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74・飯綱山の兄弟子狸

 部屋をぐるりと見渡して狸丸は仰け反った。

 何も言葉はなかったけれども、注意深く見つめていた忠郷や総次郎には、狸丸がひどく驚いているように見えた。


 上座に座る男に駆け寄ると、狸丸はその肩を抱いて背を叩いた。火車が驚いて飛び上がる。


「……お、お手前はこれを……ご、ご存知なのですか?」


 ひょっとして、とは言うまでもない。狸はふてぶてしく慣れなれしいのが常だけれども、さすがに初対面相手にする行為ではない。


「……巴紋の陣羽織……義父の兄弟子の狸だ」


「はあ!? 兄弟子? こんなのが!?」


 狸丸は勝丸の言葉に腹を立てたようだったが、すぐに景勝に向き直ると、ぶら下げた大きな金玉を上下させて呪文を唱えだした。


「……最後に逢うたのは義父の葬儀の時以来だが」


 見る見るうちに姿形がぐりゃりと蝋のように溶け出す。再びそれが確かなものとなった時、既に狸丸は人の姿になっていた。


「す、すげえじゃねえかこいつは! 御方そっくりだ!」


 草間一文字の叫びが屋敷中にこだまする。長船景光だけはなおも、


「うんわ……キモ……」


 と呟いていたけれども。


「あーあ……言われてみりゃあ、景虎の奴もそんな奴がいるとか言ってたかもしんないよなあ。おいらは見たことなかったけどさあ、乳のでかい女が好きだとかで、巴御前によく化けてるとかって言ってた」


「そうとも! わしは木曽義仲さまのお供をして戦しまくったわい。巴御前っちゅうのはわしのことだわいな」


「はああ~? なんか、とんでもないこと言い出したんですけど」


 避難めいた長船景光の言葉に勝丸は肩を落として項垂れると、しかしすぐに頭をもたげて


「……まともに相手はせんでください。人と見れば嘘八百を言って金を巻き上げるんだ」


 と、景勝に言った。


「……なんだ。巴御前の話は信じていた。義父上も」


「冗談じゃねえ! 俺は今でも認めねえぜ、主上。最強の女武者なんて夢がある! 正体が狸でしたなんてことがあるもんか」


「わしだって景虎の奴にはいろんな術を手ほどきしてやったわいな。おっしょさんは景虎にはえらく甘かった。人にしては見込みがあると言うて、世話を焼いてやれとよう言うとったわいな」


 ガニ股でガハハと笑う上杉謙信の姿に、長船景光は


「ぜんっっっっっっっっっっぜん似てないじゃん、こんなの!」


 と叫んだ。


「まったく……世話がやけるわいな。こんなこと、タダじゃそうそうせんのやど」


 上杉謙信に化けた狸丸は袈裟の中をごそごそと漁ると、どこからか壺を取り出した。蓋のついた、陶器で出来た壺である。


 狸丸が壺から濡れた葉を取り出すと、部屋は不思議な異臭に満ちた。


「なんなのこの匂い!」


「あの狸が持ってる……壺の中身じゃねえか?」


 狸丸は壺から取り出した葉を雫もそのまま一緒に顔に貼り付けだした。葉の雫が顔に落ちる度、不思議な匂いが辺りに広がる。


「そいつが効くような傷かよ、狸丸?」


「蓬莱の傷薬は傷なら呪いでも自傷でもなんでもいける。傷ならな。病ならどうにもできんこともある」


 あらかた傷が葉に覆われ尽くすと、狸丸は景勝の顔を布で巻きだした。匂いそうなほどにこ汚い布である。


 そうして彼の頭をぐるぐる巻きにすると、


「あはっはは! こりゃあ、息が出来るかいな?」


 なんて言って首を傾げたもんだから、傍で不安げに主人を見つめていた景勝の近習に頭を強くどつかれた。



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