警戒、そして謝罪される。
その日、ライナルトは妹アリスティアを森へと連れ出した。
当然、ケイリーは反対したが、「僕がついているから大丈夫だ」の一言で、ライナルトはケイリーを退けた。
せっかくアリスティアが元気になったんだから、ボートでも乗せてやりたい。
それが、ライナルトの希望だった。
ただ、元気になったとはいえ、まだまだ不安なところもあるアリスティアの体調をおもんばかって、川までは無蓋馬車で行き、そこから少しだけ川を下るという計画になった。
それでも、アリスティアとして封じ込められているエディルにとって、外の刺激は新鮮で、嫌なことをを少しだけ忘れることが出来た。
(それに、もしかしたら元に戻る手がかりが見つかるかもしれない)
淡くもろい期待かもしれないが、それでも捜さずにはいられない。
屋敷のなかは、-出来る範囲でだが-すでに調べつくしている。図書室で本も読み漁った。屋敷で働く人たちにもさりげなく訊ねたこともある。
だけど、手がかりはいっこうに見つからなかった。
(だからって、あきらめちゃダメよ)
それは何度も何度も呪文のように、自分に語りかける。
あきらめたら、永遠にエディルという存在が消されてしまう。
「さあ、着いたよ」
森の中、川にそって少しだけ開けた場所に、馬車が停められた。
流れも緩やかなのだろう。澪のように川のなかに打ち付けられた杭に、ボートが係留されていた。
馬車から降りるときも、ボートに乗り込むときも、さり気なくライナルトが手を貸してくれた。
(まるで、騎士みたいだわ)
そして、私は深窓の姫君かしらね。
そんなことを思って、フフッと自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、ブレッドは、馬車で先に行っていてくれ」
「わかりました、坊ちゃま」
軽く会釈だけを残し、ボテンとした腹を揺らしてブレッドが馬車を出発させた。馬車には、ピクニックを楽しむためにランチが乗せてある。この先、ライナルトとアリスティアがボートで目的地にたどり着き、そのランチを味わう…というのが、今日の趣向なのだ。
「さて。僕たちも遅れないよう出発しようか」
「ええ。お兄さま、頑張って」
向かい合うように座ったライナルトがオールに手をかけた。
エディルは、そんな彼を見つめ、ほほ笑む。
川の両岸に茂る木々の間から陽射しがこぼれる。若緑の枝葉を乾いた風が揺らす。水面は白く輝いて、ライナルトがオールを動かすたびに、規則正しい波紋を浮かび上がらせる。
(ステキ…よね)
向かい合った彼の姿を見て、エディルは心の中でため息をもらした。
少しクセのある濃い金の髪。深い青色の瞳。旅を続けていた身体は、余計なものがなく、ほどよく引き締まっている。
ボートを漕ぐために、ベストとシャツという、ややラフな姿で、オールを持つ手にグッと力が入るたび、その下で筋肉が張り詰めているのが、光の加減でよく見えた。
(まるで、騎士か王子さまだわ)
非の打ちどころのない青年。きっと社交界では、女性が放っておかないだろう。
それが、自分を妹として、何も知らずに大事に扱ってくれている。
(これが、本当の私との出来事だったら…)
ライナルトに好意を抱いている、というわけではないが、それでもこの夢のような状況に身を置けたら、さぞかし気持ちいいのだろう。そんなことを考えた。
「アリスティア、見て」
ライナルトが、水面を指さした。
水につけたオールの先で、チャプンと音を立てて、魚が跳ねた。
「驚かせてしまったのかしら」
「ははっ。そうかもな」
魚は、二度三度、水面に跳ね上がった。
「悪いことをしたかもしれないわ」
自分たちがこなければ、魚は静かに泳いでいただろうに。
「今度は、釣り竿を持ってこようかな」
ライナルトが、オールから手を放し、見えない釣り竿をふるような仕草をみせた。
「お兄さま、釣れるの⁉」
「ああ、これでも、漁師に教えを請われるほどの腕前だぞ!?」
「まあ…」
言い合って、笑いあう。
(大丈夫。上手く出来てるわ)
優しいライナルトを騙していることは心苦しいが、それでもアリスティアに、兄を慕う妹を演じ切れていることに胸をなでおろす。
(兄さま…)
エディルは、実の兄とボートになど乗ったことはない。けれど幼いころ、故郷にいたときは、時折一緒に釣りに出かけていた。食事の足しにするため、と言うより、遊びの要素が大きかった。
(兄さま、母さま、エリアン、エファ、エト…)
次々に思い浮かぶ、兄、母、弟妹たち。
家計のためとはいえ、エディルが女家庭教師になるのを反対していた兄。お屋敷で寂しい思いをしないようにと、ドレスをあつらえてくれた母。
エディルが帰らないとなれば、どれだけ彼らは悲しむのだろう。まだ乳飲み子でしかないエトは、父の顔も知らなければ、姉のことも覚えてないまま育つのだろうか。
(会いたい…)
「そういえば、アリスティアはフランス語も練習しているのだったな」
「えっ⁉」
ライナルトの言葉に、思いにふけっていた心を、現実に引き戻される。
「手紙に書いてあったぞ。面白いって」
そうだっだのかしら。教え子がどんな手紙を書いていたか。エディルはアリスティアが手紙を出していることは知っているが、内容までは把握していない。
「せっかくだから、覚えたフランス語、ここで暗唱してみてくれないか」
「わかったわ。やってみる」
なるべくアリスティアらしくと思い浮かべながら、軽く息を吸い込んだ。今は、考え込むより、演じることに意識をむけなければ。
「Ciel, air et vents, plains et monts decouverts…」
「ピエール・ド・ロンサールだな。『Ciel, air et vents(空よ 風よ)』か」
ライナルトの言葉に、エディルはコクリと頷いた。
今いる、この自然に包まれた世界で、一番ふさわしい詩として、エディルに思い浮かんだのがこれだった。
彼もこの詩を知っているのだろう。フランス語は、上流階級のマナーの一つとして覚えさせられる。それでなくとも、彼は遠い異国に渡っていた。フランス語ぐらい知っていて当たり前だ。
「Ciel, air et vents, plains et monts decouverts, (空よ 風よ 野原よ 山よ)」
再びエディルが暗唱を始めると、静かにライナルトがボートを漕ぎ始めた。
「Tertres vineux et forents verdoyantes,(ブドウ畑よ 緑の森よ)
Rivages torts et sources ondoyantes, (うねる川よ せせらぐ泉よ)
Taillis rases et vous bocages verts, (雑木林よ、涼しき葉陰よ)」
この詩は、旅立つ主人公が、愛する人への別れを、自然に託して伝えたいと願う。そういう詩だった。
なんでもない自然賛歌のようにも聞こえるが、その内容は、とても切ない。
「Anters monssus a demi-front ouverts,(あやしいたたずまいの、苔むした洞窟よ)
Pres, boutons fleurs et herbes roussoyantes, (牧場よ 花のつぼみよ 露に濡れた草よ)
Vallons bossus et plages blondoyantes, (連なる谷よ 黄金色の麦畑よ)
Et vous rochers, les hotes de mes vers, (そして思いの尽きぬ岩陰よ)」
旅立つ者は、誰に、何を伝えたかったのだろう。愛する人に何を。
二度と、戻れないのだろうか。愛する人に会えないのだろうか。
そんなことを思い浮かべてしまい、涙腺がゆるくなる。
(私だって、会えない…)
大好きな故郷。愛する家族。
父さんが死んで、家計が苦しくなった家。兄さんが牧師として跡目を継いでくれたけど、だからといって、裕福になんてなれない。家族のためにも、身につけた教養を仕事道具として、女家庭教師となり、働くしかなかった。
この仕事が嫌だったわけじゃない。教え子となったアリスティアは、まるで姉妹のように私を慕ってくれていた。よく時間外の仕事として、裁縫とか押し付けてくる雇い主もいると聞くけど、このロンディーノ伯爵家では、そんな理不尽なことはなかった。
奥さまも旦那さまも、一定の敬意を払いつつ、家族のように温かく迎えてくれた。
だけど。
まさか、アリスティアお嬢さまを、お嬢さまという存在を守るために、自分の身体と入れ替わりをするという魔術をかけられるなんて、思いもしなかった。
お優しい奥さまたちに真実をお話出来ないのがつらい。騙しているのが苦しい。
きっと、ケイリー以外の人は、こんなことになっているって知らないのに。元に戻る方法が見つからないのだ。
(苦しい。誰か助けて…)
そんな思いを詩に乗せる。
「Puis qu’au partir, rou… (こうして旅立つに…)」
「アリスティア」
詩を、ライナルトに遮られた。気づけば、いつの間にかボートは川の真ん中で止まっている。オールから手を離したライナルトが、真っすぐにこちらを見ていた。
「Qui êtes vous!? (お前は、誰だ⁉)」
「えっ⁉」
唐突なライナルトの質問に、エディルは答えられなかった。言葉が聞き取れなかったわけではない。聞き取れたからこそ、その質問に声が出なかった。
ライナルトの青い瞳が、アリスティアの身体の中にいるエディルを射貫いた。
そこにあるのは、病弱な妹をいたわる優しい兄の姿ではなかった。すべてを暴こうとする、鋭い視線。
その急な変化に、エディルはついていけなかった。
「Tun’es Pas ma soeur (お前は、妹じゃない)」
その言葉に、エディルは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた。
(どうして!? ライナルトさまは、どうして私を偽者だとわかるの⁉)
ドクドクと血の流れる音が耳の奥に響く。喉の奥に石でも詰められたように苦しい。
「Comprenez-vous ce pue je venx dire‼ (オレの言ってることがわかるよな!?)」
今さら、意味がわからないなどと、うそぶくことは出来ない。
「Réponds-moi!! (答えろっ!!)」
雷に撃たれたような衝撃を感じた。
実際、撃たれたのかもしれない。ライナルトの、エディルと断罪するという、裁きの雷に。
「あ、あの…」
無意識に喉に手をやる。
答えたい。
答えられるものなら。
それは、今まで何度も試したこと。
――真実を誰かに話す――
声に出して言いたかった。自分は、この身体に閉じ込められたエディル・ノーリッシュであると。アリスティアではないと。
だけど、その試みはいつも魔術に妨害されてきた。声を封じられ、別のことを口にする。激しい頭痛に襲われ、息をするのも難しくなる。
魔術は、身体を奪っただけでなく、エディルの抵抗する意志すらも失くそうとしていた。
「どうして、そう、思うの…⁉」
魔術に、また妨害されるのではないか。また、頭痛に苦しめられ、声を奪われるのではないか。そんな不安を抱えながら、震える声で問いかける。
中身が違うと指摘してきたのは、ライナルトが初めてなのだ。彼に、その理由を聞きたかった。
「バレないとでも思っていたのか⁉」
嘲りを含んだ声で問われた。
「いいだろう、教えてやる。…アスパラガスだ」
アスパラ!? 一瞬、その答えが理解できなかった。
「お前、アスパラガスの料理を美味そうに食べていただろう」
ああ、そういえば。ライナルトが帰ってきたとき、夕食のメニューにアスパラガスがあったことを、エディルは思い出した。確か、幸せの味とか、なんとか評価した気がする。
「アスパラガスはな。妹が、アリスティアが大嫌いな野菜なんだ」
「え…⁉」
エディルは、目を真ん丸に見開いた。アリスティアの嫌いなものなど、一緒に食事をしたことのないエディルは、知りようもなかったのだ。
「それに、お前はオレが投げてよこしたものを右手で受け取った。アリスティアは左利きなのに、だ」
ドラゴンの護符をもらった時のことを言っているのだろう。
(そうだったわ)
アリスティアは左利きで、器用に左手でペンを走らせていた。
つい、とっさに右手が出てしまった。そんな言い訳を、この青い瞳は許してくれそうになかった。
「ほかにも証拠はいくらでもある。さあ、白状したらどうだ」
逃げ場はないぞ、とばかりに、視線に縫い留められる。
「わっ、わたしはっ…」
声がうまく出ない。本当は、自分だって真実を語りたい。自分の境遇を誰かに知ってほしいと思っている。
「言わないのなら、こちらにも考えがある」
魂まで震えそうなほど冷酷な声。
「妹を取り戻すため、そうだな。退魔師のもとにでも連れていくか」
(退魔師…っ!!)
その言葉に、エディルの身体は凍りついた。
カトリック教会に存在するという、悪魔祓いのスペシャリスト。
ライナルトは、エディルを妹の身体を乗っ取った悪魔のように思っている、ということなのだろう。エディルからアリスティアを救うためなら、なんでもする。エディルを傷つけるのに、なんのためらいもない。
(そんなの、乗っ取ったのは私のせいではないのに)
フツリと、エディルのなかに怒りがわいた。
自分だって被害者なのだ。悪魔祓いなどという恐ろしいものにかけられなくとも、入れ替わりを元に戻す方法さえ見つかれば、自分の身体に戻るつもりだ。
いや、むしろ積極的に戻りたい。
それを無視して、エディルを悪と決めつけるライナルトに腹が立った。
(何も知らないくせにっ…‼)
「さあ、正体を現したらどうだ」
言葉でエディルを追い詰める。
「…ライナルトさまは、幸せな方ですね」
震える声で、呟いた。
「何を…」
「私がどれだけ苦しんでいたかなんて、気づきもしない」
いつ頭痛が襲ってきて、声を封じられるかもしれない。
それでもエディルは言葉を紡いだ。
「私だって、好きこのんでこの状況にいるわけじゃないのに。それなのに、私が悪だと勝手に決めつける…」
「アリスティア…」
驚いたような声をライナルトがあげたが、エディルの言葉は止まらなかった。立ち上がって思いのたけをぶつけるように叫んだ。
「ええそうよっ!! 私はアリスティアお嬢さまじゃないわっ!! 私はっ!! 私だってっ!!」
限界だった。
「帰りたいっ…‼ 私の身体っ…」
グラリと上半身が揺れる。視界が暗くなる。気が遠く、かすんでいく。
(ああ、魔術にまた邪魔されるんだわ…)
何も語れていないのに。
「おいっ!!」
ライナルトがその手をのばすが、スルリとかわすように、エディルがその身を倒れさせた。
バシャーンッ!!
激しい水音がエディルを包む。
川に落ちたのだと、背中に浴びた衝撃が告げていた。
(このまま沈めば、何も言われなくてもいいのに)
『ハムレット』に出てくる悲劇の乙女、オフィーリアのようにこのまま流されてしまえば。
助かろうと、身体を動かす気力は残っていなかった。
(消えてしまいたい)
身体の周りを、花のように広がったドレスが彩る。
「アリスティアッ!!」
ライナルトが川に飛び込んだのが見えた。ダパンと水が波となって、エディルの身体を揺さぶる。
(ああ、そっか。この身体、お返ししなくてはいけないものね)
中身がおぞましいエディルであっても、アリスティアという身体は家族のもとに返しててあげなくては。
無感動に、自分を助けようとするライナルトを見つめた。
ライナルトは器用に泳ぎ、エディルの身体を岸へと押し上げた。続いて自分も川から抜け出す。
「アリスティアッ!! しっかりしろっ‼ アリスティアッ!!」
その必死な呼びかけに、見開いたままのエディルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
どうして助けたの⁉ どうして死なせてくれないの⁉
身体を乗っ取った悪魔となじられながら生きることなど、エディルには我慢できないというのに。
元に戻れないのなら、いっそのこと死んでしまったほうがましだというのに。
「アリスティア…」
エディルの流した涙に、ライナルトが驚く。
優しく、それでいてぎこちなく、指で涙を拭われた。
「すまない」
短い謝罪の言葉に、エディルは熱い涙をあふれさせた。
ライナルトがずぶ濡れのアリスティアを連れて帰ると、屋敷は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
医師を呼ぶのに使いが出され、ライナルトは両親からこってりと叱られた。
エディルはケイリーに着替えさせられたあと、ベッドに押し込められ、彼女に見張られるように看護された。
医師の診断では、特に悪いところはなく、このまま休んでいれば問題ない。そう言われ、念のための解熱剤など、数種類の薬を処方された。
しばらくすると、同じように着替えたライナルトが部屋を訪れた。
「まったく、坊ちゃまがついていながら、どうしてこんなことにっ!!」
ケイリーは、主の息子だろうとなんだろうと、ライナルトにも食ってかかった。
「すまない」
ライナルトがケイリーに頭を下げているのを、エディルはベッドの中からボンヤリと眺めていた。
心配した伯爵夫妻も見舞いに駆けつけたが、「安静に」との一言で、ケイリーは彼らすらも追い出した。
(もう、外に出してもらえないかも…)
そんな絶望がエディルに降り積もっていく。
心配だからと、正当化された理由を盾に、ケイリーの監視と魔術による束縛で、このまま朽ち果てるまで、アリスティアの身体のなかに留まるしかないのかもしれない。
ライナルトは、アリスティアを偽者だと見破ったが、伯爵夫妻をはじめ使用人の誰ひとり、おかしなことに気づいてもいない。
そのライナルトからも隔離されてしまえば、もう元に戻る方法を見つけることすら難しくなる。そもそも、ライナルトであっても、エディルが元に戻るのを協力してくれるとは限らないのだけど。
(最後に、森に行けたことだけでもよかったわ…)
二度と見られないであろう、自然の風景。
優しい木漏れ日のぬくもり。川のせせらぎ。鳥のさえずり。木々を渡る爽やかな風。
水は冷たく、草は柔らかかった。
これからは、そういったものとも切り離されて、生きていかなくてはいけないのだろう。
アリスティアとして、この身体に閉じ込められたまま。
「Ciel, air et vents, plains et monts decouverts, (空よ 風よ 野原よ 山よ)」
あの詩が、心に浮かび上がる。
「Tertres vineux et forents verdoyantes,(ブドウ畑よ 緑の森よ)
Rivages torts et sources ondoyantes, (うねる川よ せせらぐ泉よ)
Taillis rases et vous bocages verts, (雑木林よ、涼しき葉陰よ)」
もう二度と会えない、大切な人、大切な風景。
大切な家族に、せめて私が愛していたことだけでも伝えてほしい。
コンッ。
窓を叩く音がした。
コンッ、コンッ…。
夜も更けて、まどろみかけていたエディルは、その音に身を起こす。
部屋の外は月明りでぼんやりと明るいものの、音の原因までは見えない。
コンッ、コンコンッ…。
音がやむことはなく、くり返し鳴らされる。
まるでノックされているような規則的な音に、エディルはベッドをすり抜けた。夜も遅いこの時間、とがめ立てするケイリーもいない。はだしのまま、窓まで歩いていく。
(…ライナルトさまっ‼)
思わず声を上げそうになって、口を手で覆った。
月明りをうけ、バルコニーに立っていたのは、あのライナルトだったのだ。
驚くエディルの前で、ライナルトがもう一度だけ窓を叩く。
あわてて、それでも音を立てないように、慎重に窓を開ける。と同時に、ライナルトがスルリと滑り込むように部屋に入ってきた。
(どうしてっ⁉ どうして、ライナルトさまがここに⁉)
エディルの頭は混乱したままだ。
「ケイリーは!?」
囁くように問いかけられた。
「今は、いません」
その答えに、ライナルトが軽く息を吐き出した。
「なら、少し話ができるな」
話!?
ライナルトは、自分と話をするために、こうしてバルコニーからやってきたのだろうか。ケイリーに見つからないような時間を見計らって。
「まずは、その…。悪かった」
ライナルトが頭を下げた。
「お前を、あそこまで追い詰めることになるとは、思ってもみなかった」
日中、川に落ちたことを言っているのだろうか。
驚きに目を見開いたまま、エディルは彼の謝罪を受け止めた。
「妹を助けたいとは思っていたんだが、その…」
「いえ、大丈夫です。私のほうこそ、申し訳ありません」
謝罪するべきは彼ではない。悪いのは自分のほうだ。
「体調は!? 痛いとこや苦しいところはないか⁉」
「ええ。熱もありませんし、問題ありません」
中身がアリスティアでないと知っていても、こうして心配してくれている。その優しさに、ツキリと胸が痛んだ。
「そうか…」
ライナルトが、安堵のため息を漏らした。
しかし、病み上がりの妹に無理をさせることは出来ないとふんだのだろう。優しくエスコートするようにベッドに横になるように導いた。エディルも素直にそれに従い、もといたベッドにもぐり込む。
「さて、何から話してもらおうか」
ベッド近くの椅子に腰かけたライナルトが呟いた。
訊きたいことが、山のようにあるのだろう。そして、どの質問ならエディルを傷つけないか、思案している。
(答えてあげたい)
誠実な彼を見て、エディルはそう思った。
だけど、果たしてどこまで自分は真実を伝えてあげられるだろう。魔術に邪魔されるかもしれない恐怖が心に宿る。
「そうだな。まずは、お前の名前を教えてくれるか⁉」
ライナルトの目は真剣だった。この目に嘘などつけはしない。
いつ頭痛に襲われるかしれない怖さと戦いながら、口を開く。たとえ、どのような苦しみが訪れようと、限界まで答えたい。
「私は…、エディル…。エディル・ノーリッシュ。アリスティアさまの女家庭教師、です」
ギュッとシーツを握りしめ、頭痛の恐怖に、偽りを述べてしまうかもしれない苦しみに耐えた。
「エディル⁉ …ノーリッシュ!? アリスティアの手紙にあった、あの女家庭教師の、か⁉」
エディルの言葉は、何にも邪魔されずライナルトに届いた。
(どうして!?)
理由などわからない。ただ、誰かに本当のことを伝えられそうな状況に、驚き、身体を起こした。
「あのっ!! 理由を聞いていただけませんかっ!!」
早く伝えたい。いつまた魔術に邪魔されてしまうかもしれない。
恐怖にせっつかれるままに、エディルは口を開いた。
「ああ…」
その勢いに、ライナルトのほうが気圧される。
「私、魔術でお嬢さまと中身を入れ替えられたんです」
「中身を!?」
コクリと頷く。
「気がついたら、お嬢さまのなかにいて。お嬢さまはお伝えしていたように、危篤状態になっていたから。それを生き永らえさせるために、私をっ‼」
焦りで順序良く説明が出来ない。頭の片隅がチリチリと焼かれるような焦燥が襲う。
「ケイリーが、黒いヴェールの女を連れてきて、魔術で入れ替えたんですっ!!」
少しでも伝えておきたい。
「戻る方法はわかりませんっ!! でも、私の身体を見つけることが出来たらっ!!」
身体さえ見つかれば。方法もわかるかもしれない。
「私、元に戻りたいんですっ!!」
もう滅茶苦茶だった。まくしたてるから息は苦しいし、目は涙をあふれさせる。
(こんなの、信じてなんてもらえないわ…)
誰が信じる!? 入れ替わりなんて。魔術なんて話、バカにされるに決まってる。きっと、ライナルトだって、呆れているに違いない。
「エディル…」
ファサッと、自分の身体を包む衣擦れの音がした。
(えっ…⁉)
気が付けば、エディルはライナルトの腕に包まれていた。
「大変だった、な」
抱き寄せられ、ライナルトの声が肌越しに伝わる。
「ライナルトさまっ…‼」
声が詰まる。
伝えられた。信じてもらえた。わかってもらえた。「エディル」と、名前を呼んでもらえた。
そのことが、この上なくうれしくてたまらない。
「うわあああぁぁっっ‼」
恥も外聞もなかった。ただただうれしくて、思いっきり泣きじゃくる。
「もう、大丈夫だ」
そんなエディルの髪をライナルトの手が、ゆっくりと撫でた。
(でも、どうして伝えられたのかしら)
嵐のような感情が収まると、次第にそのことが気になり始めた。
「今まで、誰にも相談しなかったのか⁉」
ライナルトのほうも疑問に思ったようだった。
「はい。今までは話そうとすると、ひどい頭痛が襲ってきて。勝手に口が違うことを話してました」
魔術によって妨害されていた。
それが、どうして今回は邪魔されなかった。
言いたいことをすべて伝えられた。頭も痛くない。
「どうして、今だけ、こうして伝えられたのか、わからないのですが」
落ち着いて話しても、魔術が襲ってくる気配はない。エディルは安心して言葉を紡いだ。
「もしかするとだが…」
しばらく思案していたライナルトが、エディルの胸元を指さした。
「それのおかげかもな」
エディルも視線を落とす。白い胸元でドラゴンの護符についているクリスタルが淡く光を放っていた。
「これが…、私を…⁉」
護ってくれていたの⁉
「オレが君を見破れたのだって、これのおかげだろう」
ライナルトも同じ護符を取り出した。
「オレには、アリスティアの身体から揺らめく君が薄く視えていたんだ」
「私、が⁉」
信じられなかった。
今まで誰も、そんなことを言ってる人はいなかったから。
「この護符、すごいものだったんですね」
「みたいだな」
二人で一緒に驚く。
「まあ、それに…」
ライナルトがニッと笑った。
「アリスティアがあんなに上手にフランス語を話すなんて、考えられなかったからな」
「まあ…」
クスリとエディルも笑ってしまう。
確かに、アリスティアはフランス語があまり得意な生徒ではなかった。
「でも、そんなにすごい護符なら、この呪いを解いてはくれないのかしら」
入れ替わりを元に戻す力は、ないのだろうか。
「そこまでは、おそらく無理だろう」
「ですね…」
ダメだ。過度の期待をしてしまっては。こうして話せただけでも良しとしなければ。
「だが、話せた。オレが知っている。そのことで事態を動かすことは出来ると思う」
「えっ⁉」
うつむきかけた心が、上を向く。
「オレも一緒に元の身体を捜してやる」
「本当、ですか…⁉」
にわかに信じられなかった。
「本当だ。オレだって妹を、アリスティアを取り戻したい」
(ああ、神さまっ…‼)
うれしさに、声を詰まらせ、口を覆う。
「ありがとう、ございますっ」
そう言うのが精一杯だった。
味方が出来た。それが、この上なくうれしくて仕方ない。
「君は、そうやって笑っていたほうがいい」
エディルを見たライナルトが、頭を掻いた。
「でないと、妹に泣かれたようで、ちょっと辛い」
その言葉に、エディルはさらに笑った。
それからというもの。
ライナルトは、動けないエディルの代わりに、情報をそれとなく集めてきてくれた。
屋敷の誰も、エディルという女家庭教師の存在を知らないこと。
エディルが暮らしていた部屋には何もなく、その証拠すら消されていたこと。
エディルの身体は依然見つからず、屋敷の外を捜していること。
そして、エディルが話した黒ヴェールの女は、屋敷のどこにも見当たらず、誰もその女を知らないということ。
「すべてを消し去ってるんだな」
入れ替えたことが露見しないように、徹底してエディル・ノーリッシュの存在を消している。
「荷物はともかく、記憶からも消しているのは、女の魔術が関係しているのだろう」
人が消えて騒ぎにならないはずがない。それが、誰も不審に思わないのは、魔術で記憶を書き換えているからだ。
「つまり…。私は、いない存在なのですね」
誰からも気づかれない、透き通った生き物。空気にでも溶け込んでしまったような錯覚を受ける。
誰からも忘れられるのではなく、そもそもいたことを認知されてない。
「そんな私が、元に戻って…。大丈夫なのでしょうか」
つい、弱い本音がこぼれる。
「大丈夫だ。元に戻れば、呪いも解ける」
ライナルトが、強い口調で述べた。
「それに、誰も知らなくっても、オレが覚えていてやる」
「ライナルトさま…」
「必ず、君の身体を見つけてみせる」
反則だ。そんな言葉は。
うれしくって、何度だって泣いてしまう。
ライナルトは、そう請け負ったものの、エディルの身体は見つからず、時間だけが過ぎていく。
(まずいな…)
次第にライナルトは焦りを覚え始めていた。
時間が経ちすぎると、エディルの身体にいるアリスティアが死んでしまうかもしれない。
アリスティアが死んでしまえば。エディルが元に戻れなくかるかもしれない。
それこそ、身体を埋葬されてしまえば、手の出しようがないのだ。
エディルは、アリスティアとして生きるほかなくなってしまう。
それだけは、なんとしても回避したい。
たとえ、元に戻したことでアリスティアが亡くなるとしても。
誰かの犠牲の上に、妹という存在を生き永らえさせるのは間違っている。
第二話です。
皆さま、「兄に○○される」の〈○○〉に騙されてませんか!?
騙されてくれれば幸いと思いつつ、申し訳ないなあとも。「もう騙されへんで!!」ってことで二話のPVが激減りしたらどうしよう(オロオロ…)
フランス語、マジで辛かった。習ったことないから。以前、『きっとこれが、運命の…恋⁉』を書いた時にも苦しめられましたが。(あの話は、古フランス語もあって、さらに苦しかった) でも、貴族の教養の一つにフラ語あるし。もっと昔に戻って〈ラテン語〉の時代だったらどうすればいいのだろうとか思ってみたり。(あ、その場合貴族が喋るんじゃなく、聖職者が喋りますな。貴族の識字率低かったし)
ピエール・ド・ロンサールの詩は、マジもんです。いい詩だよな。全文読むと、エディルの気持ちにシンクロ出来るのではないかと。
あとのフランス語のところは、間違っているかもしれないので、まあそういう雰囲気なのだと、( )内の訳文を読んどいてください。
それにしても、今回の話は、2000文字なんかではセンテンスが区切れず、一話一話がものすごく長くなってます。三人称で書くとどうしてもこうなっちゃう。それでも、読んでくださる方が一人でもいらっしゃる限り、投稿を続けたいと思ってます。
これからも、よろしくお願いいたします m(__)m