そしてそれから夜が明ける
うつは夜に来る第四十二話
ボクの気分が良くなるのにしばらくかかった。ハープはそれまで、なんの義理があるのかボクの背中などさすりながら、くだらない冗談を言ったり、よくわからない単語を口にしたりしていた。そうやって日が沈むまで付き合ってくれるのだから、なんのかんのいってハープもお人好しである。それが彼の個性なのか、エルフの性質なのかはわからないけども。
「ごめんね」
「構わないさ。それに、気分の悪くなった女性を置いていかないくらいの甲斐性は、まだエルフにも残っているしね」
「いや、っていうか、きつい言葉使ってた気がして。普段そんなんじゃないんだけど」
彼がそんな良いやつだったからか、それともボクが本当に参っていたからか、気分が逆立つに甘えて態度が悪くなった。
「そうかい? 気にしちゃいないさ。楽しかったもの」
まったく意に介していないハープは肩をすくめ、そして笑う。
よく笑うやつだ。
「エルフって、よく笑うんだね」
「そうかな、そうかもしれないね」
「だったらボクも、笑ったほうがいいかな」
「それがいいよ兄弟。笑いは知性体に残された最後の非合理だ」
「なんだよそれ」
「行き過ぎた合理性は涙をも奪うんだ、兄弟。それは悲しいことなんだよ」
誰も悲しまないなら良いことはないか。少なくとも、今のボクはそぐわない感覚かもしれない。わかるような、わからないような。
「いや、やっぱよくわかんないや」
ボクが独り言のように言うと、ハープが「そうか」とうなずいて微笑んだ。辺りが暗くなったからか、その顔がほんの少し悲しそうに見えた気がした。
それから、どちらともなく立ち上がり、二人して城壁を目指し歩き出す。
西の縁に茜を残した空がスミレ色から濃紺へとグラデーションの天蓋を引き、忍び足の宵闇が街道の麦から輝く黄金を奪っていく。街灯などあるわけないから、すぐになにも見えなくなるだろう。今はまだ、いくつかの農家のあばら家の、戸板や壁の節穴から漏れる灯りが星明りより弱々しく揺れていた。
「さて、お別れだ兄弟」
カルヴィークの城門前で、そう切り出したのはハープだった。
「え、よってかないの?」
「知ってのとおり、どうにもエルフってのはソックリだからね」
ハープが指さした先で、門番がボクとハープの顔を交互に見ながら目玉を白黒させていた。マルカスさんは交代したのか、それとも悪い遊びに行ったのだろうか。
「ボクたち双子なんですー、えへへ」
「僕がお兄さんでもいいかな?」
ボクが適当にごまかすと、ハープがなぜだか目を輝かせた。なにそのこだわり。
「君の友達に会いたいのはやまやまだけどね。混乱ささせるのも悪いだろうし」
「そんなの。会ってけばいいじゃん。紹介するよ」
この街にエルフなんかボクしかいないし、まったく見分けがつかないわけでもない。そんなに気にすることはない。ボクがそう言うと、ハープはなおも首を横に振った。
「魅力的な申し出だね。でも、だからこそ今はよしておこう」
「えー、いいじゃん」
「……思うに、これは試金石なんだよ」
「ボクの?」
「あるいは僕らの」
ハープが薄っすらと微笑みを崩したような複雑な表情をした。
「君がこの世界に、いやこの世界でどう振る舞うか。そしてそれでなにが変わるのか、僕は、僕たちはそれが見たい」
「そんなに期待されてもな……」
「大丈夫、君は一人じゃないよマリー」
ボクを兄弟と呼ばずに、街の友人たちのようにマリーと呼んだハープは、ボクを抱きしめると回した右腕で背中を二度叩く。
「これがエルフのお別れの挨拶」
「本当に?」
「さあね」
そう言っていたずらっぽく笑うと、クルリと身をひるがえし、ハープが街道へ降りていく。
「また会える?」
「もちろん。そうでなくては困るよ兄弟。信仰などとくのむかしに忘れてしまったが、今日は君のために祈ろう。兄弟にマーライクのご加護を!」
彼は振り返りもせずにそういった。暗闇を切り裂くような、よく通る声だった。
「さよなら……靴紐が切れませんように」
ボクは闇に消えていくハープの後ろ姿に小さく別れを告げた。
それから彼が見えなくなってしまっても、ボクはしばらくその場に立ちつくしていた。
「――へっくし」
どのくらいそうしてたのだろう、すっかり体が冷えてしまった。
振り返ると門番がボクを見てウンウンとうなずく。なんだろう。ああ、どうやら門番の彼は、今のが悲しい別れのシーンか何かと思ったようだ。残念ながら、彼とはさっきあったばっかりで、たいした思い入れがあるわけでもないんだよ。
そんなことは知らないだろう門番に軽く会釈して街に入る。特にやり取りもなかったから、彼もボクのことは承知なのだろう。
「すっかり遅くなっちゃった、今なん時くらいかな」
夜の街はしんと静まり返り、まるで時が止まったようだった。ブーツがレンガ道を叩く音だけが、ボクに時間の経過を理解させた。
チックタック、チックタック。
日が昇る前に誰かがゼンマイを巻かなければ、あの楽隊のように賑やかな街も、時計じかけの幻想のまま二度と現れないかもしれない。そんな気がした。
「なに焦ってるんだろ……」
気づかぬうちに歩調が早くなっている。ボクは暗闇が恐ろしいのだろうか。
長年培った平和ボケが寛解しつつあるボクは、少なからず灯りのある道を選んで歩いている。
明り取りの油やロウソクなどは高級品らしく、用がすんだら火を消して皆すぐに寝てしまうのだ。だから、ほの暖かな灯りを覗き窓からオーロラのように放つ家々の、いつ消えるかもわからぬ灯りは、なんとも頼りないものだった。
こうなると裏通りのほうが明るそうだが、道は覚えている。またスラムに迷い込んで、それこそ炎に飛び込む蛾のように、不要な火傷など負ってはたまらない。とはいえ、表通りが安全かというと、それはどうだろう。暗くなると人っ子一人いなくなるというのは、つまりそういうことなのではないだろうか。
確かにどうにもなに者かに見張られているような気がするのは、本当にボクの杞憂だろうか。
「用心棒にハープを引っ張ってくるんだった……」
ボクにない甲斐性を彼が持っているのなら、夜道が怖いと言い張れば付き添ってくれただろうか。さっき別れたばかりの、それも、たいしてよく知りもしない兄弟が無性に懐かしい。
フワフワと役に立たないことばかり言っていたハープは、それでもボクの、エルフではないボクの、偽物になってしまったボクを理解することができる唯一の人物だった。ボクが何者か証明できる、ボク以外の唯一の人物だった。
空気が冷たく重い。足元には夜霧が渦巻いている。
「ああ、寂しいのか」
別れが辛かったのは、真実ボクの方だったのだ。
だが彼は行ってしまった。
たった一人になってしまった。ボクは今、孤独なのだ。
そう気づいて、全身に鳥肌が立った。今度こそ本当に恐ろしくなって、泥のような夜霧から逃げるように走り出す。
生き写しのような兄弟が闇に消えていったように、ボクもこのまま消えてしまうのではないか。夜に飲まれて、少しずつ体が溶けていって消えてしまって、ボクが何者であったか誰もわからなくなってしまったときに、ボクがここにいたことを誰が証明してくれるのだろう。なら、それでいったい、どうしてボクは今ここにいられるのだろう。この世界のどこにボクの居場所があっただろう。この世界がいつボクの存在を許可したのだろう。実際こうしてボクがひとりきりになるのを、夜の影から淡々と待ち伏せて、ああ、そして今、今まさに丸呑みにしてしまおうと襲いかかるのだ。
それは孤独だ。
それから、そして、それは死だ。
ボクという存在が、ボクとボク以外から全て消えてしまえば、たとえボクが生きていようといなかろうと、それを死と言うのではないか。
世界が、孤独が、夜が甘やかな死を振りまいてボクを追いかけてくる。
頭の中で逃げろ、逃げろと声がした。
気ばかり焦って思うように前に進めない。そもそも前に進んでいるのかさえわからない。がむしゃらに手を振って走る。足がもつれる。呼吸ができない。静寂が鼓膜を揺さぶり、暗闇が眼球をえぐる。
両足が空回りして空に落ちた。
ボクの上に冷たい夜の街が降ってくる。
「なーにしけたツラしてやがんだオメェ」
モッドさんがコップを煽りながら呆れた声を出す。
真っ暗闇の通りに、開け放った扉から煌々と灯りを漏らす家が一軒だけあった。吸い寄せられるように中へ入ると、皆がいた。
「ちょっとマリーさんあんたまた怪我したんじゃないのかい?」
「……ちょっと、転んじゃって」
前掛けで手を拭いながらローザさんが駆け寄ってきた。
「マリーわぁ、少し落ち着いちゃほうがいいと思うんらぁお」
なぜだかメグがベロンベロンになってテーブルに突っ伏していた。そのメグが倒しかけた酒瓶を、オレーグさんが慌てて受け止める。
あっけにとられて突っ立っているボクに、クゾさんが手招きして椅子を引いてくれた。
「なんでぇ、黙り込んで。なんかあったのか?」
モッドさんが片眉を釣り上げてボクの顔を覗き込んだ。
「いや……椅子がたくさんあるな。って」
「はっ、なんだよそりゃ」
「近所からかき集めたんだよ。おかげで今日は大繁盛さね」
空いた皿を集めながら女将が愉快そうに言う。
「おかみ! おかみっ!」
「なんだいなんだい騎士様はすっかり出来上がっちまって」
「おつとめご苦労しゃまれす!」
「はいはいそりゃご丁寧に」
よろめきながら敬礼を決めるメグを、女将がなおざりにあしらう。
「まひーほおひっへひゃん」
「マリーはどこへ行ってたのか、と言っているようだよ。ふふ」
もこもこと口の中を食べ物で一杯にしたミューズを、ビアンカが膝の上に乗せている。
「ああ、街の外に。エルフに会ったよ」
「ほう、それは珍しいですね。こんな近くにエルフが二人なんて」
「……吉兆かもしれんな」
オレーグさんが酒をついでコップをよこす。クゾさんがパンを切ってボクの前に置いた。
「クゾあんたいいんだよそういうのはアタシがするんだから」
「……客人はもてなさねば」
「家主はアタシでアンタはツケの溜まった客だよ」
「はっは」
「アンタもだよ笑ってんじゃないよモッド」
「なあオレーグ」
「ダメだね」
「ちっ。おうネェちゃん、いくら持ってる?」
「モッド! おヤメこのトンチキ!」
「あいにく隊長の分を出して持ち合わせがないのですよ、黒革の剣士殿」
「クゾ! あんた部下にまでタカってるのかい?!」
「……いや、今日はたまたま」
「タマふたつあっても銭持ってなきゃ女郎屋だって行けないよボンクラ!」
「ローザ」
ローザさんの威勢のいい軽口をオレーグさんが諌める。
皆の視線を追うと、部屋の隅にエリカが座っていた。エリカは顔を背けて肩を震わせている。笑いをこらえているのだ。
「ウケてんじゃねーか。よかったなローザ」
「よかないんだよモッド、アンタが間抜け面で食ってるタダ飯あの娘が作ったんだからね」
「はー、どうりでいつもより美味ぇとッテェ!」
ローザさんが振り下ろした木ベラが小気味よい音を立てる。
ミューズの口元に皿を寄せながら、ビアンカがこちらに話しかけてくる。
「ねぇマリー、そのエルフは友達かい? ふふ、私も会いたかったなぁ」
「男? 女? あ、もしかしてマリーさんのいいひとかい?」
「ローザ、個人的なことに立ち入るのはよくないよ」
「だってオレーグきになるじゃないのさ、こんな遅くまでナニしてたのかって」
「ああ、マリー。君はまた私に隠れてナニかしてしまうのだね!」
「ナニかってなんだよ。女ってのはどうしてこうも色恋に食いつくかな。なぁクゾ」
「……いやモッド、ワシもきになるな」
「ありゃしもきになる!」
「ああ、マーガレットさん急に立ち上がらないで! ローザ、拭くもの」
「おやおや、オレーグほらこれ使いな」
「おひひもひにモグモグ」
「ふふ、ミューズも興味があるって言ってるよ」
「嬢ちゃんは口の中カラにしてから喋れよ。っていうかよくわかるなネェちゃん……で、どうなんだ?」
「モッドまで、まったく」
テーブルを拭くオレーグさんがため息をついた。
皆が期待した目でボクを見る。
誰もがボクの言葉を待っていた。
「あ、えっと」
部屋の中はしんと静まり返っている。でも時間は止まっていない。
ロウソクが瞬いている。でも消えることはない。
夜が来た。ボクはひとりではない。
「あの、みんな、その」
鼻をすすって口からでかけた言葉をごまかした。
ありがとう、愛してるよ、大好きだよ。それは大げさすぎる気がする。シラフで口にするのは恥ずかしい。ボクは熱くなった顔を、かぶったままの帽子で隠した。
こんなときに、ピッタリの言葉があったはずだ。いつもボクを待っている人がいて、その誰かのための言葉が。
「……ただいま」
おかえり、と誰かがいった。
ポエム全開回、エモ狙い回




