袖引き小僧
この林道には袖引き小僧が出るという。
同じ樵仲間が言うには、林道を一人で歩いていると半纏の袖を引くものがある。袖引き小僧という妖怪の仕業で、振り返れば命を取られる。だから、決して後ろを振り向いてはならない。
その怪談を聞かされてからというもの、この林道を一人で通るのが憂鬱で仕方なかった。両側に繁茂した樹木が日を遮り、陰鬱な雰囲気を醸している。敷き詰められた枯れ葉と小枝を踏みしだくたびに、草履の底で嫌な感触と空虚な音が響いた。
樵は斧や縄などの仕事道具を持って、材木を伐り出すために現場へと向かっていた。男は力仕事に従事していたものの、根は小心者だった。こうして林道を歩いていると、後ろから袖を引かれまいかと褌の下が縮こまる思いだった。
噂を知らない旅人がこの林道を通り、袖を引かれて後ろを振り返ったばかりに命を落としたという話を耳にした。何か恐ろしいものを目の当たりにした、恐怖に歪んだ形相をしていたと、怪談好きの者から聞かされた。
樵はその死に顔を想像して、首を振る。日常的に利用しているこの道で、旅の者が不可解な死を遂げたという事実はない。所詮は又聞きに過ぎないのだ。
草履の裏で、小枝が細かく砕ける音がする。
森の木々に囲まれた林道が長かった。気が焦るばかりにそう感じるのだろう。早く通り抜けてしまいたかった。脚絆を巻いた足が急く。
視野の端を流れていく景色に、違和感が紛れた。眼球が引っ張られる。そこにあったのは、無花果の木だった。樹齢を経ており、ねじれた幹から枝わかれして、掌状に裂かれた葉を広げている。そのあいだから赤褐色の丸みを帯びた実が見え隠れしており、地面に落ちた果実が潰れて甘い花の匂いを漂わせていた。
林道を通るとき、無花果の実が成っているとよく食した。重労働で疲れた体に甘味がよく沁みた。ところがある日を境に、その果実が食べられなくなった。
この無花果の木で、樵の一人が首をくくった。
枝から垂れた麻縄を結び、首を通してぶら下がっていた。枝はそれほど高い位置に伸びていないにも関わらず、両膝を突いた形で縊死していた。
首をくくった仏の顔と言えば眼球と舌が飛び出し、見るに堪えない。ただ筵に包まれて運ばれる際に覗いた表情は、なぜか陶然としていた。
その亡骸とともに撤去されたはずの麻縄が、どうして枝に吊るされたままなのだろう。
横に広がった無花果の枝から垂れ、輪の形を描いて結ばれている。その単純な形状が死を想起させ、いかにも不吉だった。
ついこの前までなかったはずだ。誰かの悪戯だとしたら悪趣味なことである。ともあれ、気づいてしまった以上は取り除かなければならない。
渋々足の向きを変えると、ことさら小枝が折れる音が響く。縄が垂れ下がる無花果の木へと歩みを進めた。
円を描く縄の中は鬱蒼とした木立のためか、何も見通すことができない。どうしてか、無性にその向こう側が気になった。あの奥には、何があるのだろう。
樵は頭を振った。何もあるはずがない。ただ、虚空が見えるだけだ。
一歩ずつ足を進めるたびに、輪の奥を覗きたい衝動に駆られた。ともすれば、えもしれない景色が広がっているかもしれない。根元に落ちた実の甘い匂いが誘惑を掻き立て、樵は喉を鳴らした。
無花果の木の前に立った。樵は無自覚に笑みを浮かべ、麻縄に手を伸ばした。解く前に、少しだけなら覗いてもかまわないだろう。両手で輪を掴み、顔を寄せる。まだ何も見えてこない。もっと、首を差し入れなければ。
今まさに首をくくろうとした樵の正気を取り戻したのは、袖が引っ張られる感触だった。何かが気を引いて、己を振り向かせようとしている。男は脂汗が止まらなくなった。これはまさしく、袖引き小僧の仕業だ。
同時に自らの奇行に気がついた。一体、俺は何をしている。掴んでいた縄の輪から手を放した。
眼前で縄が蠢いた。輪が解け、細長い生き物が鎌首をもたげた。麻縄だと思っていたのは、尻尾で木の枝にぶら下がったくちなわだった。
その蛇の両目は黒々と穿たれており、虚無そのものだった。金縛りに遭った樵の鼻先で二又の舌を出し入れして、こちらの顔面を凝視した。
背後ではこちらを振り向かせようと、袖引き小僧が一生懸命に袖を引っ張っている。黒く塗り潰された双眸を前にして、樵は泣きたくなった。
俺は一体、どうすればいい。




