○ 第一話 『怠惰な日常』
○ 第一話 『怠惰な日常』
幸せって何だろう、なんて、そんなことを考えられている時点で、僕は幸せなのかもしれない。今も遠い国では、僕よりも小さな子供たちが、戦争や飢餓で苦しんでいるはずだ。テレビではこの前、兵士が民家に押し入り、幼い少女を陵辱したというニュースをやっていた。
僕はこの18年間、飢えで苦しんだことはないし、車に轢かれそうになったとき以外、命の危険にさらされたこともない。紛争や貧困で苦しんでいる人たちと比べたら、僕は、何て幸せなのだろうか。
でも。
そんなことは全く関係なくて。僕がいるのはこの日本で、たいていの人は、日々の生活に不自由なんてしていない。見知らぬ人たちと自分とを比べることは、何の意味もないのだ。ただ、僕が毎日に、えたいの知れない不安、不満を抱えているということだけが事実として存在する。
そしてその原因は、自分でも、分からない――。
ぼんやり顔を上げると、15時45分。時計の針は既に、5時間目の終わりを告げていた。間髪いれずに、黒板の横のスピーカーから雑音が入り、授業終了のチャイムが鳴り響く。
再び机に目を戻すと、そこには、ほとんど何も書かれていない、まっさらなノートがある。わずかに書かれている乱雑な数式は、既に字としての機能が失われ、読める代物ではなかった。
ただ一言、「幸せって何だろう」と切れ端に書かれている言葉だけは、それなりに丁寧である。今は数学の時間だったというのに、僕はいったい何をしているのか。
ほんと、バカみたいだな……。
「孝之! 吉川!」
窓側の席から歩いてくる友人の姿を認めると、僕はあわててノートをしまった。真面目に授業を受けていないのは、きっとあいつも同じだろうけど、「幸せとは~」何て哲学チックなことを書いているのがバレたら、どう思われるかは容易に想像がつく。
「お、晃一。何だか嬉しそうじゃねぇか」
僕の前の席に座る【吉川健祐】が、体を横にして、歩いてくる【秋坂晃一】に話しかける。
「まぁ、聞いてくれって」
僕と吉川の間に立った晃一は、両手で聴衆をなだめるような仕草をした。そんな彼の瞳は異常に輝いている。
(OK……なるほど)
僕は今回の話題の趣旨を、大方理解した。でも一応、「どうした?」とだけ聞いておくのは、友人としての努めだ。
「B組の管野朝美! B組の管野朝美だよっ! 俺、生活委員会で一緒の班になったんだ。前からちょっといいかな、って思ってたんだけど、いや~彼女、優しいのなんのって。顔よし、性格よしで文句ねぇよ!」
「――なるほどね。今日は火曜日で、委員会の日だからな。それで浮かれてるってわけか」
吉川は、今初めて納得したように頷いた。
まぁ、僕にとっては予想通り。また女の子の話しってわけだ。
晃一はよく言えば明るい性格で、高校入学後、中々クラスに馴染めない僕に、最初に声をかけてくれたやつであった。だが悪く言えばお調子者で、いつも女の子を追っかけまわしたり、校則で禁止されているにもかかわらず、自慢の長髪を軽く茶に染めている。
ただ、高校生にはその方がウケがいいらしく、晃一は、男女に関係なく人気があった。高校生活において、本来内向的な僕が、特に人間関係で困らなかったのは初めにこいつと仲良くなっておいたからかもしれない。
だから正直、彼の“恋話”になんて興味はないのだが、そんなわけで、多少話を合わせておくことも必要であるのだ。
「ふ~ん、そうか。だったら、三浦さんのことはもういいんだな」
僕は意地悪く、ほんの数日前まで彼のハートを鷲掴みにしていた、同じクラスの【三浦 早季子】の名前を出してみる。
彼の顔は、一瞬あらぬ物を見てしまったかのように歪んだが、すぐに気を取り直したようにこう言った。
「けっ。あんな性悪馬鹿女、もう興味ねーって。やっぱり女は性格だよな、うん。あぁ、朝美ちゃん、ほんといいよな~」
恋する乙女のようなセリフを口にして、天井を見上げ感傷に浸る彼に、僕は思わず苦笑した。
「ほんと、お前はいつも楽しそうでいいな」
小馬鹿にする僕の言葉を気にすることも無く、彼は管野朝美との生活委員会での活動を、僕たちに延々と、詳細に聞かせてくれたのであった。
放課後、晃一のように委員会も、吉川のように部活もやっていない僕は、真っ直ぐ家に帰るだけだ。吉川は小柄ながらも、バスケ部のガードとしてレギュラーを張っている。吉川の他に、ウチのクラスには【新島誠司】というバスケ部員がもう一人いて、そいつは吉川と対照的に、180cmを超える大柄な体格である。
そんな僕はというと、運動が苦手というわけではないが、身長は平均的で、これといった特技もない。それでは勉強ができるのかというと、それだって中の上くらいで、特筆することもできない。つまり平々凡々、オーディナリーな人間というわけだ。
校舎を出てすぐ目に入るグラウンドからは、野球部の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。連日、真夏日が続くのによく頑張るよなと他人事のように呟き、僕は、鞄を持たない方の手で顔をパタパタと扇ぐ。
正直、受験ギリギリまで必死に大会を目指す彼らの姿にはうんざりしていた。プロになるなら話しは別だが、所詮はただのお遊び。そんなことよりも、真面目に勉学に励むことの方がどれほど大切なことか。
――と、そんな大義名分を唱える僕も、家に帰って必死に勉強しているなんてことはありえない。一度クリアしたゲームをやり直したり、ベッドに寝そべり漫画を読んだり。ほとんどをダラダラと過ごしているだけだ。
それよりだったら、直接受験に結びつかなくたって、グラウンドで汗を流していた方が遥かにましではないか。
多分そのことに、自分でも気がついているから、僕は、この校庭の彼らが気に入らないんだと思う。
「バカみたいだ……」
最近の口癖になってしまった言葉を呟き、僕はいつもの駅の改札をくぐった。