星見の塔のおおかみさん。〜『呪いの子』と呼ばれる僕でも、あなたは好きって言ってくれる?〜
周りには地平線しか見えない、辺境の地。
そんな大草原に、ポツンとそびえ立つ塔がある。
それは「星読みの塔」といわれていて、むかしむかし占星学が盛んだった時代には多くの研究員が滞在していた。
けれど、もう過去の学問として忘れ去られてしまっている今ではほとんど人影はなかった。
近くの村まで一時間以上かかるここに至る道は一本だけで、普段通るのは週に一度の商人の馬車のみ。
この塔に住むたった一人のために、必需品を届けに来るだけ。
これだけ不便な地に住む人物とは―――
僕の名はセンテス。十六歳。
星読みの塔に住んでいる。その上、ここから出ることは出来ない。
何故かというと僕が『人狼』だから。
狼男とも呼ばれる僕のような存在はおとぎ話の中のものだと思われているようだけれど、まだ隠れて生き残っているんだ。
ただもちろん僕みたいな人狼は呪われた存在で、今を生きていてはいけないもの。
いつ狼の姿に変わるか分からないから、どこへも行けずにずっとここにいる。
親を知らない僕だけど、沢山の本とそれに伴う知識は与えられている。
その知識を与えて、僕を育てた人の名前を実は知らない。
『爺』としか呼んでいなかったし、とてもとても厳しい人だったから僕はなるべく関わらないように、気に触ることをしないように、息を殺していたから。
叩かれた事は多くなかったけれど、体が痛いよりも辛いくらいの罵詈雑言の嵐だった。
「所詮は獣の子」
「呪い」
「人殺し」
などとよく言われた。
ずっと言われ続けていたから分かりきっていることだけど、慣れることが出来なくて、ずっとずっと、つらいままだった。
それに、じじいの気に沿わない事をすると、食事を抜かれることもあったし、屋上に閉め出された時もあった。
僕の存在は、『呪い』なんだ。
爺はずっとそう言い続けていたし、この塔にある多くの本にもそう書いてある。
この世の醜いところを集めて具現化されたのが『人狼』という生き物で、僕はその血をひく生き残り。
それに、僕は『母殺し』でもあるんだ。
僕の父は僕と同じ人狼、つまり『呪いの存在』で、そんな父の子を産んだために母は死んだのだ。
そう言われるのが一番辛かった。
爺しかいない今の状況は、僕が母を殺したせいなんだって思い知らされるから。
爺の言葉が嘘だと思って、逃げ出したこともあった。
けれど村はとても遠かったし、なんとか辿り着いても良い扱いはされなかった。話かけても誰も相手にもしてくれないし、何かを買おうにもお金がなく、お金に替えられるようなものも持っていない。
結局は僕がいないことに気づいた爺が追いかけてきて、捕まってしまって。酷く厳しく怒鳴られ、叩かれて二度と外へ行かないと誓った。
逃げる前に気づくべきだったんだ。ここへ食べ物を持ってくる商人も、その代わりにたまにくる女の人も、同じように僕に冷たい対応をするんだから、外へ逃げたって同じなんだって。
この世に僕みたいな呪われたモノは居てはいけなくて、どこへも行けないんだって。
そしてある時、爺が死んだ。唐突に。
良かった、と思った僕は確かに呪われているんだろう。他人の死を喜んでしまうのだから。
爺の呪縛から逃れられて、僕に何かを言う人は居なくなった。解放された。
でもその喜びは一瞬のことで、次に僕に襲いかかって来たのはずっと1人きりの日々。
週に一度届けられる食べ物を消費するだけで、生きているだけ。
それでも、罵倒され、叩かれながらいるよりも余程良いと、そう思っていた。
夏から秋へ移り変わってきて、草原が黄色く色づいてきたある日。
今週の食べ物と共に一通の手紙が届いた。
本当にたまにだけ送られてくるこの手紙には、いつも同じ複雑な紋章が入っているけれど、どこから来ているのか知らない。塔の中にある膨大な本の中にも書いていなかったから、探すのは諦めている。
その中には、『爺の代わりとなる世話係を派遣する』というような内容が書かれていて、僕の気持ちは一気にどん底へ落ちた。
ようやく解放されたと思っていたのに、また呪いの日々が始まってしまう。
手紙が届いてから20日近く経った頃。
いつものように2階で本を読んでいたら、ドンドン、と強く扉を叩く音が聞こえた。
いつもの馬車の商人は扉を叩くことなどせずに荷物だけを置いて帰っていく。
つまり、この音は派遣されてきた人のもの。
憂鬱な気持ちを押さえ込んで、席を立つ。
今出ていかなければ、勝手に入ってきた人に叩かれることになるだろうから。
階下へ降りて恐る恐る扉を開くと、僕の長い前髪の間から、今日の秋晴れの空と同じくらいに明るい笑顔を浮かべた少女が立っているのが見えた。
「はじめまして、シャーラと申します。お返事なかったので扉を強く叩いてしまいましたけれど、大丈夫だったでしょうか……?」
どうしよう……?
どう言っていいのか分からないから、少し頷いておく。
「今日からここで働かせていただきますので、よろしくお願いいたします」
こんな風に明るく丁寧に話しかけられたのは初めてで、どうしていいのか本当にわからない。
僕にできることは、首を縦に動かすことだけ。
知識はきちんと持っているし、マナーの勉強もさせられたけど、実際にどうしていいのかわからない。
ずっと黙ったままの僕に、相手も困ったようにし始めた。
そこに立っていることができなくなって、二階のいつもの自分の椅子に逃げてしまう。
彼女がどうしたのかが気になるけれど僕にはどうすることもできなくて、落ち着きなくウロウロしてしまう。
そうしていると今の僕と同じくらいに不安そうな彼女が、恐る恐る二階へ上がってきた。
「あのー……入っても、良かったですか?」
不安そうな彼女に何か言いたい気もするけれど、どうにもできない僕は黙って頷くだけ。
それでも反応したことが良かったのか、次々と彼女は質問してきた。
「台所はどこですか?」
「使っていいですか?」
「食料は1週間分あると聞きましたが、使っていいですか?」
「私が使っていい部屋はありますか?どこですか?」
それら全てに首の動きと指差しだけで答える僕は、だいぶ不自然で無礼だっただろうけど、彼女の声音はさほど嫌そうではなかった。
多くの質問に答えていくうちに、この塔のことをある程度伝えられたと思う。
一階には食料庫と水場と調理場があること。
二階は居住用の部屋があって、隣の使っていない部屋を彼女が使っていいこと。
三階は倉庫で、何があるかわからないから入れないこと。
四階が本だらけで、僕はそこに住んでいること。梯子で屋上へ登れること。
首の動きと指差しと、伝えられない時は僕が移動すると彼女がついてきてくれて、結局僕は一言も話すことなく紹介することができた。
何よりも、彼女が辛抱強く的確に質問してくれたから伝えることができたんだと思う。
「では、時間も良い頃ですし、お食事の準備をしてきますね」
一通りのことを知った彼女がそう言って1階へ降りていったから、僕は4階の自分のベッドで彼女について考え始めた。
説明の間ずっと、罵倒もしないし叩きもしなかった。
冷たい目すら向けることなく、熱心に話を聞いてくれた。
最初は、こんな人が世の中にいたんだと驚いた。
そしてほんの少しだけ『いいな』って思った。
こんな僕に優しくしている彼女に、好意を抱かないわけがないと思うから。
でも、気づいてしまったんだ。
なぜ彼女がこんなにも僕に優しいのか。
それはこの人が僕の呪いを知らないからだろう。
実際に知っているのかどうかは分からないけれど、知っていてこの対応は絶対におかしい。
だって、僕は『呪われた狼』で、『獣の子供』で、この世に存在しちゃいけないものなんだから。
知らないから、優しいだけ。
彼女が本当のことを知った時に何を言われても心が傷ついてしまわないように、自分に言い聞かせた。
コンコン
扉をノックする軽い音がしたので薄く開けてみると。
「お食事ができましたので呼びに来ました。ご都合良い時にお声かけくださいね」
ご飯の時間か。
いつでもいいというようなことを言っていたけれど、彼女について下へ降りる。
「今からでよろしいですか?やっぱりご飯は出来立てが美味しいですからね」
2階の居室には二人掛けの向かい合うテーブルと、一人用の机がある。
いつもは爺が二人掛けを、僕が一人用の方で食べていて、爺が死んでからも、一人がけの机で食べていた。
けれど今は、二人掛けのテーブルに向かい合って食事が用意されていた。
「あの、使用人が一緒に食べるのがお嫌いでしたら私は向こうで食べますが」
椅子に座ることもなく固まっていた僕を見て、心配そうに言う彼女。
「失敗した」
そう思ったみたい。
その気持ちはとてもよくわかるし、次にどんな仕置きをされるのかと不安に思っているのかもしれない。
でも、それは違う。
僕はこの状況がとても嬉しかったんだ。
たとえ呪いのことを知らないからだとしても、僕と一緒にご飯を食べているくれる人がいることがたまらなく嬉しい。
それを伝えたくて、首を横に振る。
ううん、それだけじゃ、駄目だ。
何か、何か言わないと。
「……一緒に食べよう」
初めて彼女の前で言葉を発した。
反応を見るのが怖くて、視線を逸らし、自分の席に座る。
彼女の方を見たくない一心で食事を睨みつけていたけれど、彼女が椅子を引いて座ったことは、音でわかった。
恐る恐る彼女の方を見てみると、ぼくの前髪の間から目が合った。
それだけじゃなくて、にっこりと微笑んでくれたのだ。
悪いことをしてしまっているような気すらして、慌てて視線を逸らす。
ぎゅっと目をつぶるとまぶたの裏に彼女の微笑みが張り付いてしまっていて、顔に血が上り、心臓がバクバクと大きな音を立てた。
自分の体がこんなに激しく動くなんて今までなくて固まってしまう。
ほんの少し時間が経って落ち着いてくると、彼女が食事をとるカチャカチャという音が聞こえてきて、食べないと、そう思った。
いつもの僕は食材をかじるだけの食事のことが多いし、昔爺がいた頃も爺の食事の残りか、それが無ければ調理前のものを食べていた。
そんな状況だったので僕にご飯を準備してくれていることだけで嬉しかった。
それに加えて、暖かいことを証明するかのような、湯気。
ほとんど食べたことのない温かい食事は本当に美味しくて、ガツガツと食べようとしてしまう。
でも彼女に嫌な奴だと思われたくない一心で、マナーにも気を使う。
ジジイは厳しい人だったから、そこまで不快な食べ方をしていないと信じたい。
———必死にマナーを思い出しながら皿を睨んでいる彼は気づかなかった。彼女がとても優しいほほ笑みを浮かべて彼を眺めていたことを———
食事を終えてすぐに僕は部屋の片付けを始めた。
なぜかというと、狼の呪い、つまり僕のことについて書かれている本を全て隠してしまおうと思ったから。
ここにある本はほとんど全て読んだし、人狼の体と占星術とは少し関係があるのではないかとも思っているから、その資料は分けて置いてある。
でも彼女がこれを読んでしまったら僕の本当の姿がバレてしまう。
狼になるのがいつなのか、自分でも本当にわからない。
姿が変わり始めてやっと気づくのだ。
だから本を隠したって本当はそんなに意味がない。
だって一緒に住んでいたら、そう遠くないうちに彼女の前で狼になってしまうだろうから。
それでも隠さずにはいられなかった。
僕の呪いについて知られる可能性を、少しでも減らしておきたくて。
そうして狼に変わることに怯えながらも、人生で一番楽しい日々を過ごしていた。
家事せずに済むのは初めてのことで違和感すらあったけれど、その分の時間を自分の体質の研究に当てる。
姿が変わった時の日付は全て記録をとってあるから、何か関連がないのかを考えていく。
幸いここには山ほどの本があり様々な分野の知識が得られる。
本を読み漁りながら考え事をして、ふと地上を見ると彼女は洗濯物を干しているところだった。
何気ない日常の瞬間に彼女がいること言うこと、それ自体が嬉しくて。
文字でしか知らなかった『しあわせ』ということを実感することができた。
彼女は来てから4日ほど。
僕は2人での生活に少しずつ慣れてきていた。
窓は常に少しだけ開けていて、外で何か音がしたらそちらへ視線を向けるのも習慣になりつつある。
今日はガラガラという聞き馴染みのある音が聞こえてきて、慌てて外を見た。
週に1度、商人の馬車が来る日だから警戒はしていたけれど、いつもよりも早い時間帯に来たみたいだ。
馬車の音に応えてか、彼女が外へ出るのを見た瞬間、駆け出した。
4階から1階まで全力で階段を駆け下りる。
玄関まで着いた頃には商人と彼女が話し始めていた。
ダメだ、まずい!
外の人と話したら、彼女が僕の呪いのことを知ってしまう!
その恐怖に支配された僕は、彼女がどう思うのかを考えることもできずにただ強く手を引いた。
「あの……?」
彼女の困惑は当たり前だと思うけれど、事情を説明する訳にはいかない。
「では、ありがとうございました〜!」
こんな時でも挨拶を忘れない彼女の手を引いて、無理矢理中へ入る。
「どうしたんですか?」
突然意味不明なことをし始めた僕に怒るでも叩くでもなく、心配そうに見つめてくれる。
しかし、僕は何も言えない。
少しの間どうしようかと悩んで立ち尽くしていたけれど、結局何も言えずに逃げ出してしまった。
4階の自分の部屋のベッドの中。
ひとりになると自己嫌悪に陥ってしまうばかりだった。
あんなに心配そうに見られるくらいなら、いっそ叩かれた方がマシなのかもしれない。
彼女は僕のことをとても考えてくれて、気を遣ってくれていて……
それなのに僕は自分のことばっかり。
呪いのことを隠したり、彼女に知られたくないと、そればかりで、彼女のことを何も考えていないのは嫌になる。
こんなにも嫌われたくないと思うのは初めてで、どうしたら良いのかまるでわからないんだ。
ここにある本は大半が学問書で、あとはマナーなんかの教養本。
いくら内容を思い返してみても女の子の気持ちとかその話し方とか、そういうことが書いてある本はない。
どうしたらいいのかも全くわからずただ黙ってしまうだけの自分を、どうにか変えられないだろうか。
思い悩みながらもとても幸せな日々を過ごしていた。
彼女は本当に穏やかな人で、優しくしてくれて、些細な言動を一つ一つがとても好ましい。
毎日どんどん彼女のことが『すき』になっていくのと同じだけ、恐怖心も増していく。
だって、この生活はすぐに崩れてしまうものだから。
『砂上の楼閣』っていう言葉がぴったりで、彼女の無知という砂の上にかろうじて立っている幸せなのだと自分に言いきかせる。
姿が変わるのは自分でコントロールできないし、いつ起こることかもわからない。
本を隠しても、知られてしまうのは時間の問題。
ああ、いっそのこと、彼女がとてもひどい人だったら良かったのに。
もしくは最初から呪いのことを知っていれば。
そうしたら僕は前のままで、こんな幸せを知ることもなかった。
今の幸せを知ってしまった僕にとって、彼女が呪いを知ってからの暮らしは、知る前よりもずっとずっと辛いものになってしまうだろうから。
そして彼女は来てから10日以上が経った頃。
僕が一番恐れていたことが、現実になる時が来てしまった。
昼間の明るい2階の部屋で洗濯物を畳む彼女の隣で、机に向かって本読んでいた時。
突然本を取り落とした。
瞬きの間に姿が変わる。
自分の視界に入っている腕が、黒い毛に覆われ赤い肉球が現れた。
そこまで気付いてから、慌てて駆け出そうとした。
椅子から降りた瞬間目が合った彼女は、驚きに固まっていた。
……ダメだ、ダメだ!!
見られてしまった!!
その事実は変わらないのに、逃げることしか思いつかない。
僕は扉を蹴破るように開けて、自分のベッドへと飛び込んだ。
彼女は僕の自室となっているこの部屋はほとんど入ってこないから、大丈夫、と自分に言い聞かせても恐怖心は消えない。
いつだって狼の姿になるのは嫌いだし、怖い。
けれど今日は、今までよりも一層嫌いだ。
爺はいつも狼になった僕を見て、憎悪を向けてきていた。
触るのも穢らわしいと言って叩きはしなくなるけれど、その代わりとでも言うように、永遠に罵詈雑言が続くのだ。
彼女には、彼女にだけは、そうされたくない。
僕に憎しみを向けて怒鳴る彼女を見たくなくて、逃げ出してしまった。
そして、それから部屋から出ることができなくなった。
3時間以上が経って人の姿に戻ってからも、彼女と会うのが怖すぎて部屋に引きこもったまま。
コンコン
恐怖で体が震えた。
ノックの音がこんなに怖かったことは、今までにない。
どうにもできずに無視を決め込んでいると。
「お食事置いておきますね、落ち着いたらどうぞ」
そう言ってから人が去っていく気配。
……なぜ?なぜ??
彼女の考えていることが全くわからない。
僕が狼になる瞬間を目撃されたのに、何故彼女はまだ僕に優しいんだろうか?
食事を準備してくれて、わざわざ持ってきてくれて。
彼女が何を思っているのか、予想が出来なくてただただ困惑する。
でも間違いなく、とてもとても嬉しい。
狼の僕にでも、優しくしてくれるんじゃないかって。
そんな淡い期待すら抱いてしまっている。
そうっと開いた扉の向こうに彼女はもういなくて。
でも湯気の立つ温かい食事が置かれていた。
*****
一方、狼に変化したのを目撃したシャーラはただただ驚いていた。
当たり前だと思う。
自分の知らない、理解を超越した現象を目の当たりにして、驚かれない人なんていないから。
それでも、自分があんまり怖がっていないなとも感じる。
超常現象を見たのに意外と落ち着いてるなって。
何でだろう、と考えてみると……
あの狼と目が合った瞬間、あまりにも怯えていたからかな、と思う。
人が狼に変わったということ自体には驚いたけれど、狼自体にはあまり怖いと思わなかった。
初めて見た瞬間は怖いと思ったけれど、目が合った時、あの狼の中身は、主さまだってわかったから。
人の姿の時と変わらない金色の瞳は、いつも世の中の全てに怯えている少年のものだった。
ここへ来る時からあった疑問が、一気に解決した気がした。
来ることが決まった時は、なんでこんなに辺鄙なところに住んでいるんだろう?と思った。
来てから彼に会って、あまりの幼さにも驚いたし、なんでこんな子が一人で辺境なんかに住んでるだろうって。
それに、彼はまるで世界全てに怯えている小動物のようなのだ。
態度も体も小さくて、まるで故郷にいる十歳になったばかりの弟のよう。
そんな子が一人でいる事が不思議でならなかった。
それに、ここでの暮らしは食事と監視をつけられた実質監禁状態だ。
でもその理由も分かった。
彼が狼に変わるという特殊な性質を持っているせいだ。
彼本人もすごく怯えているようだったし、どうして狼になるのかが分からないから、こんなことになってるのかな?
それに、今大事なのはそんな周りの環境のことじゃなくて、彼のこと。
ここで働き始めた時から弟のようだと思っていた彼が、あんなに辛そうなのは素直に心配。
とっても臆病で怖がりなのも、何か理由があるのかもしれないし……
私にできることはあまりなさそうだけど、何ができるかな?
あっ、そうだ!
お腹空いたらそれだけで考えもネガティブになっちゃうよね。
ご飯作ったら食べてくれるかなぁ……?
*****
彼女が用意してくれたご飯は、温かくて、おいしくて……
心と、体に、染み渡るようだった。
ぽろりぽろりと、涙がこぼれ落ちてくる。
僕が生きていることを彼女は許してくれてるんだと思えて、とても嬉しい。
僕が狼になるのは、この世で一番呪われていて、穢れていて……
爺に見られた時は大体その後に食事を抜かれていた。
彼女がとても優しいのはわかったけれど、やっぱり直接会いに行くには勇気が出なくて、食べ終わった食器はそっと扉の外へ置いておいた。
その食器はいつの間にかなくなっていて、彼女が僕のことを気にしてくれてることの証のように思えた。
明日は、彼女に会いたい。
会っても大丈夫かな。
そう思いながら眠りについた。
翌朝、勇気を出して、いつものように下に降りてみた。
「おはようございます」
彼女が明るい声で挨拶をしてくれる。
「……おはよう」
小さく、消え入りそうな声で返すのも、いつも通り。
でも僕は怖くて動けなくなってしまって、扉の前で立ちすくんでしまう。
「どうしました?」
彼女は何気なくそう言って、近づいてきてくれる。
ダメだ。
彼女は、僕が狼になるところを見たんだから、近づいてくるということは……
叩かれる。
ほら、手を振り上げて……
ポンポン
えっ……???
頭を、撫でられている???
なんで?なんで?
「まだ、体調は悪いですか?」
何事もない様にそう尋ねる彼女が何を考えてるのか本気でわからない。
けれど、彼女が僕を心配してくれてることだけはわかるから、ふるふると首を横に振った。
「それならよかったです。では、ご飯にしませんか?」
僕を撫でてくれる優しい手が離れていってしまって、その手を追いかけるように本能で彼女について行った。
僕は他人に触られるのは嫌いだって、ずっと思ってた。
だって、痛いから。
でも彼女の手は痛くなんかなくて、心地よくて。
ずっと触っていてほしいくらいに、すき。
食卓に並べられているのは、パンとスープと卵焼きという、いつもの朝食。
だけど、今日はいつもと違って彼女が話しかけてきた。
「あの、答えたくなかったら、言わなくて全然大丈夫なんですけど……」
そう前置きしてから。
「ずっとここにいるんですか?」
なんでそんなことを聞くんだろう?
そう疑問に思いながらも頷く。
「ずっと、1人なんですか?」
恐る恐ると言った調子でそう聞かれて、今度は首を横に振った。
「前までは、他の人もいた。今はいないけど」
最低限の事実だけを言う。
爺のことを言うとすると、爺に教えられた僕の呪いのことを言わなければならなくなるから。
「なるほど、そうなんですか。じゃあ私はその人の代わりなんですね」
妙に納得したように彼女は言うけれど、そんなことない。
「あいつより、ずっといい」
そう言い切ると、少し言葉に困ったように黙ったけれど
「嫌いな人と一緒に住むのは大変ですね」
そう返してくれた。
僕の生きてきた環境は、多分普通じゃない。
彼女の知るような、物語で普通と言われるような、父と母と家族と生きてきたような人じゃない。
けれど彼女は軽く流して当たり前のように受け入れてくれた。
そのことに安堵すると同時に、気づいたんだ。
彼女のこと何も知らないってことに。
ちょっとだけなら、聞いてみてもいいかな。
彼女は僕に聞いてきたんだから、ちょっとくらいは……いいよね?
「君は、なんで、ここに?」
ちょっと気になってたこと。
ここにはほとんど人もいないし、彼女の家族とも会えないようなところだし……
なぜわざわざ来たのかなって。
「私の家は父がいないので、私も働かないと弟と妹が苦労することになるので」
そう言った彼女の言葉に安心した。
彼女は父がいないと言ったから。
つまり、僕が本で知ってるような『普通』じゃないってこと。
それに親近感を覚えたし、彼女が家族をのことを話すときに、とても楽しそうな柔らかな笑みを浮かべている。
「……家族が、大切なの?」
「ええ、とっても大切ですよ」
素敵な笑顔でそう言った。
「弟が3人と妹が2人いて、みんなとっても可愛いんです。そうですねぇ、主様は2番目の弟に少し似てますね」
そう言って優しく微笑む彼女は、家族のことがとても大好きなんだろうと思えて、彼女の家族が羨ましく思えた。
僕のことをこんな風に思ってくれる人は、いないから。
そして話題がひと段落して、少しの沈黙が場に落ちる。
僕のフォークが立てたカチャリという音が響くけれど、そんなことは気にならないくらい僕の頭の中は次の質問でいっぱいだった。
今一番聞きたいことを、聞くべきかどうか……
「他に、何か知りたいこととかありますか? なんでも答えますよ〜、ってちょっと失礼すぎましたか?」
おどけたように笑う彼女に、どれだけ僕が勇気付けられたか。
ゴクリ、卵焼きを飲み込んでから話し始める。
「……昨日の、見たよね?」
「はい、見ましたけど……大丈夫でしたか?」
「大丈夫って?」
「いえ、とても辛そうでしたので、体調悪いのかなと。 今はもうなんともないんですよね?」
「……うん、大丈夫」
とりあえずそれだけ返したけれど、とてもとても嬉しかった。
心配してくれてるってことがこんなにも嬉しいなんて、この気持ちを表す方法を知らないのが辛いぐらい。
でも彼女は僕の姿が変わったことしか知らない。
僕が『獣の子』で『母殺し』で、『呪いの存在』であることを知らないから、優しくしてくれてるだけなんだ。
だから、期待しちゃいけない。
彼女が僕を否定しないって、気味が悪いと言わないで受けて止めてくれるって、思っちゃいけない。
いつかは崩れる幻なんだから。
でも溢れ出るこの気持ちだけは否定出来なかった。
彼女がーーーーだいすき。
それから、『だいすき』な彼女に嫌われないために、どうすべきなのかを考えた。
結論は、狼になるところを見られないこと。
やっぱ。それに尽きると思う。
いつ、狼になるかわからないのに見られないようにするには、一緒にいる時間を減らすことしかできない。
でも彼女と離れて過ごすことも嫌で、せめて同じ部屋で過ごすことは許して欲しくて、2階の彼女が作業している部屋にずっといた。
10日くらいは、同じ部屋にいるだけの穏やかな時間が流れた。
会話はないけれど、彼女と同じ部屋で彼女の香りに包まれているだけで、この上なく幸せ。
だけど、そんな幸せな時間は長くは続かない。
窓から見えるのが満点の星空に変わったころに、また、彼女の前で、狼になってしまった。
いつ姿が変わるのか分からないという現実から、目を背けていたツケが回ってきたんだ。
考え事をしている暇はない。
とにかく彼女の前からいなくならないと。
その一心で、4階の自室へ向かって駆け出した。
四つ足だと、まるで風のように走れる。
あっという間に部屋へたどり着き、ベッドへ突っ込む。
もう、自分が嫌だ。キライだ。
嫌で嫌で、仕方ない。
なんで僕はこんな存在なんだろう?
1人になるとネガティブな考えが止まらなくなる。
彼女はあんなにも綺麗で優しいのに、僕は何でこんなにも汚いんだろう?
視界に入る自分の手が嫌いだ。
腕というより前脚というべき、黒い毛に包まれた自分。
狼でさえなければ、こんなに呪われた存在でなければよかったのに……
嫌で嫌で仕方なくて、どうにもできない苦しさを自分にぶつける。
……前足に、噛みついた。
痛い。
こうして傷ついて、傷つき続けたら、いつか狼に変わらない体になってくれないだろうか。
牙が食い込んだ皮膚が破れて、黒い毛が血に濡れる。
あぁ、自分が嫌いだ。
なんで、僕はこんなにも汚くて、穢らわしいんだろう。
なんで獣になってしまうんだろう。
どれだけ痛くても、牙が食い込んでも、人の形には戻ってくれない。
……なぜ?……なぜ?
僕はこんな存在なんだ……?
苦しくて、悲しくて、痛くて、でも自分にはもうどうにもできなくて。
そんなとき、ふわりと違う香りがした。
僕が今までで一番好きな、彼女の香り。
大好きな彼女なのに近づいてくることが怖い。
汚らわしい僕を見られて、憎悪のこもった目を向けられたくない。
こんな姿の僕が嫌で、また前脚を噛む。
牙に力が入り、めり込む。
皮膚を破り肉を裂く。
確かに痛いけれど、体が痛いのは大丈夫。
我慢できる。
だって、これから、心も痛くなるんだから。
そう思って体を強ばらせて彼女の怒声に備えていたのに。
柔らかな手が僕の背中を滑るように、優しく撫でてくれる。
なぜそんなことをしてくれるのか、全くわからない。
だけど自然と力が抜けて、牙にかかる力も減った。
腕の痛みが少しだけ軽くなる。
「……大丈夫ですか? 噛まないでくださいね、痛くなりますよ? 痛いの、嫌ですよね?
ゆっくり、息を吸って……吐いて……吸って……」
優しい声をかけてくれるけれど、僕は低く唸るような、声にならない音しか返せないのが辛い。
そんな中で、爆弾にも等しい発言が落とされた。
「あの、実は、書類というか本を読みました。
だから、主様の体のことを知ってます」
……えっ!?
なんで?隠してたのに、見つかってしまった?
「ごめんなさい」
彼女の言葉なんて、耳に入ってこない。
僕が呪われた存在だってこと、知られてしまっている?
頭がうまく回っていない気がするけれど、とにかく逃げなきゃ。
ベッドから降りて部屋から出ようとした時に、追いすがるように声が飛んできた。
「ごめんなさい!
お願いですから、怖がらないでください……嫌わないで!」
すがるような彼女の声。
なんで、彼女がそんなこと言うの?
僕それは僕のセリフなのに。
「勝手に見て、ごめんなさい。でも、どうしても知りたかったんです。
見た目は変わっても、主様は主様のままなんですよね?変わってないんでしょう?」
『変わっていない』……?
こんな姿でも、僕が僕だって言ってくれるの?
「本には、呪いだとか色々書いてましたけど……
今はどうだっていいじゃないですか。今大事なのは主様の体のことです。苦しいんですか?」
まだ扉の前で固まったままの僕を見つめてくれる、心配そうな目。
もしかして、逃げなくてもいいのかな?
ちょっとだけそう思えて、ベッドの端の方に彼女と距離をあけて丸まる。
彼女がどうするのか、先を見るのが怖くてぎゅっと目をつぶって。
ゆるくベッドがたわんだ感覚と共に、僕の隣に彼女が座った気配がした。
そして、ゆっくりと背中の毛皮を撫でてくれる。
さっきと同じ動きだけど、彼女が僕のことを知った上で受け入れてくれるって、そう思うだけで心が安らいでいく。
彼女の手が触れたところから温かさが染み込んでくるようで、恐怖と驚きに固まっていた体がほぐれていって、彼女の手のひらと同じくらいに柔らかい気持ちになれた。
「ゆっくりしましょう?もう時間も遅いですし、寝てしまってもいいと思いますよ」
彼女の優しい声と柔らかな手に包まれて、人生で一番安らかな眠りにつけた。
翌朝起きると、人の姿に戻っていた。
昨夜の出来事は夢だったのかもと思うけれど、確かに腕は痛いし傷だらけでズタズタになっている。
狼になったのは本当だと思うけど、どこまでが現実だったんだろう?
多分、彼女が来てくれて、とっても優しくて……
でもあれは現実のことだったんだろうか?
僕の脳みそが生み出した幻だったんじゃないかな?
とりあえず、一旦二階へ降りてみる。
窓から朝日の差し込むリビングはしんと静まり返っていて、誰もいない。
リビングから続いている彼女の部屋からも全く音はせず、まるで人の気配がない。
それに気づいた時の、僕の恐怖が伝わるだろうか?
やっぱり、昨夜の彼女は僕にしか見えない幻だったんだ。
彼女は、狼になる呪われた僕が嫌になって、出て行ってしまったんだ。
だって、普段ならもう彼女は起きている時間で、ここにいないのはおかしいんだから。
強ばった身体を動かすこともできずに、部屋に入ったところで固まっていることしかできずにいた。
……バタン……とんとん……
階下で音がする。
玄関の扉が閉まる音と、階段を上る足音。
……誰?
「おはようございます! もう起きてらっしゃったんですね」
彼女だ。
コートを着て、手に小さな包みを下げている。
どこかへ行ってた?
それとも……わかった。
これから出ていくってことだ!!
「どこへも行かないで」
とっさにそう言っていた。
彼女に手を伸ばそうとして、傷だらけなのに気付いて触れることもできずに手が空をさまよう。
「どこへも行きませんよ?どうしたんですか?」
優しく笑いながらそう言ってコートを脱ぐ。
「薬を買いに行っていたんですよ。ここには傷薬がないようだったので」
確かにこの塔に薬はないと思う。
だけどこの寒いのに遠い遠い村までわざわざ行ってくれたの?
彼女に向かって差し出したまま行き場を失っていた僕の手を優しく握りしめてくれた。
「薬塗りましょうね」
寒い冬の朝、外を長い時間歩いてきた彼女の手はとても冷たくなっていて、申し訳ない気持ちになった。
せめてと思って彼女の手を包み込むように握ると。
「主様の手、あったかいですね」
僕の目を見て、そう言ってくれたのだ。
僕なんかの手でも、振り払ったりせずに。
少し手に暖かさが戻ってきたところで、薬を取り出して僕の手に塗ってくれた。
僕が触れても許してくれる。
それどころか、こんな風にわざわざ買ってきた薬を塗ってくれる、優しい手。
他の人に薬を塗ってもらうなんて初めてのことで、こんなにも心地よいことなんて知らなくて、うっとりとしてしまう。
「……ありがと」
彼女の優しさが嬉しくて仕方なくて、涙がこぼれそうなのを隠してお礼を言う。
「どういたしまして」
彼女は柔らかく微笑んでくれた。
朝ごはんを食べ終わったあと。
「あの、少しお話、いいですか?」
恐る恐るそういう彼女に、少し身構えながらもコクリと頷く。
食事の時と同じようにテーブルに向かい合って座ると、彼女が口を開いた。
「主様の体について書かれてる本を、読ませていただきました。前に狼になった時に少しと、昨日の夜にも。
大体のことは知りましたけど、かなり酷いことばっかり書かれてるなって思いました」
精一杯手を伸ばして僕の髪を撫でてくれる。
「あの本は本当のことじゃないこととか、作り話とかも書かれてるなって思います。呪いだとか獣の子供だとか、好き勝手に適当なこと言ってるだけで……
主様のことを本当に見たことある人なんて一人もいないのに、絶対おかしいと思います!」
力強く断言してくれる。
「短い時間ですけど、直接見てる私にしかわからないこともあります。一番は主様がとってもいい人だってことです。
私のことも邪険にせずに優しく接してくださいますし。だから主様に傷ついてほしくないんです」
優しい手のひらと言葉に胸がつまり、
……ポタリ
机に涙がこぼれる。
「狼になるのもただの体質ですよね。
私だって体調を崩したら蕁麻疹が出て顔中ブツブツになったりしますよ?
それと同じなんですから、呪いだって思うのやめましょう?」
「……呪いじゃ、ない?」
「ないですよ!
姿が変わる時って苦しいんですか?」
「いや別に」
「じゃあ悪いことなんて、ひとつもないじゃないですか!」
そう言い切る彼女がとても頼もしくて、とっても輝いて見えた。
だって、僕の思い込みを正面から打ち破ってくれたから。
「それに私、毛皮の手触りが大好きなんです。ふわふわしてるのがとても気持ちよくて。
だから主様の狼の体触ってるの、大好きなんです」
キラキラした笑顔でそう言う彼女の言葉が、すぐには信じられない。
「……僕の狼の体が、好き?」
「とっても触り心地が良かったんです。また触らせてくれませんか?」
こくり、こくり。大きく頷く。
君が望んでくれるなら、いくらでも触ってほしい。
「楽しみにしてますね!」
こんな風に楽しみにさえしてくれるなんて。
嫌いで仕方なかった狼の姿に変わる時間が、ほんの少しだけ楽しみになった。
あれからまた10日以上が経って、腕の傷も塞がってきた頃。
太陽が傾いてきて夕日の入ってくる2階で、いつものように本を読んでいたら突然本を取り落とした。
肌が毛に覆われていって、狼の姿に変わって行くけれど、もう焦らない。不安もない。
彼女が来るのを心待ちにさえしていて、自分がいちばん驚いている。
僕がこんな風に変われたのは、何もかも彼女のおかげ。
骨格が変わって椅子の上にいるのがしんどいから、床にゴロンと寝そべっていると、外へ出ていた彼女が戻ってきた。
「あっ、狼さんになってる!」
弾けるような声でそう言って、僕に駆け寄ってきてくれる。
そして隣にしゃがみ込んで、背中やお腹をなでなてしてくれる。
「主様の毛皮は本当にふわふわですね。柔らかくて気持ちいいです」
こんな僕で喜んでくれるなんて。
彼女のキラキラした笑顔を見ると、僕もたまらなく嬉しい気持ちになれる。
「床に寝たままだと体痛くなっちゃいますし、私も触りにくいので、私の部屋に行きませんか?」
そう言って彼女はリビングから続き間になっている自分の部屋入れてくれた。
彼女のベッドに寝転んで、彼女の香りに包まれて、彼女の柔らかな手に触れてもらえる至福の時間。
柔らかな手のひらに擦り寄ると、うふふって笑ってくれる。
狼になる呪われた時間がこんなにも幸せなものになるなんて思ってもみなかったな。
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