自分を殴ると歯茎から血が出ませんか
女将っぉぃ第三十九話
てっきりローザさんが騒いでいるボク達をどやしに出てきたのだと思ったが、そこに立っていたのはエリカだった。
「体調はもういいの?」
「はい、おかげさまで」
まあボクたいしたことしてないんだけど。
しかし相変わらず声の調子がトゲトゲしているな。はじめて会ったときは、確かに病気ではあったけれども、それでも優しくて柔らかい雰囲気の娘だったのに。
とはいえ、彼女に対する苦手意識というか、よくわからない後ろめたさとか罪悪感は、ボクとしても隠しようがない。
「マリー、彼女が件の」
「ああマリー、君の周りにはどうしてこうも可愛らしい人ばかり集まるのかな。私への当てつけだったらどうしてしまおう」
めぐさんは眉を若干しかめて、陶器のようになめらかだった眉間にシワを寄せる。ビアンカは相変わらず空気が読めない。
「そう、彼女がエリカ。あと当てつけじゃないからどうもしなくていい。エリカ、この美人でかっこいい人はボクの友達で神聖騎士のメグ。そんでこの絡みついてるのがビアンカ」
「扱いが露骨に違って傷つくよマリー。それとビビだよ、ビアンカじゃなくビビと呼ぶんだ。可愛いマリー、ふふ、ほら、いってごらん。ビビだよ、びー、びー」
「……離れてくれたら考えてやってもいい」
「ああ、愛って痛みを伴うのだね!」
「ブレねぇな!」
ビアンカが無遠慮に唇を押し付けようとするので、ボクはほとんど全力で顔面を掴んで押し返している。それでもなお不気味に笑いながら「マリーは力が強いなぁ」とかいってビクとも動かないが。
「エリカ、どっかいくの?」
「帰ります」
「帰るって……まだ危ないから。かもしれないから」
「平気です。あなたの世話にはなりません」
とりつく島もない。
彼女がなぜボクをここまで嫌うのかが、ボクにはまだわかっていない。なにかが足りないのなら、いったいなにが足りないのだろうか。足りないのはボクだろうか。それとも彼女だろうか。
「君は娼婦なのか?」
「メグ?!」
ちょっと、ビアンカだけで精一杯なのにブッ込むのやめてください。
「ええ、娼婦のエリカですわ、はじめまして騎士様」
慇懃無礼。言葉のはしにトゲをはやしてエリカがスカートをつまみ上げた。
「ひとつ聞いていいだろうか」
「なんでございましょう」
「なぜ君は娼婦などするのだ?」
「おっしゃっていることがよくわかりませんが」
ボクにもわかりませんが。
「ふむ」
メグがエリカの前に歩み出た。
ほんの少しメグのほうが高いくらいで、二人の身長はほぼ同じだった。そのせいで、二人の視線が真正面からぶつかりあう。というか、顎を持ち上げ気味にしたエリカが露骨にメンチ切っているので、かなり心臓に悪い光景だった。
「君のことはなにも知らない。だが話は聞いた」
エリカがボクを睨む。
「よけいな……」
「あの、ごめんなさい」
こわいから謝る。いじめられっ子の性。これは細胞に刻み込まれた呪いである。
「なんとかしようと、思って、コロビナさん……領主さんに会って。でもごめん、なにも出来なかった」
「マリー、謝るな。君は正しいことをした」
メグがそういい切ると。エリカが極めて不愉快そうに、それを鼻で笑った。
「まあ、さすがエルフ様ともなれば、領主様にお目通りするのも容易いのですね」
「笑うな。彼女はキミたちを救おうとしたんだ」
「救う? なんのために? おかしなことをおっしゃいますわ騎士様。私はあのエルフさんと何の関係もございませんのに」
「君は命を救われたはずだ」
「誰も頼んでおりませんわ」
もうやめて。そう言おうとしたが、言葉にならなかった。
ビアンカがハンカチを取り出してボクの目元に押し当てる。それでやっとボクは自分が泣いていることに気付いた。
「君は誰かに頼まれて体を売っているのか?」
それはエリカにとって致命的なセリフだった。
鳶色の瞳を見開いたエリカが激高する。
「あなたに、あなたになにがわかるのよ!」
「なにも。だから聞いているんだ。君はなぜ娼婦などやっているんだ」
「仕方ないでしょう! 父さんが死んで、借金だけ残して! 私になにができるのよ!」
「そうじゃない、手段ではなく理由だ」
「だから! あの子達が! みんなお腹をすかせて――」
「――なぜ孤児院を頼らない」
やめてメグ、それ以上は。
「決して経営状況はよくない、それは知っている。しかし、屋根がある、ベッドがある、少ないが食事もある。何より大人の庇護下に入ることができる。今よりは遥かにマシだ。キミはそれを理解している。どうしてだ? どうして子供らを飢えさせるために娼婦を続けるのだ? 君にとってそれは何の意味があるんだ?」
エリカと対象的にメグは冷静だった。その質問は、その答えはエリカの心の根幹に関わるだろう。だが、皆がメグのように強いわけではないのだ。エリカがそれを口にする訳にはいかない。口にさせる訳にはいかない。
いつの間にかビアンカの拘束が解けていた。ボクは無意識に一歩踏み出した。
「意味? 意味ですって? なにいってんの、意味わかんない。仕方ないのよ、だって、お金がいるのよ、みんなお腹が空いてるの、当たり前じゃない、借金があるの、仕方ないのよ、意味わかんない」
深茶色の髪を掻き毟りながらエリカが言う。その目はもうメグを見ていない。
ボクはエリカに近づく。
「私、頑張ってるわ! 一生懸命頑張ってるわ!」
「エリカ」
「私だってつらいわ! 私、悪くなんかないわ!」
「エリカ、だめ」
「好きでやってるわけないじゃない! バカみたい! だって、私のせいじゃないもの!」
「エリカもうやめて、おねがい」
「だって、あの子達のためだもの、みんな、みんな、あの子達のせいじゃない!」
「やめろエリカ!」
絶叫する少女の襟首を掴んだ。
「お節介焼きのエルフ! どうせあなたも馬鹿にしてるんでしょう?! どう? 満足? 楽しい? 哀れな娼婦なら泣いてお礼でも言ってくれると思った? 馬鹿みたい。なによ! 殴りなさいよ! ほら! 殴れよ!」
エリカはまるで威嚇する獣のように口を歪ませて笑っていた。
「なんにも出来ないくせに! する気なんかないくせに! これ以上なにが欲しいのよ! 私からなにを盗ろうってのよ! 渡すもんか! あんたなんかに何ひとつくれてやるもんか! さっさと街から出てってよ! どっかいけよ! いけよ!」
そして笑いながら、ボクの胸を殴る。
それで、ああ。それでもう全部わかってしまった。
不必要な挑発も、支離滅裂な叫びも、すべては自分を罰するためなのだ。
なにも持たず、誰にも助けられす。ただ理不尽に弄ばれた少女が、最後に頼ったのが自尊心なのだ。自分は不幸になるために生まれてきたわけではない、そう信じて生きるしか、それだけしかないのだ。だから、いちばん大切で、一番愛しているものを生贄にしなければ、そうやって不幸なのを自分以外の誰かに転嫁しなければ、どうやっも自分を憎まずにいられないのだ。だがそれは、そんな矛盾に十四の少女が耐えられるだろうか。それで実際擦り切れて、今はもう、泣き笑いみたいな顔で、ボクに向かって小さな拳を振り回す無力な少女を、それならば誰に罰することができるだろう。
誰かに罰せられて、罪を認めてしまえば、あとはもうなにもかも諦めて、それでやっと救われるのだと気付いてしまった少女を、そこまで追い詰めてしまった世界を憎むこともできない少女を、これ以上どうやって傷つければいいのだろう。
だとしたら、ボクのこの振り上げた拳は、どこに落とせばいいのだろう。
「それでも」
それでも、彼女にはわかっているはずだ。
「君はとってもいい子だよ」
それからボクは自分の頬を殴った。
振り下ろすならここしかない。世界でなく、エリカでなく。彼女のいうように、どうしようもないくらい無関係なボクが、殴り飛ばせるのはボクしかいない。
エリカが驚いて目を大きく開く。動こうとするメグをビアンカが止めたのを視界の端で見た。
「知ってる? ルースは君のことが好きなんだ。アイツ騎士になりたいんだって。たぶん君を守るためだよ」
もう一発殴った。
これは秘密にしたほうがよかったかな。後でルースに怒られそうだ。
「ドータは早く大人になりたいって。きっと君の代わりに働くつもりだ。アイツ臆病だけど、いつも自分になにができるかって考えてるんだよ」
殴った。
段々と自分を殴るのに慣れてきた。さっきよりも力が入る。
「アルボは頭がいいから、もっとアイツに頼りなよ。アイツもそうしてほしいと思ってるから」
「やめて……」
殴った。
口の中に血の味が広がる。
エリカが逃げようと身を捩らせたが、彼女の襟首はボクがしっかり握っている。
「ジュジュは君に憧れてるんだ。君がなにをしてるかなんて、あの子にはどうでもいいことなんだ」
「もうやめて……」
殴った。
ボクもやめたいんだけど、どうやってやめればいいんだろう。っていうかなんでこんなことしてるんだろう。ヤベ、クラクラしてきた。
「ボクも――」
「もうやめてよ!」
「――君のことを助けたいんだ。たとえ君がボクをどんない嫌っても」
「もうやめてったら!」
目に涙を浮かべて叫ぶエリカを見ていると、なぜだかわからないが自然と笑みがこぼれた。これにけっして加虐的でいやらしい意味はないけれど、その意図として、自分が卑怯なことをしているという自覚はあった。
「もう誰も、誰にも君を傷つけさせはしないから」
殴れなかった。
いつの間にかボクの横に立っていたビアンカが、ボクの腕を押さえていた。
「マリー、不要だ」
そう言ってビアンカが顔の前で指をふる。それからそのままボクの胸あたりを指差す。
「……ほらね、君ってやっぱりいい娘なんだ」
ポロポロと涙を流すエリカが、すがるようにボクの腕に手を伸ばしていた。
「人の痛みに耐えられないって、やっぱりそういうことだと思うよ」
ボクがそう言って彼女の襟首から指を解くと、エリカは糸が切れたみたいにその場にぺたんと座り込んでしまった。
座り込んで放心するエリカを見て、次にボクが思ったのは『どうしよう』だった。勢いに任せて行動して、取り返しがつかなくなるなんてのは、ここんとこよくあったような気がする。それにしたって今のボクは特別に意味がわからない。なにが上手く行って、なにに失敗したんだろう。意味がわからないからどうフォローすべきかわからない。考えようにも、どうやら悪いところを殴ってしまったらしく頭がうまく動かない。
バカかボクは。
どういうわけかビアンカが目を輝かせてボクに視線をくれている。なにを期待しているんだ。変態め。
メグは少し離れたところで、ソワソワしと重心移動を繰り返していた。
「えっと」
バカはバカなりに事態を収集しなきゃいけないので、なにか笑い話でもしてオチをつけようかと思案していると、再び宿の扉が開いた。
「もうなんだってんだい人んちの前でピーチクパーチク騒がれちゃ商売上がったりだよどこのどいつだいまったく……あれま、なんだいこりゃ」
女将のローザさんだった。
呆れ顔の女将が片眉上げてぐるりと首を動かす。ボクがなにか言いかけるより早く、ローザさんの舌がマシンガンより早く動き出した。
「いったいぜんたいなにがどうなってんだいマリーさんあんたよくもまあ騒ぎを起こす人だことアタシはいいんだよ貰うもんもらってるんだからさ、どうしても騒ぎたいんだってんなら今度から宿の中でやってほしいんもんだね人目もあるんだちょっとマリーさんなんだいどうしちゃったのさ!」
「あー、ごめんなさい、え、なにがですか」
今のボクでは会話が追いつかない。
「ボケてんじゃないよなにがじゃないよマリーさん血が出てるじゃないのさああもう拭うんじゃないって落ちないんだから」
あホントだすげー出てる。
「誰にやられたの」
「いや」
「いやじゃないよ出てんだよ出てんだから誰かにやられたんだろうさ女だからってアンタそんなとこから勝手に出るわけないんだから」
下ネタやめてください。
「アンタかい?!」
「いえ! 自分ではありません!」
直立不動のメグが否定する。有能な騎士はこの場で誰が一番強いか察したらしい。
「じゃあアンタかい?!」
「ふふ、まさか」
空気の読めないビアンカは相も変わらず無意味に微笑んで大げさに肩をすくめる。
「あんたかい?」
「……いえ」
ローザさんがほんの少し語気を和らげてエリカに問う。いまだ放心中の彼女がぽかんと開けた口をなんとか動かして返事した。
「じゃあ……じゃあ誰だい天下の往来で女に手を出すなんて不届き者はどこのどいつさそんなの神さまが許したってこのアタシが許しちゃおかないってんだ。ええ? 誰だい! 正直に名乗り出な!」
「あの、ボクです」
ローザさんの剣幕に恐れをなした見物人が蜘蛛の子を散らすように退散していく。これ以上の被害拡大を防ぐためボクは正直に手を上げる。
「マリーさんアンタ自分で自分を殴ったってのかいバカかいアンタあのね自分だからって殴っていいってことはないんだよどんな理由があったって人様殴っちゃいけないっておっかさんに教わらなかったかい怪我したらどうすんのさ!」
してますね。
「だいたい女の顔殴るなんていったいぜんたいどんな了見だい謝んな!」
「なんででしょうね、え?」
「謝んな! 悪いことしたら謝るんだよ大人なんだからそのくらいわかるだろ謝んな!」
「え、お、ごめんなさい」
あれれー? おっかしいなー。
「アンタはいつまでそこに座ってるつもりだい歩けるんだったら手伝いな」
「あうっ」
首をかしげるボクを知り目に、今度はエリカの頭をいきよいよく叩いた。
「人の世話になっといて黙って出てい行こうなんて許さないからねこちとら慈善事業でやってんじゃないんだよカネがないってんなら娼婦なんだろ体で返しな」
「あの、でも」
「でもじゃないよ別に体売れって言ってんじゃない手伝えってんだよ五体満足なら掃除でも料理でもできんだろ」
「え、え」
「立て!」
「は、はい!」
「歩け!」
「はい!」
エリカを宿に放り込んでから扉をしめる前に、振り返ったローザさんがボクにいう。
「マリーさん、アンタね、もっと力抜きなよ」
できる女将はひらりと手を振って扉の奥に消えていった。
なんだ、結局は女将の小芝居に付き合わされていたのか。いや、というか付き合ってくれたのか。
どちらにせよ不器用なボクはただ、目の前にいない彼女に向かって頭を下げるしかなかった。後でお礼を言おう。
「恐ろしい人だな」
メグがボクのところに来て感想を漏らす。
同感だ、おそらくこの街で一番おっかない人だ。
「魅力的な人だね」
ブレないビアンカに感心する。
まぁ、否定はしないが。
「優しい人だよ」
ボクはヒリヒリ痛む頬を撫でながらそう言った。
ローザのセリフの句読点は読みやすさでなく彼女の息継ぎのためにある。




