絵を描きたいのよ」

「壮大だなぁ・・」

「すごくない?」

「うん、すごい・・汗」

 彼女のその発想がすごいと思った。

「私はそんな絵を描くの」

 彼女はうれしそうだった。だから、僕はそれでいいやと思った。

 

「別れましょ」

 なんの脈略もなく、ある日突然、彼女が言った。それまでの僕たちにそんな感じはまったくなかった。

「えっ、突然過ぎない」

 僕は驚く。

「うん、私もそう思う」

「別れたくないんだけど・・」

「私は別れたいの」

「・・・」

 別れたくはなかったが、彼女が言うんだから、仕方なかった。


 ピンポ~ン

「ん?」

 次の日、突然、僕の部屋のチャイムが鳴った。

「なんだ?」

 僕は扉を開ける。

「あれっ」

 彼女が立っていた。

「・・・」

 僕は呆然としてしまう。

「どうしたの?」

 彼女が不思議そうにそんな僕を見る。

「だって」

「何よ」

「だって、昨日僕たちは別れたじゃないか」

「・・・」

 今度は彼女が固まる。

「あ、そうだったわね」

 そして、言った。

「忘れてたの?」

「うん、まあ、そういうわけじゃないけど・・」

「忘れてたの?」

「・・・」

「忘れてたの?」

「忘れてたわよ」

「何で逆ギレなの」

「しょうがないじゃない。そういう時もあるわよ」

「いや、ないと思うよ。普通の人には・・、というかなんでだから逆ギレなのよ」

「・・・、まあ、いいわ。とにかく上がらせて」

 僕としては全然よくないが、彼女は、いつものように僕の部屋に上がって来た。昨日何ごともなかったみたいに・・。

「・・・」

 僕は、部屋に入って行く彼女のその背中を見つめる。僕の昨日感じたあの世界が終わるかもしれないと思えるほどの悲しみと寂しさは一体何だったんだ・・。

 結局、僕たちはあれから三年経った今でもつき合っている。まだ、ありがとうという時は来ないみたいだった。



                             おわり 



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