表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

そこは製糸業が始まった頃の幕末、他地域の人々を「よそ者」と称して奴隷化する風習があった。

他地域の人々はそこを指して「変なところ」と呼んでいた。変なとこにはこの地と呼ばれる地域があり、土地者と呼ばれる地域集団がいる。ここでは我々大和民族が、太古から培ってきた日本の良き常識が通用しない世界だ。他地域の人々を「よそ者」などという差別言葉で名指しては家畜や奴隷の如く蔑む。またSNSなどで、虐めに加担してはヘイトという遊びに興じる。高速道路を凶器にした惨殺事件から、女性記者はこんな輩を「煽り屋」と定義した。そこでは製糸業が始まった150年も前の、差別や虐めが未だに続いている。そこに追い詰められた罪の無い若者を目の当たりにしたことで、この物語の執筆を思い立った。



 [電子版] 推理、もう一つの野麦峠 (第一話)


 一、薄明

 ここは湖に流れ込む川のほとり。

 闇の河川敷には、冬枯れした葦の密生が覆い尽くしている。背丈を遥かに超える穂先は、風の煽りを受けると白っぽく反転した。十二月も半ば過ぎともなると、凍てつくような北風が白っぽいウェーブを起こす。両河川敷一杯に拡がっては、風下である上流へと押し寄せて行った。


 その一角に目を凝らすと、刈り取った狭い空間には川魚漁師のあばら家がぽつんと建っている。

 ところどころ微かな明かりが漏れていた。北風はその隙間を狙って、これでもかとばかり吹きつける。


 三人の子たちは斑点の襟を立てて、囲炉裏の前で固まっていた。上から九歳になったばかりの正太郎、七歳の源次郎そして四歳の三郎だ。その奥座には、帰ったばかりの大柄な男が、キセルの煙を吐いてデンと陣取っていた。この屋の主である五平だ。

 親戚はみんな五郎太と読んでいた。下流で待ちかまえている湖と前を流れる川で漁をして、なんとか生計を立てている。


 よくみると大きな囲炉裏は、粗末な家には似つかわしくないほど立派だ。その正面には、幾つもの鉄格子が積まれていた。

 女房のおよねは、五平が持ち帰った獲物を、焼いたり煮たり干物などに加工して、街道にある商店や旅籠などへ卸す。ここから僅かばかりの収入を得ていた。

 旅人は火を使わずに、そのまま食べることができると、これが売りだった。


 鉄格子はこの一家を支える大切な商売道具だ。たとえ主とはいえ、この鉄格子にうっかり足などを掛けようものなら、即座におよねの怒号が飛ぶ。

 元々およねは武家の血筋で、その気丈さからか「女だてらに」と噂する者も少なくなかった。また、真田の末裔と囁く者もいた。


 この五平の家から遡った上流には、人がやっと一人通れる細い吊り橋が頼りなく架かっていた。下から見上げると、暗い夜空に随分と高く心細くも観えた。


 製糸業が始まって以来、ここの街道も何かと騒がしくなってきた。いつの間にかゴロツキたちが闊歩するようになり、夜には街のあっちでもこっちでも、賭博やら女郎屋らがいつまでもうるさい。


 それは五平があの河原に落ち着く、何年も前からの事だと聞いていた。


 そうでなくても、よそ者を差別するこの田舎街は住みづらいのに、ゴロツキたちは、よそ者と見るや否や、何かと言い掛りを付けては、わずかな稼ぎに集って来る。


 重かった商品を売り捌いて帰る日の夕方、およねは二人のゴロツキに、金を置いていけと絡まれていた。そこに、よく見かける麹屋の息子の姿があった。遊び人たちに顔が利くという道楽息子が、この窮地を助けてくれたのだ。

 ところがそのあと、助けたんだから一晩ぐらいはと、要求してきた。亭主のある身と知ってのことだ。勿論、断る以外の選択肢などあろう筈が無ない。

 すると、嫌がらせを心配していたとおり、それからの売り上げは半減した。そんな経緯を、亭主は知らないはずだ。他人の弱みに付け込んで、美味いことしようなんて企む蛆虫のことなど、大切な亭主にいちいち言うもんかと決めていたからだ。


 囲炉裏のもう一辺の隅には、煙草盆が傾いたまま置かれている。これもいざという時は、反撃の武具になると、子供たちも知っていた。

 五平が深く吸った二度目の煙を吐き出して、キセルを煙草盆に叩き付ける。パチンと小気味いい音がしたかと思うと、かなり大きな飛び込み音が、上流から伝わって来た。その余韻ともつかぬものが外の闇に残る。


 これで四度目だ。聞いていた話では、以前は湖で起こっていたそうだ。 ところが近頃は、上流にあるあの吊り橋から起こるようになった。


 およねが視線を鋭く回す。「あんた、行くんじゃないよ」と、大男を睨みつけた。


 子どもたちはさほど気にする様子もない。五平はおよねの言葉にも、さっさと髷に手を伸ばし、元結といわれる紙縒りを解き始めていた。


 時は明治七年十二月のことだ。だが、こんな田舎ではまだまだ江戸時代のさなかである。


 和紙の紙縒りは貴重だ。それを神棚に丁寧に置く大男。


 それを観ていたおよねがもう一度「あんた」と怒鳴った。支度をたんたんと続ける亭主の後ろ姿を眺めていたが、ため息を一つ漏らしたあと、諦めたのか「知らないからね」と冷たく吐いた。


 五平は職人が遣るように、褪せた黒染めの手拭いを、空中で勢いよくねじると、散切り頭に巻き付ける。こんな時を合図として覚えているのか、振り返れば、子供たちの小さな掌はバイバイをしていた。


 すると女房が手を返した様に言う。


「気を付けるんだよ」と、五平の斑点の裾をめくり、帯にある脇差を鞘ごと抜いた。


 いつ用意していたのか、別の刀を差し込む。これが狩猟丸だ。囲炉裏の火に照らされた黒鞘からは、殆ど反りの無い刀だと分かった。


 五平は、まさかこれを使うこともあるまいと思いつつ、その刃を静かに抜いてみる。やはり、実践むきとされる直刀にちかく、鞘の長さに比べて少し短めのようだ。だが、その鍔元の厚みは、いかにも剛性を感じさせた。


 安っぽい脇差とはまるで造りが違う。広い鍔には足の指を掛けやすい工夫もあった。これが忍者刀だ。


 刃の点検が終わると、鯉口には手裏剣としている二振りの小柄を仕込み、残った一振りは奥襟に仕込んだ。四振りあるうちの最後の一振りは、上がり端に丁寧に置く。

 その柄には小さな房が付いていた。これは五平の家に伝わる、伝統的な手裏剣の特徴だった。


 およねが「子供たちはおれが守るからね」と、亭主の脇差を自らの腰に差して背中にまわし、正面からは見えないようにした。こんなふうに五平を送り出すのも四度目だ。


 だが今回ばかりは何かが違う。うちの亭主にはきっといつか、こんな日がくると、騒ぐ六感を止められなかった。また、五平もいつもとは違って支度に余念がない。


 その亭主にも、女房にはまだ言ってない秘密があった。およね自身は、実家から「五郎太殿には上意があるとか」そこまでは聞かされていた。だから、それ以上は知らない。


 また五平も語ろうとはしなかった。およねは、こうして出て行く五平の姿を見送るとき、上意討ちしかないと思っていた。維新後の上意討ちは、どういうことになるのだろうか。また不安が募る。


 履いた革足袋に、草鞋(わらじ)を入念に履きつけると、およねは亭主を送り出さなければならない。


 あばら家の建付けは悪く、戸板をなかば強引に繰り寄せると、いまにも壊れそうな音が軋む。闇に消えて行く五平の広い背中に向かって「仏でなきゃいいけどね」と、土間から小さく声が追いかけた。


 外に出た五平は、忍者刀を腰帯から鞘ごと抜くと、背中に背負うようにして下げた。


  いつの間にか、夜空に浮かぶ雲は厚くなり、星の無い河原は漆黒へと変わっていた。五平は大柄なその身を隠すように、岸辺から三歩ほど離れた葦の密集する中を進むことにした。


 上流の吊橋までは半里(二キロ)以上もある。わしが到着するまでは生きていてくれと祈るしかない。


  葦の隙間からは、流れ来る川面が遠くの光を一つ一つ小さく反射して点群する。


 こんな闇の中でも五平は、辺りの地形や石の形状や配置までも正確に覚えていた。そのため、いちいち探る必要はない。


 枯れた葦は、掻き分ける度にガサガサと不快な音をたてる。垂れ下がった葉は、のこぎりのように肌を挽いた。


 やがて、暗い空に橋の影が見えてくると、葦の隙間から水面を見詰めた。


 闇に慣れた眼が、人影を見つけようと走る。その川の中ほどなのか、確かに人らしき影を捉えた。ちょうど、本流を外れて浅くなりかけた瀬頭らの辺りだ。


 おそらく川底の何かに絡んでいるのか、水圧に逆らっても動かない。すでに息絶えてしまったのかと、さらに目を凝らす。


 そして、とうとう水圧に負けたのか、また流れ始めた。少し流されるとまた何かに引っ掛かる。やがて下り始めては、また引っ掛かるを繰り返した。


 これが、もう少し本流よりであれば、巻き込まれて水を飲み、水面には浮かび上がれない筈だ。という事は、この人影にはまだ運が付いていると思った。


 五平は辺りに、他の人影が無いことを確かめようと、手前の葦を掻き分けてみる。


 その時だ、橋の下あたりから男の影が二人、川の中に現れた。


 この距離では、何を叫んでいるのかは分からないが、誰かの指示によって行動しているように観える。


 更に目を凝らすと、橋の上には別の二人の人影が遠く認識できた。その一人が、川の中にいる二人に向かって何やら指図している。うち一人が橋の下に下りて来た。すると、あとを追うようにして、もう一人も続く。


 波の中で点群する光の一つ一つは、それぞれの一瞬に過ぎない。だが川面一面に拡がると、投影された影絵はその動きを鮮明にする。


 そのとき吹く風と波のタイミングが一致した。すると、影絵は二人の男が、波の中でぎこちなく往生している姿が手に取るように分った。足で川底を探ったりしながら、慣れない川の中で立ちすくんでいる。


 その様子からは、まだ女工の行方を知らないのだと判断できた。そして、直ぐにでも小柄を抜けるようにと、鍔元に構えた。


 やがて下って来た男たちは、瀬頭に近付くと水面の様子を観ようとして、目を低く屈み込む。波が立つ様子で、暗い水面を見て取れるからだ。


 瀬頭に引っ掛かっていた女工と思われる影が、また水圧に負けて流れ始めた。


 五平の潜む方向へと流れて来るが、すぐに川底に引っ掛かって、また止まる。


 男の一人が、その影に気が付いて、もう一人の小男に指し示す。すると、うしろの橋を下りてきた二人に向かって何かを叫んだ。


 川に飛び込んだ者を追いかけて來るような奴とは、ゴロツキ以外にはいないはずだ。恐らく見つけたと叫んだのたろう。


 密生する葦の中に入れるのは漁師ぐらいで、あんなゴロツキなんかに出来るわけがない。だから、わざわざ氷のような水に浸かっているのだ。


 上流からは、後続の二人もしぶしぶ裾を捲って、冷たい流れの中に入った。最後の一人を確認すると、これで四人なのかともう一度視線を走らせた。


 やがてその男たちが近づいて来る。冷たい水と滑りやすい川底とで、尚もぎこちなく進んで来る。慎重に一歩また次の一歩と、慣れない川底での歩を進めている。


 その度に水飛沫が暗く跳ね上がった。五平にとっての奴らは仇敵だ。そこで二振りの小柄を掌に取ると、いまなら勝てると判断した。


 あの男たちを倒すには、二度とない好機だ。これを逃せば、何れ見せしめとして殺されるのは、女房や子供たちなのだ。


 五平は川面の女工らしき影をもう一度見つめて、助かる命ならいま直ぐにでも助けたい衝動に駆られていた。


 男たちの内、最後に橋から下りて来た出っ腹が、恐らく(かしら)であ.

 と読んだ。先ずはこいつから倒したい。だが、まだまだその距離ではなく、少しでも射程を詰めようとにじり寄って行く。


 目の前にある浅瀬を、あの影が流れてまた引っ掛かった。それを追って、先行してきた二人の男が、もたもたとやって来る。


 まじかでの波音は意外なほど大きく、風音と共に五平の気配を消した。その為、男たちは五平の直近に迫っても、気づくことなく過ぎていく。


 小柄は握ったのまま、上流の頭らしき出っ腹の方向へと向かう。そして呼吸を静め、その機を待った。

 ところが出っ腹は突然向きを変えて、なんと五平が潜む岸へと向かってくる。


 好機とはまさにこの瞬間だ。ところが、頭の動きが止まった。観ると足を滑らせたのか、次の瞬間には四つん這いになっていた。


 立ち上がろうとする影を狙って、投げるためのモーションを起こす。


 手前でなびく不規則な枯れ葉が気になって仕方ない。一回、二回とゆっくり振ってみるが、思い直した五平は、再びにじり寄りを続けた。にじりとはいっても、既に二間程も距離を詰めていた。この身のこなしこそ技でしかない。


 次にはモーションも無くいきなり投げた。何を叫んだのか、水面から男の影が消える。五平は声を上げられない様にと、首の急所を狙ったつもりだった。が、今の叫びで「外したか」と覚った。


 間髪を入れず、二投目の小柄が闇を飛ぶ。すると、頭の前を急いでいたこの男、後方から聞こえた頭の悲鳴なのか断末魔なのか、異変に気付いた時には、すでに遅かった。


 今度こそ小柄は、急所を捉えていたからだ。上げる声もなく、そのまま川底へと突っ伏す。


 男は薄れゆく意識のなかで、抜き取ろうとした右手が、小柄の房紐を掴んだ。これは、噂に聞く「霧隠流忍法」だと、口の中で言って絶えた。


 これで確かに二人目を倒したが、自らの存在を知られてしまったことに危惧が残った。


 奴らにとってのこれまでは疑惑だったが、これからは断定へと変わる。やがては事あるごとに、わしを警戒するようになる。その警戒心が家族への災いとなるのだ。


 波状に打つ葦の中から、改めて辺りを警戒する。流されて行った人影を探して、今度は川下へと急いだ。振り返れば、こんなことを既に三度も繰り返してきた事になる。


 あんなゴロツキとは言え、二人も殺めたのは今回が初めてだ。奴らは総勢何人いるのだろうかと、記憶を手繰ってみた。


 たしか、近くの製糸工場だけでも数社は在るはずだ。一社につき二人のゴロツキが居れば、総勢十人から十二人となる。加えて本拠地としている工場では十人だ。ざっと数えてもまだ二十人近いゴロツキが残っていると計算した。


 五平の家から少し離れた下流に、同じ川魚漁師の家があった。少し小高くはなっているが、河口にあるかつての中洲のような場所だ。ここに治助という若者が漁をして、いまは一人で暮らしていた。


 そこは先代からの家で三代に渡っての歴史があった。五平が仕入れた情報は、この治助からのものがほとんどだ。


 勿論、およねからの情報もあるが、女房としての主観によって加工されてしまう。これでは真意が伝わって来ない。だからと言って、上意討ちの為の情報を欲しなどとは言えない。


 そのおよねが一言だけ、五平さんが言うように「地獄はここに在った」と言った、あのときの顔がいまも忘れられない。そして、同じ事を言ったのが、下流に住む若い治助だ。


 若い娘の指先を必要とする製糸業の事業主たちは、競うようにして金を積む。人買いは、その金で村落の娘を買い漁る。ところが何の悪戯か、その中に城の姫君が紛れ込んでいた。


 姫は辱めを受けるくらいならと、自らの命を絶ったと結論していた。その時の人買いたちは、五平自身が既に討ち果たしている。だが、本当の仇敵は他に居るという断定があった。


 五平は、葦の中をまたにじり寄り始めた。川面を流れる人影にいよいよ近くなると、濡れた小袖のような柄がなんとか認識できた。確かに製糸工場から逃げて来た女工に間違いない。


 これまで助けた三人は、いったん家に匿ったあと、隙をみては船で湖の対岸へと逃がしてきた。だが、これからはそうもいくまい。奴らのことだ、次には家の中にまで踏み込んで来るに違いないのだ。


 その時、人影は意識を取り戻したのか、苦しそうにもがき始めた。それを観て、まだ助かる見込みがあると確信した。


 力なくも足をばたつかせ、うめき声を上げている。そんな様子から、あるいは、余りにも深手であれば、早く命の根を絶ってやらなければならない。


 以前にも、工場に連れ戻された女工が、なぶり殺しにされている。その最期が、どれほどむごたらしいものだったか、わざわざ他の女工に、残酷な死骸を見せしめとして晒すのだという。


 葦の中で五平は、背中の鞘を手に持ち換えようとした。このとき、不用意にも背中の防具板に鞘が当たり、一瞬渇いた音が響いた。


 決して大きな音ではなかったが、自然界に存在しない音はどこまでも轟く。耳を欹てていれば、間違いなく聞こえた筈だ。じっと目を凝らして、流れの様子を観察する。


 葦の密集は、大柄な男が身を潜めるには丁度良かった。その中で、鞘に結んである下紐を解く。今度は慎重に扱った。


 通常の打刀(うちがたな)にくらべ、この忍者刀の真田紐は、数倍もの長さがあった。もちろん鞘も剛性あるつくりで、外側には鋼鉄(はがね)を巻いた逸品物だ。あの焼き幅の広い、胴田貫をへし折ったとも伝えられてきた家宝だ。


 敵にこの鞘が当たれば無傷ではすまない。だが今は、流されていく女工の身体に向かって静かに投げた。


 鞘に仕込まれた仕掛けを使えば、あの女工をこの岸にまで引き寄せられる自身があったからだ。


 思った通り脚に絡みつくと、波を立てないように静かに引き寄せる。が、余りにも重い。女工は、川底の石に腕を絡ませて抵抗しているようだ。発する声は、力無く弱いうめき声となって、嗚咽を繰り返している。岸際まで来ると、もう強引に手繰り寄せるしかなかった。


 そして葦の茂みに、暴れようする女工の口を塞ぎながら、強引に横たえた。氷のような身体が絶えず痙攣している。


 助けようとしている事を示すため、その掌に最後の小柄を握らせて、五平自の首に、突き付けさせた。


 やっとこの事態が飲み込めたのか、握った小柄の房に頷くと、振るえる掌で返した。そして唇が「もしや」と動くと、身体から力が抜けていった。


 日中に温められた砂地には、まだまだ凍らせるほどの冷たさは無い。それは、密集する葦が、北風から温もりを守っているためだ。特に窪んでいるこの場所には、掻き分ける砂にも微かな温もりを感じられた。そしてその中に小袖の女工を横たえた。


 川の中には、異変に気付いた手下が居る。二人は、その上流に居るはずの頭と、右腕と呼ばれる男の姿が無いことに気が付いた。だが耳には、叫びとも悲鳴ともつかない声が、まだ残っていた。


 いったい何が起こったのかと、淵へと変化していく下流に目をやるが、波打つ水面には闇が拡がるだけだった。


 二人は目を凝らして、あったはずの水面に小袖を探す。その小袖とは、職に就いた祝いの品と偽って、金を積んだ事業主が与えたものだ。


 どうせ安物でも、山間の百姓娘にとっては憧れの宝に等しい。宝は意欲を掻き立てる道具でもある。


 大勢の女工たちの中には、年齢を追うごとに、生糸を紡げなくなるものが出てくる。そんな場合は女郎として売るのだ。


 野良着のままでは高く売れる筈がない。そこで、着る機会の無かった小袖で、最小限を着飾って値踏みさせるという。これが宝とする小袖の本当の正体だった。


 時間の経過とともに二人の追っ手は、水の冷たさに堪え兼ねてくる。闇の川面には、淵から押し流されてきた頭と右腕の死骸が、浅くなっている瀬頭に引っ掛かって暗い波を立てていた。


 ちょうど女工が引っ掛かった、あの付近だ。それに気が付いた二人は、あの時の悲鳴は、まさか頭の声だったのだろうかと、引っかかっている物体に目を凝らす。


 すると二人の死骸をはっきりと認識した手下は、事態の重大さにやっと気が付いた。同時に危険が迫っていることも覚った。


 二人は辺りを警戒しながら、俺たちを狙っている奴が、この辺りに潜んでいる筈だと想像した。しかし、何処をどう見ても、何処をどう探っても人影どころか、気配さえ無いと思い込んだ。


 両岸に茂る葦は、ただただ周期的に波打つばかりだ。その揺れが、なんとも不気味な恐怖を誘うのが、尚のこと恐ろしかった。

 また、それ以上に水の冷たさが、頭の芯にまで沁み込んでくるともう限界だった。


 これまでの二人は攻撃のみで、いやゴロツキの性なのか弱い者をいたぶる時は長けていても、己が標的にされるとなると、蛇に怯えるかえるのようなものだ。


 いま更逃げるにしても、漆黒の闇の中では深い本流を渡るなどは、尚のこと危険すぎる。また、上流なのか下流なのかどっちに逃げていいのかさえも分からない。


 司令塔である頭を失った今、二人には判断が出来なかった。迷った挙句、この先にある葦の茂みに、取り敢えず身を隠す事が、今の先決と考える他はないと、間違いのうえに間違いを重ねた。


 なんと、そこにこそ五平が潜んでいるとも気が付かないで、腰の打刀を抜いて闇に構えた。足もとの冷たい波を受けながら、しかも水音を不用意に立てるわけにはいかないと、既に感覚のない足を恐る恐る進める。


 滑りやすい川底を探るように、岸へ岸へと近寄って行く。もう女工のことなど、どうでもよかった。頭のいない今は、己の命が助かる事しかないのだ。


 二人は合図を交わすように頷き合うと、おたがい背中合わせになりながら進んだ。そこを右腕と思われる死骸が流されて行く。


 それを観ると、確かに膝ほどの水深だ。頭のあの出っ腹では、どこかに引っ掛って流れるはずがないと思った。見れば成程、受ける水圧にも頑として動かない。


 五平は、距離が縮まったところで、二人の様子を観ると内一人は見覚えのある小男であることが分かった。以前にもおよねに絡んできた男だ。強い相手には諂うくせに、弱い相手には狡猾になる。


 そんな奴ほど、貧乏くじを引くものだ。思ったとおり、先鋒を切らされたのはその小男だった。しぶしぶ後ろにいる男の盾代わりになるしかない。ときどき打ち刀で、闇を払うかのように、仮想した敵に斬りつける。


 その剣捌きを観るなり、こいつは剣の使い方さえ知らない奴と判断した。あれではこの葦の、たった一本でも切れるわけがない。その小男の足元に、忍者刀の鞘を投げ付けた。


 次の瞬間、足は水面から掬われたように、宙にもんどりうって背中から倒れた。激しい水柱が闇に舞い上がる。まさかと思う程の大きな水音が北風をついて轟いた。


 その途端、水鳥なのか鴨なのか一斉に羽ばたきが起こる。鳴き声は遥か上流にまで伝播して行った。


 それを見送るように、もう一人の男が見上げる。小男の両足にはあの忍者刀の鞘がしっかりと絡みついて、もう外れることはない。結ばれた下紐にテンションが掛かり、その端は五平のごっつい掌が、尚も巻き上げようとする。


 小男の両足は、その下紐から逃れようとすればするほど、絡みついて尚も強く締め付けた。


 残る一人は上流に向かって逃げようとするが、滑りやすい川底と感覚を失った足では動くことさえままならない。

 次には小男から悲鳴が上がった。それでも、なんとか立ち上がったが、既に両足の自由がきかない。そこを五平が引けば、またもんどりうって突っ伏す。


 尻もちのまま、下紐を外そうと再び川の中でもがく。一度絡みついた下紐は簡単には解けない仕組みだ。小男は恐怖のあまり、恥ずかしい限りの悲鳴に変わっていた。


 また、何とか立ち上がったが、その瞬間、また川底へと突っ伏す。


 水をたらふく飲んだ後で、このままでは本当に溺れてしまうと、そう思ったのか小男は、打刀の刃を直接掌に掴んでいた。足に巻き付いた紐を切断しようとして、刃を直接握ったのだ。それで切断することには成功した。しかし、取り返しのつかない事もしていた。


 立ち上がった小男の掌には刀が無い。気付いた時には、その胸に忍者刀の分厚い刀身が串刺しにしていた。「この。よそ者め」の、うなり声は、五平が発したものだ。


 そもそもよそ者とは、このゴロツキたちを指して称する言葉だった。それが、あとからやって来る者への代名詞としてすり替えられた。


 その時、背後から来る空気に違和感を感じた。同時に背中に鋭い痛みが走る。不覚だ、背後から来る気配を察知できなかったと覚った。


 傷がもう少し深ければ、こうして立っていられないはずだ。新手なのか、いつ後ろに回っていたのかと、瞬時の記憶が走る。すると次の瞬間には、背後の男がわしの一番弱い部分を狙ってくるはずだと覚っていた。


 その一瞬、次にくる挙動を、闇の空間に想像する。すると耳元で、刃の切っ先が風を切った。その瞬間、頭に巻いた手拭いの緩みを感じた。


 小男から抜き取った忍者刀を背中に構え直すのと、屈み込んだのが同時だった。そこに手拭いが落ちて、ねじった結び目が砂地を叩く。


 自然界に無い音は轟くもの。ついさっき鞘を打ち付けたことで、五平の潜む場所を、背後の男に察知されていたのだ。


 五番目に現れたこの男、わしへの気配を消して近付いて来た奴だ。こいつが噂さに聞いた用心棒だろうか。


 確かに剣の扱いには手慣れている。それどころか。気配を感じさせない身のこなしは、わし以上だ。そして、奴の剣捌きには、人を斬るときの躊躇いというものがない。これは、実践経験を露わしている。それも豊富にと思った。


 五平は口の中で「こいつは殺し屋だ」と呟いていた。


 仮に、この防具板と鉢巻きが無かったら、わしは二度も斬られていたことになる。


 高価な鎖帷子など、川魚漁師の分際では買えるはずもなく、代わりに防寒を兼ねて板を防具としてきた。それを腹と背中に、晒しで巻き込んでいたのだ。それが功を奏して深手を負わずに済んだ。


 その防具を、この男は知っているのか。きっと知っているはずだ。そしてわしがこんな体勢でいることも、想定しているに相違ない。


 もう一つは、逃げたと思われる四人目の存在だった。挟み撃ちはあって当然の如くだ。加えて騙し討ちもある。


 四人目の影を最後に認識したのは、小男の足に鞘が絡みついていた時だ。その小男を見捨てて、上流に向かっていた。更に向こう岸にまで渡ろうとしていた。


 あそこには深い本流がある。川を知らない者があの本流を超えようとすれば、そのまま流されたかもしれない。が、或いは思い留まってこっち岸へと引き返した可能性もある。


 この用心棒と、前後から挟み撃ちにされたら、もうなす術が無い。そうでなくても背を向けたまま、身動き一つ出来ないのだ。


 いつまでもこんな体勢では腕も脚も鈍くなり、やがては痺れをきたす。そうなる前に決するしかない。そして、わしが防具を纏っていることを、用心棒は既に知っているはずだ。となると、奴の狙いは一つしかない。


 用心棒から観るわしの影が、川面に投影されるようにと、その位置を想像した。


 五平は忍者刀の長い柄を確かめるように、左掌を柄頭から指二つ分、そっと短く握り直した。小指から、金具の部分が飛び出しているかたちだ。


 この金具で払いとする。そして、周期的に吹き付ける風の、次を待った。


 偶然にも、その風が吹き始める。さざ波が起こした光の点群が、川面一面に広がっていく。その風に、いきなり立ち上がった。


 五平自身の輪郭が、川面を背景に投影される。それを想像して、大上段に振りぶっていた。


 胸から下は防具板だ。川面に投影されたシルエットからは、急所である喉元のくびれが鮮明に映えるはずだ。


 すると誘われるように、用心棒の切っ先はくびれの下にある急所へと転じた。同時に五平の構えは、大上段から上段へと変化していた。


 用心棒は、変化した五平の構えの意味に気付くことはなかった。同時に、簡易的な鎧など、喉元に付ける防具など無いはずだと信じきっていた。例え有ったとしても、薄手の頼りないものだと更なる確信があった。そんなもの、俺の一突きで貫いてやると、渾身の力を切っ先に預けた。


 さざ波が、投影をいっそう鮮やかにする。その光が、用心棒の切っ先に反射した。


 闇に一瞬の光跡を描くと、突きに転じていた光の延長線が、五平の喉元に照準する。その延長線上に、狩猟丸の柄頭を反撃へのあわせとした。


 柄頭から微かな金属音が伝わる。


 用心棒は、どうしたことか、己の意思に反して切っ先が大きく逸れていく。それも五平の左脇の、更に左下を通過していくのを止められない。

 柄頭で払えば、剣先は用心棒への物理的な面打ちとなる。


 五平は、揺れる葦の中で横たわったまま動かないのを見とどけた。すると、左小指の付け根に、剣先を払った峰の冷たさと痛みを感じた。


 そして、女工の処へと急いだ。雲の切れ目が拡がって、星空が見えてきた。


 逃げたと思われる四人目の気配を気にしながら、密集する葦を掻き分けて進んだ。そこからは、土手がいっそう高く闇に浮かび上がって、下流方向へと続く。この時、その土手の上を走って来る男の影が二つ、上流側の遠くにぽつんぽつんと小さく、五平の背後に観えた。


 その一人は弓を持って、もう一人は逃げた四人目の男だろうか、五平はまだ気が付いていない。


 雲の切れ間はさらに拡がり、やがて星が瞬きはじめた。葦の根本にまで視界が拡がるのは、もう時間の問題だ。


 温もりの残っている砂を掻き分けて、女工を抱き起す。掌には微かな体温が感じられた。


 弱いが、心の蔵も確かに鼓動している。これなら助かると、今度こそ実感した。息を吹き返せと、祈るように背中をさする。さすっては蘇生を繰り返した。


 星明かりの下では、もう姿どころか表情さえ見て取れるようになった。すると、その表情には不自然なものがあると感じて、思わず顔を覗き込んだ。


 この瞬間、真後ろで矢を引き絞る音がすると、背中の防具版が割れた。反射的に左手を回して、傷は浅いと解ったが掴んだ矢をそのままに、一方の利き手を奥襟に構えた。


 二の矢を番え終えたのは、六人目の男だった。振り向きざまに、構えていた小柄を投げる。すると六人目の男の目が、弦のうしろで見開いて光った。


 その瞬間、弦が切断されたが、既に二の矢を放った後だった。倒れた六人目の喉元には、五平の小柄が後頭部にまで達していた。


 その少し前、帰ってこない父親を心配して、母親の様子がおかしいと、正太郎が家を飛び出していた。枯れた葦の密生は、子供の足には危険すぎる。


 そう教えられていた弟の源次郎は、兄は船着き場へ向かっているものとして後を追った。


 予想したとおり、正太郎が船を出そうとしているところだった。飛び乗ってきた源次郎は、葦の中に治助の家が見えて来ると「助にい」と叫びながら走った。


 正太郎は大切な舟を戻そうと、そのまま上流の家へと引き返す。九歳の子が、流れに逆らって、大きな船を家の船着き場まで戻すのは、容易ではない。


 流れの緩い岸よりを休み休み来たが、トロ場に到達するのに全てを使い果たしていた。ちょうど治助の船着き場と、家の船着き場の中間点にあたる。


 このトロ場は、第二の船着き場としていた。深い葦に囲まれ、臨時の船着き場でもあり、隠れ場でもあった。流れが穏やかで、水際には柳の木立が葦の上からぽつんと突き出ている。船を繋ぎ泊めるには格好の場だ。また覆う葦がひと際高く密生して、風よけとしても使っていた。


 父親がそうするように、柳の幹に舟留めの縄を掛ける。そこからは岸辺を歩いて家に向かった。


 やっと辿り着いたところで、土手の上から男の悲鳴を聞いた。これは、川の中で姿を晦ましていた四人目の声だ。


 その脇で茫然としている若者が、包丁らしきものを持って暗がりのなか立ち尽くしている。源次郎から急を聞いて駆け付けてきた治助だった。


 その後から源次郎の小さな影が土手を走って来る。力尽きたのか母の姿を確認するも、その場に座り込んでしまった。


 その母は、横たわる五平の亡骸を見て、うめき声を上げていた。


 暫くすると、一番下の三郎が、五平の重い忍者刀を引きずるように抱えて、母親に渡そうとする。


 およねは、忍者刀を手に取った事でやっと我に返ったのか、製糸工場の方角を睨みつけて「よそ者め」と低く唸った。まるで、五平の魂が乗り移ったかのようだ。そして、女房は着物の乱れを直し帯を締め直すと、忍者刀をおもむろに腰へと差し込む。


 悲しんでいる暇など無いのだ。生き残っているゴロツキどもは、仲間の弔い合戦とばかり襲ってくる。


 奴らは目的を果たすまでは何処までも追い掛けて来るのだ。四歳の三郎を負ぶって、二人の幼い手を引いて、長い道のりを逃げきることなど出来っこない。これから来るであろう将来の、どこかで決着を付けなくてはならないのだ。


 奴らが踏み込んで来る前に、一家全員が惨殺される前に、ならばこっちから踏み込んでやると腹を括った。


 その様子を見まもっていた治助が、見るに見かねて口を開いた。「およねさん。そればかりはだめだ」と、止めようとしている。


 治助は製糸工場の方角を指して「よそ者はまだまだ何人も残っている筈だ。それだけじゃない、騒ぎを聞きつけた近所の工場からも、よそ者がたちが大勢やって来る。そんな事になったらおよねさん、すまきにされるのが落ちだ。俺が上田まで送るから、思いなおしてくれ」そう言って、忍者刀を取り上げようとした。


 それに、およねは抵抗した。そんな遣り取りがあったそのあと、治助は子供たちを見て「この子たちを、誰が食べさせるんだよ」と訴えた。


「五平さんだって、仇より俺の忘れ形見を、一人前にしてやってくれと、言ってるじゃないか」そう言って、五平の亡骸を観る。そしておよねに向かって、もう一度逃げろと訴えた。


 およねは、崩れる様に五平の身体にしがみ付いて「仇も取れないなんて」と嘆いた。


 子供たちはそれぞれに、亡骸に寄り添っていた。一番下の三郎が「起きろ。お父う、起きろ」と、五平の太い腕を持ち上げようとしている。およねは、そっとその子を抱上げた。


 その時だった。およねの胸元で鈍い音が一瞬響いた。何だろうと思った瞬間、抱き抱えていた四歳の三郎が急に首を垂れて、身体からみるみる力が抜けていく。そしてぐったりと、母の胸のなかで息を引き取った。


 葦の藪から、二の矢を引き絞る気配がまたあった。治助はその藪目掛けて飛び込む。次の瞬間、奇妙なうめき声が上り、そして、止んだ。


 葦を掻き分けて治助の姿が戻った。五平から貰ったという出刃包丁が、再び血に染まっていた。


 死んでしまった幼い命はもう戻らない。小さな身体から、その矢を抜き取ろうとする。


 治助は「およねさん。およねさん」と、女房の耳元で、大声を張り上げた。「奴らの鏃には返し刃がある」と、それを治助は知っていた。それを混乱の中で、およねがやっと理解したのか、背中に回していた五平の脇差で、小さな身体を貫通している矢の根本を断ち切って抜いた。この時およねの眼には、もう絶対に止められない決意が光っていた。


 治助は、横たわっている五平の前に、その包丁を置いて手を合わせる。およねは正太郎と源次郎をつかまえて「いいかい。よく聞くんだよ。神棚の下に、お父の釣り竿の入った長箱があるから、その箱の下に、隠し扉が有るのを覚えているかい」兄弟は黙ったまま頷く。


「その扉の奥に、銭の入った革袋が有るから、それを持って上田の太郎おじさんの所へ行くんだ」


 およねは、源次郎の手を取り、大きな瞳を見詰めて「いいかい。兄ちゃんの言う事をよく聞くんだよ」と諭した。そして長男の正太郎に、もう一度向き直って「おまえの弟なんだから、どんな事があっても守るんだ。迎えに行くまでは決して戻って来てはならない。それを約束しな」そう言うと、九歳の正太郎が進んで母の指に、自分の小指を合わせた。


 覗き込むおよねの眼差しが痛い。兄弟たちが始めてみる母の眼に、思わず足がすくんだ。


 そして「峠を越えるまでは振り返るんじゃないよ。どこまでも走りな。どんなに苦しくても走り続けるんだ」と、暗闇に遠ざかる兄弟に叫んで、送り出した。


 この時、助けられた女工が息を吹き返していた。五平に手を合わせたあと、冷たくなった太い両腕を組ませる。その仕草には何処か作法がみえた。


 この女工は山の中の百姓家の娘なんかじゃない。と、思った。あとでもっと驚くことになる。


 およねは五平の脇差をとって、治助の帯に強引に差し込んだ。「この刀はうちの人の形見だから、一番かわいがっていたあんたが、持っていておくれ」


 このとき治助は十日程前の、五平の言葉が過った。丁度いまのような夜半に突然だった。戸板を開けるとそこに五平が、珍しく徳利を抱えて立っていた。すでに泥酔状態でだ。そのとき「わしに何かあったら、およねと子供たちを頼む」と言っていた。


 その言葉が、いま起こっている事だと、あの時の五平さんは、予感していたのだろうか。そして、およねさんも死ぬ気でいるんだ。そう思うと急に不安に駆られた。そして、もう止める事の出来ないこの情況を受け入れることにした。


 晒に巻いた包丁を、腰にある帯の間に隠す。そして五平の脇差を差し直すと、今度は自ら先頭に立って歩き始めた。その治助をおよねが捉まえて「途中まででいいからね」と念をおす。そして「あの子たちはまだまだ幼いから、わたしと五平が何故この地に来たかを、まだ教えていない。だから元服した時に、本当の理由を教えてやってほしい」と、訴えた。


 治助は即座に言い切る。「だめだ。およねさんを死なせるわけにはいかない」と、尚も「もしもそんな事になったら、五平さんに貰ったいくつもの恩を、仇で返すようなもんだ。そんなこと絶対にできっこない」そう言い切ると、続くおよねを振り切るようにして、土手に上がった。


 若い治助の迫力に押されてか、およねはあとの言葉を失った。そして従うかのように治助を追う。


 それまで押し黙っていた女工が駆け出して、治助の後ろに付いた。暗い中でも目を凝らすと、まだまだあどけない少女だ。小袖一枚だけなのか、この寒空にずぶ濡れの少女は、震えながら治助にぴったりと付いて行く。


 その様子を真後ろで観ていたおよねが、なにを感じ取ったのか、少女に向かって「あんたは隠れているんだよ」と厳しく声をかけた。


 その小袖の裾が不自然に揺れ動く。およねが、言葉にすることはなかったが、少女の背中からは、何かがめらめらと燃えているようなものを感じさせた。


 そうでなくてもあのあばら家は、ゴロツキたちには目を付けられていた。


 少女の後ろ姿を見ながら、すでに匿いようがないのだと、自らに言い聞かせる。決して乗り気ではなかったが、こうなっては連れて行くほかあるまいと尚も腹を括った。


 治助も考えは同じと思われ、後ろ手に差し出した掌で、少女の手を引いた。


 そして、いよいよ製糸工場の門をくぐろうとして、三人はしばらく佇んだ。


 この辺りでは最大規模の工場だ。当然、女工の数も最大だ。ゴロツキたちも、ここを本拠地としていた。


 三人は目配せを交わすと、先ず治助が正面の門に身を隠す。あとを追って、二人も同じように倣った。


 門の中には、広い庭をいくつもの建物が取り囲んでいる。そこを一人の男が、女工たちの監視役として見回っていた。


 突然少女が、見回り役を指して「あいつは私に任せて」と小さく言う。


 見るからにひ弱そうなこの少女の、何処からそんな言葉が出て来るのか。およねと治助は思わず見つめ合った。


 あきれ果てたように「任せろって、あんた何をするつもり」の言葉が終わらないうちに、止めようとしていた治助の掌を振り切って行く。


 門の奥へ進み出ると、見回り役の男の前に立った。夜空には雲の輪郭が明るくなって、そこから月が出ようとしている。その明かりに、その男も小太りのチビだと分かった。少女と並んでもなおも小さく見える。


 その姿から、どこか先天性の病を感じさせた。五平が河原で倒した三人目の小男と、よく似た特徴があった。そして少女を見ると、辺りを注意深く観察するように目を走らせている。


 その様子を物陰から観ていた二人は「まだ気が付いていない」と、河原での死闘を知らないのだと確信した。


 少女の話によると、ここのゴロツキたちの総勢は十人だと言う。この時点でのおよねは、倒したゴロツキの数をまだ認識できていない。あの監視役の小男を含めて、まだ何人がこの工場に残っているのだろうかと不安があった。


 寅ノ刻(午前四時)には作業開始というから、その一刻半(三時間)前には決着を付けなければならない。そのあと、あばら家の始末をしてから舟で向こう岸へと渡り、正太郎たちの後を追い掛ける。遅くても寅の刻には、峠に入っていなければ、追いかけて来る役人を振り切れないのだ。


 業者とつるんでいる役人の手に掛かりでもしたら、ゴロツキどもよりずっと残忍だと聞く。


 どんな仕打ちが待っているのかと思うと、気丈と言われたおよねも、流石にぞっとするものを感じた。そして我にかえると、もう二刻(四時間)も無いのだと覚った。


 少女の目の前にいる小男は、薄笑いを浮かべていた。迎え入れるような仕草のあと、尚もにたにたとしている。


 そして低く「おお」と、声を出した。二人から見る後ろ姿の少女が、小男に向かって微笑んでいるのを連想させた。この時、少女の赤い小袖の裾から、白刃の剣先が月に冷たく光った。


 それを観た治助は止めようとして飛び出す。それをおよねが必死で止めた。治助の手を抑えると、低く「やらせてやりな」と囁いた。すると、若い治助にその意味が伝わり、抜きかけていた五平の脇差を鞘に収めた。


 少女は、葦の中で拾ってきた打刀でいきなり切りつける。小男は、真剣白刃取りを気取ってか、顔面寸前で拝み取った。刀身のうち、茎と呼ばれるその部分は、いちおう素手でも掴むことが出来る。だが、刃をつぶしている訳ではない。


 チビの薄ら笑いは、自信満々の笑いに変わっていた。少女は取られまいと、握り締めた柄をさらに握り締める。そして、次には捻ろうとした。細い体に満身の力を込めているのが、後ろからも分かった。


 チビは両手の指を互い違いに組みなおして、掌で刀を奪い取ろうとする。少女は口の中でこれまでの恨みなのか、何かを罵りながら次には捻りを逆に変えた。


 すると、小男の顔面はみるみる蒼白し、掌からは血が滲んでくる。更にもう一度捻り戻すと、今度こそポタポタと垂れ始めた。たまらずチビ顔が歪んでいく。


 薄ら笑いがとうとう恐怖に変わった。思わず力が緩んだのか白刃が血で滑るのか、合わせた掌の間をジリジリとズレていくのが分かる。


 すると堪えきれずに、その刃を額で受けることになった。チビは反射的に腰の刀に意識がいくが、既に手遅れだ。


 深く斬れ込んだ両手の傷ではもう指も動かなかった。こうして耐えるほかになす術なしと、わが身の不運をたったいま覚った。


 そして額に食い込む少女の刃と、激痛と恐怖に震えたチビは、後退りしながら「すまんすまん」を力なく唱える。


 次の瞬間、刀を受けたままもんどり打って尻もちをついた。水たまりの氷に足を滑らせたのだ。額に食い込んだ刃のため、首の自由がきかない。すると、少女に命乞いを始めた。


 再び飛び出そうとする治助の帯を、後ろからおよねが掴んで引き止めている。「もう少し我慢しておくれ。あの娘の病を治すには、これしかないんだよ」と、不自然なものを示した。


 筋力に劣る少女は、チビの出っ腹に馬乗りになった。両手が使えず、仰向けに倒れて脚をばたつかせるが、抵抗という程の力はもう無い。


 だが憎しみに燃え上がった少女の狂気は、とても消えそうもなかった。どころか、チビの額に益々食い込んでいく打刀を、ついには鋸のようにして挽き始めた。


 この少女に、およね程の体力が有れば、最初の一太刀で一刀両断のもと、切り捨てていた筈だ。それが非力さゆえの拷問となった。


 およねが得ていた情報によると、このチビは凶状持ちの猪助で、左腕には二本線の刺青と、左目尻に銭形の痣があるはずだと知っていた。強い者には諂い弱い者には狡猾にと態度を変える。


 特に女には目が無いとそれ、手当たり次第に手込めにすると言う。まさに虎の威を借りる小心者で、こいつの兄貴分である熊蔵の太鼓持ちとも言われている男だった。


 我慢の限界にあった治助が、およねを振り切って堪らず飛び出した。いくら弱々しくても、チビが発する悲鳴は悲鳴だ。中に居る仲間に感づかれては、最悪を招き兼ねない。


 額に半ば食い込んでいる刀の峰を、治助はチビの顔面もろとも弾みをつけて踏みつけた。チビにしてみれば長い長い拷問だったと思われるが、ここでやっと終われる。


 悲鳴も呻きも止むと、深夜の寒い静寂がもどった。そこに製糸工場の大きな屋根が、軒を暗く連ねていた。女工たちだけでも百人とか、それ以上とか。そして、そこに小袖姿の少女がいた。


 打刀の柄を再び両手に握り締め、やはり恨みごとなのか、声にならない言葉を口の中で呟いては、眼の炎も消えてはいなかった。


 気が付くと、工場の中が騒然としてきた。建屋の内をカンテラの明かりがいくつも、扉や窓の隙間から走り回っている。軒下や出入口などの要所と思われる提灯に、灯りが点々と燈っていった。


 これほどの騒ぎに変わったのは、チビの悲鳴が聞こえいたからだ。そこでおよは、少女を建屋の脇にある、たる置き場の小屋に隠した。


 治助は工場と思われる、観音開きの大きな扉の陰に身を隠して、出て来るであろうゴロツキを待ち構えた。そこにおよねがもう一方の扉に隠れて向き合う。


「猪助。猪助」と、小男を呼びながら、大扉の一方を開けて、首を突き出した者がいた。痩せたこの男も、およねには面識があった。


 この工場の奉公人だ。だが、指図する立場でありながら、ゴロツキたちにはいつも馬鹿にされていた。


 その向かい側にある別の建屋が、月の影を大きく落として地面を暗くしている。そこに倒れているものが、まさか人とは思わず奉公人は、駆け寄って行った。痩せたその奉公人は、転がっているその体形から猪助ではないだろうかと思った。


 そのとおりなのだが、どうせ猪助のことだ、酔っ払って誰かと喧嘩でもしたんだろうと、勝手な解釈をした。確かに、誰かと争うような激しい息づかいや悲鳴は一応の辻褄が合う。


 ところがその奉公人が後ろを振り返った時、そこには出刃包丁を持った男と、首切り役人が持つような大刀を持った大女の輪郭に、思わず自分の目を疑った。


 そのまま悲鳴あげて門の外へと走り去った。急いで女工を隠している小屋へと戻る。治助は再び大扉の後ろで次のゴロツキを待ち構えた。


 およねは、樽小屋の外から、小さく声を掛けたが何の応答もない。もしやと思い、小屋の後ろの建屋に向かった。そこに、通用口が在ったのを思い出したからだ。


 見ると、その扉が半開きになっている。その中へと入ろうとした時だ、中から出て来る男といきなり鉢合わせした。なんと、そいつが熊蔵だった。そこへおよねの忍者刀が熊蔵の鼻先を掠めて、その下にある襟を切裂いていた。それは熊蔵の両目に反射した、微かな光りを頼りに、切り付けた瞬間だ。


 もちろん深手ではないが、腰を抜かして戦意を喪失した。その熊蔵の奥襟を掴んだおよねは、片手のまま引きずるように外に出そうとする。そのまま、強引なおよねに軽々と引き摺られた。


 うしろから奥襟を掴まれたこの体勢ではなす術なしだ。だが口だけは自由になる。そこで火事だの強盗だのと、声の限りわめき出した。


 その中に、助けを呼ぶ言葉が無いことを覚ったおよねは、手下の全てが居ないのだと判断した。すると、残るは親分一人だけということになる。


 大扉の前にまで引きずり出された熊蔵は、それでも腰の打刀の柄を、一旦は掴もうとした。だが尻もちをついた体制では抜き切ることなど出来わけがない。


 そこへ少女が小走りに追いかけて来た。再び口の中では、言葉にならない恨み言を吐きながら、直近まで迫ると眼の中に炎がみえた。それを熊蔵も確かに見た筈だ。


 その瞬間、少女の打刀が止めを刺していた。今度は拷問ではなかった。


 同時に、大扉の中で物音がした。治助とおよねのは観音開きを開け放って、暗い中へと進む。


 月明りが奥にまで届くと、そこには槍を構えた男が待ち構えるように仁王立ちしていた。こいつだと思った。こいつこそが、この辺り一帯のゴロツキを束ねる親分の太蔵だ。


 横たわっている熊蔵は、その実弟に当たる。ここで親分自らが出てくるとは、これが最後の一人だと証明しているようなものだ。


 手にしているのは、素槍とも言われる短槍で、厳しい修行はなくても実戦においては、戦国最強とまで言われた武具だ。また、同時に複数の敵に対しても強いとされている。


 その槍を治助に向けながら、じわりじわりと出て来る。およねは、男が持つ短槍の最後部に当たる石突は、金属部であり武器として使用できることをよく解っていた。


 杖術のように、前後を入れ替えながら攻撃されると、間合いを詰めることさえ出来ない。治助に、槍から離れるようにと叫んだ。


 屋外に出るとこの男、羽織を着ているのが分かった。町人には禁じられていたことだ。その下は寝間着のままであることまで分かった。


 それにしてもこのゴロツキども、槍だの弓だのといつも戦支度をしているのかと思った。五平が言ったように、戦国の世にいたという野武士の成れの果てか。


 槍を構えた男は、身のこなしからはいくらか使えるようだ。そして、およねの忍者刀を気にして体を入れかえよとした。その隙を捉えた治助の手が、槍の口金を掴んでいた。


 この一瞬を、およねが逃すはずがないが、動きを止めた。そこへ忍び寄っていた少女の打刀が、男の首に斬りつけたのだ。透かさず止めを刺そうとするが、男の羽織が刃を跳ね返した。その瞬間いやな金属音がして少女が崩れる。


 瞬間的におよねは、こいつ鎖を纏っていると直感した。尚も、およねは間合いをつめる。太蔵は斬り付けられた首をおさえて倒れ込む。そこを倒れたままの少女が、男の画面狙って止めを刺した。


 少女は、およねと治助の後について離れようとしない。そのまま河原に戻ると、葦の途切れた砂地に五平と小さな三郎の亡骸を埋めて墓とした。

 尚も少女は治助について行こうとする。それをおよねが引き止めて、家の囲炉裏へと案内した。


 まだ残り火がくすぶっている。取り敢えず少女を、およねの古い小袖に着替えさせ、防寒替わりに半纏と蓑を着させた。そして上田からの手紙や、関係している全てのものを、その囲炉裏に投じる。


 たいした量ではないが、火はたちまち大きくなった。大きな風呂敷を用意して、取り敢えず必要と思われる物を包んで背負う。少女も別の風呂敷を、およねの真似をして背負い、うしろに続いた。


 外は相変わらずの北風に、葦のうねりが続いている。遠くから馬の蹄が近づいて来るのが分かった。役人だ。逃げた奉公人が報せたのか、もう本当に猶予などない。


 急いで船着き場へと向かったが、肝心の船が見当たらない。そのまま治助の家の方向へと向かう。そこは正太郎が舟を繋いだトロ場へと続く道だ。


 その道を、およねが少女の手を引いて進んだ。土手から蹄がいっそう大きく聞こえてくる。二頭だろうか、三頭だろうか。一頭は上流に向かって遠ざかって行くのが分かった。役人たちは二手に分かれたようだ。


 葦の中に、柳の木が見えてきた。およねは、このトロ場に船が在るかも知れないと、祈るような思いで覗き見る。その舟が暗い中を勝手に流れて行く。


 だがこの葦が密集する中では追いかけようにも、どうにもならない。土手からは蹄の音が聞こえなくなっていた。馬を下りたのだ。すると、家を発見されるのも間もなくだ。


 この時、トロ場にある葦の影に、もう一艘の舟が泊めてあることが分かった。その舟から人影が起き上がると「およねさん。およねさん」と小さく呼んだ。その声は間違いなく治助だった。


 五平さんの舟が役人に奪われると、追跡されるので竿も櫓も壊して、たったいま流したところだったと説明した。


 その船で少し下ると、治助の家が見えてくる。舟着き場は家の裏手に当たる。


 そこで火をを付けて来るという。およねも風呂敷から何かを取り出した。


 二人は、治助が踏み固めた舟着場き場からの道を進む。そこは、堤防から来る役人とは、家の死角に当たる。


 その家に入った途端、葦の密集を掻き分ける音が、正面から迫って来るのが分かった。


 二人は急いで脱出すると、少女が舟留の縄を外し、いつでも漕ぎ出せるように待機していた。そのまま河口を抜けて湖の中央へと漕ぎ出る。


 この時、治助の家から爆発音と共に、大きな炎が天を突いて舞い上がった。およねが囲炉裏に仕掛けた火薬に火が付いたのだ。


 北風に煽られた炎は、枯れた葦を食い尽くすように、川上へと拡がっていく。飛び火した対岸にも燃え移って、両岸からの炎は尚も勢いを増すばかりだ。


 やがて岸が遠ざかり、五平が漁場としていた辺りを過ぎても、まだ熱が追いかけて来た。少女は、およねに向かって「霧が暮れ」と呟いたが、渡る風に治助にも聞き取れなかった。


 振り返ると、たったいま出て来たばかりの河口までも、火の海へと化していた。その炎が雲に反射し波に跳ね返って、手を合わせる少女の頬を赤く照らし出す。その表情から不自然なものが消えていた。




(第一話)


 一、薄明 


 二、この地の風土      


 三、強力な力        


(第二話)


 四、言い掛かりとEQ    


 五、麻薬取引        


 六、怪しい宗教家      


 七、神の子         


 八、精神病質者       


 九、史子の推理       


(第三話)


 十、キラノイン       


 十一、土地者        


 十二、序列         


(第四話)


 十三、山田の手紙      


 十四、公務員と反社     


 十五、戸松征雄、      


 十六、この地とけい子、   


(第五話)


 十七、血族         


 十八、悪党         


(第六話)


 十九、脱出         


 二十、再会         


(第七話)


 二十一、AI会       




 二、この地の風土


 田舎の薄汚れた木造の駅に、椎名美智子は降り立った。


  すっかり都会人になっていた彼女には、駅前のロータリーが随分と狭くもあり、みすぼらしく感じられる。


  何時もなら数台のタクシーが、客待ちで並んでいるのだろうか。この日に限っては一台も停車していなかった。


 晴れた午前の駅前広場を、五月の風が埃っぽく過ぎて行く。その向こうには、降りた駅と並行するように狭い本通りが横たわっていた。


 正面には、駅と向かい合うように、小さなコンクートの建物が建っている。木質密集の屋並みから一際ぽつんと高く、この駅舎を見下していた。


 狭い通りの両側には、雑踏ほどではないが往きかう人々が忙しなく続く。そんな風情から何かしらの違和感を感じた。


 これが同じ信州の田舎町なのだろうかと、重いボストンを下ろして一息ついた。


 美智子が育った田舎とは対照的に、人々の表情には歯を食いしばるような、肩ひじを張るような不自然さが観える。感じた違和感とは、この不自然さだったと思った。


 いつもは通過点の駅であり、降りてその表情を観るなどは初めてだ。その通りから見上げると、ビルの二階には、そこだけ瀟洒な窓がいくつか並び、隅には純喫茶の看板が縦に掛かっていた。広場の汚れたベンチを横目に、取り敢えずその看板を目指して進んだ。


 ショルダーの他に重いボストンを下げて、食い込む蔓で指の感覚はすでに無い。狭い通りを横断しようとしたとき、これでも二桁の国道だったと知った。


 しびれは腕から肩へと拡がっている。ビルの一階である化粧品売り場から、仕方なく階段を上って二階の角にある喫茶店へと逃げ込んだ。


 人気のないガランとした店内の中央を進んで、瀟洒に見えていたと思われる窓際の席へと向かう。成程ここならよく見えると、駅前のロータリーを確認して腰をおろした。


 ショルダーから、地図を取り出して早速眺める。そして、麻痺している指の感覚を取り戻すようにマッサージを繰り返す。そのあとメモ帳に、記号のような小さな文字で、何かをぎっしりと書き始めた。


 どうやら速記のようだ。しばらくして書き終わると、そのメモ帳の前頁には、乱暴な文字で次のような事が書きこまれていた。


 Ⅰ、雪道などでスタックする車を待ち構えている。押してもらうときには、いくらなのかを必ず確認しなければいけない。が、少額を示しておきながら、なんやかんやと言い掛かりをつけては、結局は法外な金額を要求してくる。ボランティア精神旺盛なふりをしているが、端から集り目的である。よそからは、その地域を指して変なところと呼んでいる。


 2、変なところでは、やくざ言葉で会話することを、何故か年寄りが自慢する。よそからの他人(ひと)はそれを指して「土地者」と称する。また土地者は、外部地域の他人を、代名詞として「よそ者」と呼んでいた。この場合の「そよ者」は差別を意味した言葉だ。普通は、大勢派が少数派を指して使うが、土地者は大勢派のなかにあっても、他地域の人々を差別するという、ふてぶてしさを持っている。


 3、「この地」とは、変なところの中の一地域と思われ、そこの公営団地には、多くの土地者が居住している。些細な事でも、何かにつけ言いがかりにする風習があった。この古くからの風習を、よそから来た他人(ひと)には秘密にすることで、排他の一因ともされている。


 4、「この地」では、一部の者と思いたいが、自らを本気で神の子と自称する人物が居るといわれてきた。


 5、そこは四方を山に囲まれ、狭い盆地の中央には湖が居座っている。陸の孤島のように、残された僅かばかりの平地を、土地者はしがみ付くように守ってきた。


 6、そこの住民である土地者は、独裁国家のように強い結束力によって結ばれているそうだ。よって住民の反応は右に倣えの如く、軍事国家の隊列のように同じ反応を示す。この土地者の中に、煽り屋と言われる組織らしき存在がある。何かにつけ、無差別的な誹謗中傷を行う。その様は、放火魔が物陰からほくそ笑むが如く、他人の不幸に自己陶酔する為だと言われている。


 7、この地とは、同じ日本の内なのに、外部の他人に対する考え方が著しく違う。その原因の一つに、集団的なサイコパスが起因していると思われる。俺はその地域を敢えて「見知らぬ天体」と表現する。


 そこは「信州という牧歌的なイメージの中でありながら、工業に支えられた地方都市である。そこの住民には、発展への強い自負があった。


 しかし「この地」では暴力団を排出し、近隣地域からは札付きの厄介者としての認識が強い。また、住民たちは極端なほど理屈っぽいと言われているが、言い掛かりを正当化しようとする余り、理屈を持ち出したとも考えられる。


 また、それ以上に住民は攻撃的かつ狡猾であり、人生とは争い合いであると、頑なに信じている。かつては人食いの言い伝えまであったと聞く。以上が、この地にある風土風習だ。


 尚この地とは、地理的にはどの辺りを指しているのか、また工業と暴力団の、相反する矛盾を本件と合わせて調査せよ。


 西陽の差し込む窓から、暫くは駅前の様子を眺めていた。空っぽだったロータリーに並び始めたタクシーが、一台また一台と増えていく。時計を見ると、すっかり冷めてしまった残りのコーヒーをそのままに席を立った。


 駅に戻る横断歩道に足を踏み入れる。するとロータリーの中央に、黒塗りのタクシーが居座っていた。だが、よく観ると一般車のようだ。屋根に付いている筈の行灯が無い。


 その高級車から降りたと思われる三人の男たちがいた。いずれも黒っぽい服装に黒メガネをかけている。その一人のパンチパーマが、降りた車に鍵を掛けようとしていた。


 タクシーが順番待ちをするロータリーの真っただ中でのことだ。一般車は立ち入り禁止の筈だ。そのため、順番待ちのタクシーは、コースを外れて迂回しなければならない。


 それを苦々しく一瞥する黒服の三人組。みんなズボンのポケットに手を突っ込みながら、メガネの金縁を光らせて、こっちに向かってやって来る。


 その足取りはのたりのたりと、如何にも繁華街の暗闇を思わせた。一人が火の付いたままの煙草を、指で弾いて捨てる。その男の黒メガネの奥と突然眼が合って、思わず美智子は怯んだ。


 足を止めるとすぐ後ろを、長い車列が引っ切り無しに通過して行く。そこは一つしかない横断歩道の中央だ。もう進むしかない。


 路上に差し掛かった男たちは、この歩道へとは向かわず、そのまま国道を直線的に横断し始めた。


 美智子のなかで、一瞬の緊張が解消する。男たちはたった今美智子が居たビルの入り口目指して、またのたりのたりと歩み始める。


 途中、急ブレーキがあったが、男たちに向かってクラクションを鳴らしたり、罵声を浴びせたりする者はいなかった。


 見て見ぬふりなのか、関わりたくない気持ちはよく分かる。が、何時かの取材で、若い女性が襲われそうでも誰も止めようとしない、そんな薄ら寒さを感じた。


 眼が合った男が、横断途中で振り返り、美智子を指して何かを言おうとした時だ。それを遮るようにして突然タクシーが止まった。


 白髪の運転士が顔を覗かせ、よく響く声で「お待ちどうさま」と美智子に声を掛けた。


 後部座席の自動ドアを開けて、入れと促す。この助け船に躊躇いはあったが、初老の瞳に澄んだものを感じた。


 美智子の荷物を透かさずトランクに積み込む運転士の姿を観て、男たちは去って行った。


 予約していたホテルは、駅から少し離れた温泉街の隅に在ると聞いていた。狭い街中の角を、いくつか曲がったところがそのホテルだった。取り敢えず荷物だけを預けて、そのままとある団地へと走らせる。


 温泉街を抜けると、湖の畔に沿って南へと向かった。道は次第に閑散とし、やがて田園風景の中へと景色が変わっていく。後部座席から観る通りも田舎道そのもので、同じ県内に在る美智子の古郷を思い出させた。


 助手席の正面には、運転士の認識番号と唐沢の姓が記されたカードが表示されていた。


 頃合いをみて美智子は、良いタイミングで拾ってくれた事への礼を言った。


 すると唐沢は待っていたかのように、男たちについて次々に語り始める。仲間の運転士が被害にあったこと。旅行者が言掛りをつけられ、身ぐるみ剥がされたとか。以前には芸者衆が身売りされたとか、したとか尽きない。いったい何時の時代を言っているのかと戸惑いがあった。


「僕らの若い頃は、温泉場といえばあんなのがゴロゴロ居るのが当たりまえで、珍しくもなかったですがね」と、この時ばかりは、懐かしむような目がミラー越しに笑った。


 そうであった、工業の盛んな地方都市のイメージでいたが、ここは元々温泉場として始まった由来がある。


 唐沢は話題を変えて「ところで奥さん。家にも、嫁いだ娘が千葉県寄りの外れに居ましてね」と、東京を前提として言い出した。美智子は「あら。外れと言いますと」と話に乗った。


「江戸川区ですよ」と笑う。美智子は荒川の堤防沿い辺りを思い浮かべて「ああ。いいところですね」と笑って返す。


 そのあと、駅前で美智子の姿を観て、すぐに娘を思い出したという。チンピラに絡まれそうだったので、咄嗟の思いつきで乗せたのだと説明した。また、美智子の姿は、如何にも都会からの旅行者風で、カモにするには打って付けの恰好だったそうだ。


「でも、どうして東京からと分かるのですか」と聞く。すると「いつもは、何時に到着したかで、東京からの特急だと分かるんですが、奥さんの場合は、その服装からですよ」この言葉で、東京を前提とした話に納得した。


「そうでしたか。それで私を観た瞬間に分かったのですね」


「はい。如何にも無防備な仕草でね」と、目がやっぱり笑っていた。


「無防備でしたか」


「そうです。あんな連中から観れば、良いカモだったと思いますよ」


 美智子の職場は大都会の、しかも中心地に事務所を構えている、にも関わらず、信州の田舎町で無防備と表現されたのだ。こればかりは意外だった。


 そのあと、特急から降りたとき、駅にはタクシーが一台も居なかったことを言うと「ああ。その前に臨時列車が入ったからな」と返ってきた。つまり、臨時列車の客にタクシーを取られて、ロータリーに待機する車が出払っていたという説明だ。


 やがて、団地名の掛かった看板を入口方向に曲がると「何というお宅ですか」と聞いてきた。


 古川の名を言うと、ミラー越しの顔が途端に曇って「古川さんなら、今は居ません」とあっさり言い切った。


 そして、停車させると運転席から後ろ向きに直って「お客さん」と、美智子の目を覗き込む。


「古川さんとはどのような関係ですか」とあからさまに訊かれた。美智子は、この豹変ぶりに驚いて「どういう事ですの」と聞き返していた。唐沢は、さっきまでの澄んだ優しそうな眼ではない。


 閑散とした団地は古い木造の長屋造りで、同じような棟が規則正しく並んでいる。その一つの棟で停車させると、とある玄関を指して「その家は藤村さんというお宅だ。詳しいことはそこで聞いてくれ。古川はその隣だ」と言う。そして、美智子を降ろそうとした。


「聞いてくれと言われても」と困っていると、唐沢はタクシーをスタートさせようとする。だが、すぐに思い留まって、運転席から再び向き直って「藤村君は友達なんだ」と言うなり、ふと思い出したように「もしかすると入院しているかもしれない」と、美智子に待っているように言うと、その玄関へと向かった。


 チャイムを押したが、応答がない。「オーイ、フジクーン」と声掛けを繰り返すが、それでも応答がない。


 唐沢は電気メータを覗き込んで踵をかえすと、運転席のドアから「止まっている。やっぱり病院だろう」と言って心当たりへ電話を掛けると言う。


 もう一度玄関先へと戻った唐沢は、藤村と書かれた表札の前を行ったり来たりしながら、不安そうに携帯に話している。


 すると突然晴れやかな表情に変わるって「入院中」と車内の美智子に唇で伝えた。ほっとしている様子が伝わって来た。


 唐沢は戻るなりタクシーを走らせる。病院は湖畔端に位置していると説明した。さっきもこの団地へ向かっている途中、その前を通過したと言うのだ。


 美智子は気付かなかったが、一際大きく見える白い建物だという。


 やがて如何にも病棟を思わせる、白く大きなビルが見えてきた。ここら辺りでは一番の病院だそうだ。また、ホテルからも近く、徒歩でも十分行ける距離だと聞いて安心した。


 古川の隣に居住している人物であれば、恐らくは全ての事情を知っているものと期待した。


 病院の広大な駐車場に到着すると、唐沢は自分も行くと言うので、同行することにした。美智子は二人だけになったエレベーターの中で、藤村の容態について聞いてみた。すると癌だと、平然とした口調で言う。


 唐沢はその病気については、随分と前から知っていたと説明した。見た目には元気だが、これまでに大きな手術を三回も繰り返してきた。今回は検査入院だという。


 藤村は上背のあるやせ型で、冷静そうな眼差しが印象的だ。先に立って、同じ階の待合室へと案内した。


 その姿からは確かに病人には見えない。大きな掌てをそっと出して、唐沢に煙草をねだった。「大丈夫かい」と言いながら手渡した煙草に、火までつけてやっている。


 たばこを挟んだ手は、指まで日焼けしていた。


 その指で一服ふかすと「こちらは」と美智子に視線を変えた。美智子は簡単に自己紹介する。唐沢は自分の乗客でと言って、これまでの経緯を説明した。


 すると藤村は驚いて「古川君の知り合いだって」と、目をまるくする。「俺は、てっきり奥さんの知り合いかと思った」と、言う。そして美智子の瞳を覗き込む。


 美智子は「どうしてですの」と聞いてみた。藤村は少し困ったように「いや、だって古川君はあっちの人だろ」と小さく答えた。


 美智子は、藤村の言葉の中にあった「あっちって、どっちのこと」と質す。


 唐沢と藤村は互いの顔を見合わせ「いや、詳しいことは知らないが」と、済まなさそうな声で「つまり、外人だという噂なので」と、次の言葉を詰まらせた。


 美智子にはこの「外人」という表現がビンとこない。ふつうは欧米系の白人を指して外人と言っているが、それとは別の意味があるのか。あるいはこの地方独特の表現で「アジア系の外国人とか」と呟く。すると藤村が「中国とか、韓国とか」そう、憶測を言った。唐沢が慌てて止めようとしたが、既に遅い。


 美智子は「ちょっとあなたたち、なに人かも分からないのに、外人と言っているの」と声を上げた。それに唐沢が「済まない」と謝罪した。


「古川さんこそ、何処からどう見ても、典型的な日本人の顔立ちなのに」と、有り得ない驚きを伝えた。


 そして二人を見比べながら「あなたたち、本当になにを言っているのか、分かっているのですか。ばかばかしい、外人だなんて、そんな筈はないでしょ」と、少し怒りに変わった。そして、古川とは幼馴染で、同じ飯田市の出身であることを説明した。


 二人は暫くの間、言葉がみつからない様子で、再び顔を見合わせると、唐沢が「では、もしかして本物の日本人ですか」と恐る恐る聞いてきた。


 美智子は思わず吹き出しそうになるが「本物の日本人とはどういう意味ですか」とつい怒鳴りつけていた。


 そして自分の名刺を出して二人に渡す。その肩書を見た二人は、あからさまに驚いた。


「古川さんは、私と同じ飯田市の生まれなんです」


 唐沢は「こんな有名雑誌の記者さんが仰っているんだから、本当なんだ」と、藤村を見詰めて頷く。そういえばタクシーの座席裏にあった雑誌は、美智子の出版社のものだった。


 その唐沢に釣られたのか藤村が「古川君には済まないことをした。俺は噂を信じ込んでいて」と言い、自らの胸に手をやって「こん中のどっかでは、まさかとは思ってはいたんだ」と言い訳っぽく謝罪する。


 頑固そうな顔に似合わず、その後は美智子の言葉をあっさりと認めるようになった。


 唐沢は尚も「以前にも似たようなデマが横行して、団地を出て行った家族がいた」と補足する。美智子は「では、このデマは初めてではない」と、聞く。


 唐沢は「このデマどころか、あの団地ではありとあらゆる嘘話が、実まことしやかに横行するんだ」と明した。


 そして「俺のようなよそ者には、嘘なのか真実なのかの見分けがつかない」と、判別方法の難しさを訴えた。


 結局二人の話を総合すると、このような類の噂は誰かを経略的に陥れようとして、吹聴するのだと言う。あれこれと言い掛かりをつけては、本人を困った立場へと追いやる。二人とも頭の何処かでは、そんな計略的なものを感じていたらしい。


 ところが時が経つうち、多数派に洗脳されてしまったようだ。やがては、本当に外人だという幾つもの尾ひれが囁かれ始め、いつの間にか団地全体を支配する様になったというのだ。


 例えば学校で虐めに遭っている生徒を助けようとすると、その結果クラス全員を敵に回す事になり、次に向けられる矛先にされ兼ねない。そんな恐怖があるのだとも説明した。まさに虐めの構図である。と、美智子は思った。だが、その根はもっと深い所にあるような気がした。


 美智子の「虐めですか」という質問に、二人は黙ったまま肯定する。藤村が「あの団地に限らず、何処の土地にも虐めは存在する」と声をあげて言った。美智子には(だからいいじゃないか)と言っているように聞こえた。


 そこで「外人などと言う嘘が蔓延すれば、その結果当事者はどのような事態になるのか、お二人とも想像できますか」と、詰め寄る。


 二人は「勿論」とは答えたが、美智子は「もしも、あなた方に小さなお子さんがいて、そのお子さんが学校で虐められ、自殺で亡くなったとしたらどうするのです」と、尚も詰め寄った。


 そして「そのお墓の前で何て言うのですか。何処の土地にも、虐めはある、とでも言うのですか」と、静かな廊下に、声が細く響いた。


 そして「前後しますが、彼はなぜ外人などと呼ばれるようになったのですか」と、改めて続ける。これには二人とも答えられない。


 沈黙のあと、藤村が「俺が初めて知ったのは、生命保険の勧誘をやっている外間のぶよからだ。その時の話では、古川がここに居住し始めて暫くすると、外人だと言う噂が出てきたと聞いている」と明かした。


 すると唐沢が透かさず「僕が聞いたのは、暫くではなく三~四年後のことだと記憶している。外間と古川の間で揉め事があった直後ではないだろうかと思う」更に、まだ言いたいことが有りそうだったが、藤村が俺の話に割って入るなと言わんばかりに、唐沢の話を遮る。


 そして「だから俺は驚いたよ。外人だと言うんでどんな奴かと思っていたら、どう見ても日本人にしか観えない。いったいどうなっているのかと思った。そうだ。いまたしかに思い出したよ。外間のぶよの話から、二年くらい経っていたと思う。何処の国の何人か分かっていない筈なのに、団地内ではただ外人だと叫ぶ連中が、少しずつ増えていったんだ」と以前の藤村も、美智子と同じ疑問を持っていた事を思い出した。


 尚も「いつの間にか気が付けば、嘘が団地全体に広がっていた」と、言う。


 だが、藤村自身もこの頃から、やっぱり外人説は噂ではないだろうか、と頭の片隅では思うようになり始めていた。その理由は美智子が言ったように、出生地が分かっていないのに、何故外人と断定できるのだろうかと、やはりこの疑問から始まったようだ。


 そして「こうして落ち着いて考えてみれば、嘘が観えて来るのに、あの団地の中に居ると何故か多数派に同調してしまう」と、説明した。


 美智子は成程と思い「分からない訳ではない」とした。そこで唐沢が「答えは、外間のぶよの嘘という事になる。あの団地では、他にも出どこの分からない噂は、これまでにいくつもあったようだ」と、更に補足した。


 美智子は「外間のぶよさんとは、どのような人物なのですか」と聞く。藤村は「歳は俺より、三つ四つ大きいと思う。いい歳なんだが、あの性格を理解できる人は一人もいない」と漏らした。


 途端に「なに言ってんだ。嫌われ者だ。あの団地一番の嫌われ者だよ。くせ者もなんだ」と唐沢が暴露する。


 そのあと、嘘の出どこに戻すと唐沢は「言い出しっぺは誰かと、はっきり聞かれれば、やっぱり分からないと答えるはかない」と、曖昧な表現に変えた。


 そして「もう古い話でもあるし、噂として伝わってくるから、出どこなどをはっきりと記憶していないんだ」と、説明する。


 この二人のデータだけではまだ何とも言えない段階だ。しかし、あの団地では古株二人の証言だからこそ、ほんの一言でも、もっと具体的なものが有って然るべきだと思った。


  だが、それが無いというのは、嘘やデマの出何処を、隠して吹聴している可能性がある。と、いうことは、本人である古川自身には噂を知られたくないのだ。


 その理由は、本人の耳に入れば嘘がバレるからだと、推定した。美智子は、以前にもあった事例から、嘘の出どこが知れる事で、言い出しっぺこそ困った事になる筈だ。そんな環境に居る人物とは、例えば守秘義務などの、法に抵触する恐れのある個人あるいは団体などが、それに当たるとした。


 話題を変えて、藤村がこの地の風土について答えた。


「それは、戦国時代にまで遡る」


 美智子はその言葉を、メールしながら聞く。


 構わず藤村は、淡々と「この辺り一帯は、地理的にも戦略的にも重要な要所だった」

「北は上杉、東は北条、西には織田、南には今川などと列強に囲まれていた。だから各地から集まって来る喇叭(らっぱ)と呼ばれる忍者どもが、暗躍していたと聞いている」

「奴らはデマで民を翻弄し、時には火を放つなどして地域を混乱に陥れた。これに業を煮やした者たちは、殿様からの命を取り付け、喇叭の封じ込めを図ったのだ」


 更に「その手段として、よそ者を排除するための、徹底的な差別作戦を展開した」という。


「それは土地者とは違う言葉を話す者、違う考えをする者、違う身なりや、違う行い等々である。これらを異質と捉えて排除の対象としたのだ。こうしてこの地一帯では、このような方法で土地を守って来た」と、説明した。


 やがて、それがこの地の、極端な排他風土として定着したと語る。


 その頃の殿様は、武田の支配下にあった。同時に信玄公は、信濃で起こる反乱を平定しようとしていた。確かに信玄公が行ってきた策略の中には、排他的な手法がいくつもあったように思う。皮肉なのか結果なのか、この地の排他は極端な異質となってしまった。


 美智子は「この地一帯というのは、具体的にどの辺りを指しているのですか」今度は藤村自身の見解を聞いてみた。


 すると、あの団地の方向を指して「団地と周りの地区を含めての範囲だ」と言う。そして何故か、そのあとを語ろうとはしなくなった。


 そこで唐沢が後を引き継ぐように「僕は、湖の東側全域と、それに続く平地一帯を指していると思う」と、自身の見解を言った。


 更に「西の方角を指して「あの方面だけは、絶対に違うよ。タクシーで流していると、この地とは人種が違うほどの相違差を感じる。これは理屈じゃなく、僕自身がこの肌で体感していることだ」と語気を強めた。


 美智子のイメージでは、もっと広範囲な地域を想定していた。この盆地一円を指しているのかと、そんな印象が強かったからだ。だが藤村の見解では、ずっと狭い範囲に限定されるようだ。


 あの閑散とした団地内に、整然と並んでいた幾つもの、古びた長屋を思い浮かべてみた。


「あそこは街外れというより、産業や商業の中心から取り残された地域ではないかと。あるいは物理的な地域ではなく、アウトサイダーとも、隔離された地とも感じました。何故そのような場所が重要な要なのでしょう」と聞く。


 すると藤村は「色々と、考え方があると思う」と言って次の煙草をねだった。「一つだけはっきりと言えるのは、この地の者たちには自分を、神の子だと信じている者がいるんだ」美智子は思わず「まさか」と、苦笑を抑えた。


 その藤村も同調するように、深く吸いこんだ煙を吐き出す。そして「詰まりな、この地に長く住んでいないと分からないかもしれないが、ちょっとだけ想像を交えて言えば、この地の者たちは、神様の子孫であると、深く信じている者が、本当にいるんだ」そう苦笑いをこぼす。


 唐沢も頷くと「確かにそんな話はある」やっぱり笑いを堪えているようだ。


 藤村は、団地の方向に指をやると「たとえ隔離されたとは言っても、敢えて地域的に言えば、乗り物の無かった戦国時代だ。城まで直線的に急げば二時間は掛からない。あの時代、騎馬武者なら、敵が城を囲み切るまでには十分な距離だ。決して遠いものではない。どころか、戦略的には理想ともいえる距離感だと思う。それに、攻め込んで来た敵を欺く為にも、地の利を活かしている」と説明した。


 美智子には、やっぱり理解できなかった。


 そのあと、前に戻って「この地の住人全てが、業を煮やした人たちではないでしょ」と確認する。これに対して藤村は「当然だ。業を煮やした者たちとは、信玄公に忠誠を誓った、この地を治める重臣と、元々この地にいた家臣たちだ。それは少数の地侍だったとも聞く。それでも一帯を治める程の権力は持っていたそうだ」と語った。


「だからこそ、この地の足軽たちを束ねることが出来たんだ。また足軽たちも、外敵に晒されるのは脅威であり、この地を守ることが自らの利益となる筈で、当然のように地侍と運命を共にしていたと考えられる」美智子は「そうでしょうね」と同意した。


 藤村は「戦国時代を背景に、交通の要所として、戦略的な要所としても重要だというこの地一帯では、全ての住民が一丸となって敵に当たらなければならなかった。そこには個人の意思や個性などは無く、ただひたすらにこの地一帯のために、武田家に与する事こそ、地域を守る術だと考えられていた」


 美智子は、そんな社会とはいったいどんな社会だったのだろうか。と、自問自答していた。速記帳には「軍事大国のような画一化された社会」と、記した。


 今度は藤村が質問した。「美智子さんの住んでいる所で、よそ者という言葉は聞くかね」と聞いてきた。


「いいえ。そもそも東京全体がよそ者みたいなものですから、全域を言われば分かりませんが、私の居る所では、よそ者はとっくに死語で、使う人はほとんどいません」


「そうだろう。俺が思うには、美智子さんの郷里でも」と言って、唐沢に視線を向ける。そして「駒ケ根にもよそ者なんて言葉はもう無いと思うよ。だが、この地では今も生きている言葉なんだ」と言う。


 唐沢は「確かに」と頷いた。美智子は、風土と並んで、この地の体を表す言葉だと記した。


 藤村は「外敵に立ち向かう為には、すべての住民を画一化しなければならなかった。戦国時代を生き抜く為に発生した、必然だろうか」と続ける。そして「それも風土になったのではないだろうか」と言う。更にそのあと「この地で育てられたから、風土へと変化する事はよく理解しているつもりだ」と、補足した。


 更に「俺は長年、差別を意味する(よそ者)と言う言葉を、他所の地では一度も聞いた事がない」と続ける。


「まだまだ小僧だったあの頃、今年は県内の現場、来年は隣の県にあるあの現場と、行く先々で新しい空気、新しい人間、新しい出会いと人情に触れて来た。みんな俺を当たり前のように迎え入れてくれ、また当たり前のようにもてなしてもくれた。人と人との繋がりがこれ程温かく深く楽しいものだと、俺はその時初めて知ったよ。人間(ひと)は競い合いではなく絆であることを、深く思い知らされたんだ。ところがどうだ、この地の俺が言うのも変な話だが、土地者たちときたら競い合うばかりで、いやそうではない、他人の物を盗ることが、本文であるかのように考えている」


「それを実の子にまでそう教えるんだ。だから若いもんがその勢いで、よその地へ行っては奪い取って来る。そんな姿が、小僧だった俺にはまるで英雄のように映っていた。それが旅に出て何年かするうちに気が付いたんだ。これまで常識としていたことが、よその地ではとんでもない非常識だったと。奪い取ることで幾つもの争いを生むことになる。だから、それを知っている余所の地では、争いごとを起こさないように、人情で支え合っているじゃないか。つまり絆だよ。この地ではその絆が無い。そうだ、人情が無いんだ」


「全国津々浦々歩いても、これ程人情の無い土地柄はない。人情が無いということは、支えている絆が無いということだ。だからみろ、この地には結が無い。昔はあったかも知れないが、今は皆無だ。だから、絆があってこそ出来る制度がこの地には無いんだ。それどころか、江戸時代が終わったあとでも、人柱を立てるなどという、残忍な風習が残っていた。その人柱は、誰がどのように選ぶか美智子さんには分かるかね」そこまで言うと藤村は、余計なことまで言ってしまったと少し後悔したのか、目を合わせようとしない。


 それに構わず美智子は「誰がどのようして選んだのですか」と尚も尋ねた。藤村は煙草をふかしていたが、じれったそうに唐沢が「この地の実力者が、百姓の中から気に食わない奴を選ぶんだ」と割り込んだ。


 すると藤村が鼻先で冷笑する。唐沢が「と、言われてきたが、実際には僕のようなよそ者を捕まえて来て、声を出せないようにまず舌を切るんだ。そうして生き埋めにする。だが人間は舌を切られても、うめき声なら出せる。その声が土中でだんだんと小さくなり、やがて途絶えると、みんなでお神酒をあげる。その様子はまるで乾杯と叫んで、祝杯を挙げている様に観えるんだ」と暴露した。


 美智子は、これこそが画一化された社会の「成れの果て」と速記する。


 藤村は、ここまで言われると返す言葉がない。一瞬迷ったあげく「人柱が信玄公によるものか、俺は知らない。だが、この地に残る風習の中には、やっぱり信玄の教えだと言われているものが確かに残っている。そこでよく考えてみると、風習と思われる教えの原点は信玄公だが、長い歴史がこの地独特の風習に変えたのかもしれない」と、別の風土風習への一つがあった事を示唆する。


 続けて「それに、そんなもんは遥か大昔の、そのまた大昔のことだ。とっくに時効だ。今頃になって、時効が成立したものを持ち出すな」と、怒鳴った。


 すると唐沢が、深く頷いたあと「なるほど。この地の土地者が生んだ風習に気付いたのは偉い」と、茶化したのか褒めたのか。そして、僕も知っている事を言うと「よそ者とは、信玄公が城内を乱す者として、喇叭を封じるための戦略だったと言う話は、僕も聞いている。フジの話と全く同じだ。こうして、喇叭と言っていた忍者を排除するための風習を築き上げてきた。だから戦略なんだ。ところが、長い歴史のなかで、戦略が独り歩きをする様になり、今では差別の意味で使われている」そう説明した。


 これが気に食わなかったのか「そんなこと言われても、俺は差別なんかしたことなど、一度だってないぞ」と、藤村は不機嫌に反論した。


 唐沢は手振りで「まあまあ」と言いながら「フジを責めている訳じゃない。僕は一般論を言っているだけだ」すると、この言葉にも釈然としなかった藤村は「いいか、もう一度言うからよく聞け、俺の生まれは駅裏の町中だ」と、唐沢の耳元でわざと怒鳴った。


 割って入った美智子は「さっきは確かこの地と」と、言いかけたところで、藤村が「生まれとは言っていない。あれは子供の頃に、この地に預けられていた事を言ったまでだ」と、唐沢に向き直る。


 すると唐沢もわざとらしく、自分の耳を塞ぎながら「そうだろうな。あの団地に比べたら品の良いお家柄だそうで、ご幼少期から、親戚のお屋敷で、たいそうお大切に育てられたとか」とやり返す。途端に藤村の顔色が見る見る変わっていった。


 これ以上は放っておけないと思った美智子が、また割って入る「藤村さんの仰る駅裏の地とはどの様な地なんですか」と聞く。


 藤村は「んむ。丁度駅裏に当たる旧街道沿いだ」駅の方角を指して続けた。「元々は其処が一番の繁華街で、こんにゃく屋をやっていた家だ。根っからの土地っ子だよ」と得意そうな顔をする。


 こんな時、土地者はみんな得意そうな顔になると、どこかで聞いた記憶を思い出した唐沢が「何が土地っ子だよ。笑わせるな。素直に土地ッコロと言ってみろ。だいたい江戸時代までは、岡っ引き崩れのゴロツキだったくせに」と、かみついた。


 友と言えどあんまりな言いように、今度こそはと藤村が怒った。「土地ッコロ」と繰り返して、大きく息を吸い込むと「岡っ引き崩れのゴロツキとはなんだ。俺の先祖はこの城下の見回り役を務めた藩の役人だ」と、腕組みをした後、もう一度大きな手を出して、煙草をねだった。その手が震えて呼吸も荒い。ねだる方も方なら、差し出す方も差し出す方である。今にも掴み合いか、殴り合いかのタイミングで、煙草にまた火を付けてもらいながら「お前こそ伊那者のくせに生意気なんだ」と言い放った。


 あの冷静そうだった瞳が今はギラギラとしている。美智子には本気で怒っているように見えた。


 伊那者とは、この地方で伊那方面の者をバカにした言い方である。伊那に限らず、飛騨者とか佐久者とか塩者や甲斐者などと、この地方の周辺をバカにしたり、差別したりするときは、このように何々者という言い方をするのが、かつてからの習慣だった。それに対抗してか、他所からは土地者と言われている。


 そして、今度は唐沢が牙をむいた。「伊那者のどこが悪い。どうだ、言ってみろ」と、開き直る。


 そして出している煙草の箱を藤村の目に翳したあと、これ見よがしに自分のポケットにしまい込んだ。それを見た藤村は「だいたい病院へ来るのに手ぶらとはなんだ。ふつうは見舞金と菓子折りの一つも」と言いかけて「いや。煙草の一カートンも持ってくるのが礼儀だろうが」の言葉に唐沢は「そっちこそ土地ッコロの分際で、手土産を要求できる身分か。それも病人のくせに煙草をねだるとは」と切り返す。


 このおかしな遣り取りに美智子は、もう笑うしかない。


 落ち着いたところでよくよく聞いてみると藤村は、伊那に限らず周辺の者たちをバカにしている訳ではないと言う。例えば都会育ちの者が田舎者を観ると、その動作の鈍さに苛立ちを覚えるのと一緒で、それと同じ状況が、この地でも起こっているだけだと説明した。


 だから、決してバカにしている訳ではない。というのが言い分だ。


 対して唐沢は「その苛立ちが、既にバカにしている証拠だ」と言って収まらない。また「その周囲にある町や地域が、お前らのことをなんて言っているか知っているか。お前らの事をみんながヘボと言っているんだ」すると藤村は「お前こそ何故ここで商売している。自力で食えるなら、お前の嫌いなこの土地に来なくてもいいじゃないか」と譲らない。


 結局二人の話を纏めると、この盆地一円の者たちは、産業の無い周辺の地域を食べさせている。そんな自負があるようだ。だから少し気位が高く支配的である為に、周辺を見下す傾向に観えるのだという。これも事実のようだ。


 一方周辺の地域では、食べさせて貰っているなどという意識は全くない。それどころか土地者が、やくざというなりでやって来ては大切な故郷を荒らし廻っている。唐沢がヘボと言ったのはそのやくざの事だ。結局はこの地の者たちには、周辺地域に対して、何かしらの優越感が存在していることは明らかだ。


 それが、よそ者と呼ばれる人たちを差別し、排他の対象にしているのだろうか。と、考えてみた。だがやっぱり、それだけでは何かが足りない。


 もっと明確なる理由が有って然るべきではないだろうか。今のところ土地者に有るとされる、その優越感がいったい何なのかは、今一つはっきりとはしないが、その謎が解明されることで、差別の正体が見えて来ると思った。


 そして、信玄の教えなのか、この地にあった元々の風土なのか、極端な排他主義の源を辿ってみたいと速記した。


 そのあと美智子はまさか「土地者は、本気で自分たちの事を、神の子とでも思っているのだろうか」と呟いていた。そう仮定すると、土地者がよそ者を差別する、いろんな理由の辻褄が合うからだ。



 三、強力な力


 美智子はホテルへの帰り道、運転士から貰った名刺を見て「唐沢明人(あきと)さん」と声を掛けた。すると「いいえ。あきひとです」と返って来た。


 唐沢は伊那方面に多い姓だ。美智子は「実は私も、あなたと同じ伊那方面の出身です。卒業と同時に東京へ行ったものですから、もうすっかり東京人になってしまって」と言いかけると「やっぱりそうでしたか」と、ミラーにはまた澄んだ瞳が戻っていた。


 そして「こんな商売を続けているとね、どうしても分かってしまうんですよ。なんと言いますか、匂いですかね。言葉を交わさなくても、関西には関西の匂いが、地方には地方の匂いが、そして奥さんのように東京の匂いもありながら、地方の匂いもあり」と、感じたままを明かした。


 おどろいた美智子は「そこまで分かるのですか」と聞き返す。運転士の唐沢は「勿論ですよ。駅前の横断歩道で、立ち往生していたじゃないですか。あの一瞬を観て、このご婦人は田舎育ちの都会人だな。と、直感的に分かりました」と笑う。


 美智子は「では、私の匂いが、唐沢さんの車の中にまで届いた」と聞く。唐沢は「勿論です。例えガラスが何枚あろうと、姿さえ映れば匂いも伝わるもんです」


 美智子は「そうでしたか」と、物理的ではない匂いがあることに共感した。


 そして、奥さんと呼ばれる事が気になっていた美智子は、まだ独身であることを明かす。そのあと唐沢は、藤村との話を思い出したように「ところで。椎名さんは飯田市の出身でしたね」と確かめてきた。


「はい」と答えると「ああ、なるほど。どおりで、娘を思い出すわけだ」と言って、今度は唐沢がミラー越しに美智子を覗いた。


 美智子は、唐沢に聞く。「駒ケ根だったのですね」


 この地を走る運転士なら、もっと興味深い話を聞かせて貰えそうな気がしていた。そこでインタビューを申し込んだ。


 美智子は「駅前では」と、助けられた時のお礼をさせて欲しいと、唐沢の自宅近くに在るという、寿司店へ招待することにした。唐沢はここで、美智子にとっても、とんでもない話をする事になる。


 その日の夕方、唐沢は美人相手とあって、めかし込んで来た。白髪に櫛目がはっきりと残っている。


 会話のなかで「まさか」と言って息をのんだ。古川が、近所の男を殴ったあと、舗装路に叩きつけたというのだ。


 それとは別に、団地内の人物ではないが、近くに住む老人に向かって鎌を振り上げて追い掛けたとも言う。


 そこで先ずは前者である、古川が近所の男を殴って叩きつけた。という話から切り出すことにした。


 唐沢は「頭の中では、話すことへの整理がついていない。そこで、話の内容からではなく、これまでの経緯を起こった順に話す」と、時系列を前置きした。


 そして、思い出出そうとするかのように、言葉を噛み締めながら「もう、ずいぶんと昔のことなんで」と言いつつ「あれは、僕がまだ四十代だったからなあ。古川さんは、たぶん三十代初めの頃だったと思うよ」と、今度は古川に「さん」を付けた。


 そして指を折りながら「近所に外間という、僕より十個ほど下の男がおってな、こいつが飲んだくれのとんでもない野郎で、団地中の嫌われ者だった」そう言って、美智子の酌で盃を空ける。


 唐沢は「古川さんが団地に来て、おそらく三~四年後ぐらいの頃で、古川さんと外間の間で揉め事があった直後から、外人だという噂が大きくなった」そう語りだした。


 美智子は「噂が大きくなったというのは、元々あった噂が大きくなったという事でしょうか」と質す。


 唐沢は「そう聞いている」と返した。「では、元々あった噂とは何時からの事でしょうか」と、なおも質す。すると「もう古い話なんで、いつとまでは覚えていないが、おそらく古川さんの転入と同時ではないだろうか」と推測した。


 美智子は「可能性として、古川が転入と同時に、外人という噂が流れた」と速記する。


 質問を変えて「その揉めごとを、詳しく聞かせて下さい」と聞いた。唐沢は「それが、大変だったんだ」と、言う。


 美智子は「大変だったとは」と、思わず身をのり出す。


 唐沢はまあまあと手振りして「その前に、フジの前では言い難いこともあってな」つまり唐沢が言うには、病院では言いそびれたという。それを説明すると「その大男が外間伸という、団地中の嫌われ者のことだ」その表情には嫌悪感が現れていた。


 更に「もっとも嫌われていたのは、この男よりも実は女房の、のぶよの方だ。もちろん二人の子供まで、近所の者たちや学校でも相手にする者は一人もいなかった。この一家自体が嫌われていたんだ」と明かした。


 尚も「その二人の子供は揃って離婚したね。これには団地中が笑ったよ」


 美智子は「その女房であるのぶよは、何故そんなに嫌われていたのですか」と聞く。


「その女は生保の勧誘員をやっている。その立場を利用して、訪問先で嘘話を展開するのが特技なんだ」美智子は「特技とは」と返す。


 唐沢は「いや。特別に何が、と言うわけではない。どこにでもいるような奥さん方がやる、井戸端会議の発展型のようなもんだ。いや、それ以上の過激版だと思えばいい」美智子は「その特技を勧誘する為のツールとしている」


 頷くと「そうだ、ツールだ。とにかく話がうまいそうだ。生保なんかで学習しなくても、あれこそ持って生まれた天性だろうと、他人は噂しあっている。まるで嘘をつくために生まれてきたような女だとね」


 美智子は「では友達も多かったのでしょうね」と聞いてみた。すると唐沢は大きく手を振って「とんでもない。友達なんていないさ」


「でまかせ週刊誌が売れるのは、スキャンダルに興味を持ったのが理由だ。だからと言って、その週刊誌を信頼するわけではない。当然、のぶよも信頼されていた訳ではない」


 そこまで言って「いや、失礼」と、改めて美智子を見つめると「椎名さんのところではなくて、僕はでまかせ週刊誌に、例えたかったんだ。失礼」と、言って頭を下げた。こんなふうに、下手な謝罪をするのは、正直者の特徴である。


 続けて「この女、行く先々で、でまかせを乱発するもんだから、ついた嘘を管理しきれなくて、そのうちにボロが出るんだ。でまかせを聞いている顧客も、初めのうちは語りのうまさに聞き入っている。ところが、よそでも同じように吹聴するもんだから、まさか自分のことまでも吹聴しているのではと、疑うようになるんだ」


「そんな疑いを二度三度と繰り返せば、顧客ものぶよから離れるに決まっている。ついには、人望までも失う事になる。だから、のぶよは何を言っても他人から信用されない。信用されないのぶよは、そのはらいせで、また悪口を新たな客の前で吹聴する。この悪循環を繰り返しているのが、外間のぶよという人物像だ」と、強調した。


 尚も「そんなふうだから、この一家に寄り付く者など一人もいない。それもこれも身から出た錆とは考えずに、すべてを他人のせいにした」このような人物は、気位ばかりが高く、自らの汚点を他人に擦り付けることで、自己保身するのがうまいんだ」と、明かす。


 更に「だから、団地住人たちは、外間がああ言った、こう言ったと、のぶよの言葉を照らし合わせるようになった。信用されなくなった恨みからか、あっちの女房とこっちの女房が、喧嘩するように陥れるんだ」


「この手法こそが、のぶよの真骨頂だ。また、そのことがバレルと、いくら短絡的な住民とはいえ、次からはのぶよの言葉そのものに疑いを持つようになった」


「僕の知っている限りでは、これが嫌われ者になった最大原因だ。そして厄介なのは伸の動向だった。この男が団地内でやりたい放題やっているのを、住人たちはいつも苦々しく思っていた」


 美智子は速記しながら「のぶよの亭主であり、古川さんの喧嘩相手のことですね」と念をおす。


 唐沢は「そうだ。こいつが決められた駐車場が在るにもかかわらず、真昼間から飲んだくれて、いつも路上駐車をしていた。それも道路の中央に。あんな狭い団地の通りの真ん中に停められたんじゃ、通せんぼうしているも同じだ。この通せんぼも、いつものことで、当然団地中から苦情が出ていた。そこへ古川さんが帰宅しようと、その通りに差し掛かった。ところが外間の車が通せんぼしている。だから、通れるわけがない。そこでクラクションを鳴らしたところ、それに腹を立てた外間伸が、古川さんにがぶり寄りをして、胸倉に掴みかかった。そこを逆に古川さんに投げられた。というのが揉め事の始まりのようだ」


 美智子は事前に報らされていた内容と、その違いに驚いた。唐沢は、それを読み取ったのか「団地内の噂とは随分と違うでしょう」と言う。そのあと「これが真実だ」と、揉め事への真実を念押しした。


 続けて「なぜ、団地内の噂と真実が、それほどまでに食い違うのか、椎名さんはどの様に思いますか」と、聞いてきた。


 美智子は「嘘を蔓延させることで、真実を封じることができると、考えているのではないでしょうか」と答えた。


 唐沢は「真実を隠すための嘘だと」美智子は「そう思います」と、可能性を言った。


 更に「真実が語られることで、都合の悪い者が居るのだと思います」今度は唐沢が身をのり出した。「それは誰」と聞く。


 美智子には、特定するだけのデータがまだ無い。そこで「例えば、対人間関係において、いくつもの競争に晒されている人物とか、社会的下位にいる人物が順位の逆転をはかって、あるいは上位の者を陥れる為と仮定すれば、全ての辻褄が合うことになります」と抽象的な想定を言ってみた。


 だが唐沢は「やっぱり」と、何かを推定したように頷く。美智子は「あくまでも想定の範囲ですから」と、想定を強調した。だが唐沢は誰であるかを、すでに特定しているようだ。


 美智子は「その人物とは」そこまで言うと、唐沢から「のぶよだよ。外間のぶよ以外にはいない」と、特定している人物名を言った。


 そして「僕は、外間一家の話を聞くと、どうしても病的なものを感じて仕方ない」と明かす。


 更に「そればかりか、あの団地には、そんな病的を思わせる者が、他にも一杯いるような気がする」と示唆した。美智子は弁慶のメモにあった、土地者を思い出していた。


 そして「事前調査と現実とが、余りにも違うので、いまも戸惑いがあって」と、古川の前評判について、確かめようとした。


 唐沢は心当たりがあるのか「ははぁ」と頷く。そして「それは、外間のぶよが、生保の勧誘員という立場を悪用しているからだ。この地では、のぶよが吹聴する嘘で蔓延状態となっていた。だから椎名さんの言う事前調査は、のぶよが流したデマだったと思う。だから、食い違いが起こって当然だ」と、指摘した。


 そして「当時、のぶよのテリトリーはこの地ではなかったはずだ」そう言って、指先を湖の対岸方向へと向ける。「いや、僕の知っている限りだが、生保への入社当時、評判の悪いのぶよは一番遠いテリトリーを割り当てられた」


「だから、のぶよから発せられた噂は、先ずは遠くから始まる。それを逆輸入の形で、この地へと戻して来るんだ」美智子は成程と合点した。


 更に唐沢は「まずは外堀を埋めることから初めて、次には内堀へと嘘を進ませる。そして、最終は本丸であるこの地を埋め尽くす。このやり方なら、嘘の出何処も発信者の特定も困難となる」と、示唆した。


 美智子は「では、古川さんの入居直後は、蔓延していなかったという事でしょうか」と訊く。


「そうだ。この地に蔓延したのはもっと後だった」と言う。そして「こうした状況こそ、のぶよにしか出来ない技だ。そして噂は、いや嘘には必ずいくつもの尾ひれが付くものだ」


「それを歪曲し誇張して巻き込みながら、雪だるまのように膨らませて波及させる。その手法を、のぶよは計算しているんだ。いずれにしても、のぶよが発信した嘘の他に、根拠のないデマも付いてくれば、古川さんへの悪意を証明できるかも知れない。もしこの想定が事実であれば、のぶよというこの女は、相当な悪党だ」


 美智子は「団地内の住民の中で、のぶよに協力する者はどれほど居ますか」と聞いてみた。


 すると「協力者なんて、とんでもない。だいたい外間伸が団地中の嫌われ者で友達の一人もいなのに、女房ののぶよに協力する者なんて居る訳がない。そもそものぶよ自身が、亭主よりも嫌われていたんだから。だから外間一家は、村八分なんだ」美智子は「村八分」と、オウム返しにしていた。


 続けて「まだ先行データしか無いのに、断定的なことを言うのは危険ですけど、嫌われ者のぶよが、どうして団地住人の考えを、反古川に一本化できたのかが謎なんです」と聞いてみた。


 すると唐沢は「ああ、そうだった。その答えは簡単だ。のぶよには折山けい子が付いているからな」と、心当たりを言う。


「折山けい子とは」と聞く。すると「古川さんより十年程あとになって、団地に突然やって来た女のことだ。いろいろと噂のある女だが、あの団地では権力と言っていいほどの力が有る、と言われている。外間のぶよは、その力を利用しているんだ」美智子は「権力を利用する」と驚いた。


 唐沢は「いや、そうじゃない」と手を振って、自らの考えを整理するかのように「そのけい子自身には、権力なんてものは無いんだ。有るのはその後ろ盾だ」そこまで言うと、何故か少し不安そうに天井を見上げた。


 そして話題は、後ろ盾へとは進ませず「勿論けい子は、のぶよに体よく使われている事に気が付いていない」と、のぶよとけい子の関係に話に戻した。


 美智子も「つまり、二人の関係は対等ではなく、けい子はのぶよの手下ということですか」と確認する。


「まあ、そういう噂だ」


 美智子は「そのけい子と、後ろ盾とは、どのような関係なのでしょうか」


 すると、唐沢は複雑なものを浮かべて「これも噂だが、その後ろ盾とは暴力団らしい」と、意を決したように囁いた。


 美智子はなるほどと思った。権力とは暴力団のことだったのかと「つまり、けい子の後ろ盾である暴力団を、のぶよが体よく利用しているというわけですね」


 それを聞いた唐沢は、相槌を打つと「そうなんだ」と、自らも納得する。


 そして「いま、はっきりしたよ。聞かれるまでは、あまり考えたことが無かったから、ただ漠然としていたが、けい子が利用されているんじゃなくて、けい子の後ろに付いている暴力団を、のぶよが上手いこと悪利用しているんだ」と、改めて強調した。


 そして「のぶよの奴、相当頭がいい」と漏らす。


「その暴力団とは、誰なのか分かりますか」


「後でもう少し詳しい話ができるので、そのとき纏めて話す」


 美智子は「暴力団」と繰り返して「では団地の住人には、その暴力団が誰なのか分かっているのでしょうか」と訊く。


 唐沢は「多分僕と同じように、具体的に名前までは分からないと思う。だが過半数の住人にとっては、おそらく、どこどこ辺りの誰かぐらいのことは、分かっていると思うよ」と推測した。


「それが団地に居る住人の大勢派だ」


 美智子は頷くと「なるほど。大勢派ということは、その暴力団が、団地をコントロールできる立場にいるという事ですね」と確認した。


 そして「嘘と真実の隔たりが分かりました。そして、嘘が団地を支配していくメカニズムについても解りそうです」唐沢は「やっぱり記者さんだ」と、敬意をみせた。


 美智子は「外間のぶよが、暴力団関係者を関節的に利用して、古川幸三への嘘を、団地全体へと吹聴させた。短絡的な住民をマインドコントロールする術がある事を、外間のぶよは熟知していたと思われる」そう速記した。


 さらに「古川が失踪した原因について「何か心当たりは有りますか」と聞いてみた。


「勿論だ」続けて「古川さんに対しての噂だろうと思う」


 すると美智子は「噂とは外人だというデマのことですか」唐沢は「それだけじゃないんだ。さっきも話したように、古川さんが外間伸を殴ったとか、道路に投げつけたとか、外間の家に対して数々の嫌がらせをするとか、嘘を挙げれば限がないんだ。だがそれは原因の一つであって、もっと基なる主要因がある筈だ。それで失踪したと思う」と、少し想像的な表現に変えた。


 美智子は「では、唐沢さんはその件を具体的に知っている訳ではない。という事でしょうか」と質す。


 唐沢は「そうだ。主要因となる具体的なものは知らない」美智子は「では、その情報は何処から」と聞く。「全部、他人からの噂を又聞きした」


 美智子は「団地の住人たちも、唐沢さんと同じように又聞きによるのでは」と尚も質す。


 唐沢は手を打って「そうだよ。団地中の殆どは、噂の又聞きだと思う。それでみんな具体的な理由を知らなかったんだ」と自身を納得させた。


 そして「すると椎名さんには、のぶよの正体が分かっているんですか」と聞いてきた。


 美智子は、個人的には答えが出ていたが「いえ、まだ想像の段階で、具体的には言えません。ですが、その人物の性格を推理すると、異常なまでに猜疑心が強く、いつも周りの人との間に上下関係を気にしている人物。自分が常に、人間関係の上位に居なければ気が済まない人物。職場や地域などで、過激な競争に晒されている人物。自尊心が強く他人から笑いものにされる事を、極度に嫌っている人物」と、さっきより少し発展させて答えた。


 すると唐沢が「これだ」と、次は「亭主の自慢をする女だ」と声を上げる。


 尚も「大男でいつも喧嘩が強くて、五人や六人が掛かって来ても、負けたことがないと、そんなことまで自慢していた」と断定したようだ。


 美智子は「喧嘩が強い事を自慢する人がいるのですか」と聞く。すると「そうなんだ。あの団地には、そういうことを自慢し合う連中が居るんだ」


 そして「あの団地を語るには、何でも有りと考えなきゃ話が進まない」と助言した。


「そのようですね」そして「喧嘩自慢の大男が、古川さんに返り討ちにされた」


 唐沢はもう一度美智子を見詰めて「どうして、返り討ちされたことが分かるの」と聞いてくる。


「はい。彼のことは幼い頃から、よく知っている人ですから。ちなみに、喧嘩で彼に勝てる人は居ないと思います」唐沢は、相槌を打って「ああ。あの大男に勝ったんだから、本当に強い人なんだ」と言う。


 そして「そうだったね。幼馴染だっんだ」と続ける。「その、大男が古川さんに返り討ちにされた。そして、その喧嘩自慢が、団地中の笑いものへと転落した」そう言って、少しの笑みを見せた。


「つまり、古川さんと外間伸の喧嘩が発端であれば、嘘の始まりはのぶよだと、自ら証明しているようなもんだ」


 速記帳を戻して「では、古川さんへの嘘もデマも、返り討ちにされた事への報復と考えていいのでしょうか」と聞く。


「そう、報復でしょう。あの一家にはそれしか無い」


 続けて「それから暫く経った頃、その外間伸が車椅子に乗っているという噂が立つようになった」


 美智子は「え。暫くというのは、もう少し具体的に解りませんか」と聞く。


「さてね。五~六年は経過していたように思う」と言う。そのあと美智子を観て「そうだ。七~八ぐらい後のことだと思う。僕の車を、新車に変えた頃だったから、間違いない」


 続けて「七~八も経った後だから、それで古川さんへの擦り付けが出来なかったんだ。あののぶよが騒がなかった謎が解かった」と、のぶよの性格を示唆した。


 美智子は「それでは、その七~八年間、外間伸は無職だったということですね」と、速記する。


 唐沢は「いや、ずっとだ。それ以来ずっと無職だった筈だ」そして美智子は「その間は、あまり外出もしなかった」と聞くと「ところが、車での外出は続いていた。これもずっとだ」そう強調した。


「ずっと。というのは」これに対して唐沢は「外間伸が車椅子に乗るようになってからも、自家用車を自分で運転して、外出していたということなんだ」美智子は思わず口を塞いでいた。


 車椅子の男が、自動車を運転していた、という驚きだ。


「この男、日中は車椅子に乗っているくせに、夜になると飲み屋街に出没するという噂まであった」


「とても車椅子の世話になるような身体には見えなかったという。もっとはっきり言えば、のぶよが言っていた、通院を目的とした外出には見えなかったそうだ。その証拠に、外間伸は店の常連客で、事故の後も通い続けてきた。事故で歩けなかったなどは、初めて聞いた。また、車椅子に乗っていた事さえ初耳だった。という、複数の店の経営者がそう言っているんだ」


 美智子は「それは、外間伸が車椅子を使うのは、見せかけだった、という事ですか」と確認する。


 唐沢は「そうだ。また、その事故が何だったのか、いつどこで起こったのか、具体的な事が一切分かっていない。謎の事故と噂されている」と明かした。


 尚も「また、他の何かを事故と偽っていた可能性もある。そんな噂が出始めると、いつの頃からか保険の不正受給をしている。と、そんなふうにエスカレートしていった。のぶよが勤務する保険会社では夫への疑惑を、のぶよが天性の話術でかわしていたとも聞いた。それも一人や二人からじゃなかったと記憶している。のぶよの特技は、話術だけじゃない。特技中の特技は他に有る」そう言って唐沢は、指を一本だけ立てた。それを見て美智子は「もう一つ」と聞き返す。


「そうだ。他の中のもう一つだ。それが、騙しだ、騙しだよ。これこそが、のぶよ最大の特技なんだ。まさに真骨頂だ」


「椎名さんは、のぶよの客が契約した後で、何故のぶよを非難するか、想像できるかね」美智子は即座に「のぶよの顧客が、契約後に騙されたと感じているからですね」と、答える。


「その通りだ。のぶよは外からの噂に反して、社内では優秀と評価されるようになっていた。ところが、客からの評価は最低なんだ。それは、ほとんどの契約者が、のぶよの被害に遭ったと思っているからだ」と言う。「被害」と返す。


 唐沢は「のぶよの相手は、生保の顧客ではなく、被害者として自覚しているんだ」更に「保険会社はそれを知っているかどうか分らんが、のぶよは間違いなく被害者を作っている。そのうち、のぶよと契約した客は、みんな騙された事を、暴きたいと思うようになる」と示唆した。


 そして「他人を騙すというのは、のぶよに限ったことじゃない。土地者と呼ばれるこの地の者たちにとっては、他人を騙すは当然の事で、騙される方が悪いんだという考え方がある」


「つまり人生は競争であり、勝った者が人間としての資格を得る。それがこの地の常識なんだ」


 そんな考え方がどこから来るのか、どこから引き継ぐのか、あるいはこの地の者たちがどこから発想したのかと、速記した。


 尚も、藤村のように「実際に、この地に住んでみないと分からんかもしれんが」と、念を押して「例えば椎名さんは、車を車検に出したことはあるかね」と聞く。


「いいえ。私は自家用車を持っていませんから」


 唐沢は「え」と少し驚いて「記者なのに、車を持ってない」と驚いた。


「そうです。私はペーパードライバーで、これまで車どころか自転車にも乗ったことがなくて」そう言うと唐沢は「これはどう説明したものか」と、腕組みする。


 美智子は「でも、車検とはどういうものかぐらいは存じています」と答える。


 唐沢は手を打つと「それなら、話が早い」と、続けた。「つまり、基本料金に対して追加料金というものが発生するんだ」美智子は何となく理解できていたが「追加料金とは」そう聞き直した。


「点検に要する金額が基本料金で、修理に要する金額が追加料金という意味だ」


「分かります」


 すると「問題なのはこの追加料金だ。やってもいないのに、さもやったかのように、修理内容を説明する。そして担当者は、笑みを満面に浮かべて、修理代を追加料金として騙し取る。その追加料金は担当者のポケットマネーになるんだ。


 美智子は少し考えてから「そうなのですか。では法外な料金を請求するのですか」と質す。唐沢も少し皺を寄せて「法外な金額の境目が幾らなのか僕には判別できないが、このようなぼったくりを、日常的にやっているんだ。これがこの地の実態だ」と、声を大きくした。


 そして別の例を取り上げた。「大病を患っている患者は、この地と関係する病院には入院しない。それは、この地の医者は信用出来ないことを、よく知っているからだ」


 この言葉に隣の客が一瞬反応したが、直ぐに自分たちの話に戻った。


 唐沢は「その医者たちの間でも、この地の患者に対して悪い印象しかない。特に他所から来た医者たちは、この地の患者を嫌う。それを知っているから、患者はわざわざ都市圏の大病院に入院するんだ。そのくせ命の恩人である病院には言い掛かりを付けて、担当医を困らせる。はては治療費を出し渋るんだ。まだまだ他にも、土地の購入や家の新築改築、中古車なんて酷いもんだ。相場の倍は吹っ掛けてくる」


「そしてこの地の商店なんて、あり得ないほど客を見下しているのが普通だ。こんな事を挙げれば限がない」と、熱くなる。


 美智子は「相場の倍も吹っ掛けてくるのに、客足に影響しないのでしょうか」と聞く。


「そこだよ。影響しないわけがないと思う。ただ、この地で商売している者たちに、共通して言えるのは、みんな商売がへたくそで、商いの何たるやも知らない。素人のこの僕でさえ観ていると、客を客として扱っていない。殿様商売を通り越して、あんたは良い客だから売ってあげる。あんたは悪い客だから売らない。そんなふうに接客するんだ」


「だから、客たちの眼は他地域に向いている」


「接客を知らないは、この地出身の従業員全体にも言える。商売人を自負しているくせに、修業時代が無いから商売のなんたるやも分かっていない。だから倍もする商品に閉口した客は、峠を越えて他所の地まで買い出しに行く。昔と違って自家用車で三十分も走れば、そこには豊富な商品を山積みにして、店員がにこやかに対応してくれる。車の無かった昔は、わざわざ峠越えまでして買い出しに行く者なんていやしなかった。だから大草原のたった一軒だけの商店のように、何をやろうと、客は必ずうちで買い物をする。そうするしかないんだと、信じて疑わない」


 更に「今やマイカー時代だ。他所に買い出しに行くのは当たり前の時代なのに、この地では未だに適応できていない。商店主も従業員も、この地の商売敵は他所の地に在るのに、客の行先はうちの店しか無い筈と、どこまでも思い込んでいるんだ。だから、大型チェーン店の進出に直面して、初めて商売への危機感を思い知る」


「だが、その時には既に遅しで、戦国時代から続いて来た老舗なのに、結局は店を畳む事になる。僕がこの地へやって来たのは、丁度そんな頃だった。偶然にも商店主たちの末路を、この眼で目の当たりにした。大型店に飲み込まれていく老舗の姿を。これが商売の厳しさなんだとね」


 美智子が、速記を走らせている手帳を唐沢が見て「こんな話ではつまらないでしょう」と、覗き込んだが「いいえ。そんな事はありません。もっと聞かせて下さい。お陰でこの地の土地柄なるものを、知ることが出来そうです」と答えた。


「そうですか。僕が言いたいのはまさに、この地という土地柄を聞いて欲しいからです。この地が如何に外界とは違う独特なものかを記録して下さい」


 美智子は「他に、例えば女性の視線から観た、この地に関する印象とかはないでしょうか」と続けた。


 唐沢は「当然あるさ。嫌がらせから始まって凄い噂まで。その凄いというのが」と、次を言いかけたところで「先ず、嫌がらせから伺いましょうか」と美智子。


 唐沢は深く呼吸すると「これから話すことは、他所から来ている奥さん方から聞いたことで、これも又聞きという事になる。しかも些細な事だが、誓って言えることは、実際に起こっている事なんだ」と強調した。


 そして「あまり気持ちのいい話ではないし、いや僕などはむしろ、ぞっとするようなおぞましさを感じる」と言う。そのためか、もう一度深く深く呼吸して「スーパーのレジ係から、よそ者だという理由だけで、差別を受けた」という仕打ちを語り始めた。


「買い物に行った奥さんが言うには、ラップを掛けただけの刺身のパックの上に、卵のパックを載せてカウントしていた。そんな光景を見るのは初めての事で、その奥さんは声も出なかったという。後で観ると、刺身がパックの形につぶれていた。おそらく死角を利用して、手で押し付けたとしか思えない。これは、物理的な侮辱ではなく、馬鹿にされたというメンタルが、音を立てて崩れていくのを感じたと聞いている」


「別の奥さんは、バナナ、トマト、桃やイチゴなどの柔らかいものが、直ぐに痛み出すので不思議に思っていた。そこでよく観察すると、バナナには覚えの無い指跡が残っている。それからというもの、レジ係の手の動きに注視することにした。すると、レジ係はバーコードを読み取らせる際に、指で商品を握りつぶしている。透かさず注意すると、レジ係はそんなことはしていないと言い張るばかりで、全く相手にされなかった」


「後でよく振り返ってみると、レジ係は想定していたのか、あるいは何度も経験済みのことで、嫌がらせのノウハウを学習していたとしか思えない。そんな態度で、自信ありげに否定した。駆けつけて来た店長と名乗る男も、言葉は丁寧だったが、結局は体裁よく追い払われた」と、その悔しさを代弁した。


 尚も唐沢は「他にも、葉物野菜の不可解な損傷や菓子類に残る傷などと、挙げれば限がない」と言う。美智子は「その被害者は、やっぱりよそ者と言われている奥さん方なんですか」と質した。


 唐沢は「そうだ。みんな他所から来ている方たちばかりだ。僕が思うに、よそ者であると知られることで、このような嫌がらせが始まるんだ。つまりよそ者への差別だ」


 美智子は「でも、そのような店には行かないで、商売上手なお店に変えれば、解決する事ではないでしょうか」すると唐沢は、大きく手を振って「とんでもない。ここでのスーパーや量販店なんて数えるほどしか無いんだ。だから例に挙げた奥さん方に、良からぬ客としてのレッテルを張られば、たちまちどこの店でも同じ嫌がらせをするようになる。よそ者は、どこに行っても嫌がらせを受けるような仕組みがあるんだ」と訴えた。


 そのあと「レッテルを具体的に言うと、万引き犯とか前科のあるよそ者だとかいう尾ひれがつく。例えそれが、潔白だと分かっても、頭のおかしい凶悪犯などとエスカレートさせるんだ。つまり、でっち上げだよ。これこそが問題なんだ」と、声を上げる。


 更に「ここは絶海の孤島と同じだ。こんなふうにいくら嫌がらせをやっても、例えお前には売らないと公言しても、さっきの例のごとく、客はここで買うしかない。大草原の、たった一軒しかない意地の悪い店のように、どんなに嫌がらせをしても、客は必ず戻って来ると信じているんだ。いつか必ず頭を下げて、どうか売ってくださいとね。だからこそ倍でも売れる。従って物価は他所に比べてはるかに高くなるという仕組みだ。昔はもっともっと高かったと言われていた」そう説明した。


「すると、安くなった理由は、やっぱり大型店の進出でしょうか」


 唐沢は「当然その通りだが、もう少し詳しく言うと、大型店の進出はあくまでもきっかけに過ぎない。どこの家でもマイカーを持つようになったのが、一番の理由だと思う。結果として、何とか生き残っていた老舗側は、全国平均の価格にしなければ売れなくなる。また、大型店は当然全国平均の価格を提示している。だから昔に比べれば、全国平均に近くなってはいるが、それでもここの物価はやっぱり高い。およそ二割以上も高いんだ。その分ポイントなどで対応しているようだが、賢い消費者には一円や二円の世界などに、通用するはずがない。それに、そもそもの仕入れ価格が高から、個人経営の商店は利益が出ないんだ。いつまで生き残れるのかは、もう時間の問題だ」と示唆した。


 速記の手を止めた美智子は「でも、それって何処にでもある事では」と、地元店と大型チェーン店の、関係について聞いてみた。


「そうさ。どこにでも起こっている事だと思う。だがな椎名さん、この地と他所では大きく決定的に違うことがあるんだ」


「この地にある地元店は、余りにも商売がへたくそ過ぎる。それは仕入れ業者に対しても、売ってやっているんだという殿様でいるから、業者との人間関係が成立しない。そんなふうに威張っているから、小売業者が最も大切とするはずの、仕入れ業者からの情報が貰えていないんだ」


「そして、この地の地元商店主は、力関係がすなわち人間関係だと思い込んでいる。人間関係は即ち力だと、大変な思い違いしている」


「つまり、支配する事が人間関係だと」


「そう言う事だ。決して大袈裟ではない。この地の土地者と言われる者たちの考えには、他人を支配する事が自らの利益となる。この利益こそが人間関係だと考えるんだ」


「そんなふうだから、客に対しても差別や虐めを繰り返しては、奴隷のように扱うんだ」


「お客様は神様の筈なのに、ここではカモだとね。よそ者の客は特別にうまいカモなんだ」


 美智子は「カモなら、大切なドル箱なのに」と質す。


「そうさ。他所に持っていかれないように、取り込むことを考えるのが商売人だが、この地では、支配するという変なプライドがある為に、せっかくのカモに嫌がらせをする。そんな性まで抱えているんだ」


「僕がやって来た頃のこの地では、まだまだ沢山の個人商店が健在だったが、今ではかつて在った店が軒並み消滅してしまった」


「他所での商店は客との共存を前提としているが、この地の商店は、客をカモとしてきた結果だ。これが決定的な違いなんだ」


 美智子は、唐沢から出た言葉ではあるが、自分も良いカモだったと示唆する駅前の三人組を思って、どこか共通するところがあるのだろうかと考えた。


 そして「その答えは一つしかない」と速記する。


 唐沢は「それもこれも差別する理由の一つに、よそ者に対して、この地の知られたくない恥部を、秘密にしたいからだ」と、これまでの見解を言った。


「秘密にしたいとは」


「つまり、よそ者が差別に根負けして、この地を出て行く。そんな効果も、期待しているんだ」


 思わず笑いながら「そうなのですか」と漏らす。


 唐沢も苦笑いを零して「土地者の頭は実に短絡的なんだ。自分を本気で神とまで思い込んでいるような奴らだ。だからそんな効果を、本気で考えるんだ」と示唆した。


 美智子は、確かに無くはないと想定する。


 更に唐沢は「この地には変な連絡網がある。外人だなどと有りもしない嘘のレッテル貼れば、それをネタに輪をかけて吹聴しあう。それ以上に尾ひれを付けたり歪曲しては誇張し、他所の商店街にまで吹聴する。その連絡網に嵌められたら、どのような事になるか想像できるかね」と言う。


 続けて「この事実を全国の消費者に伝えたい。この地なんかで買い物をするなと。または大切な金をおとすなと。変な連絡網は、よそ者として貶めるる為のツールだ」と、強調した。


「もしかして古川さんも、この連絡網に嵌められた可能性がある」


 唐沢は残っている盃の酒を飲みほすと「この地にやって来た僕は、最初からタクシードライバーをやっていた訳じゃない。元は、大手と言われた、名のある地元企業に就職していた。ところがいつの頃からか、気が付けば、社内で出来た僕の友達が去っていく。まるで櫛の歯が抜けるように、あれよあれよと言っている間に、とうとう一人も居なくなった。親友とまで思っていたやつからも、距離を置くような扱われ方をされた」


「それが何なのか分かったのは、僕が退職してからずっと後の事だった」そう言うと、唐沢は少し天井を見上げていたが、決心したように「僕がよそ者だから、よそ者への差別が原因だと知って、本当にショックだった」


 美智子は「よそ者であるが故の差別に遭ったと」と確かめる。唐沢は頷いて答えた。そして「他所とは違うことが、まだまだあるんだ。これこそ最大の理由の一つだ」と言う。美智子は「最大の理由とは」と、答えを待った。


「この地の、土地者と言われる者たちには、他人の物を盗ろうが騙そうが、そのことに良心の呵責なんてものは一切無い。そもそも他人を差別してどこが悪いのか、他人の物を盗ってどこが悪いのかと、激しく反論してくる。盗ろうが騙そうが差別しようが、それは罪じゃない。つまり人生は競争だという考えからだと言い張る。僕には屁理屈としか聞こえないがね」


 再び「そもそも、罪とは思っていない。嘘は罪に問えないし、物取りは発覚しなければ罪ではないんだ。だから土地者は稼ぐためには何でもやる」と繰り返した。


 美智子は「何でもとは、法に抵触するのを覚悟で」と、確認する。それを唐沢が「土地者たちは、どこからどこまでが法に触れるのか、ここまでなら法に触れないのか、その一線を何故か熟知している。それは、ふつうは一線を超えないようにする為だが、土地者は一線を、どこまで越えていいのかを知っているんだ」美智子は、土地者がなぜ物取りの一線を熟知しているのかと疑問した。


「それ以上の利益を出すためにはと、法の網を掻い潜り、一線を越えてでも、それ以上を追及するんだ。具体的に言うと、被害者が二万三万盗られた程度では、この地の警察は動かない。だが四万五万ではどうだろうか」


 美智子は「動く」と答える。「その境目が一線であるから、具体的には三万と四万の間だ。その一線を、なぜ熟知しているのか。という疑問なんだ」美智子は「三万がセーフで、四万ではアウトだという情報が、どこから来るのか。という事ですね」唐沢にそう質す。「答えは一つだと思うよ」と返って来た。


 美智子は「すると、土地者は警察から、その情報を得ているという事でしょうか」と、聞いてみた。


 唐沢は「そこだよ。そうとしか思えないじゃないか」美智子は「それを聞かせて下さい」と身を乗り出していた。


「僕は、警察に通報したことがあったんだ。新婚当時、車好きの僕はちょっとは自慢できる車に乗っていた。そんなある日のこと、気が付けば車の側面に引っかき傷があった。明らかに何かで引っ搔いたような傷だ。そこで通報すると、駆けつけて来た警察官は「車に悪戯された傷とは、塗装面が剥がれて、下の鉄板が剥き出しになった様な状態のものを言うんです」と説明した。


「つまりこの程度の擦り傷では、犯罪とはみなされない。と、いう事だ。他には窓ガラスの周囲に貼ってある、ゴム製のパッキンが剥がされていたり、走っていない筈のタイヤがパンクしていたりと、不可解なことが続いた。そんなある日のこと、再び気が付くとまた大きな傷があることに気が付いた。今度は警察官の説明にあった、鉄板が剥き出しになる一歩手前の状態だ。やっぱりその一線を、犯人は知っていた事になる」


 美智子は「偶然の可能性は無いのでしょうか」と尚も質す。唐沢は少し沈黙していたが「否定しないが、タクシーの中で、僕には神通力とまでは言いませんでしたが、そのような力があることは言いました」と、改まって説明した。


 美智子は「はい。よく覚えています」と答える。唐沢は「どうですか。僕の言葉を信用できますか」と聞く。


「もちろんです」


 唐沢は「もちろん、ですか」と、聞き返した。


 そしてもう一度、ゆっくりと「そんなに簡単に、もちろんでいいんですか」と、念を押す。


「はい。私の知り合いのお父さんが、剣道の師範でした。そのお父さんの言葉を代弁しますと、試合で対峙した瞬間、相手の心理状態が解るそうです」


 思わぬ言葉に唐沢は「心理状態とは」と美智子の瞳を見詰める。


「それは、相手の戦闘モードが、今どの様な状態にあるのか。と、いう事なのですが、実はそれ以上の事まで解るそうなのです」


 唐沢は「ほう」と驚いた。


「タクシーの中で、唐沢さんが仰っていた、匂いに相当するものと理解しました。その様なことを知っていた為か、匂いの話を聞いたとき、何の違和感もなく、受け入れることが出来たのです。いえ、それどころか嬉しくなりましたね」


「僕こそ嬉しいよ。はっきり言って、匂いの話をすると、誰一人信用してくれなかった」


 唐沢は「こんなことを言えば、眉をひそめたり、若い者たちからはバカにされてきた。寒々としたこんな変な所で、春の陽だまりにあったみたいで、いまは本当に嬉しい」そう言って笑った。


 美智子は「私も同じでした。だから他人には話さないことにしていたのです。その師範も、あまり他人には言わない方がいいよ。と、言っていました」すると、唐沢は何か閃いたのか、思わず手を打って「もしかして、その師範とは」と聞く。


「そうです。剣道の師範とは、古川さんのお父さまのことなのです」


 唐沢は納得したようにまた手を打って「それで、息子の古川さんに勝てる相手はいない、という事なんですね」そう合点する。


 そして、師範の息子が古川だと予想した唐沢の言葉に、以心伝心の瞬間を、たったいま、美智子は身をもって体験した。


 更に「この瞬間も、匂いの一つだと信じます」そう打ち明けた。唐沢が頷くと、二人は静かに笑い合った。


 更に「その匂いで、僕は何度も助けられた。タクシーなんて商売をしていると、時には危険に直面することがある。例えばこの客は、何かそわそわと落ち着きが無く、何を狙っているのかなどとね」


「するとこいつ、もしかして乗り逃げをしようとしているとか。何か危ない物を持っているとか。こんな場合は強盗だろうな。なんて時こそ、乗り込んで来る瞬間に判る」と、経験を振り返った。


 そのあと、話を戻す。「僕はあの時以来、大切にしてきた車に悪戯した犯人と、警察との関係を疑い続けてきた。事が事だけに、これまでは口に出して言わなかったが、僕はこの地と警察との間にはどうしても、癒着のようなものがあると思ってしまう」


 美智子は、この地の警察と癒着を速記した。


 そして「土地者は何処に行っても相手にされない、だからやって来るよそ者には、仕返しのつもりで憂さ晴らしする」と言う。


「土地者の排他には、他所の地で相手にされなかった事への仕返しを含んでいる」


 短い沈黙のあと美智子は「ところで、古川さんへの噂ですが、どの様な印象でした」と聞く。


 唐沢は「古川が悪いと、とにかく一方的に、全ての悪は古川にある。そんな言い方だった」と言う。美智子は「それは抽象的な避難という事でしょうか」と聞く。唐沢は「言われてみればその通りだ。確かに具体的なものがなかった」と、示唆した。


 美智子は「つまり、誹謗中傷だったと」唐沢は「そうだ。今から思うと、確かに誹謗中傷以外の何ものでもなかったと思う。古川さんに具体的な非が、何一つ見つからないんだから」と付け加えた。


 そして辺りを気にしながら「あいつが居ないから、言う訳じゃないが」と声を潜める。


「僕のように外部からやって来た人の第一声が、口を揃えてこの地のことを、変な所と言う」


 美智子は、弁慶がメモした変な所を、思い浮かべていた。そして藤村の前ではあれほど喧嘩腰に言い合っていた唐沢が、ここではその藤村に気を使っている。そこで少し間をおくようにと、美智子の勧めるまま唐沢は寿司をつまんでは飲んだ。


 ふと顔を上げた唐沢は「とにかく、あの団地はおかしい。まともじゃないね」と訴えた。そして「フジには絶対内緒だからな」と、釘を刺すと、お互いの郷里が近いという好みから、本件に関しての全てを話すという。ただし、雑誌にはまだ載せないと、固く約束させられた。


 美智子は「そうまで言われるなら」と、オフレコを承知したが「でも、そこまでこだわるのは、どうしてですの」と聞いてみた。すると、「怖いからさ」という言葉が返ってきた。唐沢は尚も辺りを気にしながら、声を低くして「あそこは、やくざの巣窟だからな」と、ついに暴露した。


 思わず「やくざ」と返していた。すると唐沢は口に指を当てて「シーッ」と、尚も声を潜ませる。


「そうだろうな。普通はあんな閑静な住宅地と、やくざの関係なんて考える者などありゃあしないさ」そう言って片手で合図すると席をたった。


 トイレと表示された隅の扉に向かって行く。


 やがて、美智子は戻って来た唐沢を仕切り席へと案内した。「ここの方が落ち着けると思いまして」と、店員の娘と一緒に皿や徳利を運んだ。


 店はますます賑わいをみせて騒然としてきた。隣にいる中年の男たちは、ゴルフと女の話で夢中だ。店内を見渡しても、唐沢と美智子の会話などに、聞き耳を立てる者などはいない。また、カウンターの向こうで握っている、おやじや他の店員などにも騒がしさから、唐沢との会話は聞こえそうもないと思った。


 なのに、尚も低い声のまま「今日駅前で三人の男たちを観たろう。あんなのは可愛いもんだ。僕の言っているのは、もっと凄い連中のことだよ」そう言って美智子を観る


「雑誌記者となると、世の中の裏社会のことも知り尽くしているのかい」と聞く。


 酒で目が少し赤っぽくなっていた。美智子は「勿論です」と言って、更に「解っているつもりです」と付け足した。


 唐沢は「ほう。そりゃ頼もしい」と言って、自らの指を折りながら「売春、恐喝、カツアゲに麻薬、放火もある。僕の知らないところで、もっと凄いことがあったと思う」それを聞いて美智子は「もっと凄いこと」と聞き直していた。


 唐沢は残っていた盃を一気に飲み干すと、あとで詳しい話ができると言っていた事に戻って「そのやくざの一派は、椎名さん。あんたの故郷にいた連中なんだ」これにはもっと驚かされた。


 美智子は「それは、飯田に居た暴力団なのですか」と思わず声が高くなる。唐沢は再び口に指を当てた。そのあと慎重に、美智子の耳元に向かって「そうなんだ」と呟いた。


「信州岡松一家という暴力団を調査してみなさい」と、小さく叫ぶ。


 美智子は「その暴力団の里が、この地なのですか。それが、折山けい子の後ろ盾であり、権力の事なのですか」と確認する。


 唐沢は大きく手を振って「さっきも言ったように具体的には分からないが、可能性としては、大いにありだ」ともう一歩踏み込んで強調した。「このあと、その可能性が詳しく出てくるから、椎名さん自身が判断してくれ」と言う。


 美智子は「古川さんの暴力事件の相手とは、その岡松一家と関係の有る人物なのですか」と、聞く。


 すると「それこそ分からない。僕はさっきも言ったように、直接的には何も知らない。ただ別からの話もあって、外間伸というこの男、岡松一家かどうかは分からないが、以前から暴力団との関係があった事を聞いている。具体的に知っているのは、そこまでだ」そう明かした。


 美智子は速記録を見ながら「私が聞いているかぎりでは、事前データにはその話は有りませんでした。もしも、その噂が真実だとしたら、何故、古川さんへのデマと同じように拡散しないのか、そこが不思議です」と、質した。


 唐沢は「不思議でも何でもないと思う。それはあの団地の大勢は、見えない組織から成り立っているからだ。さっきも言ったように、大勢側が団地全体の総意を、コントロールするという仕組みだ」そう説明する。


「折山けい子の後ろ盾である暴力団が、団地の総意をコントロールしているのですか」


 唐沢は「そうだ」と答える。


「では、見えない組織とは」


 唐沢は、眉をひそめて「奴らの事を他人はいろんな言い方をする。時には暴力団の二軍と言い、そのままやくざとも言い、または暴力集団とも言い、そして見えない組織とも言うんだ」と列挙した。


 美智子は「見えない組織」と繰り返す。唐沢は「そうだ。実態が見えていないのに、組織としては存在しているから、見えない組織と言うんだ」


 急いで速記すると「では、外間という男は、見えない組織の関係者なのですか」と聞く。唐沢は「分からない。これも可能性としては否定しないが、具体的には僕の知らないことだ」そう説明した。


「ところで、外間という姓は元々本州には無かった苗字だ」


 突然の事に「では、外間は何処からか、はるばる海を越えて、この信州にまでやって来たと」そう聞く。「これも可能性としか言えない。が、何かの犯罪に手を染めた結果、この地に流れついた。という想定なら、言えるのではないだろうか。恐らくは二次大戦以前の事だと仮定すれば、一応の辻褄が合う」そう示唆した。


 そこで美智子は、二次大戦の年代と外間伸の年代が、数字的に合致しない事を指摘した。


 唐沢は「伸の先代が海を渡って来たという設定だ。ちなみだが、外間は沖縄などに多い姓だと聞く。


 美智子は「では、外間の先代は沖縄から来たと」そう尋ねる。唐沢は「ちなみと言ったはずだ。それ以上は知らない」と語気を強めた。そして「その外間に限らず、中京方面から来たという女も、のぶよと同じ臭いがした。まだまだ他にも、まるで猟奇を身に纏っているような奴や、如何にも、何かの犯罪に手を染めて来たような奴までいる。あの団地には懲りない面々がゴロゴロしているんだ。言ってみれば、あの団地は見えない塀に囲まれた刑務所だ」そう明かした。


 そこで美智子は「のぶよは、この地の出身なのですか」と確認する。唐沢は「確定的なことは言えないが、そういう噂だ」と、これも可能性を言った。


「僕が残念なのは直接、外間伸の臭いを知らないまま死んでしまったことだ。もし生きていれば、臭いからもう少し確かな情報を掴めたかも知れない。一つだけ、のぶよからは、犯罪者と同じ臭いがムンムンとしていた。あの団地は変な事ばかり起こる。だから、この女にこそ気を付けなければと、思ったことがあった」


「そんな頃だ、古川さんの悪評をばら撒いている発信元は、のぶよではないのかと気が付いた。これまでが外間のことで知っている主なことだ」


「そうでしたか。それでは唐沢さんは、酔っぱらった外間という男が、古川さんに殴り掛かった、という話はどこで聞かれたのですか」


 すると唐沢は「覚えていないんだ。ご覧のように僕は運転士だ。客の話には、ほとんどの場合空返事をしている。タクシーの中であることは間違いないと思うが、遥か遥かずっと昔のことなので、具体的にどこの誰から聞いたなどとは思い出せない。しかも、運転に気を取られているから、話の内容なども、おおざっぱなことしか覚えていない」と、残念そうに言った。


「それに、当時の僕は古川さんに対して懐疑的であり、デマも嘘の噂も全面的に本当のことだと思い込んでいた。だから古川さんへの批判は、いちいち記憶していないんだ」美智子は了解した。


 次に見えない組織に関連して「二軍であったりやくざであったり、暴力集団などと、呼び名がいくつもあるようですが、実態は同じ組織ということでしょうか」と確認する。


 唐沢は手を振ると「分からないが、昆虫が脱皮するように、姿を変えるという話はある」と示唆した。これには美智子も聞き覚えのある事例だった。


「捜査の攪乱目的で、敢えていくつもの呼び名を用意している場合がある。だが、この場合は少し違うようだ」


「では、古川さんが鎌を振り上げて、老人を追い掛けたという話を詳しく聞かせて下さい」と聞く。


 すると唐沢は、苦笑いなのか少し照れ隠しするように「それについては、周知の通りだが、これにも別からの話がある。この噂の出どこは折山けい子だ」と示唆する。


「こいつも外間のぶよ以上に強烈な臭いだった。そこで、知っているところを、もっと詳しく話すと、実はこの女は、飯田でストリッパーをしていたんだ」


 苦笑いの意味はこれだった。美智子は「以前から知っていた女なんですか」と質す。


「いや、これも直接ではない。飯田に嫁いだ妹を通して、聞いている話だ」


「僕が団地を転出する前のことだ。突然あの団地にやって来て、居住するようになったそうだ。だから折山の実態を知ったのは、僕が団地を出たあとだ。ここからは妹の話を交えて言う」


「飯田から調査員が派遣されたと聞いている。そして、本人に間違いないことを確認したそうだ」


「ここからが本題となる。このストリッパーは、のぶよとつるんでいた。そのストリッパーことけい子の、相棒のようにしていた男がいた。その男こそ同じ暴力団の構成員で、けい子の入居後になって、団地近くの障害者用公営住宅に転入して来たと聞いた。古川さんが鎌を振り上げて追いかけたという、その張本人だと思う」


「鎌を振り上げて追い掛けたというのは。おそらくのぶよが計画し、けい子とその男が口裏を合わせてのでっち上げだ。と、想定をすれば、全ての辻褄が合うんだ」


 美智子は「何のために」と聞く。唐沢は「陥れるためだ。ある理由で、陥れる必要があったと思われる」


「ある理由とは」


 唐沢は「ストリッパーとその暴力団が拠点としていた飯田市。古川さんの出身地である飯田市。そしてけい子の過去だ。この共通点が関係している」事を示唆した。


 尚も続けて「その暴力団は元々飯田方面の暴力団ではなく」そう言って、指先を下に向けた。「ここだ。この地だ」と明かす。


 更に「この暴力団は、奴らの前身となる別の暴力団が飯田にいて、後を引き継ぐかたちで、新たに飯田へと進出してきた」と説明した。美智子は「その目的は」と次を促す。


「目的とはテリトリーの引継ぎと、拡大だったと言われていた。それが六十年代半ばぐらいからだと聞いている」


「前身となる暴力団を、具体的には分からないでしょうか」


 唐沢は「残念だが、実態までは分かっていない」と首を振った。そして「その飯田では、キャバレー地下鉄という店を拠点として、表舞台ではストリップショーを、裏では恐喝やカツアゲなどの、一連の暴力団犯罪が横行していた。ショーが終わると、自由恋愛と称して売春を目的に、更なる客を集めた。その客筋を足掛かりに、やがてショーのデリバリーをするようになったと言われていた。そのストリッパーが折山けい子だ」


「初めのうちは市街地を主なテリトリーとしていたが、次第に周辺地域にある消防団の屯所などへと手を拡げていった。飯田周辺はとにかく広い。例え小銭でも隅から隅まで回れば宝の山だ。暴力団にとっての利益はドル箱と言われるほど大きかったに違ない」


 美智子は、信州岡松一家の前身は分からなかったが、実態を解明することにつながると期待した。


「こうして、飯田がドル箱へと成長していくなかで、ストリップショーも、いつかは限界がやって来るものだ。たとえドル箱とはいえ、やっぱり小銭をかき集めるような商売だから、そんな程度の稼ぎでは満足出来なくなる。欲が重なれば、これほど効率の悪い稼ぎじゃ構成員も養えないと、そう考えるようになるもんだ。そこで予てよりの計画を実行に移すことにした。それが麻薬だったという噂だ」


 尚も、辺りを気にしながら続ける「椎名さんも知っての通りだと思うが、かつて飯田は大火に見舞われ、町の大半を焼失したと聞いている」と、美智子に確認する。「私はまだ生まれていなかったのですが、親からはそのように聞いています」


 そこで唐沢は「以来市民の防災意識は高く、特に防火に関しての厳格さは、どこにも負けないほど徹底していた。だから火を扱う料亭などでは、プロとして、火の用心は徹頭徹尾貫かれていたという。その料亭から出火したんだ」


「当日の午後、白いワンピースの女を目撃した者が複数いた。目撃者はみんな、その素振りに怪しいものを感じていた。それがキャバレー地下鉄のストリッパーだというから驚いたね」


「それはさっきの、共通点であるけい子の過去の事でしょうか」


 すると、唐沢は深く頷て「そう思う」と肯定した。


「それから間もなくして、市民団体が立ち上がったそうだ。侵入してくる暴力団に対して、抵抗しようとしていた若い衆が大勢いた。もともと反骨旺盛な土地柄だ。立ち上がった市民団体は、独自に調査を進めてきた。すると出火当時、現場付近では、ストリッパー以外の人物を目撃したという者が見つからない」


「ところが、警察はこのストリッパーこと、折山けい子に何故か辿り着けず、結局は不審火として処理されたと言うんだ。出火元の料亭は責任を果たしたあと、多額の借金を抱えて町内から姿を消したそうだ」


「その同じ町内の三軒隣に、キャバレー地下鉄の繁栄があった。信州岡松一家が、解散へと追い込まれたのは、それから数年後のことだ。その日は、キャバレー地下鉄に警察の手入れが入っていた。何人かのチンピラに混じって、ストリッパーのけい子も連行された」


「それ以来飯田では、このストリッパーを見たものは一人もいなかった。だが同じ町内と市民たちは、半世紀も過ぎ去った現在も、料亭と散り散りになったその家族や関係者たちを忘れてはいない」


「じつは、放火騒ぎ以前からこんな噂が街を駆け巡っていた。それは、奴らやくざは警察に捕らえられても、翌日には町を闊歩していると。そんなことも重なって、治まらないのは市民団体だけではなかった。市民による素人捜査で、犯人を想定しているにも関わらず、警察は何故ストリッパーに辿り着けないのかと、不気味なものを感じたと噂された」


 美智子は「その犯人とは、折山けい子だと特定があったのですか」と.念を押した。唐沢は頷くと「他にも、地下鉄の暴力団とその関係者も捜査対象だったそうだが、ストリッパーは重要参考人としてすでにカウントされていたようだ」と示唆した。


「そのけい子こと、ストリッパーは団地内にまだ居住しているのですか」


 唐沢は「今も居住中だ。しかもあのストリッバーは、解散したその組織を束ねる側の一人として、団地内では未だに君臨している。いくら解散したといってもやくざだ。組織が存在する限り、構成員としての活動もあるのでは」と示唆する。


「それで、さっきは、怖いからと仰ったんですね」


 美智子は「でも、解散した以上はもうやくざ組織としての機能は、失っているのでは」これには唐沢の方が驚いた。


「何を言っているんだ。裏社会を解っているんじゃないのか。あのストリッパーが、団地にやって来たあと、組織を束ねる側に昇格しているんだ」


「と、いう事はリーダーと目される人物がいて、そいつが昇格させたとしか思えない。だから、解散とは見せかけであって、組織としては機能しているんだ」


 その通りである。この様な事例は過去には幾つも有ったことなのだ。実際には、活動を続けて、何かしらの資金を得ている筈だ。美智子はその資金源とは何かと速記した。


 解散に追い込まれた筈の、元暴力団と一族郎党が、あの団地にいるのは、即ち本拠地であるからだ。


 また飯田で引き連れていた他の女たちも、以前はあの団地に居住していたと想定できる。それがいつ何処へ散ったのか。本体である仲間を残して、消えていった暴力団の構成員たちも然りだ。


 更にストリッパーは摘発されたあと、十年余り後になってあの団地にやって来たという。それまで刑務所に居たとして仮定すると、十年余りという長い受刑期間は、なにを物語っているのか。


 七十年代初期と言えば、高度成長期真っ只中だ。歌謡界では花の中三トリオが全盛期を迎え、そして仁侠映画のポスターは所狭しとばかり街中に氾濫していた。


 それを見て掻き立てられた若者たちも少なくはない。同時に高速道路網の建設が急ピッチにすすめられ、大都会との距離感も急ピッチで狭められつつあった。ところがやがてキャバレー地下鉄は、都会的だったセンスの風俗も、時と共に飽きられ、客を引き止めるためにはとショーの過激振りは、益々エスカレートしていくしかなかった。そんな時代だった。


 唐沢は「ひと口に十年余りの受刑というが、本人にしてみれば恐らく気の遠くなるような時間だったに違いない」


「摘発される以前、店のホステス仲間からは、ストリッパーを指して(けい子ちゃん)と呼ばれていた。それが、聞いた話によれば改名していると言うのだ。重罪の受刑者が出所時に、改名するという話はよく聞く。だがこのけいの場合は猥褻や売春と、カツアゲなど、いわゆる暴力団犯罪への幇助程度で、十年以上の受刑には当たらない」


 そして「七十年代の高度成長期。警察は多少の暴力団犯罪は、大目に見る傾向があった。だからけい子は重罪でなければ噂どおり、麻薬による依存症を治療するため、結果として長期受刑のように見えたのではないだろうか」と繰り返し強調した。


「当時の飯田署が、重罪であるはずの放火犯として、けい子に辿り着けなかったという謎がある」


「飯田署は、結局のところ出火は、不審火として処理しているんだ。僕はその経緯の何処かに、何かが隠されているような気がしてならない」そう言う唐沢に代わって、美智子が「それは、けい子は放火犯ではなかったという、確かなアリバイが有ったとか」と質す。


 唐沢は首を振って「いや、そうではない。他にもっと別の理由が有ったのではないだろうか。そしてもう一つ、けい子の犯人説は一旦ひっくり返るが、詳しくはあとで話す」そう言ったあとで「これまでの話を消去法で結論すると、けい子の摘発理由として残ったのは、噂通り麻薬ということになるんだ」


 美智子は、よそ者として周辺の人を蔑み差別し、他人を騙したり盗ったりする。卑怯でえげつないほど狡猾だという土地者。そのくせ、神の子として、自らを崇める。また明治初期までは、よそ者を生贄としてきた。では、この地の土地者と言われている住民の正体とは一体なんだと思った。


 美智子は、速記帳の「その答えは一つしかない」のページに戻していた。


 そして、見えない組織が、暴力団の支持基盤であると仮定してみた。


 すると、キャバレー地下鉄でのガサ入れの際、逮捕にまで至らなかった構成員たちは、一次隊としてあの団地に入居してきた。それを追って二次隊である受刑グループが、それぞれ刑期の終了と同時に入居を開始する。


「どうでしょうか」と、美智子の問いに唐沢は腕組みをすると「その通りだと思います。以前、フジも同じような事を言っていた」と、同意した。


 唐沢は「解散した暴力団が、あの団地一か所に集まって来れば、すなわち再結成と見なされないのだろうか」と聞く。


 美智子は「見なされると思います。公安委員会も警察も解散後の、監視は続けている筈ですから」と、答えた。


 唐沢は「じゃあ、何故、陰で再結成した暴力団があの団地に居るんだ」と聞く。


 更に「少なくもあそこは公営住宅だ。市役所や警察が公認しているから、入居できたんだと思う。行政や警察を動かせるものとは、いったい何者なんだ。こんな事ができる強力な力とは、そいつの正体を知りたい」と、恐怖を露した。


(第二話に続く)


いじめや差別がいかに醜いものかを表現したしたつもりだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ