4・紅葉山にて
次の日、午前の授業を終えた僕は忠郷と総次郎には内緒で紅葉山に向かうことにしたよ。茶の湯の授業が終わると、荷物もそのままに僕は二人に切り出した。
「僕、今日はちょっと用事があるから出掛けるね。午後の授業までには戻るつもりだから」
「はあ? 用事?」
「そう。大事な用事だから!」
僕は渡り廊下から空を見上げて驚いた。
もう随分お天道さまが高い位置まで登っている。僕はこっそり持って来ていた草履を着物の袖から取り出して廊下の庭先へ放って慌ててそれを履いた。
忠郷が何事か叫んでいた気がしたけれど、僕は振り返らずに走り出した。
茶の湯の授業が行われる茶室は武道の稽古などを行う道場と同じく、紅葉山と呼ばれる台地の麓にあるから、西の丸の御殿から行くよりもずっと近い。武道場も茶室も学寮が始められる時に新しく作られた建物だということだった。
暗号には《七日の昼》とあったよ。遅れたら一大事だ。
それにしたって、紅葉山の一体どこに文の差出人はいるんだろう?
「おいら、ここは結構好きだなあ。不思議と霊気に満ちていてさ」
走っていると不意に気配と共に頭上から声が聞こえて、僕は空を見上げた。
視線の先では火車が泳ぐように宙を駆けている。火車の両足は赤黒い地獄の炎に包まれていて、これで空を自由に駆けることが出来るらしい。
「ここは空気がひんやりしてて気持ちがしゃんとするよね。きっと夏場も涼しいよ」
「昼寝すんのにちょうどいいな。もうすぐ暑くなるだろうから涼みに来ようっと」
江戸城は本当に大きなお城だよ。うちの実家の江戸屋敷は江戸城は小田原口に一番近い門の眼の前にあるから、僕はいつもその大きなお城を眺めながら暮らしていた。
もちろん、お城の中がどうなっているのかなんてことはここへ来てから知ったことだけど。
大きな天守が見える本丸に学寮がある西の丸、更に奥には北の丸。
紅葉山は学寮の御殿がある西の丸をお濠にそって北へ北へ登って行くと次第に見えてくる深い森だ。昼でも涼しい空気に満ちた霊場。
僕と火車は紅葉山の入り口で周囲を見渡した。どこにも人の気配はない。凛とした森の霊気が深い木立の向こう側から漂ってくるだけで。
「それにしたって、一体誰がお前を呼んだんだ? お前、一応用心とかはしてるの?」
「僕はいつだって用心してるよ、火車。だって上杉の家には僕しか若さまがいないじゃん。僕に何かあったら、後を継ぐ人間がいなくて上杉の家は改易になっちゃうかもしれないからね」
そういうわけだから、僕も日頃からいろんなことを想定して一応準備をしている。例えば……丸腰じゃあいざという時に危ないだろうと思って、ちゃあんと武器だってこの通り!
「――っじゃーん! ちゃんと武器だってもってるもーん!」
僕が火車に見せてあげたのは自分の拳より一回り小さな、石。いつも手ぬぐいに包んで着物の袖の袂に入れている。
火車は僕の肩の上に音もなく下りるとそれを覗き込んで目を瞬かせた。
火車はさすが化け物だよ、肩の上にいても頭の上にいても不思議と重さを感じない。感じるのは気配だけだ。もっとも、これもどうやら火車が見えない普通の人間にはわからないらしいけど。
「ああ……そっか。学寮って、刀とか武器の類いを持ち込んじゃあいけないんだったよな」
「そうなんだよ。そういうものはさ、みんなお城の宝物庫で預かってもらってるの。もちろん、僕だって預けてるよ。父上にもらった、お前に傷を付けたあの脇差をね」
僕がそう言うと火車が肩の上で思い切りため息を付いているのがわかったよ。きっと耳が折れ曲がり、尻尾はうんとしょんぼりしているに違いない。
これは昔々ーー僕の父上がまだ僕くらいの年齢だった頃の話だ。
父上は今年でもう六十になるという年齢だから、ずいぶん大昔の出来事である。
父の故郷ーー越後の国には時々怖い化け物が出るんだって。
雷と共にこの世に現れ、黒雲に乗って燃える車輪の輿を引いて現れる、熊のような猫の鬼。
これが、死んだ罪人を地獄へ連れて行く化け物ーー《火車》だった。
火車は地獄の鬼だよ。死んだ罪人を地獄へ連れていくのが彼らの仕事。
だから越後の人間たちはこいつをひどく恐れたんだ。
だって死後に自分の亡骸や身内のそれがこいつの手に渡っちゃったら、きっと魂だって地獄行きに違いないんだからね。
「おいらだってさあ……普通の人間にはやられたりなんかしないんだよ。あの時は運が悪かったんだ」
「知ってるよ。父上の父方の叔父さんは足利の学校で一番頭が良かった偉いお坊さまだし、母方の叔父さんの謙信公だって高野山で修行を積んだって人だから、お前なんてぜんぜんへいちゃらだったんでしょ」
「そうだよ。おまけにお前の親父のお師匠さまってのが、ほんと……むちゃくちゃ法力の強い化け物みたいなじいさまだったんだ。そいつが袈裟やら如意でおいらをぶっ叩いてきたの。おいら、坊主なんて大嫌いだよ。あいつら、化け物なんていくら殺しても構いやしないと思ってるんだから」
火車が狙いを付けた亡骸は僕の祖父だった。湖で船遊び中に急死した父上の父上。
たまさか見つけたそういう祖父の亡骸を地獄へ持って帰ろうとしたらしい火車を、父の叔父二人がよってたかって壮絶にボコったらしい。
おまけに、葬儀に訪れていた父上の師匠の和尚さまの攻撃で地獄へ逃げ帰ることも叶わず、遂に火車は喉元に切れ味鋭い名刀の一閃を浴びてやっつけられてしまったということだった。
僕と同じ位の歳だったという父が、無我夢中で火車に脇差を振るったのだそうである。
ちなみに、父が火車に傷を付けたので、その脇差は今じゃうちでは《火車切り》なんて号で呼ばれている。
そもそもこれは父の叔父――つまり、上杉謙信公の愛刀の一振りで、義理の兄の急死に伴い、彼が亡骸の上に守り刀として置いていたものだったそうだ。
刀は再び謙信公の手に戻り、そうしてしばらく経った後に彼の養子として引き取られた父に譲られることになった。
そうして今じゃそれを僕が譲り受けて大事にしているというわけ! この毛の長い、もこもこでふわふわなちょっと太った狸みたいなデブ猫の鬼はそのおまけってところだ。
「僕もその昔話だーいすき! 父上は自分の父上の亡骸の上に置かれていた廣光の脇差を手に取ると、刺又を手にした大鬼の前に立ちはだかったんだ。そうして和尚様の攻撃に呻く大鬼の一瞬の隙きを突いて、お前の喉元に廣光の脇差を突き立てた!」
僕は手に持った武器の石ころを天に翻して大きく振りかぶった。
到底勝ち目なんかない大鬼相手に傷を与えたという父の昔話はいつ聞いても考えさせられる。
父は死んだ自分の父親の亡骸を鬼に奪われまいと善戦したが、果たして同じことがこの自分にも出来るだろうか?
僕だってもしも必要とあらば同じことをしなくちゃいけない。例え、相手がどんなに恐ろしいものであったとしても、手に持った武器がただの石ころであったとしてもさ!
「ぐ、ぐわわわわわわーん!! やられたー!」
火車が派手に身体をよじりながら喉元を抑えてじたばたと暴れる。火車が押さえるそこに今でも大きな傷があることを僕は知ってるよ。
「その時ね、空が割れるような音がして目の前が真っ白になったんだって。もんのすごい大きな落雷が上田のお城に落ちたんだよ。鬼の断末魔の声が辺りに響き渡ったんだ」
「そうだよ。それでおいらは今じゃこんな有様だ。こんな惨めな姿じゃとても地獄へ帰れない。閻魔さまにだってうんと怒られて、只今絶賛現世で謹慎中だよ」
「そうかなあ? 惨めというより、お前の見た目は結構かわいいと思うけど」
化け物ってのは色々と面倒な習性があるらしい。手傷を負わされた相手には逆らえなくなるんだって。火車がこうして現世に留まり、僕の傍をウロウロするに至った理由はつまりそういうことだった。
父にやられたもんだから火車の奴は父の言うことには逆らえないし、怒られるのは怖いとか言ったりする。
まあね、うちの家臣たちも父相手にはだいたい同じ反応をするけれども。
「だけどお前さーあ? そんな文鎮みたいなもんが役に立つの? 言っておくけど、おいらが喉をぶっ刺されてやっつけられたのは、あの脇差が名刀だったからなんだよ? 刀ってのは炎で作られるもんだから、稀に霊力を帯びたりするやつがあったりして、そういうのにはおいら達も弱いんだ」
「そりゃあ……脇差よりは頼りにならないかもしれないよ。だけどこういうものだってうまくやれば立派な武器になるんだから」
――とまあ、僕は自分の先生に日頃口うるさく言われていることをそっくりそのまま火車に教えてやる。石を包んだ手ぬぐいの先を持って大きく振り回して、木立の幹を狙った。
「そうりゃ!」
鋭くビュンとまっすぐ力強い速さで飛んで行った石を見て、僕は心の中で勝鬨を上げていたよ。これは思いがけず上手くいった!
石は鈍い音を立てて幹にぶつかった。石が地面に落ちると、木の幹が少し窪んで木の皮が捲れているのがわかる。
「ほうらね! なかなかの威力でしょ。敵にやる時はさ、石を入れた手ぬぐいの端っこを持って勢いよく振るんだよ。出来ればこう……上から下に!」
僕が手ぬぐいを上から下に振り下ろす仕草を繰り返していると、木立の間から突然罵声が聞こえた。
「こらあああああ! 何やっとんじゃ、ワレえ! 石なんぞブン投げくさって、殺す気か!」
「はあ?」
なんだか聞いたことがあるような声に、僕は振り返る。
木立の間には一人の男がいて、今まさに尻もちを付いた体勢から立ち上がるところだった。どうやら僕が投げた石を避けてよろめいたらしい。
「あれ? もしかして……長員?」
「もしかしてやないど、ほんまに! 人に石投げつけるとか何考えとんねや!!」
「僕の方がびっくりしたよ。こんなところで何やってんの?」
僕は投げた石を回収しながら男の元へも駆け寄った。するとそいつに頭をぺしゃりと叩かれる。
「何すんだよう……学寮の主務どのからは怪我なんてしたらいけないって言われてるんですけど」
「やかましいわい! 今まさに我がドタマかち割られるところやったやないか! こっちはおどれを待っとったんじゃ」
すると男は少し先の森の中を指した。僕と火車が目をやると、地面に丸いものが転がっているのがわかる。
見つめて僕らはすぐに声をあげた。
それはきのう僕が貰った薬玉とそっくり同じ物!
ーーというより、むしろ僕が貰ったまさに、それ。端午の節句の薬玉だ。
「なんでこいつがこれを持ってんだい?」
丸い薬玉にじゃれる火車はまるで猫そのものだよ。
僕は再び彼を見上げる。僕には火車の疑問の答えがはっきりわかっていたからね。