0-1・北の御殿というところ 《壱》
細川忠利は実技の授業を受け持つ学寮の教師である。
指南役補佐として剣術や茶の湯などの授業の師範代を勤める彼が声を掛けられたのは、ちょうど午後の休憩時間中のことだった。
中奥のお広敷にある自室に戻る途中の自分に血相を変えた小坊主が駆け寄って来たのである。
彼は北の御殿・鶴寮を担当するお部屋番だった。学寮在籍の生徒らの身の回りの世話係である。
「も、申し訳ありません……主務殿がいらっしゃらないものですから……」
「勝丸殿は一体何処ヘ行ったんだい。生徒の大事に駆け付けるのが護衛役の仕事だろうに……こういう時こそあいつの出番だろう?」
「ええ、そうなのですが……何分勝丸殿は副寮監督も兼任されておいでなので、お忙しいのです。昼前に呼ばれたきり少しも戻られませんで……」
「それにしたって、なぜ自分のところへ? 同じ御殿の寮監督殿らはいなかったのかい」
鈴彦、と名乗ったお部屋番は首を横に振った。
「他の寮の監督なんて頼りになりませんよ。その点、細川の師範代は名家のお家柄! うちの寮のご子息さま方も師範代の言う事なら素直に従う気がします」
ああ、そうーーと、忠利は廊下を小走りで進みながら適当に答えた。
「まったく……あまり面倒なことは押し付けないでもらいたいなあ。自分は師範代だよ? 寮生の生活態度の面倒までは見ないから」
仕方なく忠利は鈴彦に手を引かれるまま中奥から表へ戻った。目指すのは《御殿》と呼ばれる、学寮の生徒たちの居住区画である。
御殿は江戸城・西の丸の中奥にあるが、教師たちが詰める中奥の御広敷とは区画が異なり、直接行き来することは出来ない。
御殿に通じる道は表と大奥とを結ぶ長い一本道の廊下だけであり、生徒以外の往来は当然厳しく制限されているのが常だった。
咎められることもなく御殿へ足を踏み入れた忠利だが、すぐに辺りが騒がしい事に気がついた。
生徒たちが廊下で不安そうに顔を見合わせている。
「一体どうしたんです?」
「北の御殿の方で何かあったらしいんだけど……」
「でもあそこは割といつも騒々しいからねえ……どうせ、いつもの寮だよ」
そう言って廊下の先を指したのは南の御殿の生徒だった。
中奥の大半を占める御殿は東西南北の四つに分かれている。最も大奥に近い場所から北、東、西、南という具合に。
南の御殿の部屋は常に季節の花や植物で飾られている。
各部屋の入り口に置かれた万年緑色をした南国の植物の鉢植えは、南の御殿で暮らす生徒達が遥か遠い自らの領国のことを思い出せるようにという配慮のためだそうである。
西の御殿と東の御殿は部屋の装飾が絢爛豪華だ。
襖や廊下の天井を彩る鮮やかな立葵に蝶や蜻蛉の絵画は、授業にも時折訪れる狩野派の絵師が描いたものらしい。
それらよその御殿に比べると北の御殿の部屋はまるで凍土の原野のようにがらんとして寒々しい。
しかし今日はその殺風景な北の御殿の周囲に西や東の御殿の生徒が押し寄せ、人だかりを作っていた。
「……おやまあ」
忠利は自分のすぐ傍らの鈴彦に一瞬だけ目をやった。
「何やら騒ぎが起きているようだね」
「そりゃあもう……大変な騒ぎですよ。休憩時間中だったんですが……そのう……」
鈴彦はそう言い淀んで視線を彷徨わせた。
忠利が再び廊下を歩き出すと、普段は御殿であまり見かけない師範代の姿に気付いた野次馬の寮生達が顔を見合わせながらざあっと自分の部屋に逃げていく。
蜘蛛の子を散らす、とはまさにこの事だ。忠利は問題の鶴の寮の戸口に背を向け、幾人かの寮生達の身体の向きを変えさせながら叫んだ。
「部屋に戻りなさい。見せ物じゃありませんからね。ほら、次の授業の準備でもしてーー」
部屋の中にいるらしい寮生の顔を見ようと忠利が振り向いた刹那、鈴彦の「あっ」という悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
次の瞬間、部屋の中から飛んできた何かが勢いよく忠利の額にぶつかった。
「師範代殿! だ、大丈夫ですか?」
鈴彦に背中を支えられながら忠利は怒りを堪えて俯いた。
足下の視界に分厚い本が落ちているのが目に留まり、静かにしゃがんで拾い上げる。数頁めくって何の本かはすぐに知れた。
「……源氏物語なんて読む生徒がいるの?」
さすがに授業で使うとは忠利も聞いたことが無い教科書である。年若い生徒らに読ませる書物としては少々難がある。
「ああ、本はきっと……千徳さまのものです。ご実家から山のように持参されておられますので」
部屋の中を指して鈴彦が言った。
なるほどーー野次馬の立ち見客まで出るほどの見世物は、やはり鶴寮在籍の学寮生による喧嘩らしい。
「ほうら……きやがったぞ。やっぱりだ」
探していた声が背後から聞こえて、鈴彦は勢いよく振り返った。
「大当たりだぜ。やっぱり良くねえことが起きていやがる……俺の勘は当たるんだ」
「ああ、よかった! 主務殿!!」
すがるように飛びついた鈴彦は、しかし彼のすぐ脇に立っていたうどのように青白くひょろ長い見知らぬ人物に気付いて一度頭を下げた。
「なんだ、お前。指南役補佐が御殿に何か用事かよ? まさか見物に来たんじゃねえだろうな。さっさと失せやがれ、鬱陶しい!」
とても助っ人に来てやった人物に掛ける言葉とは思えない。
けれどもこういう調子はいつものことなので、忠利は手のひらを翻して言った。
「今まさに用済みになったようだから少しは見物でもしていこうかな。それで……そちらの方は?」
「新しいうちの寮監督殿だとさ。学寮長さまがほうぼう探し回ってようやく連れてきてくだすったんだ。大急ぎで来てもらったんだよ。なにせうちの寮は俺が目を離すとすぐ……」
こういう状態だもんでねーーと、北の御殿・鶴寮の主務は部屋の戸を力いっぱい引いた。
いくらか不穏な音を立てて開いた扉は古びた様子もないのにずいぶん立て付けが悪くなっているようである。
絶望的な光景がより眼の前に大きく広がって、その場に居合わせた見物客たちは一斉に「うわあああ……」とうめいた。