魔女の心臓 2節①
深く暗いまどろみの淵。
肉体の感覚は無くただ大海の中で時に飲み込まれ、時に流され時にたゆたう頼りない感覚だけがあった。
ー私は何故ここに…
私は試験に失敗して駅のホームで電車を待っていたら…そうだ。気を失った。
いや、違う。
死んだのだ。
何故だか分からないが確信があった。
気絶して頭の当りどころが悪かったのか、あるいは心臓発作だったのか、それともホームから転落し轢死したのか。それは分からない。
ーであれば、ここは死後の世界か。
普段であれば一笑に付すようなオカルトであるが、不思議と受け容れる事ができた。
諦観にも似た無常が心を支配し、やがてこのまどろみも雲霧の如く霧散していくのだろうと思った。
ー悲しくはない。だが、悲しいと思える未練が無い事が悲しい。
涙を流して後悔したかった。歯を食いしばり無念に打ち震えたかった。当たり前に明日の予定に想いを馳せたかった。
こうしていつか来るはずであった終わりに安堵している自分が最も情けない。
ー光。
どこからともなく光に包まれていくのが分かった。その光によって影が払われていくかの如く、身体が実体を得ていくのを感じる。
眩しさに耐えられなくなった時、存在しないはずの瞼を強く閉じ、あるはずのない肢体が吹き飛ばされるような衝撃を受け、そこでの意識は消え失せた。
1.
「ここは…どこ…」
覚醒するとそこは見知った自室の天井もなければ病院で消毒液が放つ臭いもしない、冷たくざらついた石畳の上であった。
「ッぅ…」
痛みは無いが身体が重い。軋む身体に鞭を打ち中腰のまま辺りを見渡す。
眼の前には表面がぬるりと剥げた猿とも蝙蝠ともつかない化物が気を失って倒れていた。
「うわぁッ!」
少なくとも日本に生息するような野生生物でないことだけは確かだが、ならば眼の前のアレはなんだ。
ー全く状況が掴めない。さっきまで私は駅のホームにいたはずなのに、眼の前にあるアレはまるでファンタジー世界の怪物じゃないの。
「あなた…目覚めたの…?」
「ふぇッ!!」
ふと背後からかけられた声に驚き素っ頓狂な声を上げてしまった。振り向くとそこにはローブを纏った黒髪の少女が怯えたと安堵を孕んだ目でこちらを見つめていた。
「あなたは…?いえ、それよりも今何が起きてて…」
ーガサッ
蠢く気配を感じた。あの怪物はまだ生きていたのか。
気配の先に注意を向けながら二人して身じろいだ。
ーさっき“魔力“で吹き飛ばしたはずなのに。あれだけでは足りなかったか。
淀みなくそう考えた自分自身に驚いた。
ー“魔力“?私は今そんな非現実的な事を考えたのか?
しかし、思考がまとまりきる前に眼前の怪物は己の体勢を立て直し、憤怒の宿った眼でこちらを見据えた。
ほぼ無意識的に腰に手を回すが、その手は空を切り自身には手持ちの武器は持っていない事だけが確認できた。
「グルァァァァ」
そのスキを好機と捉えた怪物は雄叫びをあげながらこちらへ飛びかかってきた。
「いやっ…!」
ふと床に落ちていた石畳の破片を掴み、それを怪物めがけて投げつけた。
ーゴシュッ
直撃したそれに一瞬身じろぐ怪物であったが、すぐにこちらへ向き直り攻撃の姿勢へと移った。
「来ないで!来るなっ!」
連続して石を投げるが、今度こそ意に介す様子すら見せずに突撃は加速してくる。もう防衛手段はない。万事休すと少女の手を握りその場を駆けた。
「あなたっ…!」
「何がどうなってるのか全然分からない!あれは何事!?誰か助けて!」
そう叫ぶと彼女は得心のいかない顔を浮かべた。
「そうか…アンデッドは生前の精神が戻るわけではないから…でも疑似人格にしては…」
打って変わって神妙な面持ちでぶつぶつと独り言を始めた。すると、何か思いついたような顔に変わりこちらを見つめてきた。
「どうしたの!早く逃げないと…!」
「ちょっと待って!これならいけるかも…」
そう呟いて彼女は手に持った本を開いた。そうしている内にも怪物は前脚の爪で石畳を削りながらじぐざぐにこちらへ猛進してくる。
「何をやって…!」
「これなら!あのガーゴイルへ向けて右手を突き出して!」
「は!?何言ってるのか全然…」
「いいから!早く!」
冗談で言ってるわけではないとばかりの剣幕。その圧に押されて彼女の言うように手をかざす。
彼女がガーゴイルと称した怪物はもはやあと数歩というところまで切迫していた。
「大地の渇き。双頭の大蛇。荒野に散る蜃気楼」
その詠唱が進むにつれて全身が熱くたぎる感覚が増す。怪物に向けた右手は灼けるように熱を放っていた。
ーしかしっ
「太陽は沈み残された篝火を人の叡智と成す」
ー早く!
「グギァァァァァ」
今まさに怪物は自分の喉元めがけて飛びかかってきた。逃げ出したいという気持ちで満たされている身体はそれに反して恐怖で微動だにしない。
もはやここまでと強く目を閉じ来たる死に備えるがごとく身体を硬直させた。
「叫べ!大蛇の火鉢!」
瞬間、自分の右手の先に巨大な円が浮かび上がり光を放ちながら紋様を浮かべた。
魔法陣と言うべきそれは灼熱の火球を生み出し、辺りの空気を熱により歪ませた。
怪物は恐れを覚えるにはあまりにも遅すぎ、突進する自らの慣性を止める事はできずにその身を業火に委ねるのみだった。
そして火球は魔法陣を離れ、巨大なボーリング球が如く突き進んでいった。
「ギャっ」
抵抗する事も出来ずに怪物は断末の叫びをあげながら火球に飲み込まれて消滅した。火球はそのまま前進し続け壁に衝突し爆発した。
「熱っ」
爆発は壁一面を焼き、周囲に熱風を充満させた。サウナさながらに熱を帯びた空気に晒され汗が吹き出した。
ーまずいっ
「ここを離れよう!はやく!」
「うっ、うん!」
自分と彼女の口を押さえさせながら足早に階段まで駆け抜けた。
こうしている間にも体内に入った熱風が肺を熱く焼いていく。急激に温度が上がり膨張した空気が爆発的に我々を押し出した。
「ハァハァ…」
息を切らしながら階段を駆け上がり、地下を飛び出した。
「助かった…」
二人してそう言った。
「ありがとう。助かったよ」
彼女が汗を拭いながら深々と礼をしてきた。
「いや、私は何も…それよりもさっきのは…ま、魔法…?」
おずおずと問いただす。
「うん。私とあなたは制約を結んでるから私が詠唱してあなたが代わり魔術を使ってもらったんだけど…」
「制約?」
「それも分からないの?おかしいな。スレイヴってこういうものなのかしら」
顎に手を当てながらぶつくさと呟いている。そのうちに決意した顔を浮かべた彼女はこちらへその眼を向けながら言った。
「手短に説明するから聞いて」
※
「嘘でしょ…?」
彼女曰く、【『私』の肉体】は死んだのだという。そのため【『私』の肉体】に魔術をかけてアンデッドとして操ろうとしていたのだという。
もうその話の時点で頭が痛くなったが、それ以上に頭を抱えたのは『私』がその【肉体】に精神を乗り移らせている状態だということ。
「そのね…通常はアンデッドやゴーレムみたいなスレイヴっていう存在には人格は存在しないの。存在しているように見えてもそれは主人との間に結んだ制約を守るための疑似人格なの」
「さっきも言ってた制約っていうのは…契約じゃなくて?」
「似てるけど…。制約っていうのは例えば『主人に歯向かってはならない』『主人を守らなくてはならない』みたいな決まり事を指すの」
なるほど、契約とは表面上は対等な取引関係で成立するもの。制約とはもっと一方的な縛りを指す関係で相違ないようだ。
「さっき魔術が使えたのも…」
「うん。『主人の指示のもとでのみ魔術の発動を許可する』制約のひとつ」
やはり。彼女に問いかけつつも問いの答え自体はおおよその見当はついていた。この身体の持ち主自身の記憶や知識は記録として振り返る事が出来るようだ。
この世界の言語が理解できるのもこのためであろう。
「ごめんね。本当はこっちももっと色々聞きたいんだけどそれどころじゃなくて。無事に終わったらあなたも何でも聞いていいから」
自分が思索に意識を費やしているのを察して彼女は優しい声をかけてきた。
「それどころじゃないって…一体なにが」
「襲われてるの。さっきみたいな化物に」




