○ 第二話 『声』
○ 第二話 『声』
案の定、僕は家に帰った後も、母親の嫌味を聞き流しながら漫画を読み耽り、夕食までの時間を無為に過ごした。
赤く輝く太陽は完全に沈み、漆黒の闇がやってくる。空は真っ黒に塗りたくられたキャンパスのようで、雲のせいか、今日は星一つ見えない。
あっという間に時刻は午後9時をまわり、僕は風呂から上がると、濡れた短い髪をバサバサと拭いて、ベッドの横になった。そして、散らばった漫画の山から手探りで、一冊の本を探し出す。僕がこの時間に読むのは、決まって難しい哲学書。別に哲学が本当に好きなわけではないが、快適な睡眠のためにこれは必要不可欠なアイテムなのだ。
僕は夜が好きだ。夜は、闇がすべてを包んでしまうから。楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、悲しいことも。眠りにつけば、それらはすべて失われる。現実では後生大事にしているモノも、夢の世界では全く意味をなさない。
何もない、無の世界。僕はたまに、そんな夢を見る。意識はあるのだが、体はない。例外なく眼球もないので、何も見えない。五感のすべてが存在しない。けれども、僕の意識だけは、何もない空間に浮かんでいる。僕は、自分の体を失ってしまった恐怖でパニックになるが、やがて、痛みも何もないその世界を受け入れていく。
あれが、“死”なんだと、僕は目が覚めてから思う。不老不死の人間などいない。僕たちはいずれ、老いて、死ぬ。けれども、肉体は消滅しても魂、意識だけは残るのだ。輪廻転生。死んでも、また苦しみが満ちたこの世界に戻らなくてはいけないなんて、酷い話だ。
活字を追う目も段々おぼろげになってゆき、欠伸も出始めた頃、僕は本を無造作に置いた。
今日も取りあえず上手くやっていけた。
明日も、きっと上手くいくだろう。
そんな風に考えた後は、ゆっくりと目を瞑り、ふぁっと、雲の上を遊泳するような感覚とともに、深い眠りにいざなわれるだけ――。
それができなかったのは、カーテンの隙間から、溢れんばかりの光が入り込んでいることに気が付いたからだ。
――夢か。
実際、夢と現実とを間違えたことなど一度もなかったし、そんなことはこれからもないだろうと思っていたが、この時ばかりはそれも疑ってしまった。しかし、頭がさえてくると同時にその考えは否定され、慌てて僕は壁にかかっている時計に目をやる。
午後11時数分前。
太陽が間違ってでも昇る時間ではない。隣の家の明かりだろうか。いや、それにしたら光の量が多すぎる。郊外に位置するこの家には、大型トラックのライトですら眩しく思われるほどなのだから。
恐怖と好奇心が入り混じる中、僕は窓の前に立ち、思い切りカーテンを開いた。
「な、なんだ、これ……?」
瞬間、僕の目を潰そうと企むかのような大量の光が襲う。こんな夜更けに全く似つかわしくない真っ白な光。そして、それが発せられているのは間違いなく夜の空。
だがそれは、いつも僕たちが知っているような空ではなかった。鋭利な刃物で切り裂かれたように真っ二つに割れ、その隙間から、この神々しいまでの光が放たれているのだ。
慌てて階下に降りると、二人でテレビを見ていたらしい両親が、呆然と窓の外を眺めていた。その顔を見て、二人も僕と同じく、何も理解できていないのだと瞬時に分かった。
「た、孝之!!」
何も考えず、僕は寝巻きのまま外へ飛び出した。後ろで母親の呼び止める声が聞こえたが気にしなかった。
「おい! なんだよ、あれ」
「ねぇ、あれ、火事じゃないの?」
「火事って、完全に“空が”光ってるじゃないか!」
外には、僕と同じように驚きの表情を隠せない人たちが、続々と集まってきていた。ある人は口をポカンと開け、ある人は動揺したように大声を張り上げている。
「ま、まさか、ミサイルか何かじゃないだろうな……」
ミサイルという物騒な言葉に、この場にいる人、全員は体を強張らせる。
眩い光は次第に広がり、放射状になって地上に降り注いでいる。確かに、隣りはあの国だし、これが日本を狙った攻撃じゃないとも言い切れない。けれども僕は「違う」と、感覚的にそう思った。
僕はもう一度、目を細めながら空の傷口を眺めた。
すると、空の裂け目はさらに広がり、やがて空一面が金色の草原と化す。夜の黒は、その涌き出た空間に、完全に呑み込まれてしまった。
僕たちは、あまりの恐怖でその場に立ち尽くしていた。何かが起こっている。いや、起ころうとしているのか。何れにせよ、ありえない。こんな夜更けに、空が、こんなにも美しく光っているなんて。
――もう誰も、何の言葉も発しなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
次の瞬間、微かに聞こえた。
耳を疑う。
辺りを見回す。
だが、周りの人たちも僕と同じような反応だ。
そんな僕たちを全く気にすることなく、それは繰り返された。
そして僕は、その言葉を理解できた。
しかしすぐに、それが“何語”で話されているのか分からないことに気が付く。
いやそれどころか、それが男の声なのか、女の声なのか、大きいのか、小さいのか、高いのか低いのかすら分からない。そもそもそれは、本当に声なのだろうか?
だが、それは聞こえた。考え事をしている時の自分の声を聞いているかのように、それは脳に直接響くのだ。
それは何度も繰り返され、僕は遂に、あまりの恐ろしさに耳をふさいだ。
しかし、その行為も全く意味をなさない。その声のようなものは、小さくなることも、また大きくなることもなく、一定の周期において繰り返される。
僕は悲鳴を上げた。いや、多分声は出ていなかったと思う。だが、僕は心の中で泣き叫んでいた。
それは言うのだ。
サイゴノヒマデ アトヒトツキ と。