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その当日

 この国には聖女がいる。

 結界を張るだとか大怪我を治したりだとか死者を蘇らせたりするだとか、そんな大きな奇跡が必要のないこの時代――日々の平和を祈るために、彼女たちは神殿に坐すのだ。

 とはいえ、そもそもが平和なので聖女たちのお勤めも穏やかなものだった。

 外敵との戦いがないとか、そういう意味では。



 聖女たちが暮らす聖殿の朝は早い。お隣の神殿にも負けてない。

 勝負はしてないけど。だってお仲間だし。

「ふぁうにゃほぁー」

 空が白み始めるころに目覚めた新米聖女ミーメアは肌掛けのなかで、ぐにょーーーーーーーと日課の伸びを行なった。うつ伏せ寝から尻を上げて上半身は落とし腕をまっすぐ前に伸ばした、いわゆる猫のポーズだ。女豹ではない。

 寝起きでぼさついた赤煉瓦色の髪は肩を流れてシーツに落ち、前髪は気持ちよさげに細められた葡萄色の瞳をぱらぱらと隠す。顔の輪郭に残るまるみが、年齢よりも幼さを見せていた。

「うぉぉああぁぁ……ベッドが広い……伸び放題……」

 半年前にこの部屋を賜ったミーメアだが、未だに毎朝こうして感銘を受けている。夜にも同じようなことを言っている。

 顔を左右に振って体温が残る寝床と名残を惜しんだミーメアは、バッとベッドを飛び出した。

「起きた! 天気よし! 風よし! シーツ洗い日和と見た!」

 勢いよくカーテンを広げて天気の予想を立てると、しわの寄ったシーツを丸めて持って部屋を出た。おっとタオルも忘れずに。

 洗濯の時間は朝食を終えた午前中だ。みんな一斉にやるので、今は洗濯場に置いておくだけでいい。ぽーんと投げたシーツが籠に飛び込んだのを確認して、まずは洗顔へ向かう。敷地内にある井戸に手をかけて、がっしょがっしょと大きなタライに水を満たす。

 冷たくも清涼な水しぶきに恵みを感謝していると、他の聖女たちも起き出してやってきていた。

「おはようミーメア! 今日も早いわね、ありがとう!」

「自分、下っ端ですから!」

「言葉遣い!」

「すいません姐さん!」

「だから私は貴女の姐さんではなくて!」

 侯爵家から抜擢された筆頭聖女様からいつものごとく言葉遣いにツッコミを受ける。きっと姐さんなんて言葉のない世界で育たれたのだなあとミーメアは微笑ましくなるのだ。

 その表情がうさんくさいと、またツッコまれるのだけれど。




 身支度と朝食、掃除と洗濯が終われば祈りの時間だ。

 聖女たちが揃って訪れるのは聖殿の中心、最奥にある祈りの水晶の間。王都の門くらいはあるのではないかとミーメアが思うその水晶は、趣向を凝らされた装飾に飾られて部屋の台座に今日も変わらず鎮座している。

 透明なようでいて、ときおり色とりどりの光が走るのもいつものこと。たまに混じる黒いものは、引き込んで浄化中のものだ。自然にしていても入ってくるけれど、祈りによって国内に存在するそれらを引き寄せるのも、ミーメアたち聖女の祈りの効果のひとつだった。

 一行は、いつものようにそれぞれの指定席へ腰を下ろした。胸の前で両手を組んで目を閉じる。

「――はじめましょう」

 筆頭聖女の言葉が開始の合図だ。時間にして一時間ほど祈りを捧げれば、その日のお勤めは完了となる。

 しぃんと静まり返った部屋のなか、ミーメアもいつもどおりに祈りを捧げた。

 ……おはようございます。

 ……今日もいい天気です。

 ……朝ごはんがおいしかったです。

 ……明日の天気はどうでしょうね。

 ……お父さんやお母さんは元気かなあ。

 祈りというよりは、つれづれと語りかける世間話のようなものだ。ぶっちゃけた話、水晶へ意識を傾けていられればいいということなのでそうしている。

 ミーメアはまだ聖女の任に就いて浅いから思考に集中するばかりだが、慣れた聖女たちはその合間にそれこそ互いで世間話をしたりもするのだ。ゆるい。

「ねえ、昨日話したこと覚えていて?」

「ええ、最近市中で流行っている物語でしょう?」

 ……らしいですよ。どんなのでしょうね。

 水晶へ語りかけることで意識を逸らさないようにしながら、聖女たちの会話もどうにか拾おうと試みる。

「素敵よねえ。強く美しい王子様と健気な聖女の愛」

 ……聖女って健気なのかあ……

「あれこそ理想の聖女像だわ」

「王子様も素敵なのよね。聖女を守るために傷つくくだりなんて、震えてしまったもの」

「そして結ばれたふたりのあの幸福……」

 ……そりゃあ傷が入れば痛みに震えますよね。たぶん違うんだろうけど。

「わたくしたちにもそんなことが起こればいいのに――なんて」

「思ってしまいますわよね」

「ふふふ」

「乙女の夢ですわ」

 ……なるほどこれが乙女か。

 まだ手習い中の文字がちゃんと読めるようになったら、誰かからその本を借りてみようとミーメアは思った。ド平民のミーメアは聖殿に入るまでそういう学習の機会がなかったのだ。簡単な文章や定型文の報告書ならどうにかなるが、情緒たっぷりとか詩情があふれるとかそういう難しい言い回しはまだ難しいのだ。

 ……学習意欲がわきました。がんばります。

 と、そういう思考も水晶へ垂れ流したそのとき、


 い い よ


 ……は?


 祈りの向こうで何かが応えた。

 思わずまぶたを持ち上げたミーメアの目の前には祈りの水晶と、それを囲む聖女たちがいて――

「え……っ」

「きゃ、きゃああああああ!?」

「何、いや、いやああああ!?」

 透明だった水晶が真っ黒に染まって、染まるどころか真っ黒い霧のようなものを吹き出して、その霧が聖女たちを包みこんでいく。悲鳴を上げて逃げようとした彼女たちは次の瞬間、ばたばたとその場に倒れ伏した。

「姐さん!?」

 あっという間にたった一人その場に取り残されて立ち尽くす羽目になったミーメアは、筆頭聖女に駆け寄った。うっかりいつもなら怒られる呼称をくちにするが、反応はない。

 何が起こっているのかたしかめるべく手のひらで触れて、彼女の体内を探査する。皮膚、血管、筋肉――と探って、魔力経路へ接触してすぐに原因は知れた。

「……魔素枯渇……」

 奉仕活動に使うこともあって、対人の状態探査は新米聖女でも早いうちに覚える技能だ。そして魔力経路とは、人が体内に持つ魔素を巡回させる血管のようなものだ。魔術を扱うために外部から取り込んだ魔素もここへ入る。物理的に腕を切るなどしても経路が途切れることはなく、魔素が吹き出すようなこともない。やりたければ魔術的な作用でもって行なう必要がある。

 魔素は人も生来持つものだ。操れるかどうかは個人の資質によるけれど、この世界の生き物であれば大小の差はともかくあまねく体内を巡るもの。

 それが、筆頭聖女から失われていた。

「うそ!?」

 ミーメアは凍りつきかけた体を強制的に動かして、他の聖女も確認する。――全員、同じ症状だ。

「なんで……なんで、いきなり!?」

 死んではいない。息はある。

 だが、常に存在してしかるべき魔素が急激に失われるなんて異常に体がついていけるはずがない。現に誰一人意識を取り戻さないのだ。

 なにかが起こったのだ。

 だけどなにが起こったのだ。

 いつもどおりの日課だったはずなのに。


 だ っ て


「…………!?」


 ね が い だ っ た か ら


 頭に響くなにかの声に誘われるように、ミーメアはかがめていた体を起こして水晶を見た。聖女たちを襲ってなお有り余る真っ黒い霧が、透明なそのなかで踊っている。

「…………」

 さっきは放置されたミーメアだったが、これがまた放たれるなら今度こそ逃げようがない。なすすべなく見つめる彼女の目の前で、ぶわぁ、と霧が吹き上がり――消えた。

「へ?」

 なんじゃそりゃ。

 こわばっていた体のちからが一気に抜けた反動で、ミーメアは尻から床に崩れ落ちた。いつもはきれいに気をつけて扱うはずの聖女のためにととのえられた衣装はとっくにしわくちゃだが、それを気にする余裕もない。


 あ な た の


「……」


 お ね が い は ?


 うまくまわらない頭が、それでも答えらしきものを導き出した。

 これは祈りの水晶だ。日々の平和を祈る聖女のそれに応えるためのからくりだ。魔灰に苦しむ世界のためにその昔、妖精の乙女が授けてくれたたからもの。各国で分け合った平和の礎。

 ――祈りは願いではない。

 いや、願うことは間違いではない。人が進む源のひとつなのだから。

 ただそれを、この水晶に向けてはならなかったというだけだ。

 ただそれを、聖女たちは今日のたあいない会話で成立させてしまったというだけだ。


「!」


 王都中に響き渡る警報が、ミーメアの視線を水晶から剥がさせた。

 聞いたことがある音だ。ただし訓練でしか知らない音だ。

「なんで、今、時期じゃないのに!」

 無意識に叫ぶミーメアは、警報の意味を知っている。

 この音は、大規模な警戒と臨戦態勢を王都の全てに求めるもの。魔獣の大量発生と暴走を迎え討つためのもの。……スタンピードが発生したと、標的が明確にこの王都であると、知らしめるものだった。




 騒然とする街中をミーメアは駆ける。しつこく何か言ってくる推定水晶の意思には「保留!!」と叩きつけて、彼女は聖殿を出ていた。向かう先は神殿だ。

 お隣さんとはいえ、敷地の都合もあって移動に必要な距離は長い。便利な裏道もあるが、実は今ひとを一人背負っているミーメアが通れるようなものではない。したがって遺憾ではあるが、表のルートを通らなければならなかった。

 水晶の間を出てすぐ遭遇した聖殿の代表者へ水晶が黒変した聖女が倒れた誰も入れるな解決のあてがあるから神殿へ行くとだけ叫んで駆け出したミーメアは、たぶん気が触れたと思われただろう。あっけにとられて止める様子もなかった彼はいまごろ、避難者たちを受け入れているだろうか。

 祈りを始める直前までは晴天だった空も、今となっては立ち込める暗雲が見る者に不安をもたらすばかり。それを示すように怯える表情の多い人の流れに逆らって進めば、神殿のほうに集う民は少なかった。避難所として指定されていないのだ。

 ここには神殿騎士が詰めているから、こういった外敵に対する有事の際には騎士たちの動きを妨げないことが優先される。それが王都の民に周知されている結果だ。

 そのおかげと自身が聖女であるという効果もあって、ミーメアは難なく神殿へ足を踏み入れた。入った先でもまた疾走だ。同じ女性とはいえひとを背負ったこの状態で、我ながら神がかった速度である。たしか火事場の馬鹿力。

 勝手知ったる内部を進んで進んで、ようやくミーメアは目的地にたどり着いた。

「失礼します!!」

 ノックもせずに開け放った扉の先に求めていた人物の姿を見つけて、ミーメアはようやく息をつく。

「ミーメア、どうしてここに」

 立ち並ぶ聖騎士や神官、神官長のさらに奥。神殿のなかでもっとも豪華と思われる椅子に腰掛けていた少年が一瞬前まで逼迫していたと思われる表情を驚きに崩して腰を浮かしていた。

 彼を人は教皇聖下と呼ぶ。神殿と聖殿を統括する最高責任者であり、かつ第六王子殿下という今回の事案で真っ先に実働部隊を指揮するお役目のやんごときお方だ。ミーメアとそう歳の差はないのに、背負う責任がでかすぎる。当人曰く、王位継承にかかわるよりはるかにマシらしいが。

 だが今、そこらへんは些事だ。

 荒げた息をととのえる余裕もなく、ミーメアは叫ぶ。

「スタンピードについて!」

「何か知っているのか!?」

 聖下だけでなく、周囲の面々がざわついた。

 定期的に起こるスタンピードは、本来の周期であればあと五十年ほどは余裕があるし規模もこれほどの――王都のしかも神殿の中枢にいてなお背筋を凍らせるような悪寒をもたらすような――ものではないのだ。

 すでに物見から物騒な報告が次々と、魔術の文によって室内に届けられている。

 現状の武力で足りるのか、どこを守るかどこをあえて削らせるか、それを相談する時間すらも危ういこの現状に飛び込んできた聖女がいかなる情報をもたらすか。

 生じた希望は少なく、困惑のほうが大きかった。

 そしてミーメアは困惑を増大させ混乱に導くような行動に出た。

「王子様!」

 あいかわらずひとを背負ったまま、驚きに動きがにぶっている面々をかきわけて聖下の傍へと歩み寄る。

 突然王子様などと呼ばれた聖下は「は?」と目を見開いた。まさかミーメアからいまさら王子様なんて呼ばれることがあるなどと、予想もしなかったという顔だ。

「これを背中に!」

「はあ?」

「かばって! さあ!」

「は?」

 がんばって背負ってきた筆頭聖女を差し出すも、聖下は彼女とミーメアを交互に見るばかりだった。だいたいの物事は冷静沈着に処理する彼だが、さすがに理解が追いつかないらしい。

 無理もない。ミーメアもそれと知らなかったら同じ反応をする自信がある。あるが、ここは同意する場面ではないのだ。

「ええいめんどうくさい!」

 ミーメアは筆頭聖女を聖下が座る椅子の後ろに投げ――かけ、我に返ってそっと寝かせた。婦女子にひどいことをするところだった。

 いい顔で汗をぬぐったミーメアは、すぐさま次の行動に移る。すなわち、

「おい、ミーメア……?」

「ごめんあそばせ!」

 おそらく落ち着かせようとしてだろう、椅子から立ち上がってミーメアへ伸ばしてくれた聖下の腕を自分から掴み――袖口と手袋の間、むき出しになっている手首へがぶりと噛み付いたのだ。

「ミ、ミーメア!?」

 くっきり歯型がついた手首を解放したところで、聖下を傷つけた聖女……という名の不埒者へ聖騎士たちが殺気を放つ。たぶん魔灰に頭やられたとか思われてる。わかる。

 けれど唯一聖下だけがそう思っていないことはすぐに分かった。戸惑いと困惑に揺れてなお、傷を与えたミーメアに対していっさいの不審も敵意も表していなかった。

 だからミーメアは部屋に満ちる重圧に耐えて叫べたのだ。

 未だ目覚めぬ筆頭聖女を指差して、聖下を見つめて声高らかに。


「この人と結ばれてください!!」


「「「「――――は?」」」」


 なのに返ってきた反応はひどかった。

 殺気が霧散したのはいいが、緊張感までぶっとんだ。殺気があった場所に星とかひよこが踊っている。飛んできた魔術文が受け取ってくれる相手がいなくて右往左往している。

 ミーメアはそこにたたみかけた。

「祈りの水晶の取り扱いミスです! うっかり願い事流しちゃったら変な反応して! 魔力吸われて! 叶ったらきっと戻るはずです!」

「いろいろ言いたいことはあるが何を望んだんだ!?」

「さすがですレヴィ! さすがの賢さですねそういうとこ好きですよ!!」

 要点だけまとめようとしてまとめきれていないミーメアの言葉に即反応した聖下は、やはりすごいお人だった。あふれる尊敬と親愛の念そのままに叫んだミーメアは一瞬赤くなった聖下の頬を見逃した。

「物語のようになったらいいねって! 王子様が傷ついても聖女をかばってふたりが結ばれるやつです!!」

「それは彼女じゃないとだめなのか!? 婚約者がいるはずだぞ!?」

「ええええええ!?」

 ここで明らかになった事実に叫ぶしかないミーメアである。

 筆頭聖女。侯爵家の愛娘。いないわけがなかった。聖女の務めの間は俗世から離れてしまうこともあって、そんな話が持ち上がったりはしなかったのだ。……いや、興味のなかったミーメアが聞き逃していただけかもしれない。

 だがまずい。それはまずい。

 婚約者がいながら他の男性と結ばれるとか、しかも達成条件とこの現状を見るにたぶん見せかけじゃ納得してくれないやつ。

 夢を語った筆頭聖女、まさかの人選ミスであった。お役目引退後の婚姻は政略なのかな! たいへんだな!!

「他のをみつくろってきます!!」

「まて」

 聖殿へ戻ろうとしたミーメアの腕を、聖下が掴む。他のがみつくろえるのなら、と聖下は口早に言った。

「聖女であればいいんだろう?」

「はい! 個人名は出てません! だから!」

「俺はおまえがいい」

「あっそうでした! 自分、聖女だった!!」

 着任半年目の新米聖女、まだまだ意識が低かった。

 己の役職を思い出したミーメアを見る聖下の目はちょっとだけ呆れを宿したけれど、すぐさま強い光でもって引き止めた少女を貫いた。

 そんな強烈な視線を真っ向から向けられたことがなかったミーメアは、驚いて目をまたたかせる。泳ごうとした瞳を縫い止めたのはもちろん、彼女を抱き寄せた聖下のまなざしだ。

 両腕に包まれる間も聖下を見上げていたミーメアの耳に、ふだんより低められた声が降ってくる。

「この生涯いついかなるときもおまえだけが俺の妻だ。ここに誓う。だから誓え」

 ――たとえばときどき特別なお貴族様相手に指名されてお役目を果たすときの、厳かかつ丁寧で冗長とすらミーメアには思えてしまう、定石のものではなかったけれど。早口の荒っぽいそれは、たしかに婚姻の誓いだった。

 だからミーメアは、抱き込まれた不自由ななかでもがんばって頭を大きく上下させたのだ。

「はい! ス、……スタ、……、――、――――――」

 威勢よく告げようとしたミーメアの発言がおかしなことになったのは、聖下のせいだ。スタンピードが解決するまでよろしくおねがいします、ってちゃんと言いたかったのに、言わせてもらえなかった。

 『い』にかぶせてミーメアの顎を持ち上げ、『ス』で互いの唇をちょんと合わせた。まあそこまではアリだ。たいそう取り急ぎだが、結婚式においてはクライマックスともいえる行為だから。

 だがそこで終わらなかった。

 『スタ』でまた合わさった唇は、そのままくっついて離れなかった。

 以降の沈黙はきょとんとして状況を飲み込めないミーメアの唇を、聖下がさんざん弄ぶために生じるものとなる。

 具体的に言うとしばらく合わせたままの唇をそっと傾けて、鼻呼吸を思いつかないミーメアが酸素を求めて口を開けた瞬間を見逃さず一瞬の呼吸を許したあとは再びふさいでそのついでに彼女の口内へ自分の舌をねじこんだかと思えば顎に置いていた手はいつの間にかミーメアの後頭部に移動して逃すまいとしていたし、もう一方の腕は腰を抱いて互いをますます密着させているときた。なお状況音は割愛とする。

「――!! ―――――!!!!」

 蹂躙されたミーメアの体からちからが抜けていく。がくんと崩れる少女の体を、それでも聖下は離さない。ようやく呼吸が自由になっても体の制御を取り戻せなかったミーメアがぐったり床へ沈むのに合わせて、聖下もまた身を横たえた。――彼女へ覆いかぶさるように。

「い、……」

 生理的な涙がにじむミーメアの視界を、聖下が――王子が。イスカスレヴィ教皇聖下、あるいは第六王子と呼ばれる人だけが占領している。

 後頭部に床の硬さを感じないのは彼の腕が支えていてくれるからだと、そんなことに今気がついた。頭に触れていない側の腕は、ミーメアの腰に在る。ぐっとちからを入れられれば軽くのけぞる形になって、さきほどと同じようにお互いの体が密着する。

 ――ミーメアに見せつけるように、イスカスレヴィが己の唇に舌を這わせた。逆光をわずかに反射する舌先の艶に気づいたミーメアの頬が熱を持つ。

 そうでなくてもこのお方、身分相応というか血筋というかとにかくお顔がよろしいのだ。やわらかそうな白金の髪の下に理知的な榛色の瞳と形の良い眉宇、すらりとした鼻筋とやや薄い唇を美しくおさめたご尊顔はさすが美の神様がんばったんだろうなって誰もがうなずく出来栄えである。実際がんばったのは国王陛下と王妃殿下のお血筋だろうけども。

 とにかくそんな顔が、あと実はしっかり鍛えてたくましかったりもする体が、自分の真上に存在している事態に理解が追いつかない。しかも今までやられていたことがやられていたことである。ミーメアの思考はけっこうな範囲が焼け野原になっていた。

「レヴィ、あの、いま、ちょ、やりすぎ、では」

「表では聖下と呼べと言ったろう。……まあ、いいが」

 妙に含みをもたせた感のある聖下のお言葉に、周囲がざわついた。

 浮いた噂ひとつない高貴なお方がこんなことほざいてりゃ、そりゃそうなる。やべえご乱心か。

 そうしてミーメアは、それを聞いてうなずいた。まあ、いいか、だ。ご乱心は自分で解決してくれ聖下様。

「あ、そか。……そっか。まあ、そう、ですね。すたんぴーど、終わるまで……」

 たぶんこれで聖女たちがうっかり願ったものは叶ったのだ。

 なんで願わなかった自分がこうなってるんだとも思うけど、対象を具体的に指定してなかったのだから文句は受け付けない。というか指定されてたら、もっと厄介なことになっていた。王子様だって、誰とか何番目とか指定されなかったおかげでミーメアは馴染みのこの聖下のところへ駆け込めたのだ。仮に王太子殿下とか第二王子第三王子とか言われてたらここよりもっと遠い王城を目指さなければいけなかったし、門番とか近衛騎士とか大量の障害に阻まれて目的地へたどり着けた気がしない。

 アバウトバンザイだ。

「寝ぼけるんじゃない」

 だが聖下はアバウトではなかった。勝手に安堵しようとしたミーメアの意識を、その一言で現実へ引き戻す。

「俺の生涯においていついかなるときも妻とするのはおまえだけだ、ミーメア」

「……んあ?」

「誓いは成った。どさくさまぎれだろうがなんだろうが、教皇と交わした誓いだ。……逃げてくれるなよ」

「…………」

 この現状に、その言葉に、まなざしに、ミーメアは思った。気絶したいと。うっかり祈りの水晶に願いたくなったけれど、二次災害が起きる気がしてやめた。

 そして、替わりにつぶやいた。

「自分だけかと思ってました」

「……それは俺の台詞だな」

 半年前に王都へ連れてこられた新米聖女がふにゃあと笑えば、一年と半年前に聖女の捜索を開始し主導した教皇聖下も微笑んだ。


 背筋を凍らす世界の圧迫感はいつの間にやら消え失せていて、青空の見える窓から新しい魔術文が飛び込んでくる。スタンピードの一斉消滅が聖殿と神殿より報じられるのは、それからしばらくあとのこと。




 ちなみに今後の影響を考えて祈りの水晶の誤動作とだけ報告された王家がしれっとそれを持ってきた第六王子へ胡乱な視線を向けたり、聖女たちの日課からゆるさがちょっと消え失せたり、スタンピードがから騒ぎに終わった民たちが反動でしばらくお祭り騒ぎを起こしたりもしたりした、そのさらにあとの、とある日。

 改めて国民へ向け、王都から今回のスタンピード未遂について発布がされた。

 曰く、本来七人で運営するはずの聖女が一年の間六人であったため、祈りによる魔灰の浄化が追いつかなかった。魔獣の微増という小さな予兆はあったが、水晶自体に未処理の魔灰が蓄積するという事態は初めてのことであり、聖殿としても見逃してしまった。今は聖女も七人揃い、水晶の管理にも万全の体勢を布いて臨むので安心してほしい――と。


「結局自分の責任になってしまった気がします」

 ミーメアひとり、イスカスレヴィひとり、つまり人間ひとりがどうにかが通れるくらいの裏道は、聖殿と神殿をこっそりつなぐ秘密の通路。今日はミーメアが移動したので、ふたりが並んで腰を下ろすのは神殿敷地の森のすみっこにこっそり存在する小さな広場だ。

 午前のお勤めを終えた聖女と聖下の、ある意味これもお昼の日課。

 手弁当のサンドイッチをほおばるミーメアの隣では、同じものが詰まる弁当箱を持った聖下が焼き肉を咀嚼して胃に送っている。

「まあ、仕方ない。七人目が見つからないというのは王都じゃ公然の黙秘事項だったし」

「まことにもうしわけございませんでした」

「おかげで制度に手を入れられた。次からは少し楽になる」

 と、思いたい。らしい。

「次ですかー」

 常に七人存在し集う聖女は、ひとりのちからが失われて隠居となれば次代の聖女にそれが移る。その先は予兆を持つ女性のなか、ただひとり。

「聖下が聖下のうちに、また次はあるんですかね」

「俺は若いからなあ。あと二、三回くらいは任されそうだ」

「それ筆頭聖女の姐さんが聞いたら怒りますよ」

 筆頭聖女こと侯爵家のかのご令嬢は、第六王子よりいつつ歳上なのだった。たぶん数年もしないうちに引き継ぎが起こるだろうと囁かれている。

 聖女のちからを失う年齢には個人差があるが、家の事情などで婚姻を控えている場合は二十歳を越えるころから少しずつ減衰の兆候が出てくるのだ。水晶なりの思いやりなのか、聖女のちからの特徴なのかは誰も知らない。

 いや、そもそも。

「祈りの水晶って何なんでしょうね……」

 あれ以来うんともすんとも言わず祈りに応じるだけになった水晶を思い返して、ミーメアはそうこぼす。聞いたイスカスレヴィも微妙に遠い目をしていた。

「正体を知る妖精王への道はとっくに失せた。俺たちは在りものを在るがまま使わせてもらっているだけだ」

「取扱説明書つくりましょうよ。今回みたいなことがないように!」

「聖女がゆるまなければいいんじゃないか?」

「自分がゆるい最先端ですから」

「……先達が全員代替わりしたあとが不安だな」

 よし作ろう。

 将来に不安を感じた教皇聖下の決断は早かった。ちょうどからっぽになった弁当箱を片手に立ち上がり、空いた手をミーメアへ差し伸べる。応えたミーメアの手のひらは、すぐに優しく握り込まれた。

 そっと立ち上がったミーメアの前に弁当箱が示されたので、自分のそれと重ねるようにして受け取り両手で抱える。安定したところを見計らったイスカスレヴィが、そんなミーメアをまるごと両腕に閉じ込めた。

「わ、」

「――案外、おまえの足抜けが一番早いかもしれないな」

 なにしろ婚姻してるのだから。

 耳元でそう囁かれたミーメアの頬へ、熱がぶわっと集まっていく。思考が桃色に染まるのを防ぐために発した言葉は、自分で思うより大きかった。

「せーか!」

 呼びかけになってない呼び名を聞いて、イスカスレヴィが笑う。肩に顎を乗せられているからミーメアの体も揺れるし、耳元に響く呼気がよけいに熱を誘ってくるしで頬の熱は高まるばかりだ。ついでに胸も元気に跳ねている。そろそろ喉から飛び出るんじゃなかろうか。

 いやそれより気になるのは、なんでこの人こんな慣れた感じなんだろうということだ。

「れ、レヴィって」

「ん?」

「慣れてるみたいですけど、その、彼女とかいたのでは」

「――」

 ぶは!

「ぎゃわ!」

 耳元で吹き出す爆音は鼓膜に辛い。慄いて身を離そうとしたミーメアを、だが、イスカスレヴィはこれっぽっちも解放する気なんてないようだ。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくっつけて、体を大きく揺らしながら笑って――笑い、転げて。

「あー!」

 転げた。イスカスレヴィはミーメアを抱っこしたまま、ふたりまとめて地面に転がった。けれどミーメアに痛みはない。イスカスレヴィがクッションになってくれたから。

 教皇聖下を下敷きにした事実に気づいたミーメアはまた悲鳴をあげそうになったけれど、自分を見上げるイスカスレヴィのまなざしに衝動を吸い取られてしまった。

「ばーか。教皇聖下だぞ。純潔なら聖女に負けてない」

「つまりどうて」

 言いかけたミーメアは言葉を止めた。

 いつの間にか頭にまわされていたイスカスレヴィの手によって、お互いの唇が重なるように誘われていたからだ。一瞬覚悟したけれど、数秒間の触れ合いはぬくさとやわさをもたらしただけで終わる。

 それはそれとして強引な話題の終わり方だとむくれそうになったミーメアは、ゆるく苦笑するイスカスレヴィに気がついた。

「……王族には嗜まなきゃならないことが多いんだよ」

「あー」

「けど実地はおまえしか知らない。安心しろ」

「わ、わーい?」

「手探りでがんばろうな」

「いや、教皇聖下も純潔必要なのでは?」

「……そうなんだよな」

 でも。

 とミーメアの手をとったイスカスレヴィが、少女の細い手首に軽く歯を立てた。

「それでもおまえはもう俺の妻だ」

「……そうですね!」

 こっちもやれと差し出されたイスカスレヴィの手首に、ミーメアもそっと噛み付いた。なんだか先日の騒動以来、それがふたりのふれあいに追加されているのだ。初回やらかしたのはミーメアだが、イスカスレヴィが気に入ったようなので、まあよしと従っているのである。ド平民、長いものには巻かれろ精神であった。


 それからさらにもう少し日が過ぎたある祈りのとき、ふとミーメアは気がついた。

 祈りを向ける水晶の輝きが、ミーメアと向かいあう面だけ以前となにかが違うようだと。輝き方だろうか、取り込んだ魔灰の動きだろうか。

 聖女であるという以外秀でた視力を持つでもないミーメアではその先を探ることもできず当面は分からないままにしておくことになったのだけれど、原因はやっぱり彼女にあるのだ。

 ……昨日の聖下が、――

 ……今日のごはんは――

 ……明日聖下と、――

 ……今日のお昼ごはんは街にこっそり、――

 新米聖女なりの穏やかな日常のお話に混じり増えてきた鮮やかな景色は、祈りの形で届いている。


 た の し い ね


 す て き ね


 今や誰にも届かぬそれをもし聖女が聞いたなら、水晶が反応した理由の予測も立っただろうか。だがあいにくいまのところ、祈りの水晶乙女説は、まだ提唱されていない。

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