10・佐賀・鍋島家の猫又騒動
僕は物心付いた時にはもうそういうものが見えていたので、特段それを不思議だとは思わなかったよ。
つまりそういうーー幽霊だとか物の怪みたいな、所謂化け物という類の存在についてはさ。
うちの父上も小さい頃にお寺で修行したり、謙信公に色々と教えてもらったりしてそういうものについては色々と知っているから、尚更不思議とは思わなかった。
そういう物が僕らのごく身近にいるということ。
見えるものもいるし、もちろん僕に見えない物もいるだろうということ。
いろいろな話を聞いている。
大切なのは平常心だ。
こちらが平常心を持っていれば連中は特に何もしてはこない。もちろん、何かしてくる気配がある奴には近寄らないしね。
だから、僕はそういうものがちょっと見えたりはするのだけれど、市のように実際に襲われたりしたことは一度もない。
傍にいつも火車がいるからなのかもしれないけどさ。
「……私の顔の傷は小さい頃に猫の化け物にやられたものだ。江戸の屋敷に化け物が現れた」
市はそう言って俯いた。
「化け物が襲ってきたの?」
市はゆっくりと頷く。
「……その日は江戸におじいさまがいて、父もいた。そこには母と私と……兄も一緒にいて……宴会をしていたんだ。私たちの前で芸者が三味線を弾いていた。私は三味線が珍しくて、ずっと芸者を見ていたんだ。そうしたら……」
「そうしたら?」
「芸者が……みるみるうちに猫の顔になった」
女芸者に化けていた猫の化け物は金切り声を上げた。
持っていた三味線で傍にいた家来の頭をぶん殴り、もう一人の家来の顔を三味線のばちで切り裂いた。
化け物は短刀のように長い爪でその場にいた家人たちを次々に襲った。
屋敷中が大騒ぎになった。誰も彼もが悲鳴をあげて逃げ惑う。
殊更、市の祖父――鍋島直茂は恐怖のあまり奇声をあげ、ついには気絶してしまったらしい。
そう呟いた市の顔も真っ青だったよ。辛い記憶を思い出しているのだと思った。
「……あの夜は月が出ていた。猫の目のような形の月。ろうそくの炎が全部消えたら部屋はほとんど真っ暗になってしまった。猫の化け物の大きな瞳だけが金色に輝いていたんだ。」
「それで……ど、どうしたの?」
「一瞬のことだったんだ。私の傍には兄と兄の母が一緒にいたけれど、真っ暗な中で一度その化け物と目が合った。それで襲われて……」
顔をやられた、お市が言った。
「それで……父や兄の声がして……後のことは覚えていない。私は痛みで気絶してしまった。気が付いたら、その日から三、四日が過ぎていたんだ。私は顔に怪我を負い、呪いを掛けられていた」
「そうなんだ……辛かったね、お市殿」
僕がそう言って市の手を取ると、何故か市は首を振ったよ。
「……こんなものより、兄の方がずっと辛いと思う。兄は自分の母を人質に取られているのです」
それから、お市殿が話してくれたことは、二つ。
一つ目は、市は猫又の化け物に呪いを掛けられてしまったということ。
二つ目は、猫の化け物は封じられているということ。
「封じられた、ってことは、未だお前に術を掛けた猫又の化け物は生きているのかい? なんで殺さないの? 呪いなんてものは跳ね返しちゃえば術者に返る。猫又の呪いならお前に呪いを掛けたその猫又を殺せば解かれると思うけど」
「……殺せなかったんだ。猫又は手傷を負い、兄の母の身体に憑依して逃げ隠れているのです。今でも……」
「そんなことも出来るんだ、猫又って!」
市は胸元を強く押さえている。苦しそうにしていたから僕は顔を覗き込んだけれど、それは具合が悪いというわけでもなさそうだった。
きっと、心が痛いんだよ。
目にいっぱい涙を溜めた市の顔を見つめていたら、そう思った。
「お市殿、大丈夫?」
市は顔を上げて頷いた。顔の傷を押さえている。
「猫又は今も兄の母の中で生きている……化け物を弱らせるお守りを持たせているので、さほど苦しいということはないようだが、それでも不憫です。猫又に取り憑かれた彼女は屋敷の座敷牢に匿われ、お天道さまの光を浴びることも出来ません。憑依を解く方法が、何かあればよいのですか……」
僕は火車を呼んで声を掛けた。
これも僕らでなんとか出来るんじゃあないだろうか。
いや、なんとかするしかない! 困った人たちのために戦をするというのが、うちのブランディングイメージだからね。
それに何より、市の力になりたいもん!
「それも何か方法がないか探してみようよ。うちのみんなに聞いてみよう!」
「ふうん……憑依ねえ。また面倒なことになったもんだな。一体全体どうしてそんなことになったんだ? そもそもお前ら家族はどうして猫又になんか襲われたんだい? そんじょそこらにいて誰彼構わずぶっ殺そうとしてくる連中でもないと思うよ、猫又なんて。何か心当たりとかないの?」
市はしばらく何も言わなかったよ。その雰囲気で僕らも察した。
ああ、何か心当たりはあるんだな、って。
「お市殿、無理して言わなくてもいいよ。僕、とりあえずうちのみんなに猫又のこと聞いてみるから。そういうの詳しい奴らがいるから、憑依を解く方法とか何か知ってるかもしれないよ」
顔を上げた市は、涙の膜が張った瞳で僕をじっと見つめていたよ。
そうして殊更暗い声で僕らに言った。
鍋島家はもともと龍造寺という、肥前に領国を持つ大名に仕える陪臣だったらしい。
親戚筋ではあったみたいだけれど、要は龍造寺家に成り代わって大名に取り立てられたものだからその恨みを買っているのだろうということだった。
「そもそもは五歳で当主になった龍造寺家の人間がいたんだが、やはり年が若いということで実権を握っていたのは祖父や父だったんだ。そうしてそれがいつまで経っても終わらない。ご当主はそれが許せず、二度も自害を図りついに亡くなってしまった……自分の奥方を道連れにして」
「お、奥方を道連れに……?」
自分の嫁まで殺して自害するとは只事ではない。だけど化け物の火車は平然としていたよ。
「ふうーん……そいじゃあ、お前らはその憤死した龍造寺家のご当主が猫又をお前らの一族にけしかけて一族皆殺しにしようと企てたんだと思ってるのかい?」
「……少なくとも、祖父はそう信じています。祖父はその一件以来すっかり猫又の気配に怯えてしまって、占いにすがったり、おかしな修験者の話を真に受けたりしているようで……父も頭を悩ませているようです」
「鍋島家は、よくないことばかり続いています。家そのものが呪われているのではないでしょうか……私はそれが心配です」
これは急いだ方がよいかもしれないよ――僕は不安そうな市の顔を見つめながら、この件については急いで有識者達から情報を集めようと思った。
呪われているーー呪いというものは、相手にそう思い込ませることさえ出来れば既に効力を発揮しているのだ。いつだったか直江山城守が僕にそう言っていたよ。
市がこれ以上呪われることのないように、呪われた鍋島の家を救うために、僕に何か出来ることをしなければ!
僕は肩の上を陣取る火車の長い尾から、一、二本毛を引っこ抜いた。
「はい、じゃあお市殿にはこれをあげる!」
市は目を丸くして僕の手からそれを受け取ったよ。白い掌の上に金色の長い火車の毛がのせられている。
「これは……?」
「火車のしっぽの毛。お守りだよ。だって火車は猫又なんてちょちょいのちょいなんでしょ? それなら、そういう火車のしっぽの毛を持っていれば、猫又のやつも怖くて手が出せないかもしれないじゃないか」
「そうかなあ……そんなのおいらも聞いたことないよ」
「そうなの! いいの! こういうのは信心の問題だから!」
僕が火車に強い口調でそう言うと、市がくすくすと笑っていた。
ああ、よかった。なんだかホッとする。やっぱり彼女はとてもかわいいし、美人だと思ったよ。
猫又の呪いなんてぜーんぜん気にならないくらいに!
いつの間にか交流会の時間は終わっていた。
まったく、嘘みたいにあっという間に時間が流れていたよ。これこそがきっと、父上の言っていた「士気が上がる」ということかもしれない。
「うちの兄は剣術が得意で柳生師範の弟子なんだ。私と同じで化け物の気配を感じたり見えたりする。きっと、火車ともお喋りが出来るはずだぞ」
「柳生師範? それって、剣術の指南役殿のことだよね? お弟子さんってことは、もうずっと教えを受けてるの?」
柳生師範は将軍・秀忠様の剣術指南役だよ。そりゃあもう剣術の腕前が立つらしくって、柳生新陰流とかいう流派の剣術を教えているらしい。
うちの家にも昔は上泉なんとかっていうものすごい剣術家の息子だという人がいたらしいけど、僕自身はそこまで自慢できる腕前ではない。学寮へ出仕する前にも稽古を積んでいたけれど、まだまだ学寮の番付に載るには時間が掛かりそうだ。
「ああ。将軍さまのご嫡男の打太刀役も務めている」
「なんだか、とんでもない兄貴だなあ……おいら顔なんて合わせたらさ、めためたのぎっちょんちょんに切り刻まれたりしない?」
「お前はすごい化け物なんだろう? なら何も心配することなんてないじゃないか」
市が面白そうに言ったよ。すっかり火車と仲良くなってくれて僕も嬉しい。
「ねえ、お市殿? 火車の奴が何か気に障ることを言ったらごめんね。僕らとは違って、言いたいことをただ言いたいように言う奴だからさ。化け物ってのは人の気持まで考えて喋ったりしないんだって……僕の父上もそう言っていたよ」
僕は真面目なことを言ったつもりだったけど、市は笑っていた。
「千徳殿は優しいんだな」
そんなことを面と向かって言われたのは初めてだったよ。なんだかとてもびっくりして、だけどとても嬉しかった。
「ねえ、お市殿? お市殿は猫又の呪いを受けて身体の具合が悪くなったりはしないの? 大丈夫?」
「ああ……昼間は大丈夫です。ただ、夜になると……」
「夜になると?」
市がなんだか言い淀んでいるので、僕は気が急いてしまった。彼女の代わりに口を開いたのは火車だったよ。
「何しろ猫又の呪いだからねえ。夜になると興奮して暴れたくなるんだぞ、きっと」
そう言うと、足取りも軽く火車は客間を出ていった。もちろん、客間係の誰の目にも火車の姿は見えていないようだった。
「暴れる? お市殿が? うそお!」
僕が目をやると市は顔を背けて俯いてしまったよ。小声で「そうです」とつぶやく声がかろうじて僕にも火車にも聞こえた。
「夜になると猫の要素が強まります。目が冴えていろいろな感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。姿形も……」
「姿形も猫になっちゃうの?」
僕が顔を覗き込むと、市は首を振った。何か言いかけたようにも見えたけれど、市はそれ以上言葉を続けなかった。
「じゃあね! 僕、絶対また連絡するよ。て、手紙を書くよ! 報告するから!」
「ああ、待っています」
僕は市の手を握って、何度か揺らした。
そうして火車の後を追う。
今日初めて知り合って仲良くなった人なのに、こんなに別れが寂しいなんてことがあるだろうか。
僕は思わず客間の廊下を走って火車を追い駆けたよ。もちろん、すぐに客間係に「走らないでください」と注意されたけどね!