49・紅葉山へ逃れた生徒たち、秘密の噂話をするのこと
表御殿側と大奥側と二手に分かれて避難をした生徒の一団とはまた別に、紅葉山の麓にある武道場で剣術の稽古中だった生徒たちは指南役である柳生宗矩らの指示で外に集められていた。
「……一体この騒ぎは何事だ? わざわざこんなところにまで避難してくるとはただごとではないな」
自分達に背を向けて集まっている大人達が学寮の上役ーー副学寮長や教務主任らであることを、西の御殿のぬしーー徳川義利は知っていた。
自分達生徒の前にも滅多に姿を現すことなくいつも学寮の御広敷に詰めている彼等がこんな太陽の下に逃げてくるくらいである。
御殿では何か、よっぽどのことが起こっているに違いなかった。
「師範殿はどうした?」
大助ーーと、義利は傍にいた同寮の生徒に声を掛ける。
彼は津藩主・藤堂高虎の嫡男で、父親同様徳川の一族にはめっぽう腰が低かった。徳川の役に立たないと死んでしまうとでも思っているのか、とかく何かと面倒事を買って出てその都度苦労しているような節がある。
「あ、ああ……お弟子さんらと何やら話をしておいででした。御殿の様子を見に行かせるらしいです」
「俺もうちの御殿の奴らに調べさせてはいるんだけど……学寮の連中め、なかなか情報を教えてくれない」
そう言ったのは東の御殿のぬしーー徳川頼宣だった。
頼宣と義利は腹違いの兄弟である。
父は駿府で政を仕切る天下人ーー徳川家康その人だ。
義利が九番目、頼宣が十番目の息子になる。下には年の近い弟がもうひとりいるけれども、まだ学寮には出仕していない。
同じく歳の近い将軍嫡男への配慮のためだったが、当人らにはもちろん知らされていないことだった。
「誰も詳しいことを知らんのかもしれんな。御殿でなにかあったとあらば、道場にいた人間が事情を知っているとは思えん」
「一番信憑性があるのは御殿で火事でもあったんじゃあないかってことだ、兄上。大奥で働いている奴らも外へ避難したらしい」
「避難するほどの火事なら、煙でも立ち上っていそうなものだが」
義利の言葉に頼宣の脇にいた彼の同寮の二人がちらりと背後へ目をやる。そこには空に曇天が広がるだけで別段それらしいものはない。
「で、ですが……紅葉山はお城の中でも一番安全ですよ。うちの父もいつぞやそう申しておりました。広い江戸城の中でも一番の霊場だそうです。龍脈の力が巡っておるとか……」
大助は顔の傍を飛び回る羽虫を小さく追い払いながら言った。しかし羽虫は顔の周囲を飛び続ける。
「お前の父が?」
「は、はい……江戸のお城にはその昔水の龍脈の源泉があって、ちょうどこの紅葉山の下あたりがその源泉だったようなのです。そういうわけなので、万が一にもお城で大事が遭った時は皆さんをここまでお逃しするようにと……」
「なるほど。水の龍脈の源泉か。それならば、ここまでは火の手もこない……」
大助が何度も頷いた。
「ふうん……今の江戸のお城の縄張りはお前の父が設計したのだし、そりゃあ……信憑性もありそうだな」
義利と二人で安堵の表情を浮かべる頼宣の横顔を目にして、しかし大助は内心不安でいっぱいだった。
江戸の城は大助の父ーー藤堂高虎が縄張りを引き、改築に携わった城である。
大助も城の内部の事を少しは話に聞いている。
「ぬ、主さま……」
大助は小声で義利に声を掛けた。少し離れたのは話をなるべく義利だけに聞かせたかったからである。
「どうした?」
「……もしかすると……本当に大事かもしれません」
大助は周囲を憚って、小声で言った。
胸元から取り出したのは折りたたまれた一枚紙である。
それは、城の絵図面だった。
「……江戸のお城はその昔、関東管領の分家ーー扇谷上杉家の家臣が作ったのものでした。その昔々に造られた城を利用して大御所様が改築を重ね、今の城となったと聞いています」
「そうだ。お前の父がその縄張りを任されたのだろ?」
「そうです。そもそも昔の江戸のお城は強力な水の龍脈の源泉がある場所に無理やり建てられたものだそうです。源泉に住まう土地神を無理やり調伏して鎮めることで、城に強力な守りの力を持たせようとしたのだとか。それゆえ城の地下には今でもその……水の龍脈の土地神を封じた祠があるといいます」
「……お前、一体何の話をしておるのだ?」
怪訝そうに尋ねた義利に、大助は焦った。
自分は話が長いといつも言われているーー大助は謝りながら喋る速度を幾らか早めた。
「そ、そ、そんなことは普通の人間に出来るようなことではありません。扇谷上杉の人間には出来たのだとしても、少なくとも、うちの父のように龍脈の気の流れ……所謂、風水のようなものに疎い人間にはどうすることも出来ないですよ。これを知った父は、一度は大御所さまに江戸城の改築のお役目を断ったとも言っていました。けれども大御所様のご信任は厚く、それで父は苦労して今のお城に改築したと……」
大助が絵図面を指した。
しばらく無言でそれを見つめていた義利だったが、不意に
「これは……西の丸の図面か?」
と尋ねた。
「そうです。ここを……」
大助が絵図面を指した。
そこだけがまるで鮮血が滴り落ちたように赤く染まっている。じっと見つめてそれが、南の御殿と西の御殿の間にある天橋立の中庭だとわかった。
「この図面はとくべつなものなんです。まじないが掛けられていて、化け物がいる場所がわかるようになっていると言います」
「化け物?」
義利が小声で繰り返したので、大助は頷いた。
「江戸のお城は水の龍脈の源泉の上に建てられています。自然と霊場となる要素を備えているので、そういう……良くないものが集まることがあるという話なのです。なんでも、水の傍というのは化け物がよく溜まる場所となり得るのだとか。それゆえ父もそれを心配して、こうした工夫を城のあちらこちらに施しているのです」
「化け物……そんなものが……御殿の中に……」
思いの外冷静な義利の反応に安堵した大助は再び口を開いた。「これも父が言っていたのですが」と前置きをして。
「……父は昔、大和大納言さまのところで働いていた時に、鬼を見たと言っていました。鬼の恐ろしさを知っていて、恐れてもいます。それゆえ、そうしたものから皆様をお守りするために……それで、某にこの絵図面を……」
「大和大納言? 太閤殿下の弟か」
「そうです……ご存知ですか? 大和大納言さまは太閤殿下からとあるものの管理を任されていて……父は、そのせいで彼は早死をしたのだと言っていました。それが人の気を病ませ、鬼を生み出す元凶なのだとか」
「とあるもの?」
闇の龍脈の石ーー
呟いた彼の声は本当に小さいものだった。
「……最近、南の御殿で生徒の幽霊が出るだなんて話があったじゃあないですか。手前は絵図面を何度も確認しましたが、図面上には何の印も現れなかった。きっと現れるというその幽霊、悪いものではないということだと思いました」
確かにーー義利は頷いた。
死んだ生徒の怨霊が南の御殿の生徒を祟るために御殿に夜な夜な現れるという最近流行っていた噂話も、こいつだけは全く興味を示さなかったのを思い出したのだ。
「……お前はあんな噂を信じてはおらぬと思っていた」
静かだけれども強い口調に、大助は慌てて言った。
「そっ……そうですよ! もちろんです! 手前だってぬしさまと同じで、別にあんな噂を信じていたわけじゃあないんです、本当に! ただ、念の為確認をしていただけです。念の為……だって、こんなものを渡されている手前、確認しないわけにはいかないじゃあないですか」
絵図面をびらびら風に靡かせて大助が言った。
「……色がぼんやりと淡いほどに力が弱い化け物だと聞きました。それこそ亡霊とか邪霊の類。気の迷いとも思えるもの。色がだんだんとハッキリするにつれて力の強い化け物だという証拠なんです」
「じゃあ……このような強い色は……」
義利も大助も再び絵図面に視線をやった。
それはまるで血の滴り落ちた跡である。
紙の上で滲むこともなく鮮やかに色を放つそれを見て、大助は直感した。
これが父の言う《鬼》の気配の先触れに違いないーーと。




